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2008年1月

鏡餅 その二

鏡餅の話を調べていく中で、ものすごく、面白いねたを落としていたことに気がつきました。

鏡餅の歴史について、このように触れました。

新年を迎える際に鏡餅を飾る風習は、紀元前の垂仁天皇の時代にさかのぼるとされる。
大物主神の娘である大田田根子に、大国主命がこのように教えたことに由来するといわれる。
「元日、荒魂の大神に紅白の餅を祭れば幸福が訪れる」

ただし、垂仁天皇の時代の話は全般に忠実性に欠けると見られており、鏡餅の風習についても断定されるものではない。

鏡餅が現在のような形で供えられるようになったのは、意外と新しい。
家に床の間が作られるようになった、室町時代以降のこと。

そしてまた、鏡餅のバリエーションについて、こう紹介しました。

鏡餅は、大小2つの餅を重ねて供えるのが一般的ではない。
地域によって、様々なバリエーションが存在する。
一部あげても、これだけある。

餅を三枚重ねたもの。
二段の片方を紅く着色して、縁起が良いとされる紅白としたもの。
餅の替わりに砂糖で形作ったもの。
細長く伸ばしたものを渦巻状に丸め、とぐろを巻いた白蛇に見立てたもの。

ところが、鏡餅の歴史と形で、こんな興味深い話がありました。

鏡餅の起源は、はっきりとした記録は残っていないと断った上でこういっています。
元禄年間のものとされている書に、丸餅と角餅を重ねた絵が残されている。
鏡餅について確認できる、一番古い記録ではないかと。

陰陽では、丸は天に、角は地に、配当されます。

さらに、四角の中に丸とくれば、かつての日の丸のデザインそっくりになります。
正方形に接するように円を描くのが、もともとの日の丸の姿だったのです。

神前に、世界がささげられた、あるいは、日本の国がささげられた、それが鏡餅の意味することだったのでしょうか。

日本は、世界の雛形とする説があります。

つまり、神前にささげられた日本であり世界である鏡餅。
しかも、これらすべては神が作られたものであると、旧約・新約・コーランの啓典はいいます。

そうなると、鏡餅を食べる意味はこうなるのでしょうか。

「食い=悔いあらためて、福音を信ぜよ。神の国はあなた方のうちにある。」

丸が上で四角が下となると、こんな疑問も浮かんできたのです。

古墳に、こんなのあったよね。

そこで古墳の形態を調べたら、こんなにありました。

 円墳

 方墳

 前方後円墳

 帆立貝形古墳

 前方後方墳

 上円下方墳

 双方中円墳

 双方中方墳

 八角墳

前方後円墳には、マナの壷を模したと言う説が飛鳥昭雄と三神たけるにありますね。

面白いことにほとんどが、丸と四角。

帆立貝形古墳とは、前方後円墳より前方部分の小さいもので、全体の雰囲気が帆立の貝殻に似ているところからついた名前。

九州にも、山陰山陽にも、関西にも、関東にも、検索すると出てきますね。

でも、帆立の貝殻って言うと、帆立の貝殻があっちこっちにあるスペインの巡礼の道の方が有名かも。

この丸と角の組み合わせが、鏡餅の歴史になぜ割り込んできたか、そして、なぜ定着しなかったのか。
それとも、丸餅と下に敷いた半紙に形を変えたのか。

でも、丸餅と半紙で丸と四角となると、気になるのは三方なのです。
なぜ、穴を三方にしか開けないのか、とです。

三方を三角と見たらどうでしょう?

丸三角四角。

お寺の掛け軸や、墓地の墓石で見たことないでしょうか。

丸三角四角は、陰陽に言い換えると、天人地となるのです。

三角を人に配するのです。

でも、三角は蛇にも配されるのです。

蛇はしばしば、神の使いとされるのです。

そうなると、人を神の似姿とした、あるいは、イエスを神の子とした、聖書に近くなるのです。

やっぱ、食べられちゃうのはイエス?

