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2008年2月

神のものは神へ

世の中に、さまざまな肖像があります。

でも、世界で肖像についてのもっとも有名な話といえば、新約聖書にあるこの話でしょう。

ユダヤ教の指導者たちが、イエスにこう尋ねました。

「先生。私たちは、あなたがお話しになり、お教えになることは正しく、またあなたは分け隔てなどせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。ところで、私たちが、カイザルに税金を納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか」

カイザルとは皇帝の称号です。
イエスの時代、ユダヤ人の間でローマ帝国に税を納めるべきかどうか大問題になったことがあったのです。
ユダヤは当時、ローマ帝国に支配されていましたから税を納めないと反逆に問われます。
それなのになんで、大問題になったのでしょう。
それは、硬貨に刻まれた文字に原因がありました。

「いと高き神の子、皇帝にして大祭司なるティベリウス」
ティベリウスは、イエスの時代にローマの皇帝でした。
そのティベリウスの肖像とともに刻まれた、この言葉が問題とされたのは「いと高き神の子」とあったからです。

ユダヤ教の指導者たちは、イエスが目障りでした。
問題点を指摘されてばかりいたので、イエスを反逆罪か、ユダヤの裏切りものにしたかったのです。

しかし、イエスのほうが一枚上手でした。
「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか」
ユダヤ教指導者たちは、答えました。
「カイザルのです」
それで、イエスはこう切り替えします。
「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」

まるで、一休さんのとんちばなし。

確かにカイザルの名において発行された硬貨、カイザルのものといっても間違えじゃない。
一方、神の子といってる以上、神のものにも間違えない。

でも、これだけでおわりじゃないですよ、この話。

創世記にはこうあります。

「われわれに似せて人を作ろう」

そう神は言います。
そして、アダムに息を吹き込んで命を与えます。
イブは、アダムから体の一部をとって作られたとあります。

あばら骨の一本といっていますが、イブのあのふっくらした体、どう見たって元があばら骨なわけありませんよね。

古代、長いものは風や息、もしくは言葉の象徴ともされてきました。
つまり、アダムのあばら骨とはアダムの息か、アダムの声かもしれません。

なに!
アダムがイブの目を覚まさせた?
ひょっとして、アダムの熱烈なキスでイブが目覚めちゃったとか?

あんた、おとぎ話の見すぎ!

おどろくことはありません。

アダムが神の息を授かったとは、神の言葉を授かったということといっても、間違えじゃないです。
アダムは初代預言者であったと主張する、キリスト教の一派もあるのですよ。
そして、イエス以前にも死者を蘇らせた預言者が記されています。
神様が手伝ってくれたアダムなら、ちょろいもんかも。

それはさておき、アダムとイブは、神の似姿として生まれた神の子といってもいいでしょ。
ほら、あれをいうでしょう。
子作りって。
やり方違っても、子作りには違いないですよね。

アダムとイブが神の子なら、失楽園しちゃったって彼らの子孫は神の子孫であることに変わりません。
で、神につくられた以上、神のものにも違いないです。

地球も、地球の上の万物も、もちろん人も、すべて神のつくった神のもの。

聖書の立場から言えば、そうなっちゃいます。

そこでイエスが言いたかったことを、想像してみます。

くだけて言えばこうなるかも。

「どうせ、神のものを右から左に移すだけ。何をそんなに気にするの。」

そりゃ、誰が見たって神の子のイエスから見ちゃそうでしょうね。

なんたって、聖書はこういいます。

「神の国はあなた方のうちにある」

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Halloweenと日本

北海道の七夕では、Halloweenみたいに子どもたちが家々を回るんです。
「ろうそくくれないとかっちゃくぞ!」とか、言うそうですね。
持ち歩く提灯の灯りを保つために、ろうそくをもらってたようですね。
『出さないと、かっちゃくぞ』とは『出さないと、ひっかくぞ』の北海道弁です。

現在は、七夕では各家を周りろうそくではなくお菓子をもらっているんですと。

10月 31日の夜に行われるHalloweenとは、All Hallow's Even (諸聖人の祝日の前夜)の短縮語です。
日本なら旧暦のお盆の頃では、ないでしょうか。
11月1日に行われるAll Saints' Day(万聖節)の前夜祭で、古代ケルトを起源に持つのです。

英国ではあまり行なわれないけど、米国では盛んな、秋の収穫を祝い悪霊を追い出す祭りですねえ。
米国では、カボチャをくりぬき目鼻口をつけた提灯を飾るのです。

“Trick or treat!" (お菓子をくれないといたずらするぞ)と言いながら、夜には怪物に仮装した子供たちが近所を回り菓子をもらったりするのです。

おもしろいことには、隣接する青森のねぶた祭りの慣わしに似ていて、ねぶた祭りの掛け声「ラッセラー」は「ロウソクをよこせ」という意味があるのだそうです。

ねぶたは本来『睡魔退散』の行事だったそうです。
この「ろーそくよこせ」も、『睡魔退散』の行事だったのなんでしょうかね?

北海道や東日本とアメリカは、ケルトで繋がってるかも知れないのです。
土方歳三の洋装写真はなかなか格好良いし、二宮金次郎の肖像画はまるでペリーみたいだし、秋田美人の美白の肌は白人の血がないとこうはならないと言われるし、秋田犬の血液型パターンはヨーロッパ型と言われますし。

東日本先住民の縄文人の子孫であるアイヌのそっくりさんの骨が、アメリカのケネウィックから出ているのです。
その一つを復元したら、イギリス出身俳優パトリックスチュアートのそっくりさんですと。
パトリックスチュアートの故郷がミアフィールドで、ケルト人の一派ゲール人の土地です。

もし、パトリックスチュアートがケルトの血をひいていたなら、縄文人やアイヌはケルトの親戚かも知れないと言うわけです。

そういえば、カナダには先住民から習ったと言うメープルシロップ煮があるけど、甘露煮や甘煮を連想するのですよ。
それにメープルシロップには、水飴っぽい食べ方もあるのです。

て、ゆうかメープルシロップって、水飴のご親戚?

