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三星堆と門松

中国神話には、饕餮(とうてつ、Tao-tie、拼音:tāotiè)という架空の生物があります。
殷代から周代にかけて青銅器や玉器の修飾に部分的に用いられ、饕餮文(とうてつもん)といわれます。

饕餮は、人の顔、人の爪、曲がった角、虎の牙、体は牛か羊、などとされています。
饕餮の「饕」は食物を貪る、「餮」は財産を貪るの意です。
何でも食べる猛獣、というイメージから転じて、魔を喰らう、という考えが生まれました。
後代には、魔除けの意味を持つようになりました。

饕餮は、一説によると、蚩尤(しゆう Chihyu)の頭だとされます。
蚩尤は、中国神話に登場する天界の帝王である黄帝と大戦争をした神です。
砂や石や鉄を喰らい、超能力を持ち、性格は勇敢で忍耐強く、黄帝の座を奪うという野望を持っていました。
戦争にあっては、神農氏の時、乱を起こし、兄弟の他に無数の魑魅魍魎を味方にし、風、雨、煙、霧などを巻き起こして黄帝と琢鹿の野に戦いました。
濃霧を起こして敵を苦しめたが、黄帝は指南車を使って方位を示し、遂にこれを捕え殺したといわれます。
蚩尤は、獣身で銅の頭に鉄の額を持ち、また四目六臂で人の身体に牛の頭と蹄を持つとか、頭に角があるなどといわれます。
同じ姿をした兄弟が、80人くらいいたといいます。

おもしろいことに、聖書の黙示録によく似た印象を受ける存在が出てきます。
メルカバーです。

 この玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった。
 第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった。
 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。(「ヨハネの黙示録」第4章6~8節)

メルカバーは、同じく聖書のエゼキエル書にも登場します。

 わたしが見ていると、北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起こし、火を発し、周囲に光を放ちながら吹いてくるではないか。
 その中、つまりその火の中には、琥珀金の輝きのようなものがあった。またその中には、四つの生き物の姿があった。 その有様はこうであった。彼らは人間のようなものであった。
 それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。
 脚はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏に似ており、磨いた青銅が輝くように光を放っていた。

 また、翼の下には四つの方向に人間の手があった。
 四つともそれぞれ顔と翼を持っていた。翼は互いに触れ合っていた。
 それらは移動するとき向きを変えず、それぞれ顔の向いている方向に進んだ。
 その顔は人間の顔のようであり、四つとも右に獅子の顔、左に牛の顔、そして四つとも後ろには鷲の顔を持っていた。
 顔はそのようになっていた。

 翼は上に向かって広げられ、二つは互いに触れ合い、他の二つは体を覆っていた。
 それらはそれぞれの顔の向いている方向に進み、霊の行かせる所へ進んで、移動するときに向きを変えることはなかった。
 生き物の姿、彼らの有様は燃える炭火の輝くようであり、松明の輝くように生き物の間を行き巡っていた。
 火は光り輝き、火から稲妻が出ていた。そして生き物もまた、稲妻の光るように出たり戻ったりしていた。(「エゼキエル書」第1章4~14節)

奇妙なことに、別の箇所では牛の顔の代わりにケルビムの顔となっています。

 ケルビムにはそれぞれ四つの顔があり、第一の顔はケルビムの顔、第二の顔は人間の顔、第三の顔は獅子の顔、そして第四の顔は鷲の顔であった。(「エゼキエル書」第10章14節)

饕餮のモデルは、メルカバーでしょうか。
でてくる動物は、細かい点で違いますが大雑把な印象が似ているのは気になります。

成都市と30キロ離れた広漢市に発掘された三星堆遺跡から、祭司の像とされる立人像や、神樹がみつかっています。

立人像の足元に角のある逆さな顔、これ見て四天王や十二神将に踏みつけられた天邪鬼を連想したのは変でしょうか。

死を象徴する鬼が逆さで死の樹を表し、上の立人像は生命の樹、手にしていたと想像されている象牙は生命の樹に巻きつく蛇でありセフィロトをつなぐパスに思えます。

神樹は、鳥がとまるつぼみがついた枝が、十本出ています。

神樹の鳥は天使、つぼみはセフィロト、くねる樹の姿がパスかもしれないですね。

つぼみは、永遠の神の幼子、神の子とされるイエスもあらわすのでしょうか。

これ、生命の樹じゃないでしょうか 。

生命の樹というのは、聖書でエデンの園の中心に生えるとされます。
善悪を知る樹とともに、神がアダムとイブに果実を食べることを禁じた数少ない樹です。
生命の樹と、善悪を知る樹は、ともに神の境地に導く果実をつける樹です。

世界の中心に生えるとされる世界樹、宇宙の中心に生えるとされる宇宙樹、などは生命の樹と同じ仲間とされます。
生命の樹は、世界各地でさまざまな名前で呼ばれています。

生命の樹のさまざまな形については、飛鳥昭雄と三神たけるの『失われたカッバーラ「陰陽道」の謎』に紹介されているので詳しくは触れません。

なにがそうさせるのでしょうか。

しかし、樹というのは、色々とかかわっているんですねえ。

生命の樹の基本的な形は、三本の柱にセフィロトと呼ばれる十個の節がついた形です。
三本の竹に十個の節がついた門松を、連想していただいてもいいかもしれません。
細かいところはちょっと違いますが、ほぼ似たような、あんな感じで描かれることが多いです。
そのセフィロトと呼ばれる十個をつなぐ、パスと呼ばれる小路が描かれる場合もあります。

門松は別名を松飾といいますが、もともとは松の枝飾りでした。
いまでも、松の枝だけの松飾をしているお宅があります。
その枝っぷりを見て、何か連想しませんか。
人っぽいと思ったことありませんか。

生命の樹はアダムカドモンとも呼ばれます。
はじめの人であるアダムの後姿とされます。
枝だけの松飾が、どこか人っぽいのは、はたして偶然でしょうか。

わたしが立人像にも生命の樹を連想したのは、そのためです。
生命の樹は、天の主催者である神の境地に導く樹です。

いっぽう、裁きの鬼、裁きの悪魔が主催する地獄に罪人を送るのが死の樹です。
裁くためには、何が善で何が悪かを見極める智恵と知識が必要なので、善悪を知る樹ともよばれます。

三星堆遺跡とその周辺の遺跡からは、日本とかかわりがみえる遺物が見えるとされるので、門松や松飾を連想できる出土品があるのは面白いですね。
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コメント

面白いですねぇ。生命の樹が世界中の神話や宗教の根幹になっているのが分かります。

投稿: コテツ | 2008年4月 3日 (木) 16時16分

饕餮文、何を思ってつけたのでしょうね。

投稿: cova | 2008年4月 4日 (金) 15時23分

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