どうころんでも、鏡餅は、最後の晩餐なのでしょうか。

もしかして、餅やマツオは、マナを模した…。

なんてことは、ないでしょうねえ。

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鏡餅

正月飾りとして、門松と並んで代表的なのが、鏡餅(かがみもち)です。

近年は、家庭内に飾ることの利便性と、後で食べる際の衛生さを考えて、鏡餅が重なった姿を型取ったプラスチックの容器に充填した餅や、同様の容器に小さな餅を多数入れ、プラスチック製の橙などとセットにした商品に人気が集まっています。
うちもそうだけど、便利といってもちょっと味気ないです。

本来、鏡餅とは、正月などの祝い事のときに神仏に供える円くて平たい餅のことなのです。
お供え、おかがみ、ともよばれます。

鏡餅という名称は、昔の鏡の形に似ていることによります。
現代の鏡の多くは四角だけど、昔の鏡は青銅製の丸形で祭具として用いられ、特別な霊力を持つと考えられています。
三種の神器の一つ、八咫鏡を形取ったものとも言われます。

歴史をひもといてみると、そもそも鏡餅とは、神様と人を仲介するものです。
神と人の仲介って、まるで祭司や預言者です。

1年間の幸せを願う正月などの「晴れの日」に、神前に捧げた餅をみんなで分け合って食べるのです。
神様からの祝福をみんなで受けようという、信仰・文化の名残りなのです。

象徴とはいっても、みんなに食べられちゃう神と人の間の存在ってことです。
この条件を最も満たした人物、歴史上に一人います。
最後の晩餐で知られる、イエス、です。
コーランはイエスを聖霊を伴って使わされた特別な預言者といっています。

つまり、鏡餅は神様にお供えしてからいただく尊い餅です。
イエスは、一生を神にささげて生きることを運命つけられて生まれた人の一人であると、聖書は言っています。
のっけから、えらいことになってます。

「お供え」が鏡餅の別名となっているのは、こうしたことに由来しています。

なぜ重ねた餅を、鏡餅と呼ぶようになったのかです。

ひとつには、丸い餅の形が昔の銅鏡に似ていることからです。
古来から、鏡は神様が宿るところとされています。
現在でも、神社の御神体として、円形の鏡が祭られています。
鏡はしばしば、神、特に太陽神の依り代として用いられてきました。
また、陰陽では円は天を表す象徴、白は光にも配当されるので、鏡餅は天の太陽神の依り代となるのにふさわしいです。

また、鏡餅の「鏡」は「鑑みる(かんがみる)」に音が通じます。
つまり良い手本や規範に照らして考えるという意味の言葉にあやかったのです。
そして、「かんがみもち」とよぶ音がしだいに変化して鏡餅になったのだとも言われています。
聖書では、人々に悔い改めを求めています。
その際の手本として、自らが似姿として作られた神が、聖書には示されています。
「悔い改めて福音を信じよ。神の国はあなた方の内にある。」

さらに、鏡餅の丸い形は家庭円満を表し、重ねた姿には1年をめでたく重ねるという意味もあるそうです。
鏡餅は、祈りと1年無事であったことを感謝する気持ちを込めた非常に歴史のある日本人固有の文化なのだそうです。
無事であったことに感謝、聖書にある過ぎ越しの祭りも、同じ意味があるというから、日本特有とは言いがたいです。
もっといえば、過ぎ越しの祭りでも、種入れぬパンといわれるマツオを積み重ねて飾るらしいです。

そこで、鏡餅を見たユダヤ人に、日本人も過ぎ越しの祭りをやってると、思い込む人は多いそうです。

鏡餅は、大小2つの餅を重ねて供えるのが一般的と思ってるそこのあなた、甘いです。
地域によって、様々なバリエーションが存在します。
一部あげても、これだけあります。

餅を三枚重ねたもの。
二段の片方を紅く着色して、縁起が良いとされる紅白としたもの。
餅の替わりに砂糖で形作ったもの。
細長く伸ばしたものを渦巻状に丸め、とぐろを巻いた白蛇に見立てたもの。

室町時代、武家では正月に鎧や兜の前に鏡餅を供えたです。
このことから、鎧や兜を意味する「具足(ぐそく)」の餅で「具足餅(ぐそくもち)」と呼ばれました。
なお、具足の前に鏡餅を供えたのは男子で、女子は鏡台の前に供えています。

新年を迎える際に鏡餅を飾る風習は、紀元前の垂仁天皇の時代にさかのぼるとされます。
大物主神の娘である大田田根子に、大国主命がこのように教えたことに由来するといわれます。
「元日、荒魂の大神に紅白の餅を祭れば幸福が訪れる」