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円了(Enryou)と妖怪

後に東洋大学となる哲学館は、哲学専修の専門学校として明治20年(1887年)9月設立されました。
創設者の井上円了(いのうええんりょう)は、仏教哲学者で教育家です。

東洋大学のHPには、多様な視点を育てる学問としての哲学に着目した井上円了が創設前に述べた言葉がのっています。
「哲学はあらゆる事物の原理を定める学問であります。政治、法律はもとより科学や芸術まで、その根底には哲学がなくてはなりません」

本郷区龍岡町の本郷麟祥院(現在の東京都文京区湯島4-1-8)に設立された哲学館は、明治37年(1904年)4月には私立哲学館大学、明治39年(1906年)には私立東洋大学と改称されます。

仏教哲学者と紹介される井上円了、その彼が創設した哲学館を母体に生まれた東洋大学はなぜか、当時の日本に創設されていた私立大学としては珍しく無宗教の学校となりました。
当時創設された大学の多くは、キリスト教系や仏教系だったのです。

井上円了の墓は、日蓮宗に属する星光山蓮華寺(せいこうさんれんげじ)(東京都中野区江古田1-6-4)にあります。
墓の形が井の字の上に円形の石を乗っけて、井上円了の名前の代わりというのですから茶目っ気のある人ですね。

井上円了は、安政5年2月4日(1858年3月18日)に、越後国長岡藩(現在の新潟県長岡市、合併前の新潟県三島郡越路町)にある真宗大谷派の慈光寺に生まれ、大正8年(1919年)6月6日、60歳で没します。

真宗の寺に生まれた井上円了の墓が、なんで日蓮宗の寺にあるかって?
当時の星光山蓮華寺の住職と、宗派を超えて仲良くなっちゃったから。

それで、蓮華寺のすぐそばに、哲学館の敷地にする案もあった哲学堂があるわけです。
結局、世界にもまれな哲学を主題とする特異な公園に計画変更され、現在も当時のままの建築物が公園内に存在しています。
哲学堂には、哲理門、六賢台、三学亭、四聖堂、百科叢など77の建築物が、明治42年(1909年)から、大正元年(1912年)にかけて、逐次整備されました。
普段は外観しか見られませんが、毎年4月と10月には、建築物の内部も一般に公開されます。

明治14年、設立間もない東京大学文学部哲学科にただひとりの1年生として入学した井上円了は、「洋の東西を問わず、真理は哲学にあり」と確信したといいます。
井上円了は哲学とは、観念的演繹的な哲学ではなく、「万物の原理を探り、その原理を定める学問」であり、事実と実証にもとづく哲学であると強調したそうです。

井上円了、熱心な教育者でした。
統計の残っているだけでも明治39年から大正7年までの13年間、全国60市、2198町村において5291回の講演を行い、通学できない者にも勉学に機会を与えようと学校開設の翌年から「哲学館講義録」を発行したといいます。
これまた、当時としては画期的な取り組みで、通信教育の走りですね。

ところが、井上円了、日本の近代的な妖怪研究の創始者ともいわれます。
近代化を推進するには迷信を打破する必要があるとする立場から妖怪を研究し、『妖怪学』『妖怪学講義』『霊魂不滅論』などを著したからですね。
こうした研究から、井上は「お化け博士」「妖怪博士」などと呼ばれたそうです。

そのため、哲学堂は、そこかしこに幽霊だの妖怪だのがいるという、なんとも不思議な場所となっています。

井上円了は、このように妖怪を分類しました。

 「真怪」現在の科学では解明できない妖怪
 「仮怪」自然現象によって実際に発生する妖怪
 「誤怪」誤認や恐怖感など心理的要因によって生まれてくる妖怪
 「偽怪」人が人為的に引き起こした妖怪

井上円了は、仮怪を研究することは自然科学を解明することであるとし、人類の科学の発展に寄与するものとして妖怪研究をすべしと考えるようになったのです。
「こっくりさん」の解明などの成果も、その一環でした。
しかし、井上円了は「妖怪変化のほとんどすべては迷信なり」とオカルティズムを廃した科学的見地から研究を行ったため、「真怪」には手も足も出ないという限界もさらけ出すこととなります。
もっとも、妖怪など迷信とする井上円了のこと、遠慮なく切って捨てちゃったのです。

井上円了の始めた体系的な妖怪研究は、後に江馬務、柳田國男に引き継がれていきます。

井上円了が迷信と切って捨てた「真怪」は、日本の古代思想や宗教、民俗を研究する人々によって新たな光が当てられました。
零落した古代の神々として正体探しが行われたり、いにしえの世界観を探る手段として分析されるようになりました。

いにしえの世界観を探る手段として分析する人の中には、陰陽で民俗を研究する吉野裕子のような研究者もいます。

さらに、陰陽こそカッバーラに他ならないと主張する飛鳥昭雄や三神たけるまで参戦、妖怪研究も にぎやかになってきました。

井上円了、この妖怪研究の今の姿、草葉の陰で覗きながらどう思っているでしょう。

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ふたたび、セント・ネロ?

