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マルクスと聖書?

共産主義は、しばしば、キリスト教に似てると宗教研究家から、言われてきたので、試しにやってみました。
なるほど、合ってるかどうかともかくとして、確かに似てます。

共産主義(Communism)とは、財産の共有を目指す思想で、一般には生産手段の私的所有を社会的所有に変えることを理想とします。
マルクスとエンゲルスが有名だけれど、彼等がこの思想の創始者ではなく、共産主義の概念は古代のプラトンにまでさかのぼります。

社会主義(Socialism)は、生産と配分の手段・方法を、社会の成員全体で共有することによって社会を運営していく体制です。
資本主義経済における階級的不平等の克服を目的とし、その手段として生産手段の社会化を実現することを主張しています。

こう見ると、共産主義は思想、社会主義は体制、をそれぞれ意味するように思えるけど、事情はそれほど単純ではないです。

なぜなら、社会主義を共産主義に対立する理論の名前に用いる人々がいます。

彼等は自らを社会民主主義と名乗り、社会主義をその略称としてもちいています。

社会主義は経済的平等を優先するが、社会民主主義者は経済的平等と共に政治的平等をも同時に追求するとして、違いを強調しています。

このため、共産主義と社会主義をめぐって、人々は混乱することになったのです。

今回は混乱を避けるため、あえてマルクスとエンゲルスの共産主義に的を絞りました。

社会主義・共産主義を社会体制として実践するには、人々の粘り強い意識改革が必要になるので、そこにいたる前段階が必要になります。

現在、社会主義を目指す国はあっても、具体的に実現できている国はないのです。

社会主義国、すなわち、社会主義実現国とみなされがちなので、ここでも混乱が起きているのです。

かつてソ連東欧がすでに社会主義に入ったなどと言いふらしたことも、この混乱を生む原因となったのです。

原始共産制から、階級社会への展開した原因は、生産手段の私有財産化にあります。
これは、聖書の原罪に当たるかも。
階級社会は、奴隷制、封建制、資本主義の三段階があります。
その上に、社会主義、共産主義の無階級社会が来ます。
実際には社会主義、共産主義は同じ段階の別の呼び方という説もあります。

ただ、社会主義=共産主義には、二段階あるのは確かです。
それは、「能力に応じて働き、働きに応じて受け取る段階」と、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る段階」です。

社会主義=共産主義の二段階を加えた人類史の六段階は、ダビデの星である六芒星ともみえます。
社会主義=共産主義を一つの段階とすれば、ソロモンの星である五芒星になります。

一般にユダヤ教神秘主義と呼ばれるカッバーラは、四段階で成り立っているとされます。
カッバーラでは、絶対神の四つの創造段階を『流出世界=アツィラー』『創造世界=ベリアー』『形成世界=イェツィラー』『活動世界=アッシャー』と呼びます。
くわしくやると、それだけで一つのサイトができちゃうので、今回はこれ以上深入りしないです。

ただし、カッバーラは旧約だけじゃなく新約にも適用されるものという立場から、ヘブライ密教と呼ぶべきという説もあります。
預言者としてのイエスは旧約の解説者として活動したので、わたしも、新約は旧約の解説書と見る立場に立ちます。
その立場から、カッバーラをヘブライ密教と呼ぶ説に共感します。
混乱を避けるため、ここでは、一般的呼び方に従います。
ちなみに、カッバーラとは、「受け取るもの」という意味なので、イスラエルでは領収書もカッバーラと呼びます。

奴隷制、封建制、資本主義の階級社会の三段階+社会主義=共産主義の無階級社会とみれば、四段階になります。
原始共産制は社会主義=共産主義の段階で、形式的に回帰します。
それで、原始共産制=社会主義=共産主義=無階級社会でひとつと、みなします。

そして、社会主義=共産主義、特に高次の「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る段階」は、人類の本史とされています。
そのうちの社会主義の初期段階である「能力に応じて働き、働きに応じて受け取る段階」は、最後の審判前の「神の1000年王国」に対応して見えます。
かれらは、社会主義の初期段階が、1000年もかかるとは思っていないかもしれないけど。

