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すっぽん

2001年2月25日の奈良新聞に載ってた、少々古いけど、興味深いネタなのでとりあげてみます。

新しい県立図書館建設に伴う発掘調査でのことだったらしいです。

見出しと、書き出しはこんな風です。

 井戸からスッポン

 出土したスッポンの全身骨格(奈良市大安寺西で)
 平城京左京骨格を発見

 奈良市

 県立橿原考古学研究所が行った平城京左京(奈良市大安寺西)の発掘調査で、奈良時代の井戸からスッポンの骨格が見つかった。

今回とりあげるスッポンの骨格が出た発掘現場は、大安寺西小学校の北側、「大池」と呼ばれるとても広いところです。

「大池」の北側にあった四条大路の反対側には、当時太政大臣だった藤原仲麻呂の田村第とよばれる屋敷であったと推定されます。
とはいっても2001年2月の調査では、この場所も田村第に含まれるかどうかを判断する物は見つからなかったそうですけど。

この調査区では井戸が、6基見つかっているのです。
調査現場では、便宜上番号が振られます。

スッポンの骨が出てきたのは、板を四角く組み合わせて作った、井戸4と名づけられた井戸です。
見つかった骨格は長さ約20cm、腹と背中の甲羅など、ほぼ全身が残っていたといいます。

スッポンの骨は、この井戸4の底から、植物の種を入れた小壺もいっしょに出土です。
「縫物所」と墨書された土器を含む土師器・須恵器などと共に見つかったそうです。
この井戸4からは神功開寶(じんごうかいほう)も、1点出土しています。

神功開寶は、古代につくられた銅銭(どうせん)の1つです。
765年(天平神護元年)に、日本で鋳造、和同開珎(わどうかいちん)から数えて3番目に発行されました。
和同開珎とともに、皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)の1つです。

皇朝十二銭とは、708年(和銅元年)から963年(応和3年)にかけて、日本で鋳造された12種類の銅銭の総称です。
本朝十二銭(ほんちょうじゅうにせん)、皇朝十二文銭(こうちょうじゅうにもんせん)とも呼ばれます。

和同開珎 708年(和銅元年)
萬年通寶 760年(天平寶字4年)
神功開寶 765年(天平神護元年)
隆平永寶 796年(延暦15年)
富寿神寶 818年(弘仁9年)
承和昌寶 835年(承和2年)
長年大寶 848年(嘉祥元年)
饒益神寶 859年(貞観元年)
貞観永寶 870年(貞観12年)
寛平大寶 890年(寛平2年)
延喜通寶 907年(延喜7年)
乾元大寶 958年(天徳2年)

日本には古くからスッポンが生息、たとえば大分県では、約400万年前の地層から化石が見つかっています。

それなのにどうして話題になったかというと、遺跡から出てきた骨格の鑑定による確認は珍しいからです。
井戸からの出土例は過去にもあるが、大半が鑑定されることなく「カメ」と考えられてきたのです。

平城京内の井戸で亀が見つかったことは数例あるけれど、スッポンと特定されるのは珍しいとのことです。

スッポンは、正確にはカメ目スッポン科です。
つまり、カメといっても、かめへんと言えば言えますけど。

鑑定を依頼された古生物学研究者の帝京平成大学の平山廉助教授は、スッポンと確認した証拠をこう話しています。
「腹の甲羅に棘のような突起があるのはスッポンの特徴。写真と図面を見て確信した。」

平山助教授によると、見つかった骨格には頭部もあり、特徴を調べれば産地を特定できるかもしれないといいます。

何らかの儀式に使われた可能性もあると、みられています。

県立橿原考古学研究所の河上邦彦調査研究部長はこう指摘します。
「中国にはスッポンが水を支配するという思想がありました。」
「スッポンを水の支配者とする思想は飛鳥時代ごろ日本に伝わっていた。『きれいな水がたくさん出るように』との願いを込めて井戸に入れたのでは。」