フランダースの犬の原作は、英国人作家ウィーダが1870年代に書いたのです。

ところが欧州では、物語は「負け犬の死」としか映らず、評価されることはなかった。
米国では過去に5回映画化されているが、いずれもハッピーエンドに書き換えられた。

それにたいして日本では、アニメ化されると何度となく放映されるは、舞台となったベルギーの土地を訪れるフアンは後を絶たないは。。。

ベルギー人映画監督ディディエ・ボルカールトさん(36)らが、3年をかけて謎の解明を試みて作成した検証ドキュメント映画を製作したのです。
その結果立て来た答えは、日本人の美学にあうというのが面白い、うなずけますね。
ただ、彼らの考えたのは、日本人の心に潜む「滅びの美学」だというのですよ。

ベルギーに行ったとき、ネロとパトラッシュの銅像を見たという知人と、フランダースの犬の評判について話しました。

すると、その時のガイドさんの話が興味深かった、といってこう返事をしてきました。

 ベルギーではこの話はとても評判が悪いのですが・・・。
 それはいうまでもなく、ベルギー人が主人公をいじめているからなのです。

日本では、だれもそんな風には受け取ってないのですけどね。

 ただ理由はそれだけでなく、もう少し複雑。

なんですって?

 イギリス人のこの作者、旅行記を主に書く作家で・・・。
 他にたいしたヒット作はなかった模様。
 この作家がべルギーを旅した時この物語を思いついたそうですが ・・・。

ふむふむ。

 その時代は欧州全土が好景気に沸きかえっていて、 ベルギーだけが何故か取り残されて不景気だったとか。
 馬でなく犬に車を曳かせて牛乳を売るというのは、不景気のベルギーでは仕方がなかったことなのに・・・。

話興味深いですねぇ。
しかし牛乳を曳くパトラッシュこそ、日本人好み。
仕方のなかったことは恥ずかしいこととは、日本人はとらえてませんよね。
むしろ耐え忍ぶ美しい姿と、思うのではないでしょうか。

 イギリス作家の目には奇異に映ったらしいのです。

事情を知らなきゃ、そうでしょう。
でも、ウィーダさんが、犬の曳く車を馬鹿にしてる風には作品からは感じませんけどねえ。。。

 こんなところから発想を得て生まれた物語は、ベルギー人にとって単なる悪役だからということでなく、 欧州の後進国というレッテルを貼られたようでいやだったそうですよ。

欧州の後進国というレッテルを貼られたようでいやだった、という反応がわかったことは遠くから見てるだけではわからない貴重な情報ありがたかったですね。

こういう話を聴くのも、対話の楽しみです。
話題にしたかいがあるというものですね。

悪役扱いされているようで、後進国扱いされているようで、ってそういう風に受け取る欧州の感性、日本では理解できないですねえ。

ところで、アジアでこの物語を知っているのは日本だけなのか、その点も気になるのですけど。

牛乳を引くパトラッシュ、犬が荷車を引いていても、そういう国もあるか、位にしか見てなかったですねえ。

でも、もくもくと荷車を引くその姿、確かにじ~んときた物語のフアンは多いはず。

そして、けなげなネロ。

日本で受ける要素は、そろってる。

日本人の心に潜む「滅びの美学」だったという話には、これは確かにあるような気がします、との反応もありました。

こんなとき、感じるんですって。
それも一種の「滅びの美学」では?と。 

 日本のマラソン選手が 走り終わって倒れる・・・
 外国の選手は割りと平気で、ゴール しても軽く走ったり笑ったりしてる・・・
 この違いについて「日本では死力を尽くして頑張る」ことが好まれる・・・

たしかに、必死になってがんばる姿、日本好みかも。

あと、一期一会のこころも、こういう場所で全力疾走しようとする元になってるのでしょうか。

一期一会とは、こんな意味に使う。
もともとは、茶会の心得から出た言葉ですね。

 何度となく、どんなに似た体験をしようとも、この時間、この一瞬は、二度と来ない。ならば、誠心誠意、真剣に行うべき。

欧州人の感性についてのこういう話を聴いて、たいていの日本人がする反応は、こんな感じでしょう。

おどろき、あきれ、そして、哀れに思う。

馬鹿にもしなけりゃ、まして、いじめる気にもならない。

なんで、こんなことわかんないのって、かわいそうにさえ思ってしまう。

それでいて、優越感に浸るでもない。

この心境、どこか、聖書の言葉に近いかも。

「悔い改めて福音を信ぜよ。神の国はあなた方のうちにある。」

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セント・ネロ

クリスマスにちなんだ悲運の物語として日本で知られる「フランダースの犬」。
主人公ネロと忠犬パトラッシュが、アントワープの大聖堂クリスマスイブの夜に力尽きた物語。

物語では、画家を夢見る少年ネロが、放火のぬれぎぬを着せられて、村を追われ、吹雪の中をさまよった揚げ句、一度見たかったこの絵を目にする。
そして誰を恨むこともなく、忠犬とともに天に召される。

英国人作家ウィーダが1870年代に書いた原作は、欧州では、物語は「負け犬の死」としか映らず、評価されることはなかったそうです。
米国では過去に5回映画化されているが、いずれもハッピーエンドに書き換えられ、悲しい結末の原作が、なぜ日本でのみ共感を集めたのかは、長く謎とされてきたといいます。

ベルギー北部フランドル(英名フランダース)地方在住のベルギー人映画監督ディディエ・ボルカールトさん(36)らは、3年をかけて謎の解明を試みた検証ドキュメント映画を製作したそうです。
資料発掘や、世界6か国での計100人を超えるインタビューで、浮かび上がったのは、日本人の心に潜む「滅びの美学」だったそうです。

