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2008年5月

原罪は本当にあるか 原罪とは何か。その1

「フランダースの犬」のネタを扱ったときにも、欧州のキリストに対する解釈に疑問を出させてもらったのですが。

原罪の解釈にも、欧州の聖書理解そのものが問われている気がします。

いわゆる正統派の言う、『善悪を知る樹』ともいわれる『知識の樹』による「原罪」はありえないと思うのです。

もし、食べて悪いのならどうしてその場で、神は罰せられなかったのでしょうか。

仮に「原罪」があるとしたら、食べたことでなく黙っていたことなのでないでしょうか。

しかし、もし正直に食べたことを白状して神はどうなさったのでしょうか。

謝ればすむという風に考えたなら、自らの判断を神の判断の上に置いたことになるのでしょうね。

滅びを覚悟したなら、神は命は許すのでないでしょうか。

けれど禁を犯した以上追放は避けられないかも知れないですね。

謝ったから命だけは救ってくださったと見れば、神に感謝するのでしょうね。

謝ったのに追放されたと逆恨みしたら、神は即、滅ぼすしかないことになるでしょうか。

けれど、二人は神を恐れるがゆえに神の目を避けました。

すべてをお見通しなのを知りながら。。。いや、知っていたからこそ、避けたのでしょうねえ。

神はそんな二人をいとおしく思われたから、追放で済ませたのでしょうか。

失楽園で、こんなこと疑問におもわなかったでしょうか。

イブは蛇から、神の命令に反する言葉を、聞いたはずではないの。
イブはサタンの言葉に、一度は疑問を持たなかったのか。

なぜに、イブもアダムも、「蛇」の言葉をうたがわなかったのでしょうか。

「蛇」は、神の声の象徴ではないのでしょうか。
さらに、当時のルシフィルは神に次ぐ地位である熾天使ではないのでしょうか。

「蛇」つまり「神の声」は、常に神のまことの声を伝えていたのではないでしょうか。

エデンの園は、すべてが神の御心をあらわした存在と声にあふれていたことでしょう。
アダムもイブも疑いを持って接する必要のあるものは、なかったではないのでしょうか。

だから、アダムもイブも、熾天使であるルシフィルの言葉を疑わなかった。

疑う必要はなかった。

神は、いつかは善悪を知る木の実を二人に与える必要を感じておられたのではないでしょうか。

エデンの園に二人がいる限り、善悪を知る樹の実を食べる必要は皆無ではないのでしょうか。

この解釈は、いかが感じられるでしょうか。

なぜに、イブもアダムも、「蛇」の言葉をうたがわなかったのでしょうか。

「蛇」もまた、神の創造物であったのです。
長いものであるところから言葉に配当される蛇は、神の象徴ともサタンの象徴ともされてきたのです。

アダムとエバを誘惑した蛇は、サタンであるというのは一般的な解釈でしょうね。

ある伝承には、サタンはまず最初にアダムを誘惑したとあるそうです。
しかし、アダムは惑わされなかったというのです。
その次にエバが誘惑されたが、エバは惑わされてしまったそうです。

サタンは、真実の中に偽りを混入した言葉を用いたのです。
その偽りとは禁断の実を食べても「決して死ぬことはない」という言葉です。(創世記3章4節)

これはサタンが現代に至るまで度々用いている極めて巧妙で人が騙されやすい手段です。
これに対してアダムもそうだけれどイブもまた、良い物しか存在しない環境の中で純粋無垢な状態で生活しており、誰かに騙されるという経験が全くなかったのです。
その事も一因となったと思うのです。

しかしイブが食べてしまったので、結局はアダムも善悪を知る木の実を食べたのではないでしょうか。

その後アダムも善悪を知る木の実を食べたのは、堕落してエデンの園を追放されてしまうイブと共にいて「生めよ、増えよ」の戒めを守るために、あえてそうする事を選択したのでしょうか。

たしかに、聖書を陰陽の理論で見てもアダムは神から息、すなわち言葉を授かった預言者とみえるのです。
息のような長いものに配当されるものは、言葉に配当されるからでしょうね。

預言者たるアダムが、ルシフィルのたくらみを見抜けないはずはないです。

また、イブもまたアダムの指導下にあるとはいえ、預言者であったでしょうか。

神の意向は、善悪を知る樹の実を食べることにあると、二人が悟ったという解釈は聖書からも読み取ることは確かに可能ですね。

これに気がつくまで、「知識」を得ることが、「死」をも巻き込むと言う意味がはっきりつかめていなかったのです。
「生命の樹」に、その意味は掛かるものだと思っていたのです。
目的が「神々のようになる」と言うことと感じたとき、その謎も解けたように感じたのです。

神は、善悪のすべてを知るものであるばかりではなく、既に生と死を体験した者であったのでしょうか。

「知識」を得るのと同時に、「死も知らなければならない」ということでセットになっていたのですね。
「死を知る知識」をも知らなければ、ダメであったと。

アダムとイブも知識の実を食べなければ、食べないでそのままであったと言うことも可能だったでしょうか。
どうでしょう。

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味な出会い?

エジプト学者吉村作治は、エジプト人が案外日本の味を好むといっています。

日本から持っていったものを、現地の人に試しにあげてみたら喜んでおいしいと食べたそうです。

今じゃ、多分、お土産に持って行ってるのではないかと思います。
ていうか、自分用に持っていったつもりが、お土産になっちゃっていると言うか。
ま、発掘を手伝ってくれている現地人の人数は多いから、さすがにみんなの分はないかも。

そこで、エジプト料理を調べてみます。

すると、なるほど日本で好まれそうなメニューがいろいろあります。
二、三、挙げてみます。

シシカバブ Seekh Kebab

エジプトでもっともポピュラーな、羊または牛のブロック肉を使った肉料理です。

一口大に切り分けた肉を、漬け汁に半日ほど漬け込みます。
肉を金串に刺して、グリルで火が通るまで返しながら焼くのです。

これを見て真っ先に連想したのは、蒲焼です。
あるいは焼き鳥など串焼きです。

グリルというけど、やってることはまるで、あぶり焼いてる串焼きそのものです。
炭火で焼いたら、日本で流行るのでは、などと考えてしまうけど、どんなもんでしょう。

漬け汁は、すりおろした玉ネギとニンニクに、残りの全ての材料を混ぜます。
混ぜるのは、これです。

オリーブ油・レモン汁・トマトピューレ・ローリエ。
あとは、塩・黒コショウ・オレガノ・カルダモンを少々。

ファソリア Fasolia

マトン、つまり羊肉とインゲン豆のシチューで、なんだか懐かしい、素朴なおいしさとのこと。

シチューは、ようするに煮込みです。
マトンは肉としては、臭みがなくさっぱりとした味わいで、甘味があり噛みやすいといいます。
ちなみに、羊肉はモンゴルでは、大根の漬物と食べることも多いといいます。
ファソリアの食感は想像するに、日本で言えばブリ大根みたいなのでしょうか。

