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2008年7月

天狗 その1

一般的に伝えられる天狗の印象、それは、こうではないでしょうか。

鼻が高く赤ら顔、山伏のような装束に身を包み、一本歯の高下駄を履き、葉団扇を持って自在に空を飛び悪巧みをする。

このような天狗は一般に、鼻高天狗と呼ばれます。

ところがなぜか「天狗」は、「天の狗(いぬ)」という、みんなが抱いている印象とはかけ離れた意味の言葉なのです。

 犬といえば狛犬・・・
 それと比べたら、天狗は人の顔に近いですよね?
 またイメージが変わりますね。

なんで、犬と結びつくか、その由来を探ってみたいですね。

 猫も長生きすると尻尾が割れて妖怪になる、と。
 犬はそういうニュアンスの伝説を、ワタクシ寡聞にして知りませんですが。
 その辺の延長で、天狗・・・では無いんですね。

 イヌとテング、一見結びつかないものが結びつく背景、奥は深そうですね

いまでは天狗の典型とされる鼻高天狗は、登場が意外と新しく中世以降とされます。
せいぜい遡っても、室町あたりのようですね。

このような天狗の直接の原型は、たとえば『今昔物語集』に見えるこのようなものであろうとされます。
空を駆け、人に憑く「鷹」と呼ばれる魔物や、仏教の、顔は天狗、体は人間で、一対の羽を持つ「天魔」と呼ばれる魔物。

え?仏教でいう天魔は、なんとなく天使っぽいってかです。

恐らくこの「鷹」「天魔」から室町初期以降の変化したものが、鼻高天狗の原型かも。
室町時代成立とされる御伽草紙『天狗の内裏』の、鞍馬寺の鞍馬天狗の容姿が、その初期のものと考えられるそうです。

けれど私には、平均的日本人より鼻の高い修験の目撃談が誇張されて混入していると思われます。

天狗は、元来は中国の物怪であるという説があります。
天狗は、その名の示すように「天かける獣」とされます。

中国の奇書『山海経』西山経3巻の章莪山の項には、この記述があるそうです。
「獣あり。その状狸の如く、白い首、名は天狗。その声は榴榴の様。凶をふせぐによろし」

この天狗の正体は、流星または彗星の尾の流れる姿なのです。
その尾を引く姿のため天狗は天狐、意外なところではアナグマに例えられたのです。

『山海経(せんがいきょう)』などの記された当時、「狸」とは里に出没する獣全般を指す言葉であったです。
山海経とは戦国時代から秦・漢期にかけて徐々に付加執筆されて成立した中国最古の地理書です。

狸については古代中国ではネコ科の動物で、とりわけ山猫や野性化した家ネコなどを総称したものという指摘があります。

古い中国の文献に、こうあるらしいです。
「狸、伏獣。」
伏獣は前脚を揃えて身をかがめ獲物を狙う猫特有の攻撃姿勢です。
「狸者狐類。狐口鋭尾而大。狸口方而身文。黄黒彬々。蓋次於豹。」
黄色と黒の斑が並んでいるという身体的特徴からも、タヌキとは考えられないですね。

ちなみに、古代中国では、日本で言う「狸」は「狢」と表記されるようです。
現在中国でも、タヌキの動物学的標準名は「狢」だそうです。
ついでにいうと、「狢」はいまではアナグマをさすというから、ここで天狗とアナグマがつながるわけですね。
もっとついで、現代中国ではタヌキは「狸」、ネコは「貓」と表記されるそうです。
けど、中国のYAHOO『雅虎』で画像検索すると「狸」でけっこう「猫」出ます。
パンダが「熊貓」も出るけど、「熊狸」も出ます

だったら、なんで「天狗」つまり「天の狗(いぬ)」で、「天狸」や「天猫」でないのかは謎です。

猫の顔は猿とならんで、あるいは猿以上に人っぽいので、「狗(いぬ)」が選ばれたのかもという憶測も成り立つです。
もっとも、憶測なら、いくらでも言えそうだです。

日本で初めて天狗が登場するのは、『日本書紀』の634年の記述とされます。
怪音をたてて空を飛来するものを、「流星にあらず、これ天狗アマキツネなり」と呼んだという記載があります。
平安時代の天狗は『山海経』の天狐によく似ているので、やはり彗星あるいは流星を指したと考えられます。