プロデューサーのアン・バンディーンデレンさん(36)は「日本人は、信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見いだし、ネロの死に方は、まさに日本人の価値観を体現するもの」と結論づけたといいます。

ネロとパトラッシュの死をこんな風に捕らえる欧州人は、聖書をちゃんと理解できているのでしょうか。

仏教説話からでた民話や伝承によくある、仏がみすぼらしい身なりで誰が慈悲深いか覆面調査するという話。
覆面調査の仏は、金持ちにコケにされ、貧乏人に優しくされるという展開が多いです。

おもしろいことに、聖書にも同じようなたとえがあります。
金持ちにコケにされた貧乏人は天国に行き、貧乏人をコケにした金持ちは地獄に落ちます。

欧州人は教会にいって聖職者の話は聴くが、聖書をきちんと読んでいるでしょうか。

聖書を読んでるひとが桁外れにすくないはずの日本、やはりなにかありますね。

ネロもイエスも、根拠のない迫害で悲劇の死を迎えたことは同じ、日本人はそう受け取っているんです。
これ、聖書の解釈として、間違ってますか?

ネロが負け犬なら、イエスだって負け犬じゃん?
ちゃう?

え?欧州人さん!

「フランダースの犬」は、聖書から見ればちゃんとハッピーエンド。
ネロを虐げた人々は、ネロとパトラッシュの死に接し、自らの行いを悔いたから。

悔い改めたものを、イエスはやさしく受け止める、そういう慈愛に満ちたお方。

そうそう、このお話、日本でしか有名じゃないんですよね。

なるほど、日本人の美学に合うのか・・・

あたしもそう思った

ネロとイエスって慈悲深さといい、死に方といい、
なんだか似ていると思ってた
でも慈悲の心って、日本人の心なんだよね~

知り合いにこの話をしたら、こんな反応がきました。
この感性が、日本の「フランダースの犬」人気を支えているのが改めて実感できました。

ふと、思ってしまったのですが、イエスは主の道の殉教者に列せられる一人とすれば、作中人物とはいえ、ネロもまた日本人から見て、ある意味道の殉教者の一人といえないでしょうか。

素直さ、敬虔さ、慈悲の心、これらをどんなことがあったとしても忘れない。

つまり、日本人の美意識から見れば聖イエスにたいし、聖ネロともいいうる?

レベルは違うかもしれませんが、ドラえもんがアメリカでは不評だという話を聞いたことがあります。

のびたの自立心のなさが、アメリカ人には許せないようで。
私は日本人がもつ弱者へのいたわりの心を、誇りに思います。

どちらの反応も欧州人に共通な感性の、なせる業でしょうね。

彼らの感性で、はたして聖書が理解できますかね。

欧州人の感性についてのこういう話を聴いて、たいていの日本人がする反応は、こんな感じでしょうか。

おどろき、あきれ、そして、哀れに思う。

馬鹿にもしなけりゃ、まして、いじめる気にもならない。

なんで、こんなことわかんないのって、かわいそうにさえ思ってしまう。

それでいて、優越感に浸るでもない。

この心境、どこか、聖書の言葉に近いかも?

「悔い改めて福音を信ぜよ。神の国はあなた方のうちにある。」

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春餅

「春餅」というのは正月に食べるものだけど 巻いて細長くしたのを食べるのです。
これは蛇に見立ててる。

日本の鏡餅にも、ずばり蛇に見立てたものがあるし、鏡餅自体にも蛇のトグロ説を唱える人がいますよ。

また、中国では端午節には「五毒餅」を食べる地域もあるそうな。
これは、餅をヘビ、ガマガエル、サソリ、ムカデ、トカゲの形に作って食べるのです。
春餅も五毒餅も、悪いものを食べてしまって健康を願うという意味なのです。

まさに、陰極まりて陽という、陰陽そのものといえます。
五毒の五も、五行との対応が想像できます。

これは中国人独特の感覚なのでしょうか?

感覚、感性という点ではそうですね。

面白いでしょ?

お国柄が、うかがえて興味深いです。

日本の鏡餅を白蛇に見立てるのは、白蛇は神聖なもの、神の使いという意味があるのでしょうか。

陰陽では白には、死と光の意味があります。
聖書には、自ら光を放ち、死に意味を与えられた、ただ一人の人、イエスがおられます。
さらに、出エジプトでモーセが掲げた癒しの青銅の蛇は、十字架のイエスの予形と聖書解釈ではみなされるのです。
つまり、白蛇はあらゆる意味でイエスとイメージが重なる存在ってことですね。

中国の春餅の蛇は、毒のあるものという考えのようだから。
似て非なるもののように思えるのだけど・・・。
でも、神と魔の境は混沌としている部分があって…。
共に妖しいものと捉えれば同じなのかしら?

それが、陰陽の複雑で奥深いところです。
聖なる蛇=陽
毒蛇=陰

陽極まりて陰であって、陰極まりて陽であるということです。
薬も使い方で毒となり、毒も使い方で薬となる、ようなもんです。
なにごとも、程度が問題、節度が大切、ってことでしょうか。

毒蛇であっても薬になるのは、マムシ酒でわかるでしょ。
また、毒をもって毒を制すともいいます。

でも、神と魔の境は混沌としている部分があって…。
共に妖しいものと捉えれば同じなのかしら?