水に一昼夜浸した白インゲン豆を、やわらかくなるまでゆでます。

マトンを一口大に切って、やわらかくなるまでゆでます。

熱したバターで、みじん切りのニンニクを炒めます。
ニンニクが香ってきたら、みじん切りの玉ねぎを加え、透き通るまで炒めます。

炒めたニンニク・玉ねぎと、ざく切りのホールトマト缶を、なめらかになるまで混ぜます。
ミキサーにかけると楽、あるいはフードプロセッサーでもいいかも。

ゆだったマトンに、ミキシングしたペーストと、白インゲン豆、ブイヨン、砂糖、ケチェップ、水適量を加えて30分ほど煮込みます。

塩・コショウで味を調えます。

ショブラ アトー Shobura Atu

ヒヨコ豆のスープ、ヒヨコ豆の香りが食欲をそそる、シンプルな料理です。

一晩、水に浸したヒヨコ豆をやわらかくなるまでコンソメで煮て、塩、コショウで味を整えます。

おいしそうな煮豆と言いたい、けど、スープ。

これ甘くして、お汁粉か善哉みたいなのやったら、おいしいかどうか、試したいような、ためらうような。


ほかのメニューも、日本の好みに合いそうな気がしますね。

アジアをはさんで、似た味を好む民族がいるって、面白いですね。

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犬の宮と猫の宮は何を意味するか

米沢市の北にあるのどかな町である山形県高畠町には、ワンセットのお宮、犬の宮と猫の宮ってのがあります。

犬の宮は、「チンは高安犬としての純血を保っていた最後の犬だった」で始まる『高安犬物語』(動物作家:戸川幸夫氏)の直木賞受賞作の舞台になりましたね。
全国でも珍しい犬を祀った社で、安産と無病息災にご利益があるそうですよ。
愛犬の健康祈願や供養に訪れる人が多いそうです。
猫の宮は、犬の宮に対座する猫の宮は大蛇から主人を救ったという猫を祀った社で、養蚕と村の安泰の神様として信仰されていますね。
愛猫はじめ、ペットの健康祈願や供養に訪れる人が多いのですって。
おそらく犬の宮と猫の宮のある高畠は“たかはた”と“はた”がつくし養蚕の土地だったことからして 、秦氏の関係がある土地です。

犬の宮と猫の宮の近くには、安久津八幡神社があります。
貞観2年(860年)慈覚大師が阿弥陀堂建立という事ですけど。
康平年間(1058~1065年)に源義家が安倍貞任追討の際に陣をひき、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の分霊を祀ったとされる古社だそうですよ。
置賜地方、唯一の「三重塔」があるそうですよ。

犬の宮猫の宮

犬の宮
由来:和銅年間の708年~714年のことです。
都から役人が来て村人を集め「この里は昔から年貢も納めず田畑を作っていたが、今年から年貢のかわりに毎年、春と秋には子供を差し出すように」といい、村では大変悲しみ困っていました。
ある年、文殊堂帰りの座頭が道に迷い、一夜の宿を頼んだところが、今年の人年貢を差し出す家でした。
座頭は、ある夜現れた役人が、ご馳走を食べながら「甲斐の国の三毛犬、四毛犬にこのことを知らせるな」と何回も念を押して帰るのを耳にしました。
それで座頭は甲斐の国に使いをやり、三毛犬と四毛犬を借りてこさせ、いろいろ知恵を授け村を去りました。
村人は早速役人を酒席に招き、酔いが回ったところに、2匹の犬を放ったところ大乱闘になりました。
あたりが静まり返った頃おそるおそる座敷を覗いてみると、血の海の中に子牛のような大狸が2匹と多数の荒狸が折り重なって死んでいました。
村人は、三毛犬、四毛犬も息絶え絶えに横たわっていたのを必死に手当をしました。
でも介護の甲斐なく、犬は死んでしまいました。
この村を救った犬を村の鎮守とせよとのお告げにより、まつったのが現在の犬の宮といわれています。

猫の宮
由来:延歴年間の781年~805年のことです。
高安村に代々庄屋で信心深い庄右衛門とおみね夫婦が住んでいましたけど、2人には子供がありませんでした。
猫を心からか可愛がっていたのに、なぜか次々と病死してしまうのでした。
今度こそ丈夫な猫が授かるように祈っていたある夜のことです。
同じ夢枕に観音菩薩が現れ「猫を授けるから大事に育てよ。」とのお告げがあり、翌朝庭に三毛猫が現れました。
夫婦は大いに喜び、玉と名付けられそれはそれは子供のように大切に育てられました。
玉も夫婦にますますなつき、そして村中のネズミをとるのでたいそう可愛がられていました。
玉は不思議なことに、どこへでも、おみねの行くところに付いていきました。
寝起きはもちろんの事、特に便所へいくと、天井をにらみ今にも飛び掛からんばかりに耳を横にしてうなっています。
おみねは気持ちが悪く思い、夫にそのことを話してみました。
夫が妻の姿をして便所に行くとやはり、玉は同じ素振りをします。
庄右衛門はいよいよあやしく思い、隠し持っていた刀で猫の首を振り落とした瞬間、首は宙を飛び屋根裏にひそんでいた大蛇にかみついました。
この大蛇は、70数年前から、いつかいつの日か仕返しをしようとねらっていました。
けど、三毛犬、四毛犬に殺された古狸の怨念の血をなめた大蛇が、玉が守っているため手出しできなかったのです。
この事を知った夫婦は大いにくやみ村人にこの事を伝え、村の安泰を守ってくれた猫のなきがらを手厚く葬り、堂を建て春秋2回の供養を行ったということです。

犬の宮と猫の宮と、スサノオが活躍するヤマタノオロチはなんか妙に似ています。

ヤマタノオロチでは娘を差し出すところが、犬の宮では子どもを役人に差し出す。

スサノオがやってくるのに、文殊堂帰りの座頭が道に迷ってやってくる。

スサノオが退治するのに、甲斐の国の三毛犬、四毛犬が退治する。

ヤマタノオロチが酒に酔わされるのに、役人が酒に酔わされる。

ヤマタノオロチが退治されるのに、子牛のような大狸が2匹と多数の荒狸が退治される。
このすれ違いを埋め合わせるかのように猫の宮では、70数年前に三毛犬、四毛犬に殺された古狸の怨念の血をなめた大蛇が、三毛猫の玉に退治される。

ヤマタノオロチの首が刎ねられる代わりに、猫の宮では三毛猫玉の首が刎ねられる。
ヤマタノオロチは草薙の剣に、そこからしばしば製鉄に関係付けられるけど、犬の宮と猫の宮、特に猫の宮は養蚕に、結びつきます。

多くの食い違いがあっても、この奇妙な一致はいったい何を意味するのでしょう。
そういえば、スサノオは逆剥きの馬を機屋に投げこみ驚いた機織女が陰所(ほと)をついて死ぬので、養蚕で繋がってしまうのです。
草薙の剣もあるいは蛇神の化身とすれば、蛇が蛇を生んだ、あるいは、蛇の死と復活、にも繋がります。
おしらさまでは、刎ねられた馬の首が娘を伴って昇天したところから連想して、馬頭観音と養蚕の関係を探ってみたら、養蚕の行われている所では、かなりの確率で馬頭観音が祀られていたのです。

ただ、養蚕の神としてかならずしも祀られてるとは限らないです。
でも多くの地域では養蚕の神とされています。
猫の宮では観音様が夢に現れ、かと思うと、所によっては馬鳴(めみょう)菩薩なる神が養蚕の神として登場します。
さらには、近い地域に道祖神を祀る習慣がある場合が多いのです。

おしらさまには頭を布から出した貫頭型とがあり、貫頭型の頭部には男神と女神があるところは道租神に似ています。
道租神は今でこそ、高齢の男女が多いけれど、かつてはもっと若く、もっと艶っぽかったのです。
そうなるとおしらさまと道租神は余計似て来ます。
その馬頭観音や道租神の代りに、高畠では犬の宮と猫の宮があります。

わたしにゃ、猫が陰、犬が陽の陰陽道に見えちゃうです。
三毛犬、四毛犬なんて足したら七で、まるで七福神か創世記の天地創造の日数です。
三毛猫の三は、造化三神とか原初三神を連想しちゃうです。
不思議なお宮です。

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父と子と聖霊は。

三位一体って、聞いたことありますか。

「三位一体は」、「Trinity」の訳語です。

“本来一つであるものが、あたかも三者であるかのごとくある”

これが「Trinity」の本来の意味のようですね。

旧約も新約もコーランも、唯一神の経典であることに変わりはない、それは皆さんもご存知でしょ。

しかし、イエスは御父、御子、聖霊の存在を明らかにされたのです。

ここで、大問題がおきてしまったのですよ。

 唯一絶対神、つまり神はただ一人しかおられない。

 ところが、ただ一人であるお方が、一方では御父、御子、聖霊のお三方でもある。

これをめぐって論争勃発。

私は詳しい経過は良く知らないです。
しかし、結果としてこのような解釈になったものと私は理解しています。
もしご存知の方で、違うということであれば訂正してくださいね。

「唯一神があたかも三者であるかのごとく振舞うのは、御父御子聖霊は三者ではなく立場であり、本来一人の神が三つの分身を持つかのごとく振舞うことである。つまり三者が一体なのではなく、三位が一体なのだ。」

わかりますか?

