生命の樹
聖書の創世記には、生命の樹が記されているのです。
生命の樹は、世界樹、宇宙樹、扶桑樹などと、同じであるとみなされる、世界の中心にそびえる樹です。
生命の樹とは、現実の樹ではなく、ユダヤ教神秘主義やヘブル密教とよばれるカッバーラの奥義を象徴化したものです。
カッバーラ(קַבָּלָה)とは、授かるものという意味のヘブル語です。
ここでいうカッバーラは、神から授けられた知識や知恵という意味です。
生命の樹とカッバーラの中には、無数の真理が凝縮されていると。
最も重要な奥義は、生命の樹は後ろ向きの人型とされるアダム・カドモンであることです。
そして、このアダム・カドモンのアダムとは、第二のアダムとも言われるイエス・キリストをさすとも言われるのです。
これに対して、人に死をもたらす樹があるのです。
聖書の創世記で、アダムとイブが食べるなと神から諭された善悪を知る樹のことであるとされるのです。
この死の樹の人型は、サタン=堕天使ルシファーを意味するとでもいうのでしょうか。
人に死をもたらす樹が、善悪を知る樹なの。
それは、善悪を知る樹の一面という、感じがしますね。
死をもたらす判断か、生をもたらす判断か、それを裁くという意味でも、「善悪を知る」樹ではないでしょうか。
もしも、「善悪を知る樹を選ぶこと」が「死の樹を選ぶこと」、であり、「サタンを選ぶこと」、であるとしたら、どうなるの。
それは「自分の判断を主の判断の上におき主をないがしろにすることを選ぶこと」が、「善悪を知る樹を選ぶこと」と等しいということなの。
わたしが、「本来の悪魔(akuma)」というふうに「本来」とわざわざ断る理由もそこにあるのです。
くどいようだけれど、「本来の悪魔(akuma)」にはサタンはいないのです。
裏を返せば「いわゆる悪魔(akuma)」と私が言う場合、サタンが含まれることになるのです。
「本来の悪魔(akuma)」=「死の樹に落とす悪魔(akuma)」=「裁きの神としての悪魔(akuma)」
「いわゆる悪魔(akuma)」=「死の樹を落とされる悪魔(akuma)」=「滅びのサタンであるルシファーの一味」
つまり、本来の悪魔(akuma)によって裁かれ、滅びに突き落とされる存在がサタンとなった堕天使ルシファーとその一味ということです。
落とす側と、落とされる側の混同が、悪魔(akuma)を本質が掴み難い存在にしていたのです。
決して、「自分の判断を主の判断の上におき主をないがしろにすることを選んだ」わけではないのです。
むしろ、アダムとイブが神の判断基準を知ることは、神が望んでおられたことだったのです。
食べるかどうかは、あなたしだい。
しかし、食べれば死ぬ運命が待っていると忠告しておこう。
おっしゃるとおりです。
それが、食べてはならない、食べると死ぬという、神の言葉が意味していたことでしょうね。
それは神の忠告に従わないという選択をしたという点では、堕落を選んだという風に言われても仕方がないといえるではないでしょうか。
創世の時に、神はエデンの園の中央に生命の樹と善悪を知る樹を生えさせられたのです。
これはエデンの園に、ヤハウエとしてのイエス・キリストとルシファーがいたというの。
アダムとイブは、知識を得るために、あえて堕落したと神に判断される危険を冒したといえるの。
神が、アダムとイブの成長のために死の運命を受け入れてほしいと望み、アダムとイブはそれに気がついたと判断してもいいのかもしれないですね。
誤解を恐れずに言えば、神に背くものを意味するサタンという意味では、堕天使ルシファーがいたと言っていいではないでしょうか。
神は全ての事を見通した上で、御自分の計画を進めておられるという事ではないでしょうか。
しかし悔い改めて、救い主イエス・キリストに従うならば、贖いと復活の力によって神の御前に連れ戻され、永遠の生命を受けると約束されたのです。
生命の樹と死の樹、どちらを選ぶかは私達自身の選択にかかっているのです。
信じるも信じないも、あなた次第ってやつね。
もちろん、これもまた序の口です。
カッバーラは、底がないのです。
エデンの園の中央にあった2本の樹については、複数の解釈が可能です。
まず神はアダムとイブを創造した時、「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と命じられたのです。
そしてエデンの園に2人を置き、こう言われたのです。
『あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし、善悪を知る木からは取って食べてはならない。あなたはそれを食べる日に、必ず死ぬからである。』(創世記2章16、17節)