『平家物語』では、こうあるといいます。
「人にて人ならず、鳥にて鳥ならず、犬にて犬ならず、足手は人、かしらは犬、左右に羽根はえ、飛び歩くもの」
この狐が連想されたり「かしらは犬」に思えたあたりが、「天狗」つまり「天の狗(いぬ)」の名の由来とも想像できそうですね。

 木っ端天狗は、河童天狗ともいわれ、河童もいろいろ動物と結びつきますね。

河童との接点どころか、狸が登場、その狸も、古代中国では山猫や、野生化した猫、ですねえ。

女性神とされる天照大神、もっとむかしは男性神の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)といわれますから、日本と古代エジプトの神の世界はさらに似てきますね。

 あはは~沢山動物が登場でむちゃむちゃ面白いですね。

 私もあのテングがどうして天狗なのかずっと気になっていたんだけれど。
 こういろいろ考えると面白いですね。
 狸も狗も人間にとってはかなり身近な獣の言い方ですよね。

 それと、天狗が彗星という考え。
 日食や月食が恐れられていたように、尾を引く星は古代とても恐れられていたんですねえ。

手や足は人、かしらは犬…犬頭ときたら、わたしゃ死者をつかさどる神アヌビスを連想するです。
ただ、アヌビスに羽根はない、けどですね。

でも、日本と古代エジプトには、太陽神を中心とした動物神をふくむ神々の世界を展開するという、奇妙な共通点があるのですよ。

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バベルの塔はどれほど高かったのか。

バベルの塔って、どのくらいの高さだったのかです。
いくらなんでも、頭は雲に突っ込んで見える高さだったでしょうねえ。

じゃ、雲の高さはどのくらいかです。

上層雲の現れる高さは、およそ5000メートル~13000メートルです。

中層雲の現れる高さは、およそ2000メートル~7000メートルです。

下層雲の現れる高さは、地上付近~およそ2000メートルです。
もっとも積乱雲は、分類では下層雲のグループです。
地上付近から13000メートルの高さまでの背の高い雲です。

頭が入る可能性があるとすれば、下層雲ですね。

バベルの塔のモデルとされるバビロンのジグラッドは、現在では基礎の穴しか残っていないです。
ネブカドネザル二世の碑文によれば、一階の面積は1.4平方メートル、高さは約98.5メートルだったそうです。(もちろん換算)

大ピラミッドの寸法は、現在は地震で頂上が崩れて137メートルになっています。
本来の高さは146.6メートルなのです。

このくらいだと、頭は雲に入りそうです。

砂漠なので、雲に頭を突っ込むピラミッドは見られそうもないですが。

でも大ピラミッドより大きくないと、神の怒りに触れることはないでしょうねえ。

ピラミッドは残ってますから。

ちなみに都庁舎は、第一本庁舎で高さ243mです。
高さが著しく高いビルつまり超高層ビルとは、日本においては、法律上、高さ60m以上の高さのビルが該当です。
一般には、100m以上の高さのビルが超高層と呼ばれ、摩天楼という別称があります。
都庁は、立派に摩天楼ですね。

けれど上には上があり、400メートルを越すビルも建っています。
シカゴに立つ108階建ての高さは472メートルで、完成した時点では世界最高の高さを誇りました。
これに屋上に立つアンテナを加えると、609メートルにも達するといいます。

もっと上があります。
ドバイの「ブルジュ・ドバイ」の超高層ビルは、完成すれば高さ800メートル超、160階以上の世界最高の超高層ビル。

ニューヨークの貿易センタービルが崩壊されたため、ニューヨークで計画されたフリーダム・タワーは540m程度の高さで、ドバイ超高層ビルには及ばないです。

これで驚いちゃいけません。
ドバイでは、高さ1200mに達する超高層ビルの建設が計画中といいますから、下層雲の中ほどまで届きます。
韓国でも、ソウル、仁川、釜山にそれぞれ世界最高クラスの超高層ビルの建設が計画中といいます。

これで怒ってたら、さすがの神様も高血圧になりそうです。
てことは、これよりもっと上なのでしょうか。

北米や日本などでは、超高層ビルの非効率性が指摘されるなど、既に「世界最高」への指向はかつてほどには強くないという指摘もあります。
勢いが衰えた世界の、新興勢力へのやっかみだという、声もあるそうですが。