だれが見たって混乱しちゃうでしょ。

キリスト教になじみのない一般の方々からは、阿修羅像のような三面六臂(さんめんろっぴ)をさして三位一体という表現をしばしば聞きます。

実際のキリスト教美術では、御父御子聖霊を、そっくりなお姿で並べて表現するのが一般的なようです。

でも、私がネットを通じて知り合ったクリスチャンの皆さんはいわゆる正統派解釈に異議を唱えているのです。

「絶対三神と呼ばれる御父御子聖霊はそれぞれ独立した存在のお方であられ、三者は御父の元で、唯一神会を構成なさっておられる。」

三位一体にならって言うならこうなるでしょね。

 御父御子聖霊は、三位一会を構成しておられる。

私も、この絶対三神が唯一神会を構成しておられるという解釈の方が、無理がないと感じています。

でも、御父と御子と聖霊は、どのような関係でいらしゃるのでしょうねえ。

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出雲大社はどっちむき?

これ聞いたことありますか。

「雲太、和二、京三」

雲太は出雲国城築明神神殿、和二は大和国東大寺大仏殿、京三は大極殿です。

 1位は出雲大社。
 2位は東大寺。
 3位は京都御所、大極殿。

何の順位かというと、高さなのです。

出雲大社の口伝によると、上古32丈、中古16丈、その後8丈といいます。
1丈は3.0303mです。
メートルでは、上古96.9696m、中古48.4848m、その後24.2424mというわけです。

なんと100m近い高さで、大昔の出雲大社はそびえたっていたというのでしょうか。

みんな、高さにばかり気をとられています。

権威を見せる目的は、当然あったでしょうね。

でも、それだけでこんな高さが必要だったのでしょうか。

今の出雲大社は、南向きに建っています。

それでいて御神座のある御内殿は、西向きなのです。

どうして、こんな構造でしょうか。

あまり話題にならないけど、とんでもない高さのとき、どの向きだったでしょうか。

もし、今と同じ向きとしたら、どうでしょう。

朝と晩、見ものだったのでないでしょうか。

まるで、登り竜のようだったでしょうね。

見てみたいです。

CGでもいいから・・・。
向きに注目して、出雲大社をみていたら、変な考えがむくむくと浮かんできました。

出雲大社は、社殿は南向き、それでいて御神座のある御内殿は、西向きなのです。

つまり、東西南北にこだわった神を祀る社なのです。

東西南北にこだわったといえば、ギゼーの三大ピラミッドがあります。
たしか、入口は南にあったはずです。

最も重要と思われる、いわゆる「王の間」は斜面を上ったところにあります。

出雲大社も、階段を上った社殿に御神座のある御内殿が、設けられています。

三大ピラミッドは、白い化粧版に覆われた階段ピラミッドと見ることも可能です。
この、白い化粧版は太陽の光を現すのではないかと、見られています。
ピラミッド自体も、太陽の光の中で威容を誇っています。

出雲大社の社殿もまた、太陽の光の中で威容を誇っています。
しかも、古代はもっと大きかったのです。
出雲大社の口伝によると、上古32丈、中古16丈、その後8丈といいます。
1丈は3.0303mです。
メートルでは、上古96.9696m、中古48.4848m、その後24.2424mというわけです。

ピラミッドは、地上の太陽神である王の魂が昼の間滞在する場であるという説があります。

出雲大社の御神座のある御内殿の西向きなのは、社殿の構造上仕方ないという声はあります。
三本の柱を、三列に配置しているのです。

三内丸山などの大型掘立柱建物、かなり高いと言っても、100mや50mを建てるとなれば多少無理があるのは確かなのです。
出雲大社は、社殿の柱の配置が、100m近かったときも、一番低くなった今も、実はまったく同じなのです。
基本的構造を変えないで、高さだけ変えてきたといえるのです。
こまかくいえば、柱の太さや位置がいくらかは違うけど。

けれど、御内殿が入り口と同じ向きになるような造りをなぜ採用しなかったか、無視した議論なのです。
三内丸山などの大型掘立柱建物のようなやり方でも、十分高くなるでしょうね。

わざわざ御内殿が入り口と同じ向きになるのが難しい柱の配置を、もっと高くできるだけの理由で採用するでしょうか。

仮に、太陽神の魂が東から西に移動するのに対応していたらどうでしょうか。
そう。
出雲大社とギゼーの三大ピラミッドは、なにからなにまでそっくりになっちゃうのです。

社殿を九本柱にしたのは、なにか、思想上のわけがあるとわたしは見ます。
もし、この時代の出雲に陰陽思想があったとすれば、魔除けの九字きりが考えられます。
でも、階段まで一本線と見て十本目の柱に含めれば、門松にそっくりです。

飛鳥昭雄と三神たけるは、門松をアダムカドモンだと主張します。
さらに、ギゼーの三大ピラミッドもアダムカドモンだと主張します。
アダムカドモンは、ユダヤ神秘主義の象徴です。

そのうち、飛鳥と三神の二人は、出雲大社もアダムカドモンだと主張するのでしょうか。

あと、古代出雲大社は階段を舞台に、朝と晩、神殿で神の声、神の使いである蛇が、あるい下り、あるいは上る、光の演出があったのかもと想像するのです。

特に春分と秋分、見ものだったかも。

民俗学者の吉野裕子はその著書『蛇−日本の蛇信仰』で、縄文土器の蛇は、縄文人の蛇によせる情熱の噴出であると指摘しています。

また吉野裕子は、出雲大社は海を西に見るところに建てられ、鹿島神宮は海を東に見るところに建てられたともいっています。

出雲大社と鹿島神宮の二つをあわせて、太陽信仰のひとつの神界が構成されている可能性はありえますね。

そう思ってみると、鹿島神宮の向きは面白いです。
本殿と奥宮は社殿は北向きでも神座は東向き、境内社の大国社や稲荷社とか要石も東向き、ほかの境内社は南向き、境外の伊勢社は西向き。
まさに、ピラミッド神社といえますね。

真昼の太陽と、鹿島神宮と、出雲大社と、三大ピラミッドのように並ぶことでも、想像して配置したのでしょうか。

そうそう、もしも、出雲大社に十干をみてよければ、古代出雲大社は日時計であり暦でもあったのかも。

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三大ピラミッドは誰が?

