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2008年6月

困難と神。

聖書には、アブラハムに命じられて、あわや焼き尽くす捧げものにされてしまうかと言うところで、神からの待ったがかかって命拾いする、イサクの話があります。

アブラハムとイサクは、神に試されていたのです。

二人の子孫に、自らの計画を托せるかどうかを、です。

今、困難につぶされそうなあなた。
なにか、神に託された使命があるのかもしれないですね。

そう思わないと、冗談抜きで潰れてしまうかも。

 そうですか・・・・・
 いまは祈る気力もないのですが・・・・・ 。

わたしも、将来展望が見えない状態続きまくりで、きました。

神に導きを求める祈りで、潰れずに済んでいるといってもいいかも。

祈ってなけりゃ、とっくにペッチャンコだったかもしれないですね。

たまりかねて、祈りに逃げ込んだって方が正解かもしれません。

でも、気持ちが楽になると、ありがたかったです。

苦しいときの神頼みと、感謝の繰り返しで、もってるようなもんです。

 神なんか存在しないですよ。
 神がいるのなら、何故クラスター爆弾や地雷で殺される子供を放置しておくのか?
 祈りとかお布施とかがないと、何もしない神なら存在しなくて結構ですよ。

 だいたい貧乏人が神の公正さを信じるなんて、ひどい矛盾だと思いますよ。
 神が不公正だから、貧乏人がいるんでしょうに。

 神なんてしろものを考え出した人間は、歴史上最大のペテン師ですよ。
 その構想力と商才だけは、見上げたものです。

 古代から近代にいたるまで、どこの国でも金持ちと言えば、 どんな人たちだったでしょう。
 貴族と地主と寺院だったじゃ、ありませんか。

 だからどんなに追い詰められても、神頼みに走るのだけはやめましょう。
 宗教団体の、いいカモにされるだけです。

ふむふむ。
 
 僕も宗教団体には、いずれにせよあまりいい感情は持っていません。
 また、いわゆる神も信じてません。
 
 でも、人間が自然を始め人知を越えたものを信じる気持、頼む気持は貴重なものだと思います。
 そのようなものを畏れ敬い頼むことは、古代から人間の持つ本能だと思いますね。

以前、面白い人がそばにいたことがあります。

 「困ったときの神頼みって、本当に効くね!」

え?
なんでって、そう思うでしょ?

神頼みして効いたと思ったとき、こう思ってるそうです。

 「ありがたい!さすがは神様!すごい!」

神頼みのとき、いつでもこんな風に、驚き喜び感謝してるそうです。

面白いくらい、神頼みの効果が高いので、さらにさらに驚き喜び感謝しちゃうのだそうです。

今は遠くに引っ越してしまって、交際はないですけど。

面白いくらい、素直な人だったです。 

私は、この世を作り、この世の原則を定め、この世を大本で動かしている、そういう存在は感じています。

 ひょっとして、どこかの教団に入っているってわけじゃ?

いえいえ。
一般的日本人にありがちな、どこかのお寺の檀家ではありますが。

まことの宗教とは、まことの科学と矛盾しない、なぜならこの世を作り、定め、動かしている根源はただ一つではないでしょうか。

科学が認めざるを得ない見解を示しえてこそ、まことの神、まことの教え、そう思います。

私が頼む神とは、そういう神です。

神は、皆の自主性にゆだね、選択の結果を受け入れることを迫っているように感じられます。

世界を、よくわかってもいないのに、よくわかったと思い上がり、支配できないのに、支配できると思い上がった結果が、現実なのではないのでしょうか。

 一人一人が試されるように、人類もまた試される。

 悔い改めよ!
 救いの道を信ぜよ!

神も、共産主義も、同じ叫びを人々に投げかけているのは、偶然でしょうか。
信仰が、単なる気休めでしかないなら、どうして、私が出会ったような人がいるのでしょう。

 「困ったときの神頼みって、本当に効くね!」

 「ありがたい!さすがは神様!すごい!」

こういう人が、過去から現在まで、切れ間なく何人もいたから信仰は科学の時代にも、途切れることがなかったのは紛れもない事実なのではないでしょうか。

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「ネコにゃんにゃん」 拍子とって見ました

踊りのしぐさを思い起こしながら、ふと思ったです。

フラメンコ、フラ、カチャーシー、阿波踊り、ガムランなどの南アジアの踊り…です。

どこか、テンポは違っても動きは似ています。

と、いうことは基本的な旋律も似ているのかもしれないです。

そういえば、フラメンコは強弱の拍子が繰り返されることを基本とした伴奏がつくです。

似たような動きをする踊りもまた、強弱の拍子にそってつけられた伴奏やお囃子、手拍子が背景に流れているのかです。

私には、前から気になっているひとつの歌があります。

出雲にいつのころからか伝わってきたと思われる、忘れ去られようとしている歌です。

「ネコにゃんにゃん」

 こんな曲が、あったんですね。
 ほんとに、ぜひこの耳で聞きたくなっちゃいますね。
 いろんな童歌を知るのは、おもしろいです。

おもしろいでしょ。

 猫は踊るようになったら、化け猫だと聞いたことがあります(笑)。
 頭に手ぬぐいを被って(のっけて?)踊るのだそうです。
 でも、見たという話も・・・聞いたような。。。。
 そうそう、襖を開ける猫はたくさんいるようですが、
 それを閉めるようになると、やはり化け猫だとか。

この歌で踊っている猫たちが、化け猫かどうかですか。
ちょっと、わかりかねます。

この歌をいろいろ口ずさみながら、手拍子の間のとり方を、いろいろ試して見たのです。

どうも、“とん!!た!とん!!た!・・・”と、強弱のある拍子があわせやすく感じていました。

 やっぱり、2拍子とか、4拍子系が合いそうですねん。
 私は、三三七拍子をゆっくりさせたパターン“トン・トン・ト~ン”(四分音符→四分音符→二分音符)で、勝手に歌ってみました(笑)。

でも、どんな曲の流れが歌をのせやすいのかです。

「あ、ひょっとして!」

手拍子を打ってみたのです。

自分の知っているフラメンコの曲は、そう多くないです。

でも、ものはためし・・・です。

なんだか、のせやすいです。

カチャーシー…です。

なんだか、いい感じ?

すくなくても、琉球の人々は西日本の先住民の子孫なはずです。

ってことは?

「ネコにゃんにゃん」

西日本先住民文化のなごり?

まだまだ、思索は続くです。

これは、感性の問題が大きいから、かえってつっこみにくいでしょうか。

 この歌って、曲がわからないのですか?
 うーん、気になるぅぅぅ。。。。。

 にゃんにゃんのん にゃんにゃん にゃんにゃんのん ・・・

 この歌、ずううと気になっていました。
 とても可愛い歌詞。
 猫が踊っている様子が、浮かぶんだけど。
 音楽の才能が全くない私には、メロディが浮かんできません。

実は、この歌は『神奈備』と言うサイトで見つけたのです。
「振り出しの部分だけで、二番三番・・と続いている」
「みんなで手をたたいて囃し立てるような本当に愉快で楽しい歌」
わかっているのはこれだけという、謎の多い歌なのです。

日本には猫が踊ったという話は、多く残ってます。

でも、囃し立てた記憶が残っているという点では、とても貴重な歌なのです。

 出雲と言えば、どうしても「出雲の阿国」を思い出しますが。
 これも、なにか関係性はあるんでしょうかねえ。
 阿国の踊りなんかは、西洋の踊りにも通じる部分がありますし。

わたしも、出雲の阿国との関連は疑いたいって気はしますね。

猫には、踊ってるように見える写真が撮られる場面が多いですし。

 実際に歌った方がおられるんですね。
 ますます興味が尽きませんね。

 それに、招き猫の由来にもあったように、ねことめこ(女)を重ねる例は多いのですね。

「ねこ」と「みこ」と見ても面白いかもです。。。

「ねこ」が祭司や巫女のような、神の言葉を受け取ったものとする思想は、かなり古代には盛んにあったと見ても面白いです。

 音楽にもシンプルなのに、はまる部分がある楽曲がありますよね。

それは、ありますね。

ラベルの“ボレロ”なんか、インパクトありますね。

 ヨーロッパ系の踊りはワルツとか、3拍子系が多いですよね。
 日本人が最も苦手とする拍子らしいです(笑)。
 「ボレロ」は私も大好き。
 先日、某身内の音楽会で、こんな経験しました。
 「ボレロ」のリズムを手拍子、足拍子、ボディー拍子なんでも良いから曲に合わせてとって、クレッシェンドしていきましょう!
 更に、この曲の魅力にハマってしまいました。

たのしくって、聴いてみたい、歌ってみたい、そういう歌で歌い方がわからんのはちょっと気になりますよね。

 ゲージュツのものって、世界の境界線がなくなってるような。
 共通してるものってあるもんですねえ。

意外な地域と、似てたりするものですね。

追記

出雲の童歌「ネコにゃんにゃん」の歌詞はここに収録しています。

この歌についての情報募集中です
http://cova-nekosuki.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_78ef.html

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神を想う

神は生きておられます。

神にあえるのは教会である。

そう思うものは、教会で神妙にすればことたれりと思うのでしょう。

けれど、神は生きておられます。

生きておられる神は、すべてをご存知の方でもあるでしょう。

すべてを承知の上で、神の子羊でありたいと願うものを受け入れて下さる神の寛容さに、かたじけなく時々知らず知らずのうちに感謝の涙を流すでしょう。

真の教会って何なのでしょう。

私はつまるところ、神と、神の導きを心から受け入れ、神の導きに心から従おうとする者がいるところはすべて教会とみているのです。

山のてっぺんから、海のそこまで、人のまばらな片田舎から、人のあふれる都会まで、羊飼いたる神と神の子羊のいるところ、すべて教会でありえるのではないでしょうか。

目に見える教会に、神の居場所を求めるのも良いでしょう。

しかし、真の教会は、神と子羊の間にのみ築かれるのでしょう。

迷える子羊、けっこう!
逆らって去るのではなく、道がわからないだけでしょうから。

どうして良いかわからず佇む、けっこう!
背を向けて遠ざかるのでは、ないのでしょうから。

神を見失いながらも、神の導きを心から求め続ける者には、救いの声が聞こえるのかも知れないですね。

証が見えるのかも、知れないですね。

今の私は、神の子羊の群れに入れてもらえているのか、どうかわかってはいません。

それは神がご存知であり、私に出来ることは子羊の群れでありたいと願うことのみ。

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ヒポケパロス

Hypocephalus(ヒポケパロス、あるいは、ヒュポケファルス)を、ご存知でしょうか。
古代エジプトで、ミイラの傍から発見されていた遺物です。

ヒポケパロスは、円盤状に作られていました。
材料には、リネンやパピルスや金や青銅や木または粘土が用いられていました。

ヒポケパロスは、ギリシャ語で下を表すhypó(ヒポ)と、ギリシャ語由来のラテン語の頭を表すcephalus(ケパロス)をつなげた言葉で、「頭の下」を意味します。

作られていたのはプトレマイオス王朝の頃です。
プトレマイオス王朝は、紀元前305年から紀元前30年まで、ギリシャ人によってほぼ300年の間がエジプトを統治された時代です。
ヒポケパロスはエリートのミイラの頭部の下に、おかれていたのです。