バベルの塔がどこにあったかわからないというのは、跡が大きすぎてわからんと言うわけなのでしょうか。

多くの画家たちが、インスピレーションをかきたてられて描いたバベルの塔では、まだまだ小さいというのでしょうか

廃材はすべて、都市建設に転用されたとでも、いうのでしょうか。
もしそうなら、廃材だけで、十分間に合ったかもしれないですね。

人々の言葉が乱されたバベルの塔。

考える人の心も、乱されてしまいそうです。

追記

2011年8月3日、こんな記事を見つけました。

これ、本当に建つのでしょうか。

もし建つのなら、神を怒らせたバベルの塔はどれだけ高かったのでしょう。

サウジ富豪が1000m超タワー計画

サウジアラビア王子が2日、建設計画を発表した超高層ビルの完成予想図。

紅海沿岸の都市ジッダに高さ1000メートルを超える世界一の高層ビル「キングダム・タワー」を建設する。

5年後の完成を予定している【AFP=時事】

(時事通信)
高さ千m超!サウジ富豪王子が世界一タワー計画
(読売新聞) 2011年08月03日 18時04分

 【カイロ=田尾茂樹】世界的富豪として知られるサウジアラビアのワリード・ビン・タラール王子は2日、同国西部ジッダに高さ1000メートルを超える高層タワーを建設する計画を発表した。

 完成すれば、アラブ首長国連邦ドバイの超高層ビル「ブルジュ・ハリファ」(828メートル)を抜いて世界一の高さとなる。

ロイター通信などが伝えた。

 王子が代表を務める投資会社がサウジ最大手の建設会社と、建設費46億サウジ・リヤル(約950億円)で契約を結んだ。

ホテルや住居、オフィスなどが入る予定。

完成まで5年かかるというが、着工時期やタワーの最終的な高さは公表していない。

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猫はいつ踊る?

新月から満月の陰から陽の十五日、満月から新月の陽から陰の十五日。

夜に光って、満ちて欠ける月のイメージは、猫の瞳のイメージでもあります。

出雲のわらべ歌「ねこにゃんにゃん」で踊る猫は、どのような光を浴びたのでしょうねえ。

満月の月明かりの中、尻尾の丸い曲尾猫がお囃子にあわせ、目を光らせながら踊ったのでしょうか。
それとも、新月の闇の中、松明や灯明に照らされて身をくねらせたのでしょうか。
あるいは、そのどちらもあったのでしょうか。

もし、そうだとしたら、かわいらしくも、幻想的だったでしょうねえ。
特訓された猫には、迷惑千万な話だったかも。。。。

 猫ってそういううわさがなぜかあるんだよねぇ。

 神秘的だから?
 でもどっちにしても 可愛すぎてちっとも怖くならないわ。

そういえば、今じゃ化け猫も、あまり怖がられてませんねえ。

 猫は昔話にもよく出てきます。
 僕の家には、色々な飼い猫や野良猫が集結してきて、よく集会してました。
 時にはなに事かを、していることもありました。
 猫はいったい、何を相談していたのか?

 犬と違って、猫には独特の愛らしさがあります。
 ゆったり自由に生きるあの生活スタイルが、うらやましいです。
 色々な家から家と渡り歩いて何をするのか知りたいです。
 やっぱり、餌や異性さがしかなあ。

 それから、僕は江戸時代の夜に猫が出てくる怪談ものとか、大好きですよ。

猫は、踊っていたという伝承が各地に残ってます。

 そういえば野良猫って良く集会してますね。
 本当は日本語喋れるだろう?
 こんなこと、思うぐらい「にゃごにゃご」喋ってますが。。。
 何を言ってるのかなぁ?

 愚痴かな、実はお祭りの相談とか?

どうなのでしょ。

 鹿角ではお墓の広場で、着物を着た化け猫が何と八匹も居ました。
 そして、どれも二つか三つの男の子、女の子の着物を着て居ました。
 どの猫も、下駄ケタを履いていました。そして、手拭いを出して頬被りをしました。
 「猫じゃ、猫じゃと可笑オカシくて。猫が、猫が杖突いて、下駄履いて、絞り浴衣で来るものかなあ」
  カラリン、カラリンと手拍子、足拍子面白く踊り出しました。
 鹿角市発行「陸中の国鹿角のむかしっこ」より

面白いでしょ。

 そういうと、祭りは豆絞りやなあ。

それは、気になりますね。
祭りは豆絞り、祭りの後は生絞りって思ってませんか。

 ワタクシの住まっている周辺にそんな猫話が散らばっていたとは。。。

 嬉しい限りです。

また、鎌倉には猫が一人前の男女になった証に、ある夜ある場所に集まって、「猫じゃ猫じゃ」と踊ったと言う言い伝えの場所があります。

それから、こういうのもあります。

 長後街道とよばれている戸塚から西へ伸びる県道22号線沿いで、・・・猫じゃ、猫じゃ、五郎兵衛の猫じゃ・・・
 ・・・・ねこじゃ、ねこじゃ、わしゃねこじゃ・・・と毎夜若い娘が狂い踊っていました。