ギザの第1ピラミッド (クフ王)

古代エジプト史上、最も大きなピラミッドです。
建設当時の高さは147m、底辺の一辺は230m、斜面勾配は51度50分です。

ギザの第2ピラミッド (カフラー王)

クフ王の第1ピラミッドの隣にある、2番目に大きなピラミッドです。
高さ136.5m、1辺の長さ210.5m、斜面勾配は53度10分です。

ギザの第3ピラミッド (メンカウラー王)

3つのピラミッドのうち、最も小さいのが、メンカウラー王のピラミッドです。
高さは66.5m、1辺の長さ108.5m、傾斜角度は51度です。

ギザの三大ピラミッドは、斜面勾配がそれぞれ違うといわれます。
そして、考古学者吉村作治は歴代ファラオには、自分の角度があると指摘しています。
もし、三大ピラミッドの角度が指示したとされるファラオの角度と一致すれば、これまでの定説は確かということになる可能性はあります。

ところが、ここでも驚きの情報を出すものがいます。
またしても、飛鳥昭雄と三神たける、この二人です。

アラブの言い伝えには、エノクが建造を指示したと言うものがある、と主張するのです。

ここでいうエノクとは、旧約聖書で登場する人物です。
エノクとは「従う者」という意味。
エノクという名前は『創世記』に二度現れます。

初めは4章17節で、カインの子としてその名が記されます。
カインは建てていた町に彼にちなんでエノクとつけたといいます。

二度目は5章21節から24節で、こちらのエノクは洪水で有名なノアの曽祖父にあたるです。
65歳でメトシェラをもうけ、365年生きたあと、「エノクは神と共にあゆみ、神が連れて行ったのでいなくなった」(24節)といいます。

飛鳥昭雄と三神たけるが主張する、三大ピラミッドにかかわったとするエノクは、ノアの曽祖父にあたる方です。

聖書の創世記には、おもしろいことに具体的地名はノアの洪水後の、アブラハムがウルを出立したとするところまで出てこないです。
ならば、創世記二人目のエノクは、地理的にはメソポタミアの住民、ということになるかもです。

三大ピラミッドは、いまでこそ、それぞれ角度が違って見えています。
けれど建造当時は、白く輝く化粧版で覆われていた、つまり、元の角度は現在と同じである保証はない、ということです。

ま、同じ人物が企画したとすれば、今の角度の差程度なら誤差の範囲内といえるかも知れないですが。

吉村作治は、エジプトにメソポタミアから星の信仰がもたらされたといいます。

もしも、飛鳥昭雄と三神たけるのいうアラブの言い伝えどおりなら、三大ピラミッドの位置に提出されているある説に一気に光が当たります。

そう、オリオンの三ツ星をかたどったと言う、あの説。

そうなると、ナイルの水は天の川に見立てられていることになるでしょう。

赤道に近い緯度のエジプトでは、オリオンは天頂に近い高さに見えます。

これは、エジプト人にたいして、建造者は三大ピラミッドを世界の中心である存在に捧げたと、いってることになりはしないでしょうか。

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誰に寄り添うべきか

残念なことに、このような出来事が報じられました。

悲しいです。
シーシェパードと一線を画す事の必要性を、声を大にして叫ばないといけないようです。

鯨肉の紛失で? 西濃が被害届
(時事通信社 - 05月16日 14:01)

 日本の調査捕鯨船「日新丸」の乗組員が鯨肉を横領したとして、環境保護団体グリーンピース・ジャパン(GP)が告発状を出した問題に絡み、鯨肉を配送した西濃運輸(岐阜県大垣市)が16日、宅配中の段ボール1箱が盗まれたとして、青森県警に被害届を出した。

 GPは15日、鯨肉入りの段ボール1箱を4月16日に西濃運輸の青森支店で入手したと説明。送り主の了解は得ておらず、顧問弁護士は「形式的には窃盗かもしれないが、横領行為の証拠として提出するためで、違法性はない」としていた。 


もし、自分勝手に彼らのような行為をする権利が万人にあるとしたら、どうなりましょう。

世界は私的制裁し放題の、無法地帯と化すのではないでしょうか。

私の主張、間違っているでしょうか。

こういうと、感情的な意見が出るかも。

あなたは、横領に賛成か反対か。

議論のすり替えです。

自分が正義と考える行為のためなら、なにでも許されるなら司法制度は不要と化すのではありませんか。

聖書にもコーランにも、こういう考えがあるようです。

 人は、自分の正しいと思うことを思うように行ってもいい。
 その代わり、神の裁きがどうなろうと、自分で責任を持て。

仏教にも、似た考えがありますね。

 因果応報
 縁なき衆生は度し難し。

私たちは、自分がどの道を進んでいるか、常に見直したいですね。

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毘沙門天 その三

もともと力を持つ神だけに、ご利益が多く、富や財宝、不老長寿、戦勝祈願、神通力、無病息災など人間にかかわるすべてに霊感があるとされるのです。
特に、白獅子に乗り、右手に宝棒、左手に家に福徳を持ち込むとされるマングースを抱えた毘沙門天が最も徳高い物とされています。

毘沙門天は、主に関西地方の寺院に多く祀られています。
特に大和国信貴山の毘沙門天は名高く、『太平記』巻三の一、主上(後醍醐天皇)御夢事附楠事の段に、「その母(楠正成の母)若かりし時、志貴(信貴)の毘沙門に百日詣で、夢想を感じて設けたる子と候とて、幼な名を多聞とは申候也とぞ」と記されてあるので、楠正成の幼名は多聞丸ということがわかるのです。
それと、毘沙門信仰の周辺には多聞の名前が多く見られるところから、多聞とは毘沙門のことという説も、以前からあります。

信貴山の奥之院は、本堂から約2Km北方にあり、ここの本尊は、聖徳太子作といわれ、太子が物部守屋戸討伐の時に、阪部大臣(さかべのおとど)に化現(けげん)されて、先陣・先鋒で群がる敵を薙倒したので、尊像は白く汗をかいたように見えるといわれ、一名を「汗かき毘沙門天」といわれています。

奥之院の本堂脇に雨が降るならば、土中から焼米が出てきて、その焼米はどんな病にも効く薬になるという信仰があるのです。
この焼米は、聖徳太子が毘沙門天から陣中米と授かったもので、無尽蔵に近いくらい土中にあると土地の人は言い伝えています。
戦国時代には、戦国時代には、松永弾正久秀の出城(永禄3年(1560)築城)があったところだから、その城中米が土中に埋まっていたのかもしれないのです。

信貴山縁起絵巻といえば、長者の倉ごと米を運んだ鉢の絵が有名ですね。
空飛ぶ鉢で托鉢する話の一つとして、語られています。
このような縁起が語られる裏に、この毘沙門天から授かったとされる陣中米伝承があるからかも。

江戸時代末期編纂の『新編相模国風土記稿』三浦郡毘沙門村の条(くだり)に、「江戸より十九里。毘沙門郷と唱ふ。村内に毘沙門堂あり、故に地名となる(中略)○毘沙門堂、当所の海中より出現の像を置く、長さ三尺許、今も波海中より正月3日鶏鳴に竜燈現ずと云、前立毘沙門吉祥天の像あり、慈雲寺持(臨済宗)」とあるのです。

寺伝によると、堂の下の通称、白浜海岸に流れ着いた像を、村民が拾い上げて洞窟内に祀っていたといいます。
その頃諸国巡錫中の菩薩が、その像を見て、「大変尊い毘沙門天像だから秘仏としたらよかろう」と語り、岩殿山と呼ぶ台地で自ら他の木に彫刻し、堂を建立して安置したのに始まると伝えられるのです。
その彫像を作成した時に出た木屑を埋めた場所を村民は木端塚と呼び、手を触れることを禁じたというのです。

『新編相模国風土記稿』所載の通り、前立2体を新たに作り、海中出現仏と行基彫像の古い2体を秘仏として33年目ごとに開扉されるというのです。
この毘沙門堂付近の山中に、社護尊天(社宮司)・第六天の2天の石祠が祀ってあり、底辺の景色のよいところで、現在は関東近辺の気軽な行楽地として賑わっているようです。