井戸や水とスッポンの間には、深い関係がありそうです。
 
明日香村の酒船石遺跡で見つかった亀形石造物も「カメではなくスッポン」といいます。
河上部長は、こう考察します。 
「いずれも水に関係する場所。スッポンだからこそ意味がある。」

古代中国の星座にはスッポンが描かれ、天の川からはずれると、地上の河川が氾濫(はんらん)すると信じられていました。

1200年の眠りから覚めたスッポンは、古代人の思想を秘めているといえそうです。

このとき発掘されたほかのものについても、ついでに紹介です。

井戸5も井戸4と同じく、板を組んで作った物です。
とても大きく、外から見えている部分だけでも2メートル近いそうです。
内法は1.2メートル、深さが3.2メートルという巨大な井戸です。
井戸5の底からも、土器類と萬年通寶(まんねんつうほう)が見つかっています。
これらが廃棄された時期は、9世紀後半で平城宮が機能を停止した以後と考えられています。

井戸2は杉の木をくり抜いた物で、直径およそ1メートルです。
平城京内で見つかった物の中でも、かなり大きい方に入ります。

堀立柱建物も、いくつか見つかっています。
平城京内の貴族の邸宅の規模としては、比較的大きな物であるらしいです。
近くから瓦が見つかっており、一部が瓦葺きだった可能性もあります。
.
水とスッポンつながりが連想されるものでは、こんなのがあります。

「花笠音頭」は、尾花沢で発祥したという説があります。
もともとは茶摘歌から、はじまったといわれます。
今日では8月の山形の三夜を彩る「花笠まつり」の音頭として、みなさんもご存知と思います。

山形市の東方に、竜山という山があります。

ちなみに竜山の麓、三百坊といわれるところに、約800年前に大寺院があったと伝わります。

霊山寺と称される瀧山寺は、寺といいながら、竜山を背に西に面し参拝道の入り口として凝灰岩で造られた素朴な鳥居が立ちます。
この石鳥居、山形市蔵王成沢の「八幡神社の石鳥居」とともに、山形市が誇る文化財です。

この瀧山寺参堂入口に立つ石鳥居は、古来より「元木の石鳥居」とよばれます。
最上三鳥居の一つに数えられます。
造立は竜山の仏教文化全盛の平安時代と言われ、日本でも古い時代の鳥居の一つ。

この石の鳥居は、総高が351㎝、左柱の直径が97・1㎝、右柱の直径は92・3㎝あります。
笠木と島木は一石から彫り出し、貫は柱を貫通しないで、両側から穴を掘って、さしこんでいます。
柱をはじめ各部分の割り出しが太く、幅に対して高さが低いです。

八幡神社の石鳥居は、凝灰岩製、総高436・6㎝です。
直立した円柱は直径99・4㎝、柱の上にのせられた島木と笠木はそれぞれ一つの石で作られています。
この石鳥居は造立の時期を、この平安時代末期の推定されています。

同様の石鳥居が、元木地区にものこって、共に重要文化財に指定されています。

八幡神社の石鳥居は、この東方の瀧山に興隆した仏教文化の遺物と考えられています。
この石材については古文書が、この地区にのこっているそうです。
それによると、龍山の空清水(うつぼしみず)から天仁二年(1、109年)に採石したといいます。

わが国でも最古に属する、貴重な石鳥居ということです。

花笠音頭には、元歌があるというのです。

竜山の裾野、成沢地区に伝わる「成沢ドンヅキ歌」がそれだというです。
「ドンヅキ」とは、「土搗き(どつき)」とよばれる地固めの作業のことです。
「どつき」といっても、もちろん漫才とは関係ないです。

成沢地区の人たちは、米づくりに必要は水を確保にするため、多くの貯水池や沼を築いたです。
この用水沼の工事の際、拍手に合わせて歌ったのが「ドンヅキ歌」だというです。