ほかにも、こんなの。

 戸塚の宿の旅篭では手拭が毎夜盗まれていました。
 そこで旅篭の主人が物干しを見張っていると猫がくわえて行くので後をつけると丁度今の踊場付近の繁みで猫が手拭を頭に巻いて踊っていました。
 それで中田寺の和尚が猫の怨霊のたたりと供養塔を建て、娘の踊りも手拭が盗まれることもなくなったといいます。

私が、出雲のわらべ歌「ねこにゃんにゃん」で、夜を連想したのはこのような情報に接したからだったのです。

本当はどうだったのでしょうねえ。。。

 なぜに、猫に手ぬぐいなんでしょう?

 うちの猫もそのうちに、手ぬぐい被って踊らないかなぁ。
 まだ尻尾が二股になってないから、駄目ですか。。。
 今度猫の手の届くところに、手ぬぐい置いてみます。
 ハンカチじゃ、駄目なのかなあ。

ま、猫が茂みなどで飛びまわる虫を追いかけているさまを、踊っているように勘違いした、なんてことが言い伝えの元にはあるかも。

それよりも興味深いのは、手拭を頭に載せているパターンが多いように見えることです。

それは、日本の踊りにしばしば手拭が登場することと、かかわりがあると思えるです。

今でこそ多彩な文様がある踊り手拭も、多分、昔は紺の絞ではなかったかと想像するのです。

紺の絞の手拭を被り、紺の絞の浴衣を着る、つまり紺の絞に身を包む装束こそ、踊り装束の原点であったのではないでしょうねえ。

踊りとはもともと、神霊との交信の儀式であったようです。

つまり絞とは、生死の境をしめす斑(まだら)を身にまとうことと解釈できるのです。

 夏といえば、化け猫の季節ですよね。
 私が子供だった頃に比べると、そういう情報(テレビや映画やアニメ)は少なくなったような気がしますねえ。
 それはそれで神秘的だったかも、しれないのに。
 猫が化けるというと、イメージはお化けか妖怪ですが。
 踊りを踊っている猫の姿は、人間に変わって何か世情を訴えているのかなって思ったり。

 うちの猫は、時々歌を歌ってるように聞こえることがありますです♪
 しかも、男の子なのに女の子のような声です。
 これ、もしかしたら女の子の声色をした化け猫のマネでしょうか…
 手拭を頭に巻いて踊ってるにゃんこ、見たいです。

 好みで言えば、猫に踊ってもらうなら、断然夜!
 満月の夜は狸が踊るだろうから、猫は新月の夜ね。

 猫+夜=化け猫、薄気味悪いという人が多いだろうけど…。
 人が寝静まったころに動き出す玩具の兵隊さんをおもえば、可愛いと思えるはず。
 結構猫はああ見えて、人に気を使って生きているのですよ。
 それになんといっても、猫は夜元気。
 昼は可愛らしく日向ぼっこが似合います。

当時は、踊りとくれば手拭がつきものだったので、踊る猫にも当然なように手拭がかぶっている姿を思い浮かべたことは、ありえるです。

さらにいえば、猫は、神の声の象徴であり化身である蛇との合体した祭司の姿とみなされたとすると、生と死の境を示す斑(まだら)を手拭の形でまとうことで、霊界との交信としての踊りであると示している可能性もみてとっていいのかも。

踊る猫伝承は、古代の記憶を後世に伝えているのかも知れないです。

じっさい、南米では猫の姿をした祭司の像とみえるものが出ているのです。

 家の犬は、怒ると言葉らしきもの発します。
 実は猫とも会話できたのかも。

会話、聞いてみたいですねえ。

 うちの犬は、さんぽ(用足し)につれていくのが遅れると、母音だけで激しく発声し始めます。
 目つきからしても、怒っているようです。

ところで、お宅のワンちゃん、なんといって怒るのでしょうねえ。

 多分に、「早くつれてけよー!」と喋ってるつもりなんだと思います。

犬の口には、子音がきついから母音だらけになっちゃうけど、おそらく想像したとおりと思います。

追記

出雲の童歌「ネコにゃんにゃん」の歌詞はここに収録しています。

この歌についての情報募集中です
http://cova-nekosuki.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_78ef.html