さて、毘沙門天が、七福神の1つに加えられた理由には、1つは、勇気を持って悪に立ち向かえば、財をもたらすという性格から出たものであろうという説もあります。
幸福の神である吉祥天を妻としたところから、毘沙門天も、福をもたらす神とした説もあるのです。
またその軍神的性格から、貧乏神を退散させてくれるという説まであるのです。

でも、吉祥天は黒暗天と姉妹であり、二人一緒で受け入れる相手でないと、福の神としての仕事をしないはずです。
この黒暗天には、貧乏神という説があるのをご存知ですか。

吉祥天はもともと、インドの美と豊穣と幸運を司る女神ラクシュミーでした。
なおラクシュミーは、アラクシュミーという不幸を司る女神を姉に持つともされます。
ここが黒暗天と姉妹とされるもとなのです。

ラクシュミーが、ヴィシュヌの妻になる際にこう請願しました。
「私があなたの妻になる条件として姉にも配偶者を付けるように」
そこでヴィシュヌはある聖仙(リシ)とアラクシュミーを結婚させ、晴れてヴィシュヌとラクシュミーは一緒になったという神話も一方で残っているのです。
黒暗天もともに引き受けるよう求める起源は、ここにあるのですね。

退散される貧乏神が黒暗天なら、なぜ吉祥天は貧乏神をかばわないのでしょう。
つまり、黒暗天の正体は貧乏神などではないといっているようなもの。
黒暗天は、みすぼらしく格好が悪いけど、貧乏ななりをしているけど、人の足を引っ張る貧乏神なんかじゃないということなのかもしれないですね。

ならば、毘沙門天が退散させる貧乏神とは何者なのでしょう。

ねたむもの、うらむもの、さまたげるもの、ではないでしょうか。

となると、毘沙門天が退散する貧乏神とは、転落してサタンとなったルシファーのような存在かもしれないですね。

最後に、毘沙門天の真言だが、「ナウマク サマンダボダナン ベイシラマンダヤ ソワカ」であり、「この真言を唱えれば、福徳・戦勝・神通力などの功徳がある。」という意味だそうです。

毘沙門天の信仰は日本3大霊場といわれる次の寺社があるのです。

1.信貴山朝護孫子寺(奈良県)
寅年、寅月、寅の日、寅の刻に毘沙門天が出現したことから寅の日が縁日になったという。

2.鞍馬寺(京都)
牛若丸の修行や鞍馬天狗、10月22日の火祭りなどが有名。

3.毘沙門堂(京都)
大宝3年(703年)に奈良に建てられた。
平安遷都のときに京都洛北に移され、最澄が自刻の毘沙門天を安置したといわれています。
江戸時代に安祥寺の旧跡に移って現在に至っています。

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毘沙門天 その二

毘沙門天には、『毘沙門天経』に、「毘沙門天王を願せば信、戒、聞、捨、受、捨、慧、貌、力、弁、色声香味触富貴自在の十種の福利を獲得し、仏法中に於て法眼を開き、聖果を証得すべし」とあるように、財宝福徳の仏神と子宝を授かるという信仰も強いのです。

さらに、『北方毘沙門天随軍護法真言』に、「仏は毘沙門に勅して、天兵を領して界を守り。国土を擁護すべしと告げられたり」とあるように、軍神(いくさがみ)としての信仰も厚いのです。

武将上杉謙信も毘沙門天を信仰し、戦旗に毘沙門天の「毘」の字を掲げ、戦の神を味方にしていた事はあまりにも有名です。

1.浄信(清らかな信仰)
2.戒(行いを慎むための戒め)
3.聞(教えを聴聞すること)
4.捨(悪い見解を捨てること)
5.受(善業の果報を受けること)
6.慧(悟りを得るのに不可欠な大切な知慧)
7.形貌(姿形)
8.力(10の知慧の力。勢力、威力)
9.辯(なしとげること)
10.色声香味触富貴自在(自由自在)

唐の玄奘が、天宝元年(742)(天宝9年または12年説もある)、西蕃(せいばん)の入冦(にゅうこう)の際に、時の名僧第一として誉れの高かった不空三蔵に命じて毘沙門天に祈らしめたところ、毘沙門第二子の独健が鎧、兜に身を固め矛を取って現れ、蕃敵を潰走せしめた・・・・・・と『宋高僧伝』に伝えているのです。

さらに日本でも、『日本書紀』第21には、聖徳太子が物部守屋(もののべもりや)を征討した時、四天王像を造って祈願して戦勝し、後に摂津国に四天王寺を造立した・・・・・・
ということが記されているように、戦勝護国の仏神としても大いに信奉されてきたのです。

平安時代、王城守護のために平安京羅城門上に、同京の北方鎮護のために鞍馬寺に、それぞれ毘沙門天が安置されました。

京都洛北の天狗と源義経で名高い鞍馬寺の兜跋(とばつ)毘沙門天像や高野山竜光院などの毘沙門天像は、古来から怨敵退散・国土鎮護の霊像と仰がれてきたのです。
鞍馬寺の兜跋毘沙門天像は、刀八とも書かれ、軍陣に望む姿である八本の手全部に刀を持つ姿です。
普通、毘沙門は二本の腕で作られることを思えば、鞍馬山の兜跋毘沙門天はなぜ、腕が八本なのでしょう。

毘沙門天の、四天王の中で単独に信仰されるようになるのは、この鞍馬寺の存在が大きいのです。
のちに源九郎判官義経を名乗る牛若丸は、鞍馬寺の山奥で天狗から、兵法を習い「虎の巻」を授かったという話を御存知な方も多いのではないでしょうか。
牛若丸は、様々な叡智と技術、それに格闘術を、天狗から伝授されたと伝えられているのです。
八は、「ヤ」とも読まれるけど、「ヤー」は「ヤハウエ」の略としてしばしば使われるのです。
天狗に古代イスラエル説まで出されるとなると、その鞍馬の毘沙門の八本の腕があるという姿形まで何か関連ありかと疑いたくなります。

京都の北を守る神として意識されて信仰が広がり、武運の神として武将たちが信仰したのです。
なぜ、北を守る神が特別なのでしょう。
それは、陰陽道で北が天に配当されるからかも、しれません。
天の守護神とされたなら、毘沙門天が四天王を代表して単独崇拝されるのも、うなずけそうです。

また「幸福の女神」吉祥天が毘沙門天の妻とされたことから、やはり毘沙門天も幸福を授ける神だという面が強くなりました。

毘沙門天の像の一般的特徴は、頭に鳥形の冠(三面だての宝冠で、その正面に翼を広げた鳥の姿を表す)、身に甲冑、左手に塔(もしくは腰に手を当てる)、右手に宝棒(もしくは戟)を持っているのが普通です。
左手の宝塔は八万四千の法蔵、十二部経の文義を具し、右手の宝棒は悪霊を退散させ財宝をさずけるというのです。
また甲冑を身につけているのは魔を寄せつけぬためともいわれるのです。
仏教徒や密教・華喬の間では金財運・人気運・商売運の徳を得るため仏教徒や密教・華喬の間では金財運・人気運・商売運の徳を得るために毘沙門天の曼荼羅を北側の壁に掛ける習慣 がありました。

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毘沙門天 その一

毘沙門天の起源はヒンズー教やバラモン教の中に見いだすことができ、極めて古いものです。
1000年間の苦しい修行を、積んだとされてるのです。

毘沙門天は、梵名のバイシュラマナ(Vaisravana)を訳したもので、仏の教えをよく聞くという意味で、多聞・普聞・遍聞などとも訳されるのです。
また中国で、吠室羅末拏(べいしらまぬ)・毘舎羅門などと音写され、それが変化し毘沙門となるのです。