けれど、ヒポケパロスはプトレマイオス王朝のエリートなら誰でも使用できたわけではなく、主に上エジプトで特定の聖職者の家族の埋葬に制限されたようです。

エジプト神話において、人間は肉体、Ba(バー)、Ka(カー)の3つの要素から成り立っているとされていたのです。
バーは魂(こん)つまり精神をつかさどる陽の気にあたり、カーは魄(はく)つまり肉体をつかさどる陰の霊気にあたります。

つまり肉体とは、知性や感性の働きに関係するバーと、体に備わっている一種の活力ともいえるカーの、入れ物とされていたのです。
言い換えると、カーの働きによって、バーは肉体に留まっているとされていたのです。
霊が肉に結合するという思想は、どこか、聖書で言うアダムやイブの創造に似ていますね。
あるいは、旧約で姿が見えない霊的存在であったヤハウエが、新約ではマリアの受胎によって肉体を得てイエスとなった話を連想できます。

バーは人が死ぬと肉体から離れ冥界へ行くが、肉体がそのままであればカーの仲立ちによって肉体と結びつき再び此岸に戻って来られると考えられていました。
このあたりは、肉体の保存を必ずしも必要としない聖書やコーランとは違いますけど。

ヒポケパロスは、おそらく、このバーとカーの信仰にかかわっていたのです。

ヒポケパロスには、古代エジプトの文字であるヒエログリフで文章が書かれていました。
文章の目的は、死者の頭部の下で生気を与える象徴的な炎や輝きを発することでした。
ヒポケパロスの発する象徴的な炎や輝きで、ミイラの頭部や体が魔法のように包まれるようになることを、古代エジプト人たちは願っていたのです。
この死者の肉体の霊気とは、肉体の活力を担っているカーのことです。
ヒポケパロスに書かれたヒエログリフは、カーを生き生きとした状態に保つことを目的としていたのです。

ヒエログリフの働きで発せられる、ヒポケパロスの象徴的な炎や輝きとは、太陽の炎や輝きでありましょう。
もちろんその力の元には、太陽神の存在が想定されたでしょう。

ヒポケパロスの円形は太陽を表し、猫神ラーまたは隼神ホルスの目を象徴しています。
ラーはもちろん、ホルスも太陽に関係の深い神なのです。

エジプト人にとって、日の出とは、日没になぞらえられた死からの復活を鮮明に印象つける象徴でした。
昇ってくる太陽との一体化は、あの世での復活を願うエジプト人にとって憧れだったことでしょう。

ヒエログリフは、死者の神聖であることを表す目的もありました。
古代エジプト人は、ヒポケパロスにヒエログリフによって、あの世での復活についての考えを表現しようとしていたのです。
ヒポケパロスに書かれたヒエログリフは、死者の死後が神に見守られることを願う点では、ある種の死者の書といえるのです。

この話をしながら思ったのが、枕の下に縁起の良い絵を敷いて寝る風習です。

死者と生者、中東と極東、立場と国を超えて、似た思想があるのは、魂とバー、魄とカーの類似とともに、興味深いですね。

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ネコとイエス その二

販売していたさくら出版の破産により惜しくも絶版となった、『猫がいっぱい詰まった本〈1〉日本の民話・伝説編 』と言う本の目次の中に、気になる題を見つけました。
もっと、早く知ってたら、買ったのに…。

まずは、目次を見ていただきたいです。

 猿と猫と鼠
 絵から飛び出した猫
 犬と猫のはなし
 犬と猫と玉
 戸塚の猫おどり
 赤猫になった百姓
 猫のうた
 猫の草紙
 猫また橋
 猫嫌い
 猫妻
 猫山
 猫斬丸
 猫檀家
 猫かぼちゃ
 茂吉の猫
 猫が十二支に入れなかった理由
 猫と蟹
 猫多羅天女
 身代わりで磔になった猫
 薄雲太夫の飼い猫
 猫の寺(東京・自性院;東京・豪徳寺)

興味惹かれる話はいくつかあるが、中でも気になったのがこれです。

 身代わりで磔になった猫

気になりませんか?

 そうそう、身代わりに猫を磔にしたという話ってありますねえ。
 聞いたことあります。
 何故猫なのか、他の生き物ではだめなのか。
 興味ありますね。

逆に、魔除けとなると犬が登場して、猫が出てこないです。

もっとも、犬の文字や模った代用を用いた日本と違って、古代中国では本物の犬を魔除けに用いたそうです。

無念の死を遂げた飼い主の怨念を受けて化け猫となる話や、貧乏寺でかわいがられていた猫が寺に恩返しをする話などはいくつかあります。
邪悪な蛇から、なぜかたいてい女性なのだけど、飼い主を体を張って守る猫の話も各地に伝わります。
飼い主を守った話に出てくる猫は、どういうわけか理不尽な死に方をしています。

おそらく、「身代わりで磔になった猫」の話は、理不尽な死に方をしている飼い主を守った猫の伝承の流れにつながっています。

無実の罪を被って、理不尽な死を遂げる生き物の話にでてくるのは、私が知っている範囲では猫だけです。

歴史上あまりにも有名な人物もまた、無実の罪を被って、理不尽な死を遂げます。

その人物の名は、イエスなのです。
イエスもまた、人類の原罪を背負って身代わりで磔になったとされています。

イエスの十字架には、罪状書きが添えられていました。
罪状書きに記されていたのがこれです。

“INRI ”
INRI とは、“IESVS NAZARENVS REX IVDÆORVM”の略です。
もちろん古典ラテン語です。
“イエス ナザレの人 ユダヤの王”
訳せばそうなります。

そういえば、ヨーロッパには猫をイエスのメタファー、つまり隠喩とする文化があります。
メタファーとは、あるものの性質を他のものの性質を丸ごと使って、たとえることを言います。

猫とイエスを、これまでにも何度か比べてきました。

共通したイメージを、並べてみたいです。

 蛇

 幼子

 祭司あるいは預言者

 太陽神

 罪人を運ぶあるいは裁く

このうち、「罪人を運びあるいは裁く」というのは、“火車”という妖怪としての猫と聖書の山羊だったですけど。

また、直接聖書やイエスと比べなかったし、名前にねこがつくだけだった“ねこ医者”も加えたら、これもあります。

 癒す

このリストに、追加項目ができたことになります。

 身代わりで磔になった

猫は、ますますイエスに近づいてきた。

それとも、こういうべきでしょうか。

イエスは、ますます猫に近づいてきた。

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裁くとは?

調査捕鯨船「日新丸」の乗組員が鯨肉を不正に持ち帰ったとして、環境保護団体「グリーンピース・ジャパン」が業務上横領容疑で告発した問題は、案の定、盗難事件に展開しました。

グリーンピース・ジャパン側は乗組員が鯨肉を横領していると主張し、「証拠品」として、今回容疑となった鯨肉を東京地検に提出していました。

それに対し、地検は無断持ち出しではなく、横領には当たらないと判断しました。
東京地検は20日、乗組員全員を嫌疑なしで不起訴処分としたのです。 

水産庁などによると、乗組員には鯨肉数キロを土産に持ち帰る慣習があったと言います。

鯨肉は、水産会社に買い取られたものが土産として渡されていた模様です。
グリーンピースは、事実関係の裏もとらないで非合法手段に訴える暴挙に出ていたわけですね。

グリーンピースメンバーは4月16日午前、「西濃運輸」青森支店の配送所に無断で侵入して、23.5キロの鯨肉が入った段ボール1箱を盗んだ疑いが持たれています。

そして、ついにグリーンピース幹部から逮捕者が出ました。
実行行為に関与したメンバー数人についても、青森県警は窃盗と建造物侵入容疑で、逮捕する方針を固めています。

グリーンピース・ジャパンの日頃からの情報収集は十分だったのか、反捕鯨先にありきで暴走してしまったのではないのか、問われる事態となりました。

自分が正しいと思えば思うほど、自分の行動を律する必要があることを改めて考えさせられました。

 人を裁くな、裁かれないためである

人のことを言う前に、自分がどう振舞ってきたか、どう振舞うべきか、見直したいと感じさせられた事件でした。

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生命の樹

聖書の創世記には、生命の樹が記されているのです。

生命の樹は、世界樹、宇宙樹、扶桑樹などと、同じであるとみなされる、世界の中心にそびえる樹です。

生命の樹とは、現実の樹ではなく、ユダヤ教神秘主義やヘブル密教とよばれるカッバーラの奥義を象徴化したものです。
カッバーラ(קַבָּלָה)とは、授かるものという意味のヘブル語です。
ここでいうカッバーラは、神から授けられた知識や知恵という意味です。

 生命の樹とカッバーラの中には、無数の真理が凝縮されていると。

最も重要な奥義は、生命の樹は後ろ向きの人型とされるアダム・カドモンであることです。
そして、このアダム・カドモンのアダムとは、第二のアダムとも言われるイエス・キリストをさすとも言われるのです。

これに対して、人に死をもたらす樹があるのです。
聖書の創世記で、アダムとイブが食べるなと神から諭された善悪を知る樹のことであるとされるのです。
この死の樹の人型は、サタン=堕天使ルシファーを意味するとでもいうのでしょうか。

 人に死をもたらす樹が、善悪を知る樹なの。

それは、善悪を知る樹の一面という、感じがしますね。
死をもたらす判断か、生をもたらす判断か、それを裁くという意味でも、「善悪を知る」樹ではないでしょうか。

 もしも、「善悪を知る樹を選ぶこと」が「死の樹を選ぶこと」、であり、「サタンを選ぶこと」、であるとしたら、どうなるの。
 それは「自分の判断を主の判断の上におき主をないがしろにすることを選ぶこと」が、「善悪を知る樹を選ぶこと」と等しいということなの。

わたしが、「本来の悪魔(akuma)」というふうに「本来」とわざわざ断る理由もそこにあるのです。
くどいようだけれど、「本来の悪魔(akuma)」にはサタンはいないのです。