この成沢に伝わるドンヅキの技術の高さ、秦氏が背後にかかわっていそうですね。

大正10年に、尾花沢でも、新しい沼(現徳良湖)を造ることになりました。。
この際、尾花沢から、成沢のドンヅキ歌を教えてほしい、と依頼されたのです。
そこで、成沢から3人の村人が尾花沢に出向き、伝承したです。
やがて、尾花沢では、この歌に踊りの振りがつけられるようになります。

その後さまざまな経過を経て、今日私たちが知る花笠踊りにしたてられたということだそうです。

問題は、ここに出てくるドンヅキなのです。
実は、ドンヅキ石と言うのが出てきます。

丸く平たい石に、短い棒を六方から差し、紐を交互に上下になるように、巻きます。
棒を挟むように、上下二本の紐を巻くのです。

仕上がりはもう、まるで、スッポンそっくりです。
上に御幣が立てられているので、一瞬ごまかされますけど。

気がついたとき、思わず吹き出したです。

月は、水にかかわりの深い天体として、古来多くの民族からあがめられてきました。

そして、カメの仲間はたいてい、水のそばにすみます。

カメの甲羅は丸い。

とくに、スッポンの甲羅は、丸い。

それで、スッポンは水にすむ月の使いと思われたのかもしれないです。

ただ、「月」は陰陽では「太陰」と呼ばれ女性に配当です。

対する「太陽」は、もちろんお日様とも呼ばれる「太陽」で男性に配当。

生命を授ける「太陽」から、生命を授かる「太陰」。

その使いとしてのスッポンは、豊穣の願いを込めて神の前に献げられたと考えられます。

さらに、陰陽では水も天に配当されます。

そうなると、スッポンは天に浮かぶ月の化身そのものってかことでしょうかね。
明日香村の酒船石遺跡で見つかった亀形石造物も「カメではなくスッポン」ということは、何を物語るでしょう。

太陽から受け取る生命の元で、命を育む月としてのスッポン!

そう、神の子を授かり生み育んだマリアと相似形であるのかもしれないです。

天皇の即位にかかわる儀式として、禊が行われた施設ということでしょうね。

小さいですから、ひしゃくでも使ったのでしょう。

二十八宿に、北斗七星と南斗六星があります。

北斗七星は、おおぐま座の腰から尻尾にかけての星です。
北の斗(ひしゃく)の七(の)星の意味で、北を示す星座です。
ひしゃくの先にあるα星とβ星を結ぶ方向に、 α星とβ星の間隔で7つ先の延ばすと、そこには星の運行の中心となる北極星があります。

南斗六星は、いて座の手の部分にあります。
南の斗(ひしゃく)の六(の)星の意味で、中国の星座「二十八宿」の1つで「斗」と呼ばれます。
中心となる距星はいて座(Sgr)φで、 該当星はSgrμ(ミ),Sgrλ(ラムダ),Sgrφ(フィ),Sgrσ(シグマ),Sgrτ(タウ),Sgrζ(ゼータ)の6つの星から成ります。

北斗は死を司り、南斗は生を司ります。
あわせれば、死と生、滅びと復活、蛇の脱皮、などになりましょう。

禊に使われる斗(ひしゃく)は、北斗、あるいは、南斗の意味もあるかもしれません。

そういえば、亀形石造物とその周辺が発掘されたとき、神仙思想に詳しい腕の立つ石工の仕事、というコメントをした人がいませんでしたか。

追記

御存じの方も多いだろうが、本朝十二銭とも皇朝十二文銭とも呼ばれる十二種の銅銭の前に、富本銭(ふほんせん)というのがありました。

富本銭は、683年頃に日本でつくられたと推定される銭貨です。

708年に発行された和同開珎より年代は古く、日本で最初の貨幣とされます。

この貨幣が実際に流通したのか、まじない用に使われる銭である厭勝銭(えんしょうせん)に留まったかについては学説が分かれています。

それで、長い話になると思い、触れませんでした。

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