今では、七福神の一神として有名です。
もともとはインドの神から、仏教の神に採り入れられた神です。
日本では吉祥天が毘沙門天の奥様ということになっているのです。

インド古代叙事詩「マハーバーラタ」では、宇宙の創造主プラチャーバティの孫とされるのです。
全世界の富と不老不死の命を与えられ、スリランカにあるランカーの宮殿に住み、空飛ぶ乗り物プシュパカを走らせる暗黒界の悪霊の長だったのです。

ヒンドゥー教では、ヒマラヤから産出された富を自在に扱う神となり、クーベラと呼ばれ、財宝福徳を司る神となるのです。
さらに、後には夜叉・羅刹を支配して国土を守護する武神とされたのです。
だから、正確に言えば、インドの神ではなく、スリランカつまりセイロン島の神ということなのです。

インドとスリランカは、宗教上仲が悪く、大概は、インドの善神はスリランカで悪神となり、スリランカの善神はインドで悪神ということです。
このクーベラは、どういう訳か、善神となるのです。
仏教の神となるに当たっては、その前に、同じくインドの鬼神ヤクシャの神格も付加されたという説もあります。

毘沙門天は、仏教では四天王、または十二天の最強の神となるのです。
その経緯はこうです。
毘沙門天は、大宇宙の創造主の孫で、全世界のすべての富と不死の命を授けられて、世界の王として君臨していたです。
それを強く嫉妬した異母弟のラクシャーサとも呼ばれる羅刹の王であるラーヴァナに追い出されるのです。

けれども、追われる途中で、宝の山であリ世界の中心であるとてつもない大きな山、須弥山(しゅみせん)を見つけたのです。

そして山の中腹の北側7300キロメートルのところに、七重の荘厳と七宝で飾られた絢爛豪華な大きな城を、3つ建てたのです。

財力によって大軍をそろえ、須弥山中腹の北側に住し、夜叉を率いて、憤怒の姿で岩座に立ち、須弥山第4層の水精宮に住む、北方を守護する神となるのです。
像によっては、岩座の代りに、足元に悪業煩悩の鬼を押さえつけていることもあります。

また十二天の一神ともなりました。
財宝富貴を掌り、仏法護持の善神としてです。

四天王は次のとおり。

持国天 - 東勝身洲を守護する。乾闥婆、毘舎遮を眷属とする。
増長天 - 南瞻部洲を守護する。鳩槃茶、薜茘多を眷属とする。
広目天 - 西牛貨洲を守護する。龍神、毘舎闍を眷属とする。
多聞天 - 北倶廬洲を守護する。音訳が毘沙門天。原語の意訳が多聞天、夜叉、羅刹を眷属とする。

十二天の十二尊は次のとおり。

方位の八尊
伊舎那天(東北) (Isana)
帝釈天(東) (Indra)
火天(東南) (Agni)
焔魔天(南) (Yama)
羅刹天(西南) (Raksasa、あるいは、Nirrti)
水天(西) (Varuna)
風天(西北) (Vayu)
毘沙門天(北) (Vaisravana)

天地の二尊
梵天(天) (Brahman)
地天(地) (Prithivi)

日月の二尊
日天(Surya、あるいは、Aditya)
月天(Candra)

『法華義疏』第12に、「毘沙門は、是れ北方の天王なり。此に多聞と云ふ。恒に仏の道場を護り、常に説法を聞くが故に多聞と云ふ」とあります。
その姿は冷静沈着を示し、悪を挫く勇気、清く正しく強く生きることをさとしてもいるというのです。

また率いている夜叉には、八大薬叉大将、二十八使者という眷属と説明のものもあります。

願うところに随ってその名前を呼ぶと所願ことごとく成就する、と言われているのです。

毘沙門天の二十八使者とは、つぎのとおりです。

読誦、論義、聴明多智、伏蔵、説法、龍宮、隠形、禁呪、奇方、博識、勝方、興生利、田望利、高官、右司命、左司令、北斗、五官、太山、金剛、神通、坐禅、多魅、神山、香王、自在、大力、持斉門

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蜜月

honeymoon(ハネムーン)って、英語の辞書で見ると新婚旅行って出ます。

陰陽では、太陽は陽で男に、月は陰で女に、配当されます。

じゃ、蜂蜜のような甘ったれたとろけ女がhoneymoonなのでしょうか。

ま、新婚旅行の新婦をみると、もっともらしいかもって思えます。

honey moonの語源には、古代ゲルマン人の習慣からきているという説があります。
新婚後1ヶ月間、花婿にハチミツ酒を飲ませ精力をつけさせるといいます。

ふむふむ。

精力有り余りの新郎に、新婦はとろけまくるっことでしょうか。

でも、結婚で連れ合いをbetterhalf(ベターハーフ)といいます。

なに?

べたべた、いちゃいちゃな夫婦かって。

何歳になっても、betterhalfです。

淡い関係でも、べったべたな関係でも、そんなの関係ない!

betterhalf、直訳すれば「良き半分」です。

ふんふん。

夫婦ってのは、二人そろって一人前っことでしょうか。

ちょい、ちゃう!

honeymoon、直訳すると「蜜月」です。

蜜がついた月です。

わけわからんっことでしょうか。

この蜜、私が想像するに、「蜜蝋(みつろう)」です。

蜜蝋とは、蜂蝋とも黄蝋ともいわれる、蜜蜂の巣の主成分をなす蝋です。
働きバチの腹部の腺から、分泌されます。
主成分は、パルミチン酸ミリシルなどのエステルなのです。
巣を加熱圧搾したり、湯で煮溶かしたりして採取します。
精製したものは白色です。
化粧品や、つや出し剤などの原料とします。

ちなみにエステルとは、酸とアルコールからできる化合物、この結合のとき水が抜けます。
芳香があり,食品の香料に利用されるのです。
有機酸のエチルエステルは、酒類の重要な芳香成分であるものが多いです。

蜜蜂を、beadswax(ビーズワックス)と訳します。
文字通り、waxとして使用です。
体や環境に優しい、天然素材として注目されます。

でも、これは序の口です。

実は、蜜蝋には接着剤としての使用法もあります。

ただし、蜜蝋には、年月と共に接着力が弱まると言う弱点があります。
それは、油分が抜けるからです。

月に蜜蝋を何で?

多分、上弦と下弦の半月をあわせると満月になることと関係ありそうです。

英語で半月はhalfmoon(ハーフムーン)です。

でも、上弦や下弦に当たる訳もあります。
First Quarter Moon(ファースト クォーター ムーン)とLast Quarter Moon(ラスト クォーター ムーン)が、ほぼ同じ意味です。

Quarterって、四分の一ちゃうのって、突っ込んでも無駄です。
慣用だから、あきらめるしかないです。

たぶん、新月、上弦、満月、下弦、の四つの段階だから、Quarterなのでしょう。

つまり、First Quarter MoonとLast Quarter Moonを、蜜蝋でくっ付けた状態がhoneymoonです。

“First”が陽に配当され男にあたり、“Last”が陰に配当され女にあたり、って見たらどうでしょう。
そして、First Quarter MoonとLast Quarter Moonが、betterhalfの正体かも。

ん?