裏を返せば「いわゆる悪魔(akuma)」と私が言う場合、サタンが含まれることになるのです。

「本来の悪魔(akuma)」=「死の樹に落とす悪魔(akuma)」=「裁きの神としての悪魔(akuma)」

「いわゆる悪魔(akuma)」=「死の樹を落とされる悪魔(akuma)」=「滅びのサタンであるルシファーの一味」

つまり、本来の悪魔(akuma)によって裁かれ、滅びに突き落とされる存在がサタンとなった堕天使ルシファーとその一味ということです。
落とす側と、落とされる側の混同が、悪魔(akuma)を本質が掴み難い存在にしていたのです。

決して、「自分の判断を主の判断の上におき主をないがしろにすることを選んだ」わけではないのです。

むしろ、アダムとイブが神の判断基準を知ることは、神が望んでおられたことだったのです。

 食べるかどうかは、あなたしだい。
 しかし、食べれば死ぬ運命が待っていると忠告しておこう。

おっしゃるとおりです。
それが、食べてはならない、食べると死ぬという、神の言葉が意味していたことでしょうね。

それは神の忠告に従わないという選択をしたという点では、堕落を選んだという風に言われても仕方がないといえるではないでしょうか。

創世の時に、神はエデンの園の中央に生命の樹と善悪を知る樹を生えさせられたのです。

 これはエデンの園に、ヤハウエとしてのイエス・キリストとルシファーがいたというの。
 アダムとイブは、知識を得るために、あえて堕落したと神に判断される危険を冒したといえるの。

神が、アダムとイブの成長のために死の運命を受け入れてほしいと望み、アダムとイブはそれに気がついたと判断してもいいのかもしれないですね。
誤解を恐れずに言えば、神に背くものを意味するサタンという意味では、堕天使ルシファーがいたと言っていいではないでしょうか。

神は全ての事を見通した上で、御自分の計画を進めておられるという事ではないでしょうか。

しかし悔い改めて、救い主イエス・キリストに従うならば、贖いと復活の力によって神の御前に連れ戻され、永遠の生命を受けると約束されたのです。
生命の樹と死の樹、どちらを選ぶかは私達自身の選択にかかっているのです。

 信じるも信じないも、あなた次第ってやつね。

もちろん、これもまた序の口です。
カッバーラは、底がないのです。

エデンの園の中央にあった2本の樹については、複数の解釈が可能です。

まず神はアダムとイブを創造した時、「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と命じられたのです。
そしてエデンの園に2人を置き、こう言われたのです。
『あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし、善悪を知る木からは取って食べてはならない。あなたはそれを食べる日に、必ず死ぬからである。』(創世記2章16、17節)

伝承によっては、「 それでも、あなたは自分で選ぶことができる。それはあなたに任されているからである。しかし、わたしがそれを禁じたことを覚えておきなさい。 」という文章が挿入されていたと伝えるものもあります。

まず、アダムとイブは神から「生めよ、増えよ」と命じられたにも関わらず、エデンの園を追われるまで実際に子供をもうける事はなかったのです。
それは自分が裸である事にも気づかぬほどに、無知の状態であったからです。

 2本の樹が、互いに反対の形になる関係にあるという視点でみているわけね。

生命の樹=イエス・キリストが永遠の生命をもたらす者であるのに対し、善悪を知る樹=ルシファーは滅びすなわち第2の死をもたらす者であるとも解釈できるのです。

 死そのものは、滅びではない。
 神の裁きによって退けられることが、滅びということなの。

その通り。
最も畏れるべきは、神の裁きによる死である滅び。
人による死も、ルシファーによる死も、裁きではない以上、滅びではないのです。

また神は、禁断の樹の実を食べてはならないが、どうするかはあなたに任せると言われているとみていいではないでしょうか。
この言葉の真意は、こうではないでしょうか。

「あなたはエデンの園に留まりたければ善悪を知る樹の実を食べてはならない。それを食べると体が死すべき状態に変化し、ここから出て行かなければならない。しかし無知の状態では子供が生めず、人類が生じるためには知識が必ず必要である。どちらを選ぶかはあなたに任せよう。」

サタンは、神の計画を滅ぼすためにアダムとイブに言葉をかけ誘惑したのではないでしょうか。
2人は神の意図をよく理解した上で、堕落する事を受け入れたということでしょうね。

次に、2本の樹が互いに「合わせ鏡」の関係にあるという視点を持つと、2本の樹は門松と同じように、「初めと終わり=永遠の神」、「旧約の神ヤハウエ=新約の神イエス・キリスト」などの意味を持つと解釈できるのです。

また他にも、生命の樹は罪を赦し永遠の生命をもたらす「憐れみ」の側面を、善悪を知る樹は善悪を厳しく裁く「正義」の側面を持つのですよ。
この「憐れみ」と「正義」の両方を成就する神が、御父と人類の中保者(ちゅうほしゃ)として位置づけられるイエス・キリストであるという見方もあるのです。

 中保者(ちゅうほしゃ)は、仲立ちをする者という意味なのですか。

はい、そういうことです。
仲立ちをする者を意味する、主にキリスト教で使用される用語です。
仲立ちの仲という字を当てて、仲保者(ちゅうほしゃ)と記されることもあるのですね。

 以前、ある教会の人に聖書のアダムとイヴの話について、こう尋ねたのですよ。
 神は人間が知識を持つことを、是としなかったのか。
 だったら私たちが学ぶことは、神の意思に反することになるのでは。
 まともな答えが返ってこなかったですね。

突っ込みしにくい、ですか。

 ううっ、難しすぎる。。。。
 私のちいちゃなおつむでは無理かも。

この問題に、きちんと応えられる教会は、悲しいかな、ほとんどないのが現状ですねえ。

ほとんどのキリスト教の教会は、ここで思考が止まってるはず。

「アダムとイブの失楽園は、神の忠告に背いた報いであり、イエスが贖罪の子羊となってくださった。」

じゃ、簡単にまとめてみましょうか。

Q.神は人間が知識を持つことを、是としなかったのか。
 だったら私たちが学ぶことは、神の意思に反することになるのでは。

A.神は人間が自分たちと同じ知恵と知識を、持つことを望まれていた。
 しかし、そのためには死を経験する必要があることも警告した。

そういうことです。

 だったら、子孫を残す方法を知らず永遠の生を持つよりも、知恵と知識を得て子孫を残して死を選んだ方が発展的ですねえ。

 だから神は、知恵知識を得ることと死をセットにしたのかなあ。
 あまりにも単純に考えてしまったけど・・・・。

いや、素直にそうとってもらって結構ですよ。

世代を超えて、蓄積されてきた知恵と知識によって、発展もしてきたし、方向修正もできてきた、これは事実ですもの。

 創世記の記述は象徴が多々組み込まれているので、非常に奥が深く解釈も難しいね。
 
創世記を始め聖書にちりばめられている象徴を解釈するために必要とされるのが、扉を開ける鍵にも例えられるカッバーラなのです。

でも、カッバーラは変に難しく考えると、むしろわからないですよ。
素直に感じたままに解釈して言ったほうが、わかりやすいとさえいえるようですね。

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クメールと日本

「クメ」という名前は、「クメール」と関係があるなんて、いう説があります。

「クメール」とは「カンボジア」の昔の名前です。

「クメ」のもとが「クメール」だというのなら、似た名前の久留米絣の「クルメ」、車人形の「クルマ」、球磨焼酎の「クマ」、大阪市柴島(クニジマ)の「クニ」だって「クメール」からきたという説を立てていいのではないでしょうか。

人のミトコンドリアDNAのタイプであるハプログループには、80パターンがあるのです。
日本の主なミトコンドリアのDNAは、そのうちの16タイプです。
日本人のルーツ探しに大きくかかわるのは、この16のハプログループってことです。

主なということは、少数派も含めれば、もっとあるってことかも知れないですけどね。

16のDNAパターンは、以下の通りです。

A、B4、B5、C、D4、D5、F、G、M7a、M7b、M7c、M8a、M10、N9a、N9b、Z

Dグループは、Fグループとともに東南アジアとのつながりも大きいのです。

ベトナムからも日本と同じ、エジプトの太陽の船の絵が見つかっているのです。

「クメール」が、「クメ」、「クルメ」、「クルマ」、「クマ」、「クニ」の語源である可能性はないとはいえないってこと。

ところが、もっと驚く名前があるのです。

「クルマサキ」

兵庫や鹿児島、さらには京都にも神社の名前にもあるといいます。
京都の車折神社も、やはり地名からついた名前とみえます。

「折」は、この場合もし意味があるとすれば「折敷(おしき)」のことと思われます。

「折敷」とは、檜のへぎで作った縁つきの隅切り盆。
多くの場合は方形で、食器などをのせるものです。
足打ち折敷・平折敷・隅(すみ)の折敷・傍(そば)折敷などがあります。

足打ち折敷のように、足を付けたものもあります。
でも、車を付けたものは、ないようですね。

近世以降、食膳としても用いました。

でも、そうなると「車」が意味不明となります。

そう考えていたら、「牛車の車軸が折れたから」という神社の説明を聞いたことがあるという人がいました。

神社の御由来によると、後嵯峨天皇が嵐山の大堰川に御遊幸のとき、牛車の車軸がこの神社の前で折れたことをさすそうです。
そのとき、天皇から「車折大明神」の御神号を賜り、「正一位」を贈られたので神社が営まれることになったといいます。

車折神社は、もともと平安時代後期の儒学者で、天武天皇の皇子である舎人親王の御子孫清原頼業公の霊廟として設けられ、やがて頼業公の法名「宝寿院殿」に因み、「宝寿院」という寺が創建されます。
清原頼業公が桜を愛でておられたので、霊廟が設けられた当時から多くの桜が植えられ「桜の宮」と呼ばれるほどであったといいます。
詳しい御由来は、車折神社のHPで見てください。

でも、神はいったい後嵯峨天皇の牛車の車軸を何を思って折ったのか、説明がほしいですね。
ここの桜を見ずに通るなんてもったいない、といいたかったのでしょうか。

御由来話にけちをつけるつもりはありませんけど、字が違っても「クルマサキ」の地名がほかにある以上、もっともらしく後から作られた話と思えます。

「クルマ」だけならまだしも、「サキ」ってなにでしょう。

もしも「シャカ」の発音違いである「サカ」から来たなら、えらいことになるのです。
ちなみに「シャカ」や「サカ」とは一族の名前。
釈尊とは、「サカ」族の尊者ということ。

「クメール」は、仏教が盛んな国であったことで知られます。
「クメール」が仏教国であった最大のわけが、「サカ」つまり「シャカ」族とのつながりにあった可能性を考えないといけないかもしれなくなるのです。
つまり、「クメール」の「サカ」族が「クメルサカ」となってもおかしくないので、「クルマサキ」は「クメール」の「サカ」族の子孫の地であるかも知れないのです。
実際、「クルマサキ」という苗字もあるのです。