陰陽からいえば、神と魔とは、寄り合わせた糸のように分かちがたいものなのです。
わたしが、悪魔も本来神であり、その本来の悪魔にサタンは含まれないと主張するのもここに理由の一つがあるのです。

神を妨げ、神に逆らうサタンを退ける法はただひとつ。
ひたすら神に祈り、救いと導きを求め続けること、これしかないと私は思っているのです。

 神を真に受け入れるなら、悪魔の存在をも受け入れなければならない。

聖書もコーランも、そう主張する点で吉祥天と黒暗天にそっくりなのは面白いです。

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悪魔(akuma)とサタン

聖書の失楽園にはアダムとイブをそそのかして神の禁じた知恵の実をたべさせた責任を問われた蛇は手足を神に奪われたとあります。
蛇はしばしば、神の使いとされる生き物です。

その蛇に手足があったというのは、どう解釈すべきなのでしょう。。

 神の力を、神の命じられた目的を実行するために自由に利用できる権限が与えられていたことを意味する

そう見たらどうでしょう。

神の力を自由に使えない神の使いは、もはや力を大きくそがれ、神と張り合うなど無謀な存在となりましょう。

その手足を神に奪われた神の使いが、堕天使ルシファーとしたら、神にはむかうなど愚の骨頂なはずです。
もちろん、ここでいう手足は象徴なので、ルシファーの手足はちゃんとついています。

ただ、あなどっちゃいけないのは天界にいた天使時代のルシフィルは、熾天使(してんし)の地位だったそうです。
熾天使は熾が燃えるという意味なので光の天使とも言われ、神に次ぐ地位です。
神並みの実力がある可能性はあるのです。

ところで、サタンというと異形の存在で描かれることが多いようです。

しかし、サタンの正体は堕天使。

堕落したとはいえ、元は天使ですから、実はサタンであるルシファーって美しいって知ってましたか。

もちろん、サタンの手下たちも堕天使。

かれらもまた、美しいのです。

皆さんのイメージの中では、山羊頭だったりしませんか。

ようするに、角の生えた醜い姿。

角が生えた醜い姿って言えば、日本ではナマハゲが有名ですね。

「悪い子はいねえか」といいながら家々をまわるナマハゲさながらに、罰を加える役回りを演じている存在は、さまざまな国にいるらしいですね。

そして、その役を演じる存在はたいてい、日本では“悪魔(akuma)”と訳されます。

聖書で、神に逆らい神を妨げるものと位置づけられるサタンもまた、多くの場合“悪魔(akuma) ”と訳されます。

一方、一般に悪魔(akuma)にはキリスト教から見て異教の神々という別の顔がある場合がほとんどです。

醜い姿で描かれる悪魔(akuma)は、実は、悪者を懲らしめる側にいるのです。
異能の持ち主であるから、悪魔(akuma)は異形で描かれるのでしょう。
古代の異能の神々は、結構、異形で表現されることが多いのですよ。

ヒエロニムス・ボスの有名な三連祭壇画「快楽の園」に描かれた異形の者たち、あれは悪魔(akuma)でありましょう。

仏教説画の地獄絵に登場する、鬼たちとよく似た役回りを演じていますね。

さらに、山羊の姿とされる悪魔(akuma)とは、とほうもない時間の中で半端じゃない智恵と知織を蓄えた長老を表しているのでしょうか。

一方、羊とはまるまると育った健やかで無邪気な幼子の似姿であり無垢な魂の象徴かも。

ようするに、本来、悪魔(akuma)といわれるなかにサタンはいないのではないでしょうか。

サタンは、神に逆らい神を妨げるものという意味なのです。

それは、サタンと悪魔(akuma)についての聖書やコーランの扱いを比べれば、なおさらわかるはずなのではないかとおもわれます。

問答無用、門前払いのサタンと、神からも一目置かれる悪魔(akuma)。
特にコーランは、あからさまに差をつけているように見えます。

神の側に立つ天使は、聖書を見ると、私たちと同じような肉体を持って地上にやってくるようです。
人々が気づかないようにできるからといって、触れることが可能な肉体がないわけじゃない。

それに対して、サタンや手下たちは霊的な存在であって、私たちのように手を触れられる体ではないようです。

神に逆らってサタンとなったルシファーは神の力を頼めないのに、天使に許された力だけで神に対抗するなんて無謀。

それでも、なぜ、ルシファーは神に勝てるなんて思ってるのでしょう。

でもサタンとなったルシファーと、ルシファーに従った堕天使の目的は、「神」に勝利することではないかもしれません。

サタンたちの目的は、私たち人間を出来るだけ多く自分たちと同じ堕落した状態に引き込むことという考えもあるのです。

そういえば、ルシファーが堕天した理由のひとつに、神が天使たちより人間たちを上の位置に置いたことを嫉妬して反撃した事があげられていますね。

人に自由意志と選択の自由が許されている限り、サタン一味の私たちに働きかける力は残されているのかもしれません。

私たちが傲慢な気持ちになっているとき、サタンはしてやったりとほくそえんでいるのでしょうか。

素直さと、謙虚さを、忘れずにいたいものです。

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聖戦

クルアーンとも読まれるイスラーム教の教典コーランには、ムスリム、つまりイスラム教徒の、しなければならないことがいくつか定められています。

その主なものは、五行(ごぎょう)と六信(ろくしん)です。

五行とは、ムスリムに義務として課せられた五つの行為です。
 信仰告白(シャハーダ)―「アッラーフの他に神は無い。ムハンマドは神の使徒である。」と証言すること。
 礼拝(サラー)― 一日五回、キブラに向かって神に祈ること。
 喜捨(ザカート)― 収入の一部を困窮者に施すこと。
 断食(サウム)― ラマダーン月の日中、飲食や性行為を慎むこと。
 巡礼(ハッジ)― マッカのカアバ神殿に巡礼すること。

六信とは、ムスリム(イスラーム教徒)が信じなければならない六つの信仰箇条です。
 唯一全能の神(アッラーフ)
 天使の存在(マラーイカ)
 啓典(神の啓示、キターブ)
 使徒・預言者(ラスール)
 来世の存在(アーヒラ)
 定命(カダル)