ただし、垂仁天皇の時代の話は全般に忠実性に欠けると見られており、鏡餅の風習についても断定されるものではないです。

鏡餅が現在のような形で供えられるようになったのは、意外と新しいのです。
家に床の間が作られるようになった、室町時代以降のことなのです。

武家では、床の間に具足(甲冑)を飾り、その前に鏡餅を供えました。

鏡餅には、譲葉・熨斗鮑・海老・昆布・橙などを載せるのが通例となり、これは具足餅(武家餅)と呼ばれました。
今日では、三方に半紙を敷き、その上に裏白(うらじろ、羊歯)を載せ、大小2つの餅を重ね、その上に串柿・干しするめ・橙・昆布を飾るようになっています。

四角い台なのに三方、そういえば三方に穴があるのが一般ですね。
竹の門松が竹を三本束ねたり、古代出雲大社の柱が三本束ねたり、してたのと関連ありでしょうかね。

鏡餅に関する風習としては、飾り始める時期は鏡餅を飾るのは12月28日が最適とされます。
「八」が末広がりで日本では良い数字とされているからです。

逆に12月29日は、日本では「九」が苦しむにつながるので避けるべきとされます。
逆に29を『福』と読み替えて、この日に餅を搗く地域もあります。
12月30日はきりの良い数字なので悪くないと考えられています。
ただし、旧暦では12月は30日までしかなかった為、旧暦通りならば『一夜餅』の扱いです。
12月31日に飾るのは「一夜飾り」「一夜餅」として忌避されます。

鏡開きの日は、地方によって違いはあるけど、一般的には1月11日とされます。
それまでは、飾り続けた状態でよいと考えられます。
供え終わったときに木槌などで砕き割り、汁粉などに加工して食べる風習があります。
11といえば、十一面観音がいらっしゃるけど、関係ありかです?

神様に供えたものであるので、包丁などで「切る」行為は礼を欠き、縁起が悪いとされます。

陰陽の相克では、火克金(火は金を克する)、金克木(金は木を克する)、木克土(木は土を克する)、土克水(土は水を克する)、水克火(水は火を克する)、とあります。
克するの意味は、やっつけるとか勝つとか、されるけれど、中庸の観点からみると制約とか制御のほうが適切なようです。

鏡餅にかかわる神の使いはしばしば蛇とされ、蛇は木気に配当されます。
神様の使いに金気である包丁は、まずいだろってことかもです。

鏡開きは、旧年の無事を神様に感謝しながら、神様に供えた鏡餅をお下がりとしていただく儀式です。
餅を食べる者には、力を授けられるといわれています。
もともとは武家の間で行なわれていた習慣だったのです。
その後、縁起を大切にする商人の間に広がり、一般化したといわれています。
つまり、飾るだけでなく食べてこそ、鏡餅の意味があるということです。

やっぱ、最後の晩餐のイエスが、どうしても連想に浮かんじゃうです。
てことは、おとそは、イエスキリストの血ってかです。

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すっぽん

2001年2月25日の奈良新聞に載ってた、少々古いけど、興味深いネタなのでとりあげてみます。

新しい県立図書館建設に伴う発掘調査でのことだったらしいです。

見出しと、書き出しはこんな風です。

 井戸からスッポン

 出土したスッポンの全身骨格(奈良市大安寺西で)
 平城京左京骨格を発見

 奈良市

 県立橿原考古学研究所が行った平城京左京(奈良市大安寺西)の発掘調査で、奈良時代の井戸からスッポンの骨格が見つかった。

今回とりあげるスッポンの骨格が出た発掘現場は、大安寺西小学校の北側、「大池」と呼ばれるとても広いところです。

「大池」の北側にあった四条大路の反対側には、当時太政大臣だった藤原仲麻呂の田村第とよばれる屋敷であったと推定されます。
とはいっても2001年2月の調査では、この場所も田村第に含まれるかどうかを判断する物は見つからなかったそうですけど。

この調査区では井戸が、6基見つかっているのです。
調査現場では、便宜上番号が振られます。

スッポンの骨が出てきたのは、板を四角く組み合わせて作った、井戸4と名づけられた井戸です。
見つかった骨格は長さ約20cm、腹と背中の甲羅など、ほぼ全身が残っていたといいます。