となると、こういう疑問が出るかも。

「クニサキ」は、関連あるのか。

「シャカ」、「サカ」や「サキ」と音が似ている、「ササキ」、「スズキ」、「サカイ」、「サカキ」、「ササ」、「サキ」、「サタ」、「シャク」なども遡れば、ご親戚か。

違うという証拠もないです。

クメール系と思える名前には、ほかにも「クモ」で始まるさまざまな苗字や地名、「クミ」で始まるさまざまな苗字や地名、「クムラ」、「クナイ」、「クヌキ」、「クヌギ」、「クノ」で始まるさまざまな苗字や地名、などがあげられます。

サカ系と思える名前には、ほかにも「サケ」や「サゲ」で始まるさまざまな苗字や地名、「サコ」や「サゴ」や「ザコ」で始まるさまざまな苗字や地名、「サク」で始まるさまざまな苗字や地名、「サイ」、などがあげられます。

細かく見れば、まだまだ、あるでしょうね。

情報がほしいと思っていたら、こんな情報がありました。

カンボジアに、飛鳥の酒船石によく似た遺物が見つかっているというのです。
あの有名な、アンコールワットにあるというというのです。

さらに2007年に、環濠遺跡プンスナイでも似た遺物が見つかったそうです。

酒船石そっくりの遺物が作られたのは、日本でいえば卑弥呼がいた時代らしいのです。

カンボジアと日本、邪馬台国と同時代に女王国があったと見えるのです。

しかも、長江文明とのつながりも土器から見えるそうです。

ローマとの関連も、このカンボジアの遺跡から感じ取れるというです。

日本人だけど、インド人みたいって言われる人もいます。

インドのドラビダ語族のタミル語と日本語、関連を疑った大野晋もいます。

国語学者大野晋は、日本語の祖語が何らかの点で、ドラヴィダ語の祖語と関係を持つとする説を唱えたのです。
タミル語と日本語のそれぞれの単語等を比較して、両者に共通するものが多いことを、その論拠の一つとして挙げました。

後に大野はこの説を修正し、日本語はドラヴィダ語の一つであるタミル語に由来するとの説を展開しました。
そして、日本語はクレオールタミル語であるとする説を唱えました。

もっと裏付けになる話がほしいとおもっていたら、こんな情報がありました。

カンボジアに、飛鳥の酒船石によく似た遺物が見つかっているというのです。
あの有名な、アンコールワットにあるというというのです。

さらに2007年に、環濠遺跡プンスナイでも似た遺物が見つかったそうです。

酒船石そっくりの遺物が作られたのは、日本でいえば卑弥呼がいた時代らしいのです。

カンボジアと日本、邪馬台国と同時代に女王国があったと見えるのです。

しかも、長江文明とのつながりも土器から見えるそうです。

ローマとの関連も、このカンボジアの遺跡から感じ取れるというです。

日本人だけど、インド人みたいって言われる人もいます。

インドのドラビダ語族のタミル語と日本語、関連を疑った大野晋もいます。

国語学者大野晋は、日本語の祖語が何らかの点で、ドラヴィダ語の祖語と関係を持つとする説を唱えたのです。
タミル語と日本語のそれぞれの単語等を比較して、両者に共通するものが多いことを、その論拠の一つとして挙げました。

後に大野はこの説を修正し、日本語はドラヴィダ語の一つであるタミル語に由来するとの説を展開しました。
そして、日本語はクレオールタミル語であるとする説を唱えました。

クレオール言語とは、異なる言語のため思うように意思疎通ができない商人などの間で自然に作り上げられた言語が、その言語の使い手達の子供によって母語として話されるようになった言語を指します。
公用語や共通語として、話されている地域や国もあるそうです。

異なる言語の人たちの間で自然発生した言語を、言語学ではビジン言語といいます。
ピジン言語では、文法の発達が不十分で発音や語彙も個人差が大きく複雑な意思疎通が不可能なのです。
なにをどれだけ、いくらで取引するか、誤解がなければそれで十分だからですね。
取引のための、ビジネス用言語だから、ビジン言語と呼ばれるのです。

クレオール言語は、ビジネス用言語として生まれたビジン言語がもとになって成立した言葉なのです。

ビジン言語に対し、クレオール言語の段階では文法や発音、語彙などの要素が発達して統一され、複雑な意思疎通が可能になっています。
けんかや、恋愛、文学でも十分に使えるようになったということです。
クレオールはピジンと違い精緻で完成された言語であり、他の自然言語に引けをとることは無いそうです。

大野のこの日本語起源説には賛否両論があり、未だに解決を見ていないらしいのですけれど。

カンボジアとのつながり、カボチャばかりじゃ、ないってわけです。

飛鳥の酒船石ってなぞが多いですが アンコールワットとの関連があるとは、意外でしょ。
アンコール遺跡とつながりが見えてきた長江文明にまで、酒船石をさかのぼって見ても良いでしょうね。

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前世と守護神は存在するか

前世とか、守護神とか、たびたび、話題になりますね。

そのたびに思うのです。

最初の人の前は、進化論では猿です。

最初の猫の前は、進化論ではミアキスです。
進化論では、ミアキスは、犬の先祖でもあるといいます。

ということは、最初の人の前世は猿ってことでしょうか。
最初の猫や犬の前世は、ニアキスってなるのでしょうか。

いったいどんな生き方をしたら、猿から人になれたのでしょうか。
いったいどんな生き方をして、ニアキスから進化した後、猫になるか、犬になるか決まったのでしょうか。

猿のときから、守護神がいるのでしょうか。

だったら、犬や猫にも、守護神がいるのでしょうか。

ネズミやゴキブリにも、守護神はいるのでしょうか。

アメーバーにも、守護神はいるのでしょうか。

私にやられたネズミやゴキブリは、守護神に見捨てられたのでしょうか。
なにが、運勢を分けたのでしょう。

野良猫で終わるか、家猫になれるか、どんな生き様が決めるのでしょうか。

だって、そうでしょう。

人になるまで、守護神がこないなら、守護神って、どこで何してるのでしょうか。

だれか、教えていただきたいのです。

聖書のような創世神話を持っている宗教だと、最初の人も、猫も、犬も、神に作られるまで、存在しないのです。

もし、あなたが、聖書だろうがなんだろうか、神や仏に命が作られたと信じていながら、前世も信ずるというなら、教えてほしいのです。

前世には、どこにいたのでしょうか。

ほかの星にいて修行していたなら、地球での前世はないことになっちゃうけど。

さらにその前、霊の世界で暮らしていたというなら、天体の上での前世がない命もありになっちゃうけど。

神や仏がいるといいながら、守護神がいるというなら、神や仏は何してくれているのでしょうか。

守護神をやってる神たちを、指導監督してるのだったら、神や仏を直に拝んだほうが、ご利益高くないですか。
神や仏をそっちのけで、守護神に祈って、ひがんだりされてないでしょうか。
聖書の神は、ねたみ深くって、自分以外を拝むと容赦なく罰するお方なのですけど。

あなた、疑問に思ったことないのでしょうか。

そもそも、守護神にも、前世ってあったのでしょうか。
どう生きたら、守護神になれるのでしょう。

ご存知なかた、説明してほしいです。

わたし、ぜんぜん、わかりませんので。

なんて、前世や守護神を信ずるという人に訊ねたら、どう応えてくれますかね。

つっこみどころは、満載でしょ。

でも、どう考えたらいいか、どう応えたらいいか、霊の話は、例によってややこしいですね。

前世や守護神の話、混乱しちゃったでしょうか。

 いえいえ、面白いです。

ありがとうございます。

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伊勢神宮の一日の祭

伊勢神宮の外宮の御祭神は、豊受大御神とおっしゃいます。
御鎮座は、雄略天皇二十二年と伝わっています。

それで外宮の正式名称は、豊受大神宮といいます。

外宮の由来書きにある説明によると、こうあります。

 豊受大身神はお米をはじめ衣食住の恵みを与えてくださる産業の守護神です
 
 今から千五百年前に丹波国から天照大御神のお食事をつかさどる御饌都神としてお迎え申し上げました
 
 御垣内の御饌殿では 毎日朝夕の二度 天照大御神に神饌をたてまつるお祭りが御遷座以来一日も絶えることなく行われています

由来書きは、興味深いことが記されています。
神々へのお食事を用意する行為自体が、お祭りとして、営まれてきたというのです。
神に食事をお供えする行為が祭りになることそれ自体は、民俗からいってもそれほど不思議ではありません。

興味深いのは、神の食事のための神を、わざわざ丹波国からお迎えしたことです。

そうまでして雨の日も風の日も、食事が祭りとして朝夕2度行われるのです。
この祭りが、「日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)」です。

神宮に奉仕してきた人から人へ、手から手へ、丁寧に守り伝えられてきた神宮の文化とも言えるのが、お祭りのしきたりや作法と、そこに込められた精神です。

このお祭りが、神宮では1年365日欠かすことなく続けられ、毎日の積み重ねが、1,500年以上にもなりました。

日別朝夕大御饌祭のこと、こんなふうにいう人いるのですよ。

 モーセの律法で、神に種入れぬパンを捧げる素祭に似てますね。

どこが、似てるっていうのでしょう。

一日のお祭りがどのように行われるのか、神主たちの一日を追って見ましょう。

奉仕する数名の神職は、前夜8時から参籠(さんろう)します。
参籠の目的は、身を清めるための御籠もりです。
白衣に着替えると、まず潔斎(けっさい)をします。
白衣の白自体が、すでに清さの象徴なのですが、さらに身を清めるために、体に湯をかぶるのです。
翌朝は5時に起床し、洗面の後、再び潔斎をします。

潔斎は、すでにそれだけでも、清めの行事であり、禊(みそぎ)と言えましょう。
白は、死に装束の色でもあり、儀式的な死の通過儀礼を意味するのでしょうか。
参籠は子宮、潔斎(けっさい)は羊水と、看做してもいいのかも。

潔斎をして参籠に入るは、羊水をくぐって胎内に入る。
潔斎をして潔斎を出るのは、羊水をくぐって胎内を出る。
つまり、生まれ変わりの儀式でしょう。

次に、神様の食事の支度です。
神様の台所にもあたる忌火屋殿(いみびやでん)で、約1時間半かけて神饌(しんせん)を調理します。
木と木を摩擦して、忌火(いみび)とよぶ清らかな火を起こすことから始まります。

木と木の摩擦とは、棒を板に立てること。
男根を女陰に立てることに、あたるでしょう。
忌火屋殿は火処(ほと)であり、女陰(ほと)に音が通じるのですよ。
命をはぐくむ、食を産み出す作業が調理ということでしょう。