そして、六つ目の行ともいわれるのが「ジハード」なのです。
ジハードが本来「努力する」に当たる動詞の語根 jahada (アラビア語:جهد)に由来することは、日本ではあまり知られていません。

例えば「神の道のために努力することに務めよ」というような句が、コーランにはあります。
この中の「努力する」に当たる動詞の語根 jahada が、ジハードの語源だそうです。
ジハードの意味は、アラビア語で「ある目標をめざした奮闘、努力」をさします。
アラビア語の「努力」という言葉自体に、「神聖」あるいは「戦争」の意味はまったく含まれていません。

イスラーム学者によると、ジハードは2種類に整理されるといいます。

個人の内面との戦いが、内へのジハードで、大ジハード (الجهاد الأكبر al-jihād l-akbar) と呼ばれます。
「内へのジハード」は、個々人のムスリムの心の中にある悪、不正義と戦って、内面に正義を実現させるための行為なのです。
努力と訳されるのは、この意味でのジハードなのです。

外部の不義との戦いが、外へのジハードで、小ジハード (الجهاد الأصغر al-jihād l-asghar)と呼ばれます。
一般に「聖戦」と訳されるジハードが、この「外へのジハード」なのです。
「外へのジハード」の、必ずしも武器を取って戦うことばかりではないことは、もっと理解されていいはずなのです。

聖戦としてのジハードは、もっと知られていないことには、旧約聖書にも似たような戦いがいくつも記されていることです。
神の道を妨げるものにたいして、神にお伺いを立てた上で戦ったのです。
神に対してへりくだること、真っ先に神を頼ること、これを忘れて聖戦は成り立たないといえるでしょう。
ここで注意しないといけないのは、神の意向にそわないかたちで戦った場合、そのほとんどが敗北に終わっているのです。

啓典すなわち聖書やコーランの民をムスリムがなのるなら、今戦おうとしているジハードは、本当に神のご意向にそっているのかを確かめないとならないというわけです。

自分が従っている聖職者は神の声に忠実かどうか判断するのは、一人一人のムスリム、そして啓典を信ずる者の責任というわけです。

 「自分の正しいと思うとおりに行動し、神の判断を仰ぐ」

これは、ユダヤ教であろうと、キリスト教であろうと、イスラム教であろうと、啓典の民すべてに神が課せられた課題なのです。

仏教で言う因果応報にある意味、似てるかも。

強力な武器を持ったテロリストが、無防備の一般の民に勝てるのはこどもでもわかる道理ですね。

 「理にかなったものは、劣勢をはねのけて勝利できる」

この理とは、神の道にかなうということです。

まことの神の道を歩む戦いであれば、神の御力によって不可能が可能になる勝利があるはずではないでしょうか。
思わず「まっじ~!?」「ありえね~!」と叫びたくなるような勝ち方もありえちゃうのが、神が味方についた聖戦のすごいとこ。

それが、ちゃんとのみこめてないから、一般の民をねらうテロになるのかもしれません。

ハンムラビ法典や、旧約に、「眼には眼を、歯には歯を」が記されているという人がいます。
「眼には眼を、歯には歯を」は、現代では、「やられたらやりかえせ」の意味で使われたり、復讐を認める野蛮な規定の典型と解されることが一般的です。

しかし、旧約には悪意のない過失による場合は罰してはならないとして、彼らをかくまうことを義務付けられた「逃れの町」をいくつか定めているのです。

ハンムラビ法典についても、運用にはそれなりの配慮は当然あったようですね。
倍返しのような過剰な報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて報復合戦の拡大を防ぐことがこの条文の本来の趣旨と、評価されているようです。
予め犯罪に対応する刑罰の限界を定めることを、罪刑法定主義といいます。
罪刑法定主義は、刑法学においても近代刑法からみて歴史的に重要な規定だそうですが、すでにこの時代あったというのは興味深いです。

しかもこれらは、誤りを犯した者たちが対象であり、八つ当たりもどきの報復やテロを容認した規定でないことは明らかです。

また、新約聖書の「マタイ伝五章三十八節」には、こうあります。

 「眼には眼を、歯には歯を」といえることあるを汝ら聞けり。
 されど我は汝らに告ぐ、悪しき者に抵抗うな。
 人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。

むやみやたらに聖戦を振りかざして、戦っちゃいかんと戒めているのでしょう。
それだけ、啓典の神は強力な存在というわけ。

宗教者たるもの、ましてや指導者たるもの、信者の暴走をあおった時点で資格が問われるのではないでしょうか。

中庸は難しい、だからこその教えでもあると、いえるのかも。

信仰にあたいする神を、まともに崇拝する、この当たり前が案外難しいってのは、悲しいですね。

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鰹節とチーズ

鰹節の種類は大きくわけて3種類、本節もしくは本枯れ節、新節、生節や味つけ生節です。
鰹節のできあがる期間はそれぞれ、本節・本枯れ節の場合昔の製法で6ヶ月、現在の製法でも3、4ヶ月、新節の場合3日ないし4日、生節の場合1日、鮮度を重視するからです。

鰹節の製造工程は、次のとおりです。

本節・本枯れ節を中心に説明してみましょう。
生きり→籠立て→煮塾・釜立て→骨抜き・バラ抜き→焙乾→削り→天日干し→カビ付け→完成
この、天日干し→カビ付けを4回繰り返すです。