スッポンの骨は、この井戸4の底から、植物の種を入れた小壺もいっしょに出土です。
「縫物所」と墨書された土器を含む土師器・須恵器などと共に見つかったそうです。
この井戸4からは神功開寶(じんごうかいほう)も、1点出土しています。

神功開寶は、古代につくられた銅銭(どうせん)の1つです。
765年(天平神護元年)に、日本で鋳造、和同開珎(わどうかいちん)から数えて3番目に発行されました。
和同開珎とともに、皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)の1つです。

皇朝十二銭とは、708年(和銅元年)から963年(応和3年)にかけて、日本で鋳造された12種類の銅銭の総称です。
本朝十二銭(ほんちょうじゅうにせん)、皇朝十二文銭(こうちょうじゅうにもんせん)とも呼ばれます。

和同開珎 708年(和銅元年)
萬年通寶 760年(天平寶字4年)
神功開寶 765年(天平神護元年)
隆平永寶 796年(延暦15年)
富寿神寶 818年(弘仁9年)
承和昌寶 835年(承和2年)
長年大寶 848年(嘉祥元年)
饒益神寶 859年(貞観元年)
貞観永寶 870年(貞観12年)
寛平大寶 890年(寛平2年)
延喜通寶 907年(延喜7年)
乾元大寶 958年(天徳2年)

日本には古くからスッポンが生息、たとえば大分県では、約400万年前の地層から化石が見つかっています。

それなのにどうして話題になったかというと、遺跡から出てきた骨格の鑑定による確認は珍しいからです。
井戸からの出土例は過去にもあるが、大半が鑑定されることなく「カメ」と考えられてきたのです。

平城京内の井戸で亀が見つかったことは数例あるけれど、スッポンと特定されるのは珍しいとのことです。

スッポンは、正確にはカメ目スッポン科です。
つまり、カメといっても、かめへんと言えば言えますけど。

鑑定を依頼された古生物学研究者の帝京平成大学の平山廉助教授は、スッポンと確認した証拠をこう話しています。
「腹の甲羅に棘のような突起があるのはスッポンの特徴。写真と図面を見て確信した。」

平山助教授によると、見つかった骨格には頭部もあり、特徴を調べれば産地を特定できるかもしれないといいます。

何らかの儀式に使われた可能性もあると、みられています。

県立橿原考古学研究所の河上邦彦調査研究部長はこう指摘します。
「中国にはスッポンが水を支配するという思想がありました。」
「スッポンを水の支配者とする思想は飛鳥時代ごろ日本に伝わっていた。『きれいな水がたくさん出るように』との願いを込めて井戸に入れたのでは。」

井戸や水とスッポンの間には、深い関係がありそうです。
 
明日香村の酒船石遺跡で見つかった亀形石造物も「カメではなくスッポン」といいます。
河上部長は、こう考察します。 
「いずれも水に関係する場所。スッポンだからこそ意味がある。」

古代中国の星座にはスッポンが描かれ、天の川からはずれると、地上の河川が氾濫(はんらん)すると信じられていました。

1200年の眠りから覚めたスッポンは、古代人の思想を秘めているといえそうです。

このとき発掘されたほかのものについても、ついでに紹介です。

井戸5も井戸4と同じく、板を組んで作った物です。
とても大きく、外から見えている部分だけでも2メートル近いそうです。
内法は1.2メートル、深さが3.2メートルという巨大な井戸です。
井戸5の底からも、土器類と萬年通寶(まんねんつうほう)が見つかっています。
これらが廃棄された時期は、9世紀後半で平城宮が機能を停止した以後と考えられています。

井戸2は杉の木をくり抜いた物で、直径およそ1メートルです。
平城京内で見つかった物の中でも、かなり大きい方に入ります。

堀立柱建物も、いくつか見つかっています。
平城京内の貴族の邸宅の規模としては、比較的大きな物であるらしいです。
近くから瓦が見つかっており、一部が瓦葺きだった可能性もあります。
.
水とスッポンつながりが連想されるものでは、こんなのがあります。