水は、神宮の森の井戸の神からいただきます。
井戸の神は、上御井神社(かみみいじんじゃ)に祀られています。

井戸と釣瓶も、女陰と男根かも知れません。

お米は、神宮神田(しんでん)で収穫されたものです。

「米」は「八」「十字」「八」に分解でき、上下も男女に配当されますので、二つの「八」は男女の合掌かも。
「十字」は四方を指し、大地でしょう。
男女の和合は、古来、豊穣の象徴とされてきました。

御塩も、古代の製法そのままに二見(ふたみ)の御塩浜で奉製されたものを用います。

塩もまた、殺菌作用があるので清めでありましょう。
二見の浜で作られるのも、陰陽を連想できる地名だからかも。

季節の野菜や果物は、神宮 御園(みその)で作られます。

明治以降は鰹節や鯛、アワビ、昆布、清酒も毎日のお祭りの神饌に加えられました。
それぞれ、縁起物としてのいわれがあるのは、ご承知の通りです。

ひととおり神饌の準備がすむ午前7時になると、神主たちも朝食を済ませます。
朝食を済ませると、神主たちは平安時代さながらの白い装束と冠を着けます。

午前8時には、いよいよ祭典 奉仕。
冬季は午前9時だそうで、やっぱり夜明けが遅いからでしょうか。
神々の食堂、御饌殿(みけでん)へ、櫃(ひつ)におさめられた神饌を運びます。

ちょうどこのころに参宮すれば一般の人々も、神主たちが厳かに参道を通るのを見ることができるでしょう。

朝の神饌をお届けする奉仕が終わると、すぐに夕の神饌の準備をします。
その後、再び装束と冠を着け、午後4時には夕の祭典を奉仕します。
冬季は午後3時に繰り上がるのも、日没が早いからでしょう。
こうして一日のお祭りが無事に終わります。

イエスも、井戸の近くでお休みになられました。
また、水の奇跡もありましたね。

ヘブルの神事では、神道同様に清めに使いましたよね。
水だけじゃない、塩も、聖書と日本、清めで共通ですね。

聖書の神は、モーセのときも、イエスのときも、食にまつわる奇跡を起こしておられます。

ユダヤ人やキリスト教徒から、神道に注目する人がいるのも、仕方ないでしょうか。

で、どこが種入れぬパンを捧げる素祭に似てますか。

 食事の準備と男女の営み、通ずるものが多いですねえ。

どちらも、ほどほどに熱いか、ほどほどに冷たいか、ていうのがいいところですか。

 どっちも、熱くなりすぎたり、冷めきったりしちゃ、いけないでしょ。

おっしゃるとおりですねえ。

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義経と奥州藤原氏とアイヌ

義経の取った戦法は奇襲が多く、奇襲はアイヌが得意だと言います。

それで、義経の奇襲とアイヌの関係があるかのように、見る人も出てきました。

接点として、奥州藤原氏をあげます。

奥州藤原氏はアイヌと、日常的に交易をしていたのは確かだと言います。

また、奥州藤原氏の出自についても、アイヌがかかわっていると言う説をあげる人もいます。

そして、義経が奥州藤原氏と懇意であることも、状況証拠とされています。

義経については、奥州つまり今の東北から蝦夷つまり今の北海道へと、逃避行をした伝承があります。

特に蝦夷地での義経が逃避行した足取りとされる地域は、アイヌの居住地に重なるらしいです。

義経はアイヌに農業を教えて神様扱いされていた、などと言う話まであります。

北海道は、今でも良質な砂金が採れると言います。

義経の奥州から蝦夷に抜けた目的は、蝦夷地の金を手に入れ、勢力を養い、アイヌを味方につけ、再起を図るためではなかったかと言う説まであります。

義経ゆかりの家紋である笹リンドウが、極東ロシアの地に残っているなどという、おまけまでついています。

 義経北海道逃亡説は聞いていましたが…。
 アイヌとの結びつきは知りませんでした!

 なるほど、確かに北海道へ逃げたことからも、アイヌと結びつきが出てきますね・・・。

アイヌと義経と奥州藤原、三題話としては面白いです。

 でも、義経とアイヌを奇襲戦法で直接結びつけるのは、少々無理がありますねえ。

そうですね。
義経は、鞍馬山で天狗から兵法を教わったことになっています。

義経を兵法でアイヌと結び付けようとする人は、天狗がアイヌであったとでも言いたいのでしょうか。

天狗に古代イスラエル人説を唱える人もいるくらいだから、アイヌ説があっても良いのでしょうか。

ここに面白い情報があります。

スコットランド人ノーマン・マクラウドは、アイヌの生活用品は古代イスラエルに似てるといいます。

けれど、これらの話を結ぶと驚きの説が展開されることになります。

アイヌは、古代イスラエル人だったという説です。

 だって、アイヌは、縄文人につながる人々なはずですよ。

つまり、縄文人は古代イスラエルだったという風に議論がつながってしまいますね。

あなた、これをどう見ますか。

ショック過ぎでしょうか

 ええ。
 びっくりですが。
 でも、義経はモンゴルに渡ってチンギス・ハーンになったというとんでもない伝説に比べれば、蝦夷へ逃亡したというのは十分可能性がありますよね!

そうなると、義経の子孫が気になりますね。
どこかに、いるのでしょうか。

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招き猫

日本に縁起物数ある中で、世界的にも人気が出ているのが招き猫です。

 にゃんにもまねかんとよろし。
 今の猫がずーっとずーっとこのまんま。

 そういう時間を招いて欲しい。。。

 猫がいりゃあ、ちっとの不幸も立ち直れる。
 そんなワタクシです。

縁起物であって、しかも、かわいい猫の置物というあたりが受けている理由でしょうか。

招き猫はいろんな色があるけれど、三毛が多いらしいです。

 招き猫集めてます。
 いろいろな色の猫が、いますよね。
 ピンクも・・・。

招き猫は、単純に面白がっても十分楽しいのです。

それで、陰陽五行による考察を、招き猫の色についてしてみたいです。

陰陽五行の陰陽は黒と白、五行は木火土水金とされますね。
そして、五行にも色が配されますね。
木気は青、火気は赤、土気は黄、金気は白、水気は黒というわけです。

 招き猫とは全く違う話でなんですが、目黒・目白あたりも、他に目青・目赤・目黄がいてはる、て聞いたことがあるのですが、これも五行っぽいですね。

目黒・目白・目青・目赤・目黄ってこれみんな不動尊の名前にあるってことは、やはり五行です。

 家の方には、「目青不動」があるんだけれど。
 五行、すなわち方角なんですね。
 朱雀、白虎、玄武、青龍そして黄龍ですね。

陰陽五行には、相生の理という理論がありますね。
相生の理とは、木気は火気を生じ、火気は土気を生じ、土気は金気を生じ、金気は水気を生じ、水気は木気を生じ、ということです。

また、相克の理という理論もありますね。
相克の理とは、木気は土気を克し、土気は水気を克し、水気は火気を克し、火気は金気を克し、金気は木気を克し、ということです。

赤黄白の三毛に彩られた招き猫は、赤は火気、黄は土気、白は金気となって、火気は土気を生じ、土気は金気を生じ、から、やはり金気を招くとなり「招福」の中身はやはり「招財」となるようですね。
実際アジアのなかには「招財猫」と呼ぶ国がありますね。

さらに三色は、三神に通じる可能性もありと見えますね。

となると、白い招き猫もまた金気で、音が金来に通じるので、お金を招くマネー来猫って感じですかね。

さらに金気は水気を生じるとされ、水に困らないという縁起担ぎも想像できますね。

なお、木気には長いものはすべて配されるので、蛇も配され、金気が木気を克するとは「蛇」すなわち「邪」を克すという縁起担ぎもあるように思われますね。

黒い招き猫は、魔除けの意味があると考えられているようです。
黒は水気とされるので、すべてを焼き尽くす火気を克す、あるいは水気は木気を生じるので、木気に配される蛇は神の使いともされるので魔に打ち勝つ、ということなのかです。
京都では、客を呼ぶといわれているそうです。
確かに、おいしい水にはみんな集まるし、陰は引に通じるので客を引くと洒落こんだのかです。

赤い招き猫は、火気に通じ災いを焼き尽くしてくれると思われるのかです。
病原菌の多くは加熱で退治できるので、病気に代表される魔や災いを退けることを期待されているようです。

最近では金色ほか、カラフルになってきているけれど、そのほとんどは現代人の感覚にあわせて生まれてきたので、受ける印象で解釈すればだいたいあたるようです。

 招き猫は全国各地のを収集して研究すると面白いでしょうね。
 今の原型となったのは時代的にそんなに古くないはずなのに。
 奥深いのは、それだけ庶民に愛されている証拠なんでしょう。

そのほかの招き猫話は、もっと詳しい本やサイトがあるのでそちらを見てくださいね。

招き猫が忽然と現れた時代と、猫じゃ猫じゃの唄がはやった時代と、樽神輿の登場の時代、ほぼ重なるように思えるのも、奇妙なのです。

 我が家にも生きた招き猫が二人、白猫、キジトラがいます。
 シロは金気ですね。
 ではキジトラはなんでしょうかねえ。

 どちらの猫も、幸福や笑いをもたらしてくれる。

キジトラ、色は黒っぽいけど。

名前からすると、キジは酉で、陰・金・西・秋、トラは寅で、陽・木・東北東・春、で金気は木気を克し金気が木気を克するとは「蛇」すなわち「邪」を克すという縁起担ぎもあるように思われますね。