新節では、天日干し→カビ付けが省かれます。
また生節では、新節の焙乾→削りが火入れに入れ替わるのです。

用語を簡単に説明します
生きり(なまぎりとも)とは頭とはらわたを取り三枚におろすこと。
煮塾・釜立て(しゃじゅく・かまだて)とは煮ること。
骨抜き・バラ抜き(ほねぬき・ばらぬき)とは皮・骨・脂肪をとること。
焙乾とは薪で乾燥すること。

詳しくは“鰹節の製造工程”で検索すると、いろいろなサイトが出るので参考にしてくださいね。

カビ付けとはカビつまり微生物をつけること、おそらくここで発酵が起きているのかもしれないですね。
発酵とは、微生物の働きで有機物が分解され特定の物質を生成する現象で、狭義には無酸素状態で糖質が分解される事です。

たんぱく質豊富な固形の発酵食品とくれば、チーズが連想されます。
鰹節をチーズと見立てれば熟成タイプで、刺身はフレッシュタイプといったところ。

魚食をする文化は各地にあります。
でも生食する文化は大変珍しいといえます。
もしも、刺身やたたきが酪に当たるとすれば日本の魚食文化の背景には、牧畜や遊牧民の生活が透けて見えると言うことになるかも。

これで、どぶろくのような濁り酒をちびちび嘗めながら刺身やたたきをつまめば、乳酒を味わいながらチーズを頬張る放牧民気分を味わえるのかも。
清酒なら、家畜の血をすする感触かも。

ちなみに日本酒は欧米では、ricewineとして売られているのです。
wineとした基準が植物の実などを発酵させたことにあるなら、ビールもwineになるのでしょうか。
蒸留酒も途中の工程まではwineと同じです。
すべての酒はwineに通ず?

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ネコとイエス

『猫たちの神話と伝説』ジェラルド ハウスマン, ロレッタ ハウスマン著 池田 雅之, 桃井 緑美子訳 青土社2000年
この本の中で、近代や現代の欧米文学でも、猫はイエスのメタファーつまり隠喩として用いられるといっています。

隠喩とは、普通のたとえが「雪のような肌」というところを、「雪の肌」といってしまうようなことです。
「雪のような肌」は、雪の白さを使って肌がどれくらい白いか、しか言っていません。
「雪の肌」は、雪の白さだけでなくって冷たさなど、雪の持つ性質で肌がどのようであるかをたとえてしまうのです。

つまり、「猫はイエス」と言い切って猫の性質でイエスをたとえたり、「イエスは猫」と言い切ってイエスの性質で猫をたとえたりするわけですね。

そこで、イエスは英語でJesusなので、Jesus Catで検索をかけ調べてみたのです。
すると確かに猫は聖書に出てこないにもかかわらず、猫をイエスのメタファーとして扱う作品が検索にかかったのです。
ためしに犬でやってみても、結果はゼロだったです。

猫が大きな声で鳴くと、赤子が大きな声で泣くのと区別が容易にはつかないようです。
こんな証言もあるのです。
近所の商店街を歩いていたら、赤ん坊の泣き声らしきものが聞こえてきた。
姿は見えなかったので、そのまま通り過ぎた。
気になって数歩行き過ぎた後戻った。
そしたら泣き声の主は、16歳になるという自転車屋の看板猫だった。
声が紛らわしいとは、それだけ、猫と赤子は目鼻立ち、体格や体型が似ていると言うことですね。

一方で、猫の首筋から口元のシルエットはドキッとするくらい蛇っぽいです。
全身も、細長い瞳に丸い頭細長い胴は蛇に似ているのです。
おまけにトグロが巻けるとこや、舌を出しっぱなしにする癖まで似ているのです。
さらに、蛇は日本の神道を含めてそれ以外の宗教でも、神の使いとする場合が多いです。

イエスは、神の幼子と呼ばれ赤子と、イエスの予形とされるモーゼの癒しの青銅の蛇になぞられるのです。
ちなみに「予形」とは、「前もって表わす」という意味です。

猫は赤子と蛇の合体をイメージさせる、だからこんな説があるということですね

猫とイエス、一言で表すのは難しいです。
あえて単純化してみます。

蛇には、あちこちの神社で見かけるように、神の使いとしての印象があります。
一方イエスも、神が使わしたという点では、蛇と重なります。

ただし、イエスには人の子としての顔もあります。
猫には、体つきや顔つきは思いっきり人の子に似たところがあります。

それでいて猫には、目や習性に蛇に重なる印象もあります。

つまり、イエスと猫は、人の子と蛇の印象が重なる点で、そっくりなのです。

さらにいえば、新約のイエスは、旧約のヤハウエ、そして、コーランのアッラー。

アッラーに注目すると、古代エジプトの太陽神ラーに冠詞アルをつけると「アル・ラー」になります。
そして、ラーは猫神。

この、「アル・ラー」が「アッラー」です。

つまり、猫神ラー=アッラー=ヤハウエ=イエスとなります。

…。

メタファーどころか、イエス=猫になっちゃいました。

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マルクスと聖書?