「花笠音頭」は、尾花沢で発祥したという説があります。
もともとは茶摘歌から、はじまったといわれます。
今日では8月の山形の三夜を彩る「花笠まつり」の音頭として、みなさんもご存知と思います。

山形市の東方に、竜山という山があります。

ちなみに竜山の麓、三百坊といわれるところに、約800年前に大寺院があったと伝わります。

霊山寺と称される瀧山寺は、寺といいながら、竜山を背に西に面し参拝道の入り口として凝灰岩で造られた素朴な鳥居が立ちます。
この石鳥居、山形市蔵王成沢の「八幡神社の石鳥居」とともに、山形市が誇る文化財です。

この瀧山寺参堂入口に立つ石鳥居は、古来より「元木の石鳥居」とよばれます。
最上三鳥居の一つに数えられます。
造立は竜山の仏教文化全盛の平安時代と言われ、日本でも古い時代の鳥居の一つ。

この石の鳥居は、総高が351㎝、左柱の直径が97・1㎝、右柱の直径は92・3㎝あります。
笠木と島木は一石から彫り出し、貫は柱を貫通しないで、両側から穴を掘って、さしこんでいます。
柱をはじめ各部分の割り出しが太く、幅に対して高さが低いです。

八幡神社の石鳥居は、凝灰岩製、総高436・6㎝です。
直立した円柱は直径99・4㎝、柱の上にのせられた島木と笠木はそれぞれ一つの石で作られています。
この石鳥居は造立の時期を、この平安時代末期の推定されています。

同様の石鳥居が、元木地区にものこって、共に重要文化財に指定されています。

八幡神社の石鳥居は、この東方の瀧山に興隆した仏教文化の遺物と考えられています。
この石材については古文書が、この地区にのこっているそうです。
それによると、龍山の空清水(うつぼしみず)から天仁二年(1、109年)に採石したといいます。

わが国でも最古に属する、貴重な石鳥居ということです。

花笠音頭には、元歌があるというのです。

竜山の裾野、成沢地区に伝わる「成沢ドンヅキ歌」がそれだというです。
「ドンヅキ」とは、「土搗き(どつき)」とよばれる地固めの作業のことです。
「どつき」といっても、もちろん漫才とは関係ないです。

成沢地区の人たちは、米づくりに必要は水を確保にするため、多くの貯水池や沼を築いたです。
この用水沼の工事の際、拍手に合わせて歌ったのが「ドンヅキ歌」だというです。

この成沢に伝わるドンヅキの技術の高さ、秦氏が背後にかかわっていそうですね。

大正10年に、尾花沢でも、新しい沼(現徳良湖)を造ることになりました。。
この際、尾花沢から、成沢のドンヅキ歌を教えてほしい、と依頼されたのです。
そこで、成沢から3人の村人が尾花沢に出向き、伝承したです。
やがて、尾花沢では、この歌に踊りの振りがつけられるようになります。

その後さまざまな経過を経て、今日私たちが知る花笠踊りにしたてられたということだそうです。

問題は、ここに出てくるドンヅキなのです。
実は、ドンヅキ石と言うのが出てきます。

丸く平たい石に、短い棒を六方から差し、紐を交互に上下になるように、巻きます。
棒を挟むように、上下二本の紐を巻くのです。

仕上がりはもう、まるで、スッポンそっくりです。
上に御幣が立てられているので、一瞬ごまかされますけど。

気がついたとき、思わず吹き出したです。

月は、水にかかわりの深い天体として、古来多くの民族からあがめられてきました。

そして、カメの仲間はたいてい、水のそばにすみます。

カメの甲羅は丸い。

とくに、スッポンの甲羅は、丸い。

それで、スッポンは水にすむ月の使いと思われたのかもしれないです。

ただ、「月」は陰陽では「太陰」と呼ばれ女性に配当です。

対する「太陽」は、もちろんお日様とも呼ばれる「太陽」で男性に配当。

生命を授ける「太陽」から、生命を授かる「太陰」。

その使いとしてのスッポンは、豊穣の願いを込めて神の前に献げられたと考えられます。

さらに、陰陽では水も天に配当されます。

そうなると、スッポンは天に浮かぶ月の化身そのものってかことでしょうかね。
明日香村の酒船石遺跡で見つかった亀形石造物も「カメではなくスッポン」ということは、何を物語るでしょう。

太陽から受け取る生命の元で、命を育む月としてのスッポン!