 招き猫・・・
 右手で招いてる猫は金運招福
 左手で招いてる猫は千客万来
 とか言うね、これなら商売繁盛もしますね。

ようは、招き猫は招福猫ってことでしょうか。

 信楽のたぬきも良いですよねえ。

そういえば、「縁起 たぬき」あるいは「縁起 狸」で検索してもいろいろ出ますね。

招き狸なんてのはかわいいほうで、なんとタヌキ不動明王なんて出たです。
もっとも、「咤怒鬼」と書いて「タヌキ」ですけど。

 うちのでネコは太りすぎて仰向けになって
 招きポーズで眠ってたりする…

素敵過ぎです。

 招き猫。大好きです。

 うちは白黒猫さんなのでいつもは魔よけ。
 お腹を出して寝ているときだけ招財ってとこでしょうか笑

笑福猫だったりして。

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「シア」「シャ」のある地域

地図を見て気がつくのは、世界には意外と「シア」「シャ」のつく地域名が多いということです。

そのうち、「ネシア」のつく、ミクロネシア、ポリネシア、メラネシアなどは、ギリシャ語によるものだそうなので、現地語にはあまり関係が見られないです。

残るは、マレーシア、ロシア、ギリシャ、歴史的なものでは、ペルシャ、プロシア、などです。

そのうちプロシアは、現地名をプロイセンと呼ぶので、ここでは考えないことにしますね。

すると、残りはマレーシア、ロシア、ギリシャ、ペルシャ、となるです。

ところが「シア」「シャ」を接尾辞とみると、語幹はそれぞれこうなるです。

「マレー」、「ロ」、「ギリ」、「ペル」

面白いのは「ペル」で、南米に「ペルー」がありますね。

共通するのは、ともに太陽神信仰をしたことです。

太陽神に、ギリシャ神話の「Ἥλιος(ヘーリオス)」がいますね。

ギリシャ語の「オス」は「(なんとか)人」「(なんとか)教徒」という意味です。

となると、ヘーリオスとは「ヘーの民」と解釈してもいいのかもしれないです。

もしそれが言えるのなら、こういっていいことになるのでしょうか。

「ギリシャに「へーの神」つまり、「ヤハウエの神」をあがめる人々がいた」

しかし、「へー」を「ラー」の転化とみたらどうかです。

ギリシャとエジプトの交流の深さからいえば、ラー信仰がわたっていても不思議ではないです。
そう思うと「ギリシャ」の「ギリ」は、「ラー」の転化とみてもいいのでしょうか。

そうなると、「ロシア」の「ロ」も、「ラー」の転化とみてもいいのでしょうか。
でも、ロシアにエジプトとの接点があるとは、みえないです。
ユダヤなら、いつのころからか、いたけどです。。。。

「ペルー」「ペルシャ」の「ペル」は、「ラー」が「ヘー」さらに「ペル」に転化したとみていいのでしょうか。
ともにスメルの影響を思ってもいいように思えます。
それを運んだのは、ヘブルの民なのでしょうか。
歴史と地理からいってペルシャは、ありえます。
ペルーは、イスラエルとの文物との類似が見られるアイヌを子孫とする縄文人にヘブルとの関連をみつけない限り、難しいかも。

じゃ、「マレーシア」の「マレー」は、どうかです。
「ラー」の転化とも、冠詞「アル」がついた「アル・ラー」の転化とも想像できます。
「ラー」は地理的にかなり難しいです。
ところがアジア各地に散った、古代イスラエルの民が間に入ったというなら、可能性は捨てきれないのです。

後ろにいるのは、何者なのでしょうか。

ただ、「シア」「シャ」のつく国や地域が、いづれも西ヨーロッパ的キリスト教の地域とはいえないだけは確かなのです。

シアの付く国を色地図で表すのも面白いですね

国や地域の名前、みていくともっといろいろ見えてくるかもです。

 シャで、ちょっと思い出したんですけど。
 ロシアからヨーロッパ全域に渡って、スクやツクのつく地域が多いです。
 見当違いかもしれませんが、これらの語幹との関連は?
 ロシアにとくに多いですし。

わたしも、これは気になってます。

転化の可能性は、無視できないかも。

接点となるのは何者なのか、探ってみる価値は十分にありなのです。

 面白いですね~。
 私も、ふと、「スク・ツク」を思い出しました。

やっぱ、「スク・ツク」を連想しますか。

確かに、なにかあるって思うでしょうねえ。

 地名や国名って、必ずしも住んでいる人たちが名付けてないんですよね。
 むしろ、外部の人間、支配・侵略しようとしている人たちが名付ける場合が多いですね。

日本海なんてのも、中国と日本にはさまれた海域なので、よその人達が地理を判断しやすいよう、つけちゃった名前なはずです。
地名を外部からつけるって言えば、組織名でもそんなのあったですね。

イギリスの歴史的な二大政党「トーリー」とか「ホイッグ」も、お互いがつけたあだ名だったと記憶してます。

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前世と守護神をどう見るか

考えてみると前世と守護神には、興味深い話が結構あるようですね。

 よく、キリスト教でGuardian Angelがいるっていうけれど 。
 あれと守護神との関係はどうなんですかねえ。
 あくまでangelだから守護神ではないのか。
 神から使わされたangelってことなんですかね。
 でも、守護神と似たような働きしますものね。
 ・・・ううむ、難しい。

なかには、守護聖人なんて言い方があったりしますね。

 こうなったら、つっこみどころ、大盛りですね。

Guardian Angelは、特定の人を保護して、案内する天使であるようです。

 キリスト教では、絶対三神以外の神はいないのでしょ。

守護神なんていいだす時点で、絶対三神以外の神を崇拝しろといってるようなものでしょうね。
サタンとなったルシファーのたぶらかしと、警鐘をならすクリスチャンの人たちもいるのです。

 イスラムは、どうでしたっけ。

アッラーのほかに神なし、の人たちです。

 守護神は、すなわちアッラーってことでしょうか。

アッラーの他に神がいるかのような言い方自体シャイターン、つまりサタンのしわざと無視されてしまうでしょうね。

実際、考えていくと混乱だらけ、矛盾だらけ、ルシファーのたぶらかしと、揶揄されても仕方ない面はあるのです。

聖書には、神の心にかなうものに、一人あるいは複数の天使を遣わして、諭しや警告を与える場面はあっても、神が人々に臨むときには旧約ではヤハウエ、新約ではイエスが、じきじきのお出ましとなるのです。
ヤハウエやイエスから御父と呼ばれる方でさえ、滅多に出番はないのです。

つまり、Guardian Angel、守護天使ならば、いるといってもいいのかもしれません。

でも、誤解のないように言っておきます。

人間一人一人に付きっ切りでそばにいるような天使は、存在していないようです。

一人一人の信仰や祈りに応じて、必要な助けや守りを与えてくれるという意味でなら、Guardian Angel、すなわち守護天使はいるのかもしれません。

 それぞれの人に、担当はいないということでしょうか。

そのかわり、きめ細かい見守りや指導をしてくださる天使はおられるでしょうね。

ただ、見守りの天使の振りをして、心の隙間につけこむサタンの一味が守護神を名乗って、まことしやかな「指導」をしている可能性はありますね。

つけこまれないよう、祈りで守られるようになりたいものです。

仏教にも、神仏のご加護という考えはあっても、守護仏、守護神、なんて思想はないです。

仏教も多神教状態ではあっても、一人一人にかかりきりになる神も仏もいないです。

なんてたって、一人で何人も救いの手を差し伸べる千手観音がおられるくらいです。

一人一人に守護神に派遣できる神なんて、仏教にもないってことです。

前世のこと、疑問に思ってとりとめもなく考えてたときがありますという声が返ってきました。

その人は霊能者らしい人物に子供の頃、手紙を送ったことがあるそうです。

 「全ての生物に前世があるなら、絶滅してしまったあとの恐竜の後世はどうなっているんですか?違うものに生まれ変わるんですか?あと、人間は別のものに生まれ変わるんですか?世界が絶滅したらあの世は満員になってしまうんですか?」

返事はこんな風だったそうです。

 「人間は霊長類だから人間としてまた生まれ変わるけど、この世に出てくる人間の数はうまくコントロールされている」

恐竜は、無視されちゃったのだとか。

結局、前世なんて考えるとおかしくなるから、そんなの関係ない!と割り切っちゃうほうがいいのかもしれないですね。

だって、そうでしょう。

増えてるときは、前世の霊は足りますか。
減ってるときは、前世の霊はあまりますか。

古代人も、死後はどうなるかは気にしても、前世はどうだったか気にしていないようです。
そもそも命は、神から授かったもの、あるいは預かったもの、と彼らは考えていたから、前世なんて関係なかったようです。
むしろ、神の意思にちゃんと従えたかどうか、そのほうが気になっていたのではないのでしょうか。

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堕落とは?

一旦堕落して神の元に帰ってきたら
堕落しないで神の元に居るよりなお嬉しい?

この問いは、アダムとイブにとっての堕落の意味をどう捉えるか、とともに、私たちにとっての堕落の意味をどう捉えるかということでもあるのです。

堕落を経験したかどうかより、神に敬虔であるかどうかの方が、より重要ではないのかです。

そして、神をよく理解して深く帰依する事が大事なのであって、堕落を経験したかどうかは、問題ではない気はしますね。

ただ、人である以上、堕落の誘惑に心を惑わされた経験がまったくない方が、むしろ少数派なのはないでしょうか。

自分は絶対堕落しないと驕り高ぶる者より、自分は堕落するかもしれないと自戒する謙虚な者の方が、神には喜ばれる者かもしれないですね。

親鸞聖人は、こういわれました。

「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」

ここで言う悪人とは、自らの堕落を自覚し後悔する者であって、自らの堕落に開き直り罪を重ねる者ではないです。
そしてここで言う善人とは、自らを罪人と思っていない者です。

自覚なき悪人の可能性がある善人より、自らの罪を自覚している悪人の方が、往生の資格があるといっているのです。

イエスもまた、世情の中で卑しまれた人々の中に身を置き布教された点で、『旃陀羅(せんだら)の子』を名乗った日蓮に準えられますね。

旃陀羅とは、インドで、最下級とされた階級のことです。
屠畜(とちく)つまり家畜を食肉用や皮用に処理することや、狩猟などを生業とした人たちです。

 堕落っていうのは悲しみを知る経験だと思うのです。
 経験は重要だと思いますね。

 おそらく悲しみを知った人は傲慢にはなれないと思う。
 開き直れる人は多分本当の悲しみを知らない。
 まだまだ堕落し足りない。
 どのレベルで神のもとに戻れるかは人それぞれですが。
 最終的には神の元に戻れる。