倦怠期は、蜜蝋の油が抜けたから仕方ないっことでしょうか。

蜜蝋の接着力は、暖めれば何回かはそれなりに復活するそうですよ。
初めのころには、かなわないかもしれないけど。

こんな伝承もあります。
 
 人はかつて両性具有であったが、神が分けてしまわれた。

 それで人はみな、かつての片割れを求める。

この、伝承でかつての両性具有であったとされた姿の正体が、月であったのかも。

あの陰陽マークとのつながり意外とあるのかもなんて、連想しますか。
ヨーロッパ古代思想や宗教と陰陽は、つながっているかも。

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猫の修行

猫は時々ふらっといなくなります。
そんな時は「修行してきたのかなあ?猫神社でも行ったの?」って話になります。

そういえば阿蘇の根子岳という猫の修行する山があるって話、ありますよね。
現在は「根子岳」と書くけど、江戸時代までは「猫岳」と書いたそうです。
阿蘇山の中央の後カルデラ火山群は、高岳、猫岳、中岳、杵島岳、烏帽子岳、草千里、米塚などたくさんあります。
現在活発に噴煙をあげているのは中岳の火口で、他の火山は活動していないのです。
このうちの高岳と猫岳は、特に標高の高い火山です。
その形状は全く異なり、根子岳はぎざぎざの山頂、高岳は美しい円錐形の山です。
高岳の方が標高1592m、猫岳は1408mです。
山の姿が鋸の歯のように、一種異様な山頂を見せているので知られています。
また、新月の夜は阿蘇中の猫がそこに集まるという言い伝えもあります。

ほかにも、ここには猫の王がここに住んでいるといい、一年に一度、毎年節分の頃あるいは大晦日になると、国中の猫続々とこの山に集まってくるという愉快な話もあります。
集まった猫たちはここで人間の姿になって暮らし、迷いこんできた人間を猫の姿にして召使にするとか。
あるいは、道に迷った旅人が猫の住家にひきこまれてあやうく喰い殺されようとしたなど、人にとっては無気味な話がいくつもあります。
だから飼っていた猫がいなくなったら、猫岳に登った、ってことになるらしいです。

福島県にある猫魔ケ岳(ねこまがだけ)も、猫が修行するといわれる場所です。
歳をとった猫が、この山に登り石に変わるという言い伝えです。
でも、川と山の違いはあっても、河童とどこか似てると思うのはわたしだけでしょうか?

宮城県には、猫以外飼ってはいけない、通称猫島と呼ばれる田代島があります。
漁港なので餌も豊富な、そこいらじゅう野良猫だらけで犬のいない、猫神社のある猫天国です
「ひょっこりひょうたん島」物語のモデルとも言われるほど、そっくりの形をしているのです。

旧北上川の河口から南東約17Kmの海上に位置している石巻市に属する離島です。
海岸段丘が発達した温暖性気候で、タブの木が生息する北限地域です。
アオスジアゲハの群生地としても有名だそうです。
現在の人口は約100人でお年よりだけが住んでいる比較的小さな島です。

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上弦と下弦

上弦の月と下弦の月の違いって何だと思いますか。

 弦ってのは、弓のピンッと張った糸の部分って普通思うから…。

 上弦の月は、弦の部分が上に来る
 下弦の月は、弦の部分が下に来る

よろしいですか。

中国には、「上中下」は月の旬をさし、弦は半月で、上弦の月は月の始め頃に見られる半円形の月の形だという説があるらしいですよ。

考え変える気ない?

月が出てから沈むまでの様子を、上弦の月、下弦の月について見てみます。

上弦の月、下弦の月の「月の出」から「月の入り」までを時間を追って並べるとこうなるのです。

半月の弦を、月を弓に見立てた場合のピンッと張った糸と見た場合です。

 月の出の直後は、下弦の月の弦が上を向いていて上弦の月の弦が下を向いています。

 月の入りの直前は、下弦の月の弦が下を向いていて上弦の月の弦が上を向いています。

 しかも南中、つまり月が昇りきったときには、弦は横を向いているのです。

 弓に見立てたときの弦が上を向いているか、下を向いているか、で両者を分けられるのは月が沈む時間だけです。

 ちなみに、上弦の月は昼間に出て夕方に正中して深夜に沈み、下弦の月は深夜に出て明け方に正中して昼間に沈みます。

実は「上弦の月」「下弦の月」の由来は「月を弓に見立てたときに、弦が上を向いているか下を向いているか」ではないのです。

では、「上弦の月」「下弦の月」とはどのようなものなのだと思いますか。

これには、「太陰暦」が関係しています。

日本では昔、太陽を基準とした暦「太陽暦」ではなく、月を基準とした暦「太陰暦」が用いられていたのです。
太陰暦では月を基準としているので、たとえば3月3日というと月が新月から数えて3日目です。
そしてこのような日には、必ず西空に三日月が見えていたのです。

また太陰暦では、満月は必ず15日目に東の空から上ります。
満月の日を「十五夜」とよぶのもここからきているのです。

かつての暦では一ヶ月の前半を「上」、半ばを「中」、後半を「下」とよんでいました。
いまの日本で言う、「上旬」、「中旬」、「下旬」にあたります。

上にあたる7日頃と、下にあたる21日頃には月の見かけが半月になり弓を張ったような形になるのです。

このように弓を張ったような形に見えるということで、これが「弦」とよばれるようになりました。
ここで注意しておきたいのは、半月の直線部分を弦と呼んでいるのではなく、半月そのものを弦と呼んでいるということです。

つまり「上弦の月」「下弦の月」の上下とは、「弓に見立てたときの弦が上を向いているか下を向いているか」ではないです。
「上に見える弦」なのか「下に見える弦」なのかという時期を表す上下であり、弦というのは半月そのものを表しているのです。

ややこしい?

なら、月のどちらが「凸」になるかを考える場合、太陽がどっちにあるかを考えることだと思いますか。
太陽に近い側が凸になっていると考えれば間違いないです。

面倒?

じゃ、陰陽で考えてみます。

右と上は陽に、左と下は陰に、それぞれ配当されるのです。

上弦でも下弦でも、中国の説にならって半円形の月の形が見えている部分が弦とみるのです。

つまり、こうです。

半円形の月の形が見えている部分が、向かって右に見えたら上弦の月。

半円形の月の形が見えている部分が、向かって左に見えたら下弦の月。

これだったら、月の出でも、南中でも、月の入りでも、そんなの関係ない!と思いますか。

こんな話聞きました。

 南半球だと・・・逆に見えるんですよね、弦が・・・。
 オーストラリアで見た時、あせりました。
 南半球では、上弦、下弦も、北半球と逆になるのでしょうね。

確かにそうですねえ。

エピソードとして、オーストラリアが英領だったとき、こんなことがあったそうです。

 施設の向きを南向きにすべしという、本国の規定に合わせると日中の日当たりが必ずしもよくない。
 杓子定規に、ルールをあてはめるな。

そういうクレームが出たそうです。

満月になるまでの月を上弦の月、満月を過ぎてからの月を下弦の月って、習ってた人いますか。

それでいいのです。

ただ、今のような太陽を基準にした太陽暦だと、かつての月を基準にした太陰暦と違うのですね。
一ヶ月の上旬・中旬・下旬が上弦・満月・下弦に対応しないので、一瞬どっちか判断に迷うことが多いのです。

月の出と入りで、上下がひっくり返るからです。

それで、簡単な見分け方をと思って、今回取り上げたわけです。

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天狗と牛若丸

天狗伝承の元は、山伏と見られています。

修験者とも呼ばれる山伏たちは隊列を組んで、「懺悔懺悔六根清浄(ざ~んげざんげ~ ろっ~こん しょうじょう)」の呪文と唱えながら、山を登ります。
修行の目的は、山岳が持つ自然の霊力を身に付ける事です。

