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聖戦

クルアーンとも読まれるイスラーム教の教典コーランには、ムスリム、つまりイスラム教徒の、しなければならないことがいくつか定められています。

その主なものは、五行(ごぎょう)と六信(ろくしん)です。

五行とは、ムスリムに義務として課せられた五つの行為です。
 信仰告白(シャハーダ)―「アッラーフの他に神は無い。ムハンマドは神の使徒である。」と証言すること。
 礼拝(サラー)― 一日五回、キブラに向かって神に祈ること。
 喜捨(ザカート)― 収入の一部を困窮者に施すこと。
 断食(サウム)― ラマダーン月の日中、飲食や性行為を慎むこと。
 巡礼(ハッジ)― マッカのカアバ神殿に巡礼すること。

六信とは、ムスリム(イスラーム教徒)が信じなければならない六つの信仰箇条です。
 唯一全能の神(アッラーフ)
 天使の存在(マラーイカ)
 啓典(神の啓示、キターブ)
 使徒・預言者(ラスール)
 来世の存在(アーヒラ)
 定命(カダル)

そして、六つ目の行ともいわれるのが「ジハード」なのです。
ジハードが本来「努力する」に当たる動詞の語根 jahada (アラビア語:جهد)に由来することは、日本ではあまり知られていません。

例えば「神の道のために努力することに務めよ」というような句が、コーランにはあります。
この中の「努力する」に当たる動詞の語根 jahada が、ジハードの語源だそうです。
ジハードの意味は、アラビア語で「ある目標をめざした奮闘、努力」をさします。
アラビア語の「努力」という言葉自体に、「神聖」あるいは「戦争」の意味はまったく含まれていません。

イスラーム学者によると、ジハードは2種類に整理されるといいます。

個人の内面との戦いが、内へのジハードで、大ジハード (الجهاد الأكبر al-jihād l-akbar) と呼ばれます。
「内へのジハード」は、個々人のムスリムの心の中にある悪、不正義と戦って、内面に正義を実現させるための行為なのです。
努力と訳されるのは、この意味でのジハードなのです。

外部の不義との戦いが、外へのジハードで、小ジハード (الجهاد الأصغر al-jihād l-asghar)と呼ばれます。
一般に「聖戦」と訳されるジハードが、この「外へのジハード」なのです。
「外へのジハード」の、必ずしも武器を取って戦うことばかりではないことは、もっと理解されていいはずなのです。

聖戦としてのジハードは、もっと知られていないことには、旧約聖書にも似たような戦いがいくつも記されていることです。
神の道を妨げるものにたいして、神にお伺いを立てた上で戦ったのです。
神に対してへりくだること、真っ先に神を頼ること、これを忘れて聖戦は成り立たないといえるでしょう。
ここで注意しないといけないのは、神の意向にそわないかたちで戦った場合、そのほとんどが敗北に終わっているのです。

啓典すなわち聖書やコーランの民をムスリムがなのるなら、今戦おうとしているジハードは、本当に神のご意向にそっているのかを確かめないとならないというわけです。

自分が従っている聖職者は神の声に忠実かどうか判断するのは、一人一人のムスリム、そして啓典を信ずる者の責任というわけです。

 「自分の正しいと思うとおりに行動し、神の判断を仰ぐ」

これは、ユダヤ教であろうと、キリスト教であろうと、イスラム教であろうと、啓典の民すべてに神が課せられた課題なのです。

仏教で言う因果応報にある意味、似てるかも。

強力な武器を持ったテロリストが、無防備の一般の民に勝てるのはこどもでもわかる道理ですね。

 「理にかなったものは、劣勢をはねのけて勝利できる」

この理とは、神の道にかなうということです。

まことの神の道を歩む戦いであれば、神の御力によって不可能が可能になる勝利があるはずではないでしょうか。
思わず「まっじ~!?」「ありえね~!」と叫びたくなるような勝ち方もありえちゃうのが、神が味方についた聖戦のすごいとこ。

それが、ちゃんとのみこめてないから、一般の民をねらうテロになるのかもしれません。

ハンムラビ法典や、旧約に、「眼には眼を、歯には歯を」が記されているという人がいます。
「眼には眼を、歯には歯を」は、現代では、「やられたらやりかえせ」の意味で使われたり、復讐を認める野蛮な規定の典型と解されることが一般的です。

しかし、旧約には悪意のない過失による場合は罰してはならないとして、彼らをかくまうことを義務付けられた「逃れの町」をいくつか定めているのです。

ハンムラビ法典についても、運用にはそれなりの配慮は当然あったようですね。
倍返しのような過剰な報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて報復合戦の拡大を防ぐことがこの条文の本来の趣旨と、評価されているようです。
予め犯罪に対応する刑罰の限界を定めることを、罪刑法定主義といいます。
罪刑法定主義は、刑法学においても近代刑法からみて歴史的に重要な規定だそうですが、すでにこの時代あったというのは興味深いです。

しかもこれらは、誤りを犯した者たちが対象であり、八つ当たりもどきの報復やテロを容認した規定でないことは明らかです。

また、新約聖書の「マタイ伝五章三十八節」には、こうあります。

 「眼には眼を、歯には歯を」といえることあるを汝ら聞けり。
 されど我は汝らに告ぐ、悪しき者に抵抗うな。
 人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。

むやみやたらに聖戦を振りかざして、戦っちゃいかんと戒めているのでしょう。
それだけ、啓典の神は強力な存在というわけ。

宗教者たるもの、ましてや指導者たるもの、信者の暴走をあおった時点で資格が問われるのではないでしょうか。

中庸は難しい、だからこその教えでもあると、いえるのかも。

信仰にあたいする神を、まともに崇拝する、この当たり前が案外難しいってのは、悲しいですね。

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