卑しまれた人々は悲しみを知っている。
その中でも真に理解した人しか神の元に戻れない。
悲しみに酔って自己卑下している間はいつまでもそこに留まるのでしょう。

 涙とともにパンを食べた人間でなければ、人生の味はわからない。

あるいはこれ。

 何事のおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる

この言葉に、今までの議論はぎゅ!っと籠められるのではないでしょうかねえ。

この涙は、苦しみ、悲しみ、怒り、喜び、感謝、感激、などなど、いろいろあるでしょうね。

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先住民族をどう扱いますか。

アイヌは、先住民族かどうか、さまざまな議論があります。

これ、簡単なように見えて結構奥が深いでしょうね。

それというのも、アイヌを日本民族成立史の中でどう位置づけるかと言う問題が絡むからですよ。

確かに、弥生人や古墳時代人からみれば、先住民族には間違えないでしょうね。

けれど、縄文人との繋がりはどうなるのでしょうね。

アイヌに縄文人との繋がりがないなら、縄文人からみても先住民族の可能性は出てきます。
けれども、それは可能性に過ぎないでしょうね。

もし、アイヌが、縄文人の流れを今日まで引き継いでいる人たちとしたらどうでしょうね。

そう。

縄文人にとっては、アイヌが、いわゆる先住民族の枠に当てはまるかどうか、疑問が出てきます。

縄文人の系譜につながる人たちから見れば、親戚筋ではないでしょうか。

どこを基準にするかによって、先住民族かどうかの線引きが違ってきます。

先に住んでいたら先住民族というなら、縄文人とその子孫を全体として認定すれば良いでしょうね。

それは現実的ではない、と言う人がいます。

補償などの課題があるからと。

先住民族は、いくつもの側面に分けて考える必要があるでしょう。

純粋に歴史的な概念として扱って良いなら、ある基準とした民族から前に住んでいれば皆、先住民族として気楽に呼ぶことができます。

私は、先住民族という概念を一切の政治的しがらみから解放して欲しいと思います。

権利侵害の問題と言うなら、先に住んでいた住民と転入してきた住民の間のいざこざ、紛争、悶着として扱えば良のではないでしょうか。

文化的既得権益を損なわれたと言うなら、どういう形で法律の上で位置づけて保護や補償の対象とするかを考えれば良いでしょうね。

文化を守れと言うなら、少数民族などの文化をどのように守り伝えるかという課題ともつながってくるでしょう。

文化を守ると言うことが、自然などの環境を守ることと一体となっている場合もあるでしょう。

社会的な差別に悩むと言うなら、差別問題全体の中で取り組むべきではないでしょうか。

なんでもかんでも、先住民族問題と一括して解決に当たろうとすれば、皮肉にも解決は遠のくだけのように思うのは、間違いでしょうか。

先に住んでいたから“先住民族”。

これで良いし、これだけで良いでしょうね。
違うでしょうか。

ケルトはヨーロッパの、少なくとも主な、先住民族、ではないのでしょうか。

ここに政治を絡めたら、どうなってしまうか考えてみて欲しいですね。

求めよされば与えられん。

叩けよされば開かれん。

私たちは何を求め、どこに向かう扉を叩こうとしているのでしょうね。

今一度立ち止まる必要は、ないのでしょうか。

もちろん、先住民族と呼ばれる人々がさまざまな課題に直面している事実には、私も心が痛いです。

だが、個別に事情を見ていかないと、先住民族というだけで一緒くたにしていったら、かえって個別の解決自体が遅れていかないでしょうか。

でも、これが一番難しいですか。

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西王母

西王母(せいおうぼ)は、西王母(さいおうぼ)ともよばれる中国に古くから信仰された女仙です。
姓は楊、名は回と。
九霊太妙亀山金母(きゅうれいたいみょうきざんきんぼ)、太霊九光亀台金母(たいれいきゅうこうきだいきんぼ)、瑶池金母(ようちきんぼ)などともいい、すべての女仙たちを統率するのです。

西王母に対応するのが、東王父(とうおうふ)です。
姓は王、名は玄甫と。
東王公(とうおうこう)、東華帝君(とうかていくん)、東父(とうふ)、東君(とうくん)、木公(ぼっこう)、扶桑大帝(ふそうたいてい)ともよばれるのです。
東王父は、中国の神話上の仙人です。
西王母が女仙を統率するのに対し、東王公は男仙を統率するのです。

西王母が、神話や伝説、小説などに頻繁に登場するのに対し、東王父は、あまり登場しないようですね。
これは、西王母が先に成立し、それに対応する形で東王父が生まれたとされる成立事情に関係があると思われているのです。

しかし、陰陽からは、面白いことが見えてきます。

北、西、南に対して、東は不思議と影が薄いのです。
何かの到来を待ち受けるかのように。

東王父の別名に木公があるということは、東は陰陽では木気に配当されるので、陰陽で解釈していいと見えます。
西王母の別名に金母があり、西は陰陽では金気に配当され、金克木と。

なに、仙人の世界でも、男は女より影が薄いの、でしょうか。

東は、日の出の方角、誕生に配当される方角でもあるのです。

まだ来ない、新たな太陽を待っているかのようです。

日本には、東方のニライカナイ伝承があるのです。
他界概念のひとつで理想郷の伝承であるニライカナイは、琉球列島各地に伝わるものです。

ニライカナイの概念は、本土の常世国の信仰にあたるとみられているのです。

東といっていますが、正しくは遥か遠い辰巳の方角の海の彼方、または海の底、地の底にあるとされる、豊穣や生命の源である異界です。
年初にはニライカナイから神がやってきて豊穣をもたらし、年末にまた帰ると。
また、生者の魂もニライカナイより来て、死者の魂はニライカナイに去ると考えられているのです。
琉球では、死後7代して死者の魂は親族の守護神になるという考えが信仰されているのです。
後生(ぐそー)、つまりあの世とされるニライカナイは、祖霊が守護神へと生まれ変わる場所、つまり祖霊神が生まれる場所でもありました。

つまり、ニライカナイは来訪神のいる世界であり、生命と豊穣の源であり、死者の世界でもあり、祖霊神が生まれる場所であるという、複合的な観念を持った楽土なのです。

脱線しちゃったですね。

周の穆王(ぼくおう)が西に巡符して崑崙に遊び、西王母に会い、帰るのを忘れたというのです。
そんなに、いい女なら、あってみたいでしょうか。
まあ、そうせっかちにいわないで。

また前漢の武帝が長生を願っていた際、西王母は天上から降り、仙桃七顆を与えたというのです。

現在の西王母のイメージは、道教完成後の理想化された姿です。
本来の姿は、「天厲五残(疫病と五種類の刑罰)」を司る鬼神です。
『山海経』によるとこのような、凄まじい怪物です。

なお、蓬髪とは乱れた髪、玉勝とは宝玉の頭飾のことです。

 「人間の女の顔に獣の体、蓬髪に玉勝を付ける。虎の牙を持ち、よく唸る。咆哮は千里にとどろいて、あらゆる生き物をおびえさせ、蛇の尾を振ればたちまち氾濫が起きる。西王母には大黎、小黎、青鳥という三羽の猛禽が従っており、王母の求めに応じて獲物を捕らえ、食事としてささげる。」

獣というのは、虎の牙を持つというから虎の類なのでしょうか。

このときだったら、周の穆王は、帰るのを忘れるより、無事に帰れたか怪しかったかも。

人間の非業の死を司る死神であった西王母であったが、「死を司る存在を崇め祭れば、非業の死を免れられる」という恐れから発生した信仰によって、徐々に「不老不死の力を与える神女」いうイメージに変化していったのです。

やがて、道教が成立すると、西王母はかつての「人頭獣身の鬼神」から「天界の美しき最高仙女」へと完全に変化し、不老不死の仙桃を管理し、艶やかにして麗しい天の女主人として、絶大な信仰を集めるにいくのです。

周の穆王は、だから、帰るのを忘れてしまったのでしょうね。

王母へ生贄を運ぶ役目だった怪物・青鳥も、「西王母が宴を開くときに出す使い鳥」という役どころに姿を変え、やがては「青鳥」といえば「知らせ、手紙」という意味に用いられるほどになったのです。

でも、どこかでこんな存在あわなかったでしょうか。

そう、怒れる恐ろしい獅子の女神セクメトと、やさしくかわいい猫の女神バステト。

なんででしょうか。

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ねこことば

「ねこ」が使われる言葉はいろいろあるのです。
興味深いものをいくつかあげてみます。

「ねこだ」「ねこ座」「ねこがい」、たんに「ねこ」とも言われる、藁縄を編んで作った大型のむしろがあります。

これらの名前は、背負い袋のことや、背負子の下に当てる藁製の背当てにも使われます。
また、藁などで編んだむしろで、蹴鞠の庭などに敷くものを、「ねこぶき」「猫掻」とも言うのです。
こういうものを敷くと、ねこが喜んで寝転がるからともとれるのです。
藁を笑いにかけたと見るとどうなのかです。陰陽では笑いは光です。
それで、光のねことなり、太陽神のねこが透けて見えそうですね。

藁はその細さから、そして、蛇の古語の一つ「はは」に音が通じる箒の材料として蛇に通じ、とぐろの蛇は「かんなび」つまり「神の火」に転じます。
さらに、蛇の印象がねこに重なっていき、「火」と「光」が通じていった過程さえ連想されます。

おもしろいものでは、兵庫県の一部で、嬰児または胞衣(えな)を埋める共同墓地を「猫三昧」と言うのです。
猫は鳴き声が、赤子と間違えられる事が多いばかりか、体型やしぐさも、赤子に重なるところが少なくないからかもです。

ちなみに、薪や炭の材料にされる裏白樺(ウラジロカンバ)の別称に、猫四手(ねこしで)があります。
かばのき科の落葉高木で、高さ約15メートルほどになり、深山に生え、皮に香気があります。
楕円形の葉には縁辺に二重鋸歯があり、裏の脈状に白毛を密生します。
この裏の白いあたりが、多少オリーブぽいですね。
4月から5月頃葉腋(葉の付け根)の脈状に、おばなとめばなが分かれている単性の花が集まって咲く穂状花を垂れ、円筒形の花穂を結ぶのです。

吉野裕子氏は、扇に陽の物や陰の物の印象が重ねられていると指摘します。
猫もまた、招き猫の歴史の中で陽の物に関わってくるのです。
そして気になる事に、扇の親骨の透かし彫りの一種に、「猫間」があります。
猫の目のように、あるいは丸くあるいは細くさまざまに姿を変え、連続して彫りすかしたものです。

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始めの光?

