神を想う
神は生きておられます。
神にあえるのは教会である。
そう思うものは、教会で神妙にすればことたれりと思うのでしょう。
けれど、神は生きておられます。
生きておられる神は、すべてをご存知の方でもあるでしょう。
すべてを承知の上で、神の子羊でありたいと願うものを受け入れて下さる神の寛容さに、かたじけなく時々知らず知らずのうちに感謝の涙を流すでしょう。
真の教会って何なのでしょう。
私はつまるところ、神と、神の導きを心から受け入れ、神の導きに心から従おうとする者がいるところはすべて教会とみているのです。
山のてっぺんから、海のそこまで、人のまばらな片田舎から、人のあふれる都会まで、羊飼いたる神と神の子羊のいるところ、すべて教会でありえるのではないでしょうか。
目に見える教会に、神の居場所を求めるのも良いでしょう。
しかし、真の教会は、神と子羊の間にのみ築かれるのでしょう。
迷える子羊、けっこう!
逆らって去るのではなく、道がわからないだけでしょうから。
どうして良いかわからず佇む、けっこう!
背を向けて遠ざかるのでは、ないのでしょうから。
神を見失いながらも、神の導きを心から求め続ける者には、救いの声が聞こえるのかも知れないですね。
証が見えるのかも、知れないですね。
今の私は、神の子羊の群れに入れてもらえているのか、どうかわかってはいません。
それは神がご存知であり、私に出来ることは子羊の群れでありたいと願うことのみ。
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コメント
イエス・キリストは全ての人に、悔い改めてバプテスマを受けるように招いておられますが、その点はどうお考えですか?
投稿: コテツ | 2008年6月26日 (木) 20時11分
何らかの形で、神を受け入れた意思表示をすることを求めるのは、啓典の教えでも、仏教でも、神道でも、共通ですね。
それはある種の、禊を享けることでありましょう。
投稿: cova | 2008年6月27日 (金) 05時31分