仏と塵
「塵を払って仏を見る、如何。仏もまた塵」
私は特に何教徒でもなけりゃ、まして坊さんではないです。
だから、どこまでも私の感想をのべるだけです。
仏は、見るものでしょうか。
仏は、拝むものでしょうか。
仏は、感じるものでしょうか。
そのいずれでもあり、そのいずれでもないでしょうね。
仏像は見えているし、さまざまなイメージやメッセージをこめられているから、その意味では感じるものでしょう。
どこにむかって礼拝すれば良いか迷うものには、目印になるという意味では、拝むものでしょう。
ところが、この一言は、仏もまた塵である、ちっぽけなもんだといってるのです。
とまどうでしょうか。
仏の姿を見たいといって、塵を払っていくと、仏もまた、塵にまぎれてどっかとんでってしまうというのです。
でも、あなたは、神仏の本当の姿を知っているのでしょうか。
知りもしないで、これは違う、あれも違う、そういっていいのでしょうか。
「塵を払えば、仏像の姿くらいはみえる」
本当にそうでしょうか。
野ざらしの地蔵、表面はぼろぼろ、塵を払ったら、表面だってはがれちゃうし、形もはっきりしないでしょうか。
つまり、塵を払って仏をみられると思うのは、思い違い、思い上がり、そういっているのでしょうか。
さらにいえば、こういってるのでしょうか。
「塵のようにつまらんものと思っているものの中に、あなたを教え導こうとする神仏の御声がいっぱいこもっていると悟りなさい。」
なんだか、「始まりでもあり終わりでもある」という神の言葉に通じるものがありますね。
考えてみると「ほとけ」は漢字では、「にんべんにござる」で「仏」とも、「にんべんにあらず」で「佛」とも、記します。
つまり、「にんべんにござる」だと「わたしはある」、「にんべんにあらず」だと「ひとにあらず=神である」、といっているようにも受け取れるわけです。
その意味では、「始まりでもあり終わりでもある」という神の言葉に通じるものを感じ取ったとしても、むしろ自然なのでしょうか。
神仏にお参りしている僕がいる。
それで、いいじゃありませんか。
「なにごとか、おわしますかは、しらねども、かたじけなさに、なみだこぼれる」
これで、十分という考えも、確かにあります。
「塵を払う」という行為そのものが「表面に気をとられている」ということで、それを戒めているのでしょうか。
「仏もまた塵」
私は後半に重点を置いて、突っ込みを入れてみたかったのです。
確かに前半にも、考えてみるべき事はあるのでしょうか。
この言葉全体が、深い謎を問いかけていますねえ。
「本質を見ろ」
「本質に気づけ」
「些細なことにふりまわされるな」
「どんなものにも仏性がある」
そういう解釈も、ありえるとは思えますねえ。
まだまだ、いろいろ考えられる奥の深い言葉ですね。
禅問答には、この手のものは多いようです。
仏像にあるいは仏様に向かっている時の気持ち、そのことしか 考えたことがありませんでしたか。
「塵を払って仏を見る、如何。仏もまた塵」
この問いかけに、こんなメッセージもこめられているのでしょうか。
「礼拝すべきは、仏であって作り物に過ぎない仏像ではない、仏像に込められた心こそ、見るべき。」
そして、仏像にこめられた心とは、うやまいであり、仏の想い、祈りである、のでしょうか。
それは、墓参りが、墓をみることではなく、墓を通じて祖先を思い祖先に出会うことと、通じるところはあるのでしょうか。
仏像や仏画は、仏を視覚的に説明する目的で作られているのです。
その意味では、さまざまの古代神像と同じように、神や仏を視覚的に説明するもの、一種のイラストレーションといえるものですね。
その点多くの教会で祀られている、十字架やイエス像、さらにはマリア像が肖像に限りなく近いのとは、似て非なるものと、私は思っていますね。
イエスや、マリアの、どのような方かを指し示すということでは、説明的な部分もあるのかもしれませんが。
「塵も積もれば山となる」
これが、全部神仏の声だったら、うるさくないか、ですって?
山にならないうちに、片付けたらいいでしょ?
ん~。
そうですねえ。。。。
すくなくとも、塵が俟っている光景は、いかにその管理者がずぼらか雄弁に物語ってますねえ。
でも、この塵の一つ一つが、教えの神仏の御声としたら、無造作に、はらっていいものでしょうか。
え。
はらっていい
そのこころは。
「神仏に、はらいはつきもの」
お後がよろしいようで。
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コメント
>礼拝すべきは、仏であって作り物に過ぎない仏像ではない、仏像に込められた心こそ、見るべき。
ほんまそうですよねぇ。聖書にもあなたの宝がある所にあなたの心もあるってあります。第一に思いを向けるべきは、神への信仰だと思います。
投稿: コテツ | 2008年4月 4日 (金) 21時28分
過去信仰形より現在信仰形、ですか=^◇^=ヾ=^--^=ォイォイ
投稿: cova | 2008年4月 5日 (土) 14時25分