そう、神の子を授かり生み育んだマリアと相似形であるのかもしれないです。

天皇の即位にかかわる儀式として、禊が行われた施設ということでしょうね。

小さいですから、ひしゃくでも使ったのでしょう。

二十八宿に、北斗七星と南斗六星があります。

北斗七星は、おおぐま座の腰から尻尾にかけての星です。
北の斗(ひしゃく)の七(の)星の意味で、北を示す星座です。
ひしゃくの先にあるα星とβ星を結ぶ方向に、 α星とβ星の間隔で7つ先の延ばすと、そこには星の運行の中心となる北極星があります。

南斗六星は、いて座の手の部分にあります。
南の斗(ひしゃく)の六(の)星の意味で、中国の星座「二十八宿」の1つで「斗」と呼ばれます。
中心となる距星はいて座(Sgr)φで、 該当星はSgrμ(ミ),Sgrλ(ラムダ),Sgrφ(フィ),Sgrσ(シグマ),Sgrτ(タウ),Sgrζ(ゼータ)の6つの星から成ります。

北斗は死を司り、南斗は生を司ります。
あわせれば、死と生、滅びと復活、蛇の脱皮、などになりましょう。

禊に使われる斗(ひしゃく)は、北斗、あるいは、南斗の意味もあるかもしれません。

そういえば、亀形石造物とその周辺が発掘されたとき、神仙思想に詳しい腕の立つ石工の仕事、というコメントをした人がいませんでしたか。

追記

御存じの方も多いだろうが、本朝十二銭とも皇朝十二文銭とも呼ばれる十二種の銅銭の前に、富本銭(ふほんせん)というのがありました。

富本銭は、683年頃に日本でつくられたと推定される銭貨です。

708年に発行された和同開珎より年代は古く、日本で最初の貨幣とされます。

この貨幣が実際に流通したのか、まじない用に使われる銭である厭勝銭(えんしょうせん)に留まったかについては学説が分かれています。

それで、長い話になると思い、触れませんでした。

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門松

門松は新しい年を迎えた寿ぎの徴で、四季の節目を色どる行事の象徴です。
門松を門の両脇に立てる時期は、十二月二十六日から二十八日の間です。

門松を立てるのを避ける日は、二十九日や三十一日です。
二十九日は、『九松』(苦待つ)と言って縁起の悪い日を避けるのです。
三十一日は、葬儀の準備と同じになる『一夜飾り』です。

二十八日がだめなら、三十日に立てると良いです。

門松をおろすのは、基本的には松の内一月七日を過ぎてからとされます。
三が日の一月三日過ぎでも、良いようです。
大抵は、正月六日の夕方に取り払うことが多いです。
そのため、六日までを大正月または松の内と呼ぶようになりました。
門松は、遅くとも十五日には取り去りました。

七には、陰陽五行の陰陽の二と五行の五をたした七や、神代七代は、当然考えられます。
ただ、北斗七星の七、生命の樹の説もある七枝刀の七、七曜の七、天地創造の七も連想できるとの突っ込みもありかです。

一般に一月七日は七日正月(七草の節句)、十五日は小正月(二番正月)、二十日は二十日正月と呼ばれ、それぞれに祝う風習が残ってるのです。

門松を立てておく期間を、「松の内」と言います。
松は千年の齢を保つという伝説にちなんで、新年に長寿を願って飾ったそうです。
千年というと、鶴の千年や、聖書にでてくる神の千年王国もあるぞ、なんてちゃちゃも入ったりするのでしょうか。

門松は、一種の雛と言えます。
門松を左右一対の立てるのは、オス松とメス松があるからです。
正面から見て左側にオス松を、右側には細くて葉の短いメス松を立てるのが正式です。
左に陰、右に陽を配する、陰陽と逆さにみえるってかです。
内側からみれば、オス松は右の、メス松は左の、配置になります。
それに陰には陽を、陽には陰を、配するのも陰陽合一という陰陽道の規則なのです。

古くは、木の梢などに神が宿ると考えられていました。
門松はその依代として、そこに年神を迎えて祭るためのものでした。
依代とは、神霊が出現するときの媒体となるものなのです。