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橘は、日本に古くから野生していた日本固有の柑橘(かんきつ)です。
実より花や常緑の葉が注目されました。

 田舎育ちなんで、 小学校のときに木や花の名前を 色々覚えさせられたのですが、 結構忘れてしまっています。

 あの時、真面目に覚えていたらなーと、今になって思います。

いろいろ覚えると、楽しいでしょうね。

 橘で思い出すのは、やっぱりひな壇です。
 桜と橘の木が左右にありました。
 通常ではあまり馴染みがないですよね。

松などと同様、常緑イコール「永遠」ということで喜ばれました。

 日本は四季がありますよね。
 春に芽生え、夏に茂るが、秋には紅葉し、冬には枯れてしまうから、 「常緑」を特に目出度がるのかな。
 松もそうだし。
 日本人は四季の移ろいをめでながらも、やっぱり永遠の命には憧れるのかなあ。
 常夏、常春の国ではどうなんだろ?

どうなんでしょ。

橘の学名はCitrus tachibana、一般的にはミカン科の常緑小高木を意味しました。
樹高は2-4m、枝は緑色で密に生え、若い幹には棘があり、果実は直径3cmほどです。
キシュウミカンやウンシュウミカンに似た外見をしているけれども、酸味が強く生食用には向かないので、ママレードなどの加工品にされることがあります。

柑橘類全般を指して橘と呼ぶこともあるようですです。
濃緑色で光沢のある楕円形の葉を持ち、初夏に香の高い白色の五弁花が咲き、この花の美称がハナタチバナなのです。
果実は冬に黄熟するけど、酸味が強く食用には向かないので、かじってのどの乾きを潤していたという話もあるらしいですね。
現在では野生のニホンタチバナはほとんど見かけなくなり、一部では絶滅の危機にあるそうです。
だから、実際に生息してます橘を見た人は意外と少数ではないのかです。

 はっさくや、ザボンのような感じだと思ってたけど、違うんですね。

柑橘って言っても、いろいろありますからねえ。

 橘って、確かにあまり植えられていませんよね。
 食用ではないから、お目にかかることが少ないんですね。

 言葉に、なじみがあるのに・・・・
 由緒正しいというイメージはありますね。

本州静岡・愛知・和歌山・山口諸県・四国・九州・琉球の海岸に近い山地にまれにはえるニホンタチバナは、常緑小高木です。
高さ2~4mで、花は初夏に咲き、果実は径2,5㎝ですです。
楕円形の葉は互生し、固く、楕円形で長さ3-6cm、濃い緑色で光沢があります。
初夏に香の高い白色の五弁花が咲き、この花の美称がハナタチバナなのです。

垂仁天皇が多遅摩毛理(たじまもり)を常世の国に遣わして「時じくの香の木の実」(ときじくのかくのこのみ)を持ち帰らせたという話が、古事記や日本書記にのっています。
なお、古事記の多遅麻毛理は、日本書紀では田道間守となっています。
「時じくの香の木の実」というのは、不老不死の力を持った霊薬とされます。
古事記の本文では「是今橘也」(これ今の橘なり)としているが、実際にそれが橘そのものであるかどうかは明らかではないです。

多遅摩毛理が探した「時じくのかくの木の実」とは、今でいう橘で、私たちが冬に食するミカンの先祖に近いようです。
ビタミンの豊富な柑橘類は、そのころから薬効が認められていたのかです。
図鑑には、学名にもなるくらいなので、日本固有とか日本原産の柑橘類とかあります。
けれど日本が島国である以上、やはり少なくても元となる種は大陸から伝来したと考えた方が自然と思えるです。

ちなみに月橘(げっきつ) はミカン科Rutaceae で、学名はMurraya paniculata Jack. var.paniculataです。
薬草としては、葉または樹皮を乾燥させ煎じて胃腸カタル・腹痛・下痢などに服用しました。
剪定によく耐え、病害虫に対する抵抗力も強い植物です。
こういう薬になるところはなんとなく、オリーブっぽいですねえ。

 私も、橘ってオリーブにどことなく似ている、っ思っていましたよ。

あ、そうですか。
そう言ってもらえると、うれしいです。

インド、ビルマ、マレーシア、オーストラリア、ニューカレドニア、メラネシア、南中国、台湾から琉球各島の奄美大島、徳之島まで分布しています。
原産は台湾の常緑熱帯小高木、小喬木あるいは灌木です。