さらに、この思想には哲学として、弁証法的唯物論があります。

この思想の三本柱は、次の通りです。
①対立物の統一と闘争
②螺旋的発展(否定の否定)
③量から質、質から量への転換

「対立物の統一と闘争」とは、たがいに対立する存在や要素がひとつの状態のなかで同居しあいます。
結果として主導権争いがおこってしまい、どちらかの勝利になった場合別の存在や状態に転化します。
砂糖と塩の加減を、思い起こしてもらってもいいかも。
多少甘ったるくてもなんとか食べられるけど、変にしょっぱいとまずくなって食べられなくなるようなもんです。

「否定の否定」は、単純に肯定になるのではないです。
たとえていえば、 螺旋(らせん) 的な、あるいはジグザクな、山登りや山下りに似ています。
あるいは、まいた種の数は、収穫で得られる数とは同じではないようなものです。

「量から質、質から量への転換」とは、量の変化が質の変化を引き起こし、引き起こされた質の変化があらたな量の変化をもたらすこと。
たとえば、少量の塩は食材の甘みを引き出し、ちょうどいいと甘すぎずしょっぱすぎずおいしいが、入れすぎるとひたすらしょっぱいだけでおいしくないようなことですね。

ほかにも、理論、運動、実践も、思想上の三本柱とされています。
①理論
②運動
③実践

これは、三柱の神と対応して思えます。
①対立物の統一と闘争     =理論=御父エロヒム(神にして人の原型)(神界の中心)
②螺旋的発展(否定の否定)  =運動=御子ヤハウエ=イエス(神から人へ、人から神へ)(指導の中心)
③量から質、質から量への転換 =実践=聖霊ルーハ(厳密さが重要)(行動の中心)

科学的社会主義の創始者のひとり、カールマルクスは、ユダヤ教から改宗したキリスト教徒の家系に生まれました。
このため、ユダヤ教神秘主義であるカッバーラにも通じていたのではないか見る声もあります。

これをみて、「マルクスの思想は聖書の焼き直しに過ぎない、たんなる現代の神話」と思うか、「マルクスの仕事は聖書の予言が実現するものと証明した」と感じるか、それはあなたしだいです。

参考までに付け加えると、近代経済学者はこう嘆いています。
「マルクスが資本主義にかけたのろいはまだ解けていない」

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コメント

生産手段の社会的所有であるはずのものを、国家的所有にすり替え、社会主義への第一歩を社会主義の第一歩にした男。いうまでもなくスターリンです。
高校で世界史に出会うまで、私は間違いなく反共でした。
高校世界史に触れ、マルクスのいうことに少なからぬ正しさがあるような実感をうけ、社会民主主義的な路線に共感を覚えました。
大学に入りマルクスやレーニンの著作を読み、彼らの思想はソ連や中国などではまったく反映されていないものでしかないことを知りました。
いわゆるスターリニズムは、社会主義でもなんでもないものを社会主義と呼んでいる。
このことに気づいてから、多くの人にそのことを伝えようとしましたが、「思想におぼれた」云々ということばで濁されてしまうだけ。
今日ここでたまたまこの記事を見て大学入学以来8年抱いていた私の考えと同じ認識を持っている人に出会い、ちょっとした感動を覚えています。
いまや私もれっきとしたプロレタリアート。生産手段を持たないがゆえにこのような生活をしているのだと体感しています。

投稿: NR | 2010年4月13日 (火) 11時32分

かつてのソ連東欧圏や、自国の歴史的制約と戦いながら模索の過程にある社会主義志向国の姿と、読んでもいないマルクスやエンゲルスで、社会主義に対する誤解と偏見を振りまく人は、多いですね。

また、表面的に読んでいたり、社会主義への理解がマルクスやエンゲルスで終わっている人も、少なくありません。

あなたの口で、あなたの理解した社会主義の姿をネットで発信してみませんか。

投稿: cova | 2010年4月17日 (土) 13時11分

初期キリスト教とか
『古代社会』とかは
知っていますよね?
つまり
全文ネタですよね?

投稿: えっ? | 2011年2月15日 (火) 08時42分

いいえ、マルクスの社会主義思想の背後には、ユダヤ教に対する知識があるとしか、思えません。

そもそも、唯物弁証法自体がユダヤ神秘思想カッバーラの改作。

投稿: cova | 2011年2月15日 (火) 20時27分

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