伝承によっては、「 それでも、あなたは自分で選ぶことができる。それはあなたに任されているからである。しかし、わたしがそれを禁じたことを覚えておきなさい。 」という文章が挿入されていたと伝えるものもあります。
まず、アダムとイブは神から「生めよ、増えよ」と命じられたにも関わらず、エデンの園を追われるまで実際に子供をもうける事はなかったのです。
それは自分が裸である事にも気づかぬほどに、無知の状態であったからです。
2本の樹が、互いに反対の形になる関係にあるという視点でみているわけね。
生命の樹=イエス・キリストが永遠の生命をもたらす者であるのに対し、善悪を知る樹=ルシファーは滅びすなわち第2の死をもたらす者であるとも解釈できるのです。
死そのものは、滅びではない。
神の裁きによって退けられることが、滅びということなの。
その通り。
最も畏れるべきは、神の裁きによる死である滅び。
人による死も、ルシファーによる死も、裁きではない以上、滅びではないのです。
また神は、禁断の樹の実を食べてはならないが、どうするかはあなたに任せると言われているとみていいではないでしょうか。
この言葉の真意は、こうではないでしょうか。
「あなたはエデンの園に留まりたければ善悪を知る樹の実を食べてはならない。それを食べると体が死すべき状態に変化し、ここから出て行かなければならない。しかし無知の状態では子供が生めず、人類が生じるためには知識が必ず必要である。どちらを選ぶかはあなたに任せよう。」
サタンは、神の計画を滅ぼすためにアダムとイブに言葉をかけ誘惑したのではないでしょうか。
2人は神の意図をよく理解した上で、堕落する事を受け入れたということでしょうね。
次に、2本の樹が互いに「合わせ鏡」の関係にあるという視点を持つと、2本の樹は門松と同じように、「初めと終わり=永遠の神」、「旧約の神ヤハウエ=新約の神イエス・キリスト」などの意味を持つと解釈できるのです。
また他にも、生命の樹は罪を赦し永遠の生命をもたらす「憐れみ」の側面を、善悪を知る樹は善悪を厳しく裁く「正義」の側面を持つのですよ。
この「憐れみ」と「正義」の両方を成就する神が、御父と人類の中保者(ちゅうほしゃ)として位置づけられるイエス・キリストであるという見方もあるのです。
中保者(ちゅうほしゃ)は、仲立ちをする者という意味なのですか。
はい、そういうことです。
仲立ちをする者を意味する、主にキリスト教で使用される用語です。
仲立ちの仲という字を当てて、仲保者(ちゅうほしゃ)と記されることもあるのですね。
以前、ある教会の人に聖書のアダムとイヴの話について、こう尋ねたのですよ。
神は人間が知識を持つことを、是としなかったのか。
だったら私たちが学ぶことは、神の意思に反することになるのでは。
まともな答えが返ってこなかったですね。
突っ込みしにくい、ですか。
ううっ、難しすぎる。。。。
私のちいちゃなおつむでは無理かも。
この問題に、きちんと応えられる教会は、悲しいかな、ほとんどないのが現状ですねえ。
ほとんどのキリスト教の教会は、ここで思考が止まってるはず。
「アダムとイブの失楽園は、神の忠告に背いた報いであり、イエスが贖罪の子羊となってくださった。」
じゃ、簡単にまとめてみましょうか。
Q.神は人間が知識を持つことを、是としなかったのか。
だったら私たちが学ぶことは、神の意思に反することになるのでは。
A.神は人間が自分たちと同じ知恵と知識を、持つことを望まれていた。
しかし、そのためには死を経験する必要があることも警告した。
そういうことです。
だったら、子孫を残す方法を知らず永遠の生を持つよりも、知恵と知識を得て子孫を残して死を選んだ方が発展的ですねえ。
だから神は、知恵知識を得ることと死をセットにしたのかなあ。
あまりにも単純に考えてしまったけど・・・・。
いや、素直にそうとってもらって結構ですよ。
世代を超えて、蓄積されてきた知恵と知識によって、発展もしてきたし、方向修正もできてきた、これは事実ですもの。
創世記の記述は象徴が多々組み込まれているので、非常に奥が深く解釈も難しいね。
創世記を始め聖書にちりばめられている象徴を解釈するために必要とされるのが、扉を開ける鍵にも例えられるカッバーラなのです。
でも、カッバーラは変に難しく考えると、むしろわからないですよ。
素直に感じたままに解釈して言ったほうが、わかりやすいとさえいえるようですね。
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