ミクロの世界では、 「不確定性原理」という言葉があります。  
不確定性原理は、独ではUnschärferelation、英語ではUncertainty principleと呼ばれます。
訳すと、「確信をもてない原理」とか、「確実なことが言えない原理」となります。
何に確信をもてないかと言うと、観測結果に確信をもてない、といいます。

具体的に言うと、ある2つの物理量を同時に測定しようとすると、測定値にばらつきがでないように2つの物理量を測定することはできない、という理論のことです。

物理量(physical quantity)とは、質量、長さ、体積、圧力、時間のように、物体や物質などの測定対象に固有な、客観的に測定できる量、およびその量を用いて算出できる量のことです。
科学者は、物質に場やエネルギーも含めます。
よく知られてる場には、電波をつくっている電場と磁場などがあります。

要はミクロな領域では、粒子の位置と運動量は正確には決められないというものです。
マクロ、つまり私らの暮らしている領域では、そんなことありえないってことが、ミクロ、つまり素粒子の領域じゃ常識らしいって訳です。
素粒子は、物質を構成している最小の要素です。
大雑把に説明すると、レンジなどでおなじみな電子や、電子が周りを回ってる原子核、光を伝える光子など、これらの仲間をまとめて素粒子と言います。

原子より小さな領域であるミクロの世界では、位置と運動量は正確には決められないと言っているってことです。

この不確定性原理を表す式には、プランク定数というものが登場します。

プランク定数(Planck's constant)は、量子力学の基礎となる単位を示す物理定数です。
しばしば h (エイチ)と記されます。
プランクの名は、量子力学の創始者の一人であるマックス・プランクにちなんで命名されました。
量子力学とは、素粒子の領域を扱う力学と思えば良いです。

例えば光子の持つエネルギー E は振動数 ν に比例し、その比例定数はプランク定数 h に等しいと言う式で表されます。

 E=hν
算数だと掛けるだの割るだのを表す記号を書くけど、科学はこう書きたがります。
 
言い換えれば、これもありってことです。

 h=E/ν
 要するに、これと同じです。
 h=E÷ν
科学の式じゃ、割り算は分数で表すのがお好きらしいです。

光子のエネルギーを振動数で割ると、プランク定数と言う一定の数が得られると言っている訳です。

実際は、プランク定数を円周率πの二倍で割った数を使うことが多いです。
円周率は、円の周の長さと直径の比のことです。
円の周の長さを、直径で割って求められます。
プランク定数を円周率πの二倍で割った数は、小文字のhに横棒一本引いて表され“ℏ”発音は(エイチバー)と読みます。

どうもプランク定数は、波動と関連が強いようですね。

じゃ、位置や運動量どちらか一方だけなら、ちゃんとわかるのでしょうか。

それならできる、らしいです。
実は、素粒子と言われる代物には波動が付き物だと言います。

さらに、厄介なことに絶対零度でも、この振動は止まることはないのですよ。
絶対零度(Absolute zero)とは、0 K(ケルビン)と表される物質における温度の下限です。
摂氏で表せば-273.15℃です。
華氏だとー459.67Fになります。

温度に下限があるのは、物質の熱振動をもとにして規定されているからです。
それは、原子の振動である熱振動が最も小さくなり、エネルギーが最低になった状態です。
下限温度がこの時に決まり、これ以上下がらないことから絶対零度と呼ばれます。

絶対零度でもとまらない振動を、零点振動(Zero-point motion)と言います。
零点振動は、ゼロ点振動とも言い、絶対零度においても原子が不確定性原理のために静止せずに振動していること。
ヘリウムが絶対零度近傍でも固化しないのは、この零点振動が原因です。
圧力を加えると固化しますけど。
固体では、格子振動が起こっているのです。

格子振動(こうししんどう, Lattice vibration)は、結晶中の原子の振動のことです。
結晶の中で、原子がまるで格子のように配列しているところから、結晶中の原子も格子と呼ばれます。

振動の駆動力は熱だけれど、絶対零度でも、不確定性原理から原子は振動していて、これを零点振動といいます。

格子振動は、熱伝導の原因の一つであり、比熱とも関係が深いです。
また格子振動によって電子が散乱されます。

格子振動は、従来型の超伝導と深く関わっています。

量子化された格子振動が、フォノンです。
フォノン(phonon)は、音子とか、音響量子、あるいは音量子とも訳されます。
量子化とは、飛び飛びの数値しか取れないと言うこと。
ある一定の単位より下の数値は取れない、それが量子化と思えばいいでしょう。

振動という意味では、単独の原子や、分子、分子の塊であるクラスター、表面などでの各原子も振動していて、これらを量子化したものもフォノンです。

ちなみに、光子はフォトン(Photon)と言います。
光のエネルギーは飛び飛びの数値しかとれないことがわかったのが、量子という考えが生まれたそもそものきっかけだったのです。

絶対零度でさえ、止まらない振動があるとなると、気になる現象があります。

すべての現象に必ずあると言われる、1/fゆらぎのことです。

1/fゆらぎとは、ピンクノイズとも呼ばれ、あらゆる物理現象、生物現象、経済現象に現れます。
具体的には、人の心拍の間隔や、ろうそくの炎の揺れ方、電車の揺れ、小川のせせらぐ音、アルファ波、目の動き方、木漏れ日、物性的には金属の抵抗、ネットワーク情報流、蛍の光り方などですね。
ピンクノイズとは、パワーが周波数に反比例する雑音のことです。
同じ周波数成分を持つ光が、ピンク色に見えることからピンクノイズと呼ばれます。

ここで言うパワーとは、誤解を恐れずに単純に言うと、現象の起こりやすさ、変動の起こりやすさを表す関数です。
たとえば株価や為替の変動、ブラウン運動などの粒子のランダムな運動などにみられる変化を記述する場合、使われます。
光を周波数別に分けるときにお馴染みの、スペクトルになぞらえてスペクトル密度とも呼ばれます。

またしても、素粒子に周波数、つまり波動が現れました。
しかも、光で知られるスペクトルなんて言葉まで登場しましたね。

振動があれば、エネルギーが発生する。
赤外線で見ると振動が激しい、言い換えるとエネルギーの発生が激しいところははっきり明るく映ります。

つまり、目には見えないようでも光っているわけですね。
実は電子や原子核を作っている素粒子には、仮想光子という光が常にまとわりついているそうです。

となると、素粒子は常に振動し続け、光り続けているために、最低の温度であっても振動を止めることはないわけなのでしょうか。

これが、森羅万象にみられる1/fゆらぎを生み、粒子の位置と運動量は正確には決められないという不確定性を生んでいたって事なのかです。

そういえば、聖書には「光あれ、すると光があった」で始める創世記があります。

聖書の記述を残した人たちは、万物に常に光があったことを知っていたでしょうか。

今回は大胆に、科学の謎に空想で切り込んでみました。

真相は、どうなのでしょうか。。。。

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原罪を問い直す 原罪とは何か。その2

原罪の話は、聖書知らないと難しすぎたでしょうか。

 ちょっと難しいけど・・・・ 。

あ、やっぱりそうですか。

「知識」を得るのと同時に、「死も知らなければならない」ということでセットになっていたのですね。

このことについても、こんな感想をもらいました。

 この言葉の意味、ものすごく深いので、いろんな想い、考え、想像が浮かんできました。ふうむ~

エデンの園で、何歳になっても寿命で死ぬということは、なかったのでしょうね。

でも、不注意に木に登れば、落ちたら死ぬ可能性はあったことでしょう。

ただ、そんな時も神が注意を促されるので、危険は避けられるのでしょうね。

神が、二人に死を体験させるため、危険に気づかないようにさせるなど、立場上できないことを思えば、二人の判断ミスということにするしか、手はなかったとも言えるかもしれません。

こんなコメントもきました。 
 
 わたくしには聖書自体がグローバル化とセットになっているとしか思えません。
 原罪が日本人にピンと来ないのは日本人が神さまや自然と一体化している民族だからだそうで。

「フランダースの犬」のネタを扱ったとき、欧州のキリストに対する解釈に疑問を出させてもらったのですが。

ここにも、欧州の聖書理解そのものが問われている気がしますね。

 一神教になったら自然の神と分断されてそして悪魔が入り込む隙が出来た…
 「知識」というのは、自然を征服しようというものではないでしょうか?

聖書自体は、自然を人の管理にゆだねていても、征服しろとは言ってないのですよ。

自然を、共に生きる相手としてではなく、やらなきゃやられる敵として、捻じ伏せるべき相手として、捉えているのは欧州の自然観であって、聖書の自然観ではないのですよ。

自然と人について聖書が説くのは、創造の最後に登場させた人に神の似姿と自然を管理する権限を与えていることで、人に好きなように勝手に扱っていいとは、委ねてなどいないのですよ。

自然にも、人にも、神はただ一人、旧約ではヤハウエ、新約ではイエス、そう呼ばれる「わたしはある」と名乗るお方なのですよ。

そうそう、言い忘れたけど、知識の樹になる実によって得られるのは、神に近づくために身につける必要のある知恵と知識なのです。

神の御心に従って、世界に臨むための心構えなのです。

聖書自体が、グローバル化とセットになっているとしか思えないとの感想にも、一言、つけくわえたいです。

それは、残念な誤解なのです。

聖書は、自らの絶対性を主張し、絶対神への服従を求めますが、それはグローバル化とは異質なのです。

 「死」という概念が、「時間」という概念を気付かせ、時間が「量」という概念を生み出した・・・気がしました。
 量(数)を認識して、はじめて「管理」もできる。。
 近代の考え方の基礎、つまりキリスト教圏の考え方の基礎が、ここには隠されてる気がしました。

 もう「自然を管理」がわたくしには理解できませんわ。
 「自らの絶対性を主張し」・・・いったいどこの誰に主張する必要があるのか?

管理とは、辞書にはこうあるのです。

管轄・運営し、また処理や保守をすること。
取り仕切ったり、よい状態を維持したりすること。
私法上は、財産などについて、その性質を変更しない範囲で保存・利用・改良を目的とする行為。
または、他人の事務について、その内容を現実化するための行為。

具体的には、次のようなことのようです。

1 ある規準などから外れないよう、全体を統制すること。「品質を―する」「健康―」「―教育」

2 事が円滑に運ぶよう、事務を処理し、設備などを保存維持していくこと。「―の行き届いたマンション」「生産―」

3 法律上、財産や施設などの現状を維持し、また、その目的にそった範囲内で利用・改良などをはかること。

神から自然の管理を命じられるとは、神のお創りになった自然を、神の意思に沿うような形で利用させていただくことと思われるです。

自然破壊、環境破壊、そんな結果に結びつく行為など論外ということではないのしょうか。

自然界のすべてと共生共存しながら、持続可能、再生可能な使用や利用をさせていただくということではないのかです。

自然に君臨しようと傲慢にならず、自然からの恵みを分けてもらう気持ちでいるべきではないのかです。

また、欧州文化批判になってしまったです。

「自らの絶対性を主張し」とは、聖書の神がモーセを通じてイスラエルと交わした『十戒』の最初にこうあるのです。

私のほかに神としてはならない

ところが古代イスラエルは何度か、異教の神に走ったことがあるのです。
そのたびに、神は怒り、イスラエルを懲らしめたのです。

それでも、イスラエルは分裂後、北朝10支族は異教の神に走って神を怒らせ続け、征服された挙句のはて、行方不明になったです。
いわゆる「失われた10支族」ですね。

残った南朝二支族も、保ち続けた信仰が揺らいだとき、征服されて、しまいには亡国の民となるのです。
第二次大戦後、再建してもなかなか和平がこないのです。
同じ神の民であるはずのイスラムと、ぎくしゃくしちゃっているからかもしれません。

原罪って、ほんとうはなにのことでしょうか。

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