基本的には、神聖視され崇拝の対象となる霊山と呼ばれる山々の奥深い山中で、修行しているのです。
山伏の修行には、踏破(抖擻)や懺悔などの厳しい艱難苦行があります。

霊山とされる山の多くは、人を寄せ付けない程の険しい地形を持つ山です。

山から流れる川や、山裾に広がる森林地帯に衣食住の全てに渡って依存した生活を送っており、常に目に入る山からの恩恵に浴しています。
山岳信仰の彼らは、山奥を修行と生活の場としているので、普段は人里に下りることはほとんどなく、そういう彼らの生態も天狗伝承に尾ひれがつく原因ではないでしょうか。

その天狗の正体について、とうとうテレビにまで古代イスラエル人ではないかという説が登場するところまで来たのです。

日本の神道の神官の服装は、裾に房のついた白い衣装であるところなどが、古代イスラエルの祭司のものによく似ています。

山伏は、額の上部に「兜巾(ときん)」と呼ばれる黒い小さな箱を紐で結んでつけ、ほら貝を吹き鳴らします。

ユダヤ人は、祈るときに「フィラクテリ-」と呼ばれる黒い小さな箱を、額の上部に紐で結びつけ、「ショーファール」と呼ばれる笛を吹くです。

宗教的な意味を持つ「兜巾」や「フィラクテリ-」のような黒い箱を額につけた上に笛を吹くとこまでそっくりな民族は、全世界を見回しても日本人とユダヤ人しかないです。

秦河勝の面を持つという神社が存在するが、その面はまるで天狗です。

天狗を描いた絵の、古いものはまるで異国人を描いたようだなんて言っています。

さらに、天狗の「虎の巻」は、ユダヤ教会で使用される「トーラーの巻」の「トーラー」に「虎」の字を当てたものという説もあります。
「虎の巻」は、今日でも、奥義書やあんちょこの意味で使われています。

しかし、ここまで来ると、とんでもないことを見落としていませんかといいたくなります。

のちに源九郎判官義経を名乗る牛若丸は、鞍馬寺の山奥で天狗から、兵法を習い「虎の巻」を授かったという話を御存知な方も多いはずです。
牛若丸は、様々な叡智と技術、それに格闘術を、天狗から伝授されたと伝えられているのです。
このとき牛若丸に兵法を授けたのは鬼一(きいち)法師で、その兵法を記した巻物の名は、「虎の巻」と呼ばれるのです。

鬼一法師、名前が気になります。
それというのも、「鬼(おに)」は陰陽の「陰(おん)」から、なまったとされるのです。
隠されたものを授ける人物の名前としては、はまりすぎです。
しかも、鬼一は、「隠れたる一つのもの」と読めるのです。
まさに、奥義を知るものを指す名前であり、特定の一人を指したかどうか、疑問が残るところもあるのです。

ま、それはさておき、牛若丸がもらった「虎の巻」は、ユダヤ教会で使用される「トーラーの巻」のことだと言ってるようなものなのです。

天狗は古代イスラエル人が正体と言ってる人、この意味、わかってるでしょうか。

牛若丸は、古代イスラエルの宗教を信仰していた人物であったといってるに等しいのです。

そして、牛若丸は源氏なのです。

つまりです。

源氏は、古代イスラエルの宗教を信仰していた一族であったといってるに等しいのです。

違うでしょうか。

え?
平家の「平(たいら)」は、ユダヤ教会で使用される「トーラーの巻」の「トーラー」ではないかという説を展開したあんたに、突っ込まれたくない?
あっちゃ!一本とられた!
でも、源氏と平家が両方イスラエルってなると、同じ宗教同士の喧嘩になってしまいますね。

何があったのでしょう。

そういえば、貴族風で女性的な陰に配される平家と武家風で男性的な陽に配される源氏、陰陽相克といえそうですね。

陰の平家が陽の源氏に克されることで、武家政治が名実ともに始まりますね。
平家も武家であったので、平氏の政権も実質から言えば武家政治であったという声もあるにはありますが。

武家政治は、貴族側の巻き返しである明治維新に敗れるまで、ほぼ7世紀続きます。

この七という神代七代とか、天地創造7日間とか、神にまつわることの多い数字がここに出てくること、何かにおいます。

何かの預言が隠されているとか、あるのでしょうか。
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素直とは?

素直を美徳として薦められて、すぐさまうなずく人はもちろんいますね。
一方で、首を横に振ったり、傾げたりする人もいますね。
この差はいったいどこから来るのでしょう。

そこで国語辞典で引いてみます。

 (1)性格や態度にひねくれたところがなく、あえて人に逆らったりしないさま。

 (2)技芸などに癖がないさま。

 (3)物の形がまっすぐであるさま。

 (4)飾り気がなくありのままであるさま。

この、「あえて人に逆らったりしない」にひっかる人は、首を横に振ったり傾げたりする気になるのでしょうね。

そういう人はたいてい、まともに聞いたり信頼したら馬鹿を見る、そういう体験を自らしているか、目撃している、または、聞かされていますね。

そういう人はさらに、「ありのまま」に不安を覚えるしょう。

そこで、英和辞典を引いてみます。

 1 〈従順〉
  素直な obedient; tame; docile; unprotesting; 《fml》 submissive; 《fml》 tractable; 〈温和な〉 gentle; mild; meek
  素直に obediently; without protesting; gently; meekly
  素直に意見をきく accept sb's advice at once [without argument]
  素直に白状する confess 《to sth》 frankly [with (a) good grace].

 2 〈癖のないさま〉
  素直な髪の毛 hair that is easy to handle
  素直な文字 handwriting with no unnecessary peculiarities.

従順とは、人に逆らわず、おとなしいことやさまをいいます。
従順には「飼い馴らされる」「御しやすい」という意味合いも強いです。
素直になれといわれても反発したくなるのはわかります。

ここで、見落としていけないのが、じつは「あえて」なのです。

 (1)(しなくてもよいことを)強いてするさま。わざわざ。無理に。

 (2)(下に打ち消しの語を伴って)〔漢文訓読に由来する語法〕
 
  (ア)とりたてて。特に。別に。

  (イ)まったく。少しも。

あえてさからわないとは、しなくてもよいことを、反対する理由があれば、時と場合によっては、無理に従わなくて良いということでしょうね。

 自分の心に素直になったとき従えない、従いたくない相手には、無理に従わないことでしょうか。

じゃ、切り口を変えましょう。
「そんなこと、あなたに言われたくない」
そう感じる相手に、素直になれるでしょうか。
そして、そんな風に思えてしまうのは、どういう相手なのでしょうか。

 うさんくさい、話ができすぎ、ばかにしてる、下心ありそう…

でも、そういう人はどうしてあなたに寄ってくるのでしょうね。

 「飼い馴らしやすい」「御しやすい」と、見透かされているのでしょうか。

おどおどしている、虚勢を張っている、そういう態度は足元を見られるのでしょう。

 おどおどもしない、虚勢も張らない、たんたんとした生き方をして、自分の心に素直であるならば、どうでしょうか。

一番問題なのは、自分の心の持ち方ってことでしょうね。
でも、誰もが強い心を持っていられるわけじゃないでしょうね。
心のよりどころを、確かな何かに求める…
ここに神や仏の出番がありましょう。

まことの神、まことの仏は、毅然としてたたずみ、愛といつくしみ、憂いと癒しの心を持って、そっと見守ってくださるお方でしょう。
あなたの気づきと振り返りを、気長に待っておられるお方でしょう。

 このまことの神、まことの仏によりどころを求める生き方をしていきたいですね。

まだまだ、素直は底が深いです。

 わたしはどこまで、素直な心で貫けているか、時折情けなく首をかしげています。

折に触れて、考えてみたい課題ですね。

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