正月の年神祭りは、非常に重大な儀式です。
年神は、農耕の神様でもあり、年神様を迎えもてなすことで、一年の豊作を祈願するのがお正月の意味合いです。
しっかりと年神をお迎えしないと、その年は不幸になると信じられ依代としての門松は欠かせないものでした。
門松などのような特定の枝葉や、花・樹木・岩石、あるいは形代・よりましなど種類が多いのです。

門松の飾り方の種類は、数十種もあるそうです。

本飾りは孟宗竹を斜めに切って松の木を添え、注連をかけた豪華な飾り方です。

一般の家庭では、松の小枝を門口の両側につけ、輪飾りをかけた簡単なものが使われています。

門松や注連飾りなど、正月の飾りつけを行う風習は全国各地に残されています。

歴史を辿っていくと唐の時代の中国で、長寿を象徴する松を家の門に飾ったのが始まりとされています。

平安時代末期から、門松は正月になくてはならない風俗として普及していました。
室町時代には更に万年の長寿を意味する竹も添えられました。
鎌倉時代から、竹をいっしょに飾るようになったと言います。

その後「門松」の名の通り松だけを門に付けるものが出てきました。
竹を組み合わせる方法が出てきたのは、江戸時代頃とされます。
この風習は民間から広まったものなため古来京都の上流社会では行わず、今でも皇居には門松は立てないと言います。
伊勢市や富山県など、地域的に門松を立てない地区もあります。

新年を祝って立てられる門松は、松飾り・飾り竹・立松などとも呼ばれ松と竹で作ります。
門松には松とは限らず、榊・栗・楢・椿などの木も使われることがあります。
常緑樹であれば、何でもよかったようですねえ。
これ、常若思想の表現といえます。

緑といえば、クリスマス飾りでイエスの体の象徴とされます。
あ、そういえば、赤い飾りのつく門松を見ることがあるけど、あれって地域によっては古くからあるのでしょうかねえ。
もしそうなら、緑と赤、まるでイエスの肉と血、となるのですよ。

松迎えは、門松にする松を山へ切りに行く行事です。
来年の年男が来年の恵方、つまり、来年めでたいとされる方角にあたる方位の山から切って来ます。

たとえば、多摩地方では、山から松や青竹を切ってきます。
家の錠口(じょうぐち)、つまり家の入口の両側に杭を打ち、松と竹を縄で結びつけます。
根元には松の元、太いところで割り薪を作り、三本を三方向からたてかけます。
この薪は鬼うち蒔と言われています。

門松は三ヶ日が過ぎると取り除き、杭の穴に、松の真をさして、鬼うち蒔で三桁の枠に囲んでおきました。
鬼うち薪は、一月十四日の若餅つきに燃蒔(もしまき)で使う習わしです。
門松は、塞の神の材料に子供達が道祖神の所に集めました。

室町中期の僧、一休(1394~1481)のこの歌はあまりに有名です。
「門松は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」
この歌の門松も、常緑樹を使う古来の流儀かもしれないですね。

常緑樹を用いるあたり、クリスマスの緑、すなわち“イエス”と共通するところもあります。
門松にはメス松とオス松とがあり、陰陽太極で月と太陽に対応しているようにおもえます。
おもしろいことに、イエスは“義の太陽”の異名がありますね。
なら、旧約の姿を見せないヤハウエは陰で月にあたるとなるのか?なんてです。

門松は、正月明けにほかの正月飾りと共に燃やされます。
火と水の違いこそあれ、身代わりの雛としての存在でもあったのかもしれないですね。

穢れを人々に代わって背負うとすれば、その姿もまた、イエスを連想させられますね。

飛鳥昭雄と三神たけるは、三つの柱と十の節に注目してカッバーラの奥義である「アダムカドモン」であるとの説を展開していますね。
ヘブル語でアダムとは始めの人、ならカドモンは何でしょうか。
「カド」が「値する」で「モン」は旧約に出てくる「マナ」の転化、「マナに値する」でしょうかね。

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墨家

「非攻」「兼愛」「義」

なんだか、キリスト教みたいなのです。

これ、実は諸子百家のひとつ「墨家」の思想です。

墨家は、中国戦国時代の諸子百家の一つです。
戦国時代に儒家と並び、最大勢力となって大いに栄えたけれど秦の中国統一ののち勢いが衰え消えてしまったのです。
博愛主義を説いた、中国戦国時代に墨子によって興った思想家集団です。