共産主義は、しばしば、キリスト教に似てると宗教研究家から、言われてきたので、試しにやってみました。
なるほど、合ってるかどうかともかくとして、確かに似てます。

共産主義(Communism)とは、財産の共有を目指す思想で、一般には生産手段の私的所有を社会的所有に変えることを理想とします。
マルクスとエンゲルスが有名だけれど、彼等がこの思想の創始者ではなく、共産主義の概念は古代のプラトンにまでさかのぼります。

社会主義(Socialism)は、生産と配分の手段・方法を、社会の成員全体で共有することによって社会を運営していく体制です。
資本主義経済における階級的不平等の克服を目的とし、その手段として生産手段の社会化を実現することを主張しています。

こう見ると、共産主義は思想、社会主義は体制、をそれぞれ意味するように思えるけど、事情はそれほど単純ではないです。

なぜなら、社会主義を共産主義に対立する理論の名前に用いる人々がいます。

彼等は自らを社会民主主義と名乗り、社会主義をその略称としてもちいています。

社会主義は経済的平等を優先するが、社会民主主義者は経済的平等と共に政治的平等をも同時に追求するとして、違いを強調しています。

このため、共産主義と社会主義をめぐって、人々は混乱することになったのです。

今回は混乱を避けるため、あえてマルクスとエンゲルスの共産主義に的を絞りました。

社会主義・共産主義を社会体制として実践するには、人々の粘り強い意識改革が必要になるので、そこにいたる前段階が必要になります。

現在、社会主義を目指す国はあっても、具体的に実現できている国はないのです。

社会主義国、すなわち、社会主義実現国とみなされがちなので、ここでも混乱が起きているのです。

かつてソ連東欧がすでに社会主義に入ったなどと言いふらしたことも、この混乱を生む原因となったのです。

原始共産制から、階級社会への展開した原因は、生産手段の私有財産化にあります。
これは、聖書の原罪に当たるかも。
階級社会は、奴隷制、封建制、資本主義の三段階があります。
その上に、社会主義、共産主義の無階級社会が来ます。
実際には社会主義、共産主義は同じ段階の別の呼び方という説もあります。

ただ、社会主義=共産主義には、二段階あるのは確かです。
それは、「能力に応じて働き、働きに応じて受け取る段階」と、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る段階」です。

社会主義=共産主義の二段階を加えた人類史の六段階は、ダビデの星である六芒星ともみえます。
社会主義=共産主義を一つの段階とすれば、ソロモンの星である五芒星になります。

一般にユダヤ教神秘主義と呼ばれるカッバーラは、四段階で成り立っているとされます。
カッバーラでは、絶対神の四つの創造段階を『流出世界=アツィラー』『創造世界=ベリアー』『形成世界=イェツィラー』『活動世界=アッシャー』と呼びます。
くわしくやると、それだけで一つのサイトができちゃうので、今回はこれ以上深入りしないです。

ただし、カッバーラは旧約だけじゃなく新約にも適用されるものという立場から、ヘブライ密教と呼ぶべきという説もあります。
預言者としてのイエスは旧約の解説者として活動したので、わたしも、新約は旧約の解説書と見る立場に立ちます。
その立場から、カッバーラをヘブライ密教と呼ぶ説に共感します。
混乱を避けるため、ここでは、一般的呼び方に従います。
ちなみに、カッバーラとは、「受け取るもの」という意味なので、イスラエルでは領収書もカッバーラと呼びます。

奴隷制、封建制、資本主義の階級社会の三段階+社会主義=共産主義の無階級社会とみれば、四段階になります。
原始共産制は社会主義=共産主義の段階で、形式的に回帰します。
それで、原始共産制=社会主義=共産主義=無階級社会でひとつと、みなします。

そして、社会主義=共産主義、特に高次の「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る段階」は、人類の本史とされています。
そのうちの社会主義の初期段階である「能力に応じて働き、働きに応じて受け取る段階」は、最後の審判前の「神の1000年王国」に対応して見えます。
かれらは、社会主義の初期段階が、1000年もかかるとは思っていないかもしれないけど。

さらに、この思想には哲学として、弁証法的唯物論があります。

この思想の三本柱は、次の通りです。
①対立物の統一と闘争
②螺旋的発展(否定の否定)
③量から質、質から量への転換

「対立物の統一と闘争」とは、たがいに対立する存在や要素がひとつの状態のなかで同居しあいます。
結果として主導権争いがおこってしまい、どちらかの勝利になった場合別の存在や状態に転化します。
砂糖と塩の加減を、思い起こしてもらってもいいかも。
多少甘ったるくてもなんとか食べられるけど、変にしょっぱいとまずくなって食べられなくなるようなもんです。

「否定の否定」は、単純に肯定になるのではないです。
たとえていえば、 螺旋(らせん) 的な、あるいはジグザクな、山登りや山下りに似ています。
あるいは、まいた種の数は、収穫で得られる数とは同じではないようなものです。

「量から質、質から量への転換」とは、量の変化が質の変化を引き起こし、引き起こされた質の変化があらたな量の変化をもたらすこと。
たとえば、少量の塩は食材の甘みを引き出し、ちょうどいいと甘すぎずしょっぱすぎずおいしいが、入れすぎるとひたすらしょっぱいだけでおいしくないようなことですね。

ほかにも、理論、運動、実践も、思想上の三本柱とされています。
①理論
②運動
③実践

これは、三柱の神と対応して思えます。
①対立物の統一と闘争     =理論=御父エロヒム(神にして人の原型)(神界の中心)
②螺旋的発展(否定の否定)  =運動=御子ヤハウエ=イエス(神から人へ、人から神へ)(指導の中心)
③量から質、質から量への転換 =実践=聖霊ルーハ(厳密さが重要)(行動の中心)

科学的社会主義の創始者のひとり、カールマルクスは、ユダヤ教から改宗したキリスト教徒の家系に生まれました。
このため、ユダヤ教神秘主義であるカッバーラにも通じていたのではないか見る声もあります。

これをみて、「マルクスの思想は聖書の焼き直しに過ぎない、たんなる現代の神話」と思うか、「マルクスの仕事は聖書の予言が実現するものと証明した」と感じるか、それはあなたしだいです。

参考までに付け加えると、近代経済学者はこう嘆いています。
「マルクスが資本主義にかけたのろいはまだ解けていない」

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