墨家の始祖といわれる墨子は、諱は翟(てき)、魯の生まれとも、宋の生まれとも言われているけれど、生没年も生まれた土地も不明なのです。
最初、儒学を学んで満足できなかったので独自の学問を切り開き、墨家集団を築いたそうです。
墨子は著書の名前でもあります。
兼愛、すなわち一切の差別が無い愛を説いて全国を遊説したのです。

実際、欧州などのクリスチャンから親近感を持たれているらしいですね。

だが、それに異論を唱える声もあるのですよ。
それは、「墨家」のもうひとつの顔が軍事集団だからなのですよ。

そこのあなた、「非攻」と軍事集団、なんか変って思っているのですか。
専守防衛に徹し、守りのために築きあげた技術がすごいのですよね。

けど、よくよくみると意外なところに気づくのです。

五人、十人、百人を単位に村人たちを組織して、それぞれに長を立てるのです。

軍事を意識すれば当然とお思いですか。

これとそっくりな古代集団がいるのですよ。

イスラエルなのです。
イスラエルの民を、つねに百人隊、千人隊にわけ、それぞれに長を置くのですね。

さらに、キリスト教の歴史を思い起こしてほしいのです。
そう、イエスは自分を正統派ユダヤ教徒に位置づけていたのです。

イスラエルの民は、主なる神に異を唱えたり、逆らったりしたものたちは、主にお伺いを立ててからとはいえ、容赦なく討ったのです。
もちろん、主なる神に異を唱えず、逆らったりしなければ、むやみに攻めたりはしなかったのです。

こうみてみると、墨家って、もろにキリスト教そっくりに思えてくるから不思議です。

墨家の祖、墨子には謎が多く、神仙思想に顔を出したり、インドバラモンに関係ありと見られたり、アラビア人説が出たりするのです。

え?アラビア人?

古代日本にもペルシャ人が大勢いたことを考えれば、どうってことないです。   

日本の神話は、自然神を多く含む太陽神を中心として展開されるところはエジプトに、個別の物語はギリシャに、似てるとはよく言われます。
外反母趾に悩む女性が多い原因は、ローマンタイプの三角にとがった靴がギリシャタイプの先がそろった足に負担をかけるからなのですって。 (ここを訂正します。追記参照)
和裁の裁ちばさみも、ギリシャタイプのデザインだそうですよ。

つまり、中東周辺の人々がアジアに大挙して来ていたって可能性はあるってことです。

さらに、ペルシャ、エジプト、アラブ、これらに共通してかかわった民族がいるのです。

古代イスラエルの民です。

さらに古代イスラエルの民は、エジプトにいたときギリシャとも深くかかわったことが明らかになりつつあるそうです。

つまり、中東から日本の間のアジア大陸のはじっこにアラブがあるので、墨子アラビア人説は出たってむしろ自然で、わたしゃ驚かんです。

追記

最近の研究では、外反母趾になりやすい足の傾向は、エジプトタイプだとされるようになってきました。

足指は、三つのタイプに分類されるといいます。

エジプト型と、ギリシャタイプと、スクエアタイプの三つです。

エジプト型は、親指が一番長く、小指にむけて短くなる形です。

日本人の6割から7割が、このエジプト型タイプと言われています。

親指が長い他に、足幅が広めな形です。

親指が側面から圧迫されやすいため、外反母趾になりやすいタイプの足の形です。

ギリシャ型は、親指より第2指が長い足の形です。

日本では、エジプト型に次いで多いです。

足先の細い靴を履いても、爪先に負担をかけることが少なく、外反母趾になりにくいタイプの足の形です。

ただし、指が曲がりやすく、ハンマートゥになりやすい足でもあります。

ハンマートゥとは足の指が曲がったまま、戻らなくなっている状態です。

スクエア型は、5本の指の長さに差がない足の形です。

日本人では珍しい足です。

幅の狭い靴を履くことで、指にタコやウオノメができやすいタイプの足の形です。

ただ、ギリシャ神話の神々は、エジプトとのかかわりが指摘されており、この二つの文明を荷った民の間の関係はどうであったか興味深いものがあります。

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