樹幹の材質は極めて硬く、葉は透して視ると油点がある奇數の羽のような複葉が交互に生えるそうで、果実は成熟すると紅色になるです。
白色の花が葉の脇から散房花序(さんぼうかじょ)に咲き、夏、月の夜に柑橘の香りを強く発することからゲッキツ(月橘)とよばれるです。
また芳香は遠方まで香ることから、中国では七里香とも、十里香とも呼ばれると言います。

ぁ、そうそう…、散房花序って、いきなり言われてもぴんとこないかも。
繖房花序とも書き、花柄の長さが下部のものは長く、上方になるのに従って次第に短くなり、それぞれの花はほとんど一平面に並んで咲くものを言います。

ちなみに総穂花序の一つで、花序とは、花が茎または枝につく並び方です。
あるいは花の集まり自体や、花をつけた茎または枝のことを指したりします。
花序軸とは、花序の主軸で、花軸とも言い、つまり総穂花序とは,1本の軸つまり花序軸(かじょじく)から側方に出た幾つかの花が並んだものを言います。

月橘は沖縄ではギンギチ,ギギチ,ギキチャーなどと呼ばれ、呪力があると信じられ、祭事によく使われるそうです。
沖縄各島の低地、特に石灰岩地帯に多く野生し,民家の生垣、庭園樹として利用されています。

また、カラタチバナの別称でもあります。
襲(カサネ)の色目にも、用いられ、表は朽葉(クチバ)で裏は黄、また、表は白で裏は青の組み合わせなところは、どことなくオリーブや裏白を連想しちゃうです。

橘諸兄を祖とする橘氏が奈良時代に生まれています。
橘の常緑にあやかって姓にしたと考えられるです。

 橘高(きったか)さんという名前の、友人がいます。
 元をただせば、由緒正しいお家柄なのかな。

気になりますね。

京都御所紫宸殿の「右近の橘、左近の桜」で有名です。
ただし、この橘は、紀州蜜柑に近いものとする説もあるらしいです。

また橘は家紋として使用され、また近代では勲章に使用されています。
文化勲章は元々桜であったが昭和天皇が「文化は永遠である」と言い、咲いて散る桜ではなく、常緑の橘を勲章にしたと言います。

常緑を永遠の象徴と見る感性は、常緑を「永遠の神の嬰児(みどりご)」とされるイエスの象徴とするキリスト教文化と似ているのはおもしろいです。

 最後の一文が効いてますね。
 この共通点は確かに面白い!

面白かったですか。

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フラクタルは聖書に似合うか

ビックバンについては、最近の観測から大きな疑問を投げかけられています。
天体が集中するグレートウオールがほとんど天体の見えない空間を隔てるように延々と続き、網の目のように連なったボイド(泡)状態の異様な光景が明らかになったばかりではなく、天体同士が離れあっている証拠とされてきた赤方偏移も連続値ではなく、飛び飛びの値になる量子化なのが観測されています。

宇宙のなぞに対して、まったく新しいアプローチも出始め、そのひとつがフラクタル宇宙論です。

フラクタルとは、一見秩序がないように見える“カオス(混沌)”を扱うために作られた数学理論です。
フラクタル(fractal)は、1975年にべノア マンデルブロ(Benoit Mandelbrot)によって考えられた造語です。
語源はラテン語の「fracuts」から由来しており、「不規則に壊れてバラバラとなった状態、断片」という意味です。

フラクタルとは、あえて大雑把に言えば、特徴的な長さを持たないような図形や構造、現象などの総称です。

そのフラクタルの最も重要な特徴は、"自己相似性"と呼ばれる性質です。
これは、ある物体をどんなに細かく分割してみても、もとの形と同じものがあらわれるというものです。
これはたとえて言えば、入れ子構造のようなものといえるです。

わかりやすいので、木がよく引き合いに出されます。
木は遠くから見ると幹があり、そこから枝がどんどん分かれて行くという構造をしています。
どの枝を見ても、この関係は変わらないので、任意の枝を選んでその一本を見ると、その枝からもさらに枝が出て、もとの木と同じような構造をしています。

カオスとは、まったく無秩序なランダムと異なり、基本的には決定論です。
ただ、初期の値の小さな違いに敏感反応して、その影響が全体に複雑に無限に及んでしまうので、一見するとメチャクチャに感じられてしまいます。
フラクタルとカオスとは、世界に関する一つの真理を違う側からみているにすぎないです。

カオスの立場の人は自然を科学で「分析」するのに対して、フラクタルの立場の人は、自然を理論によって「合成」することに興味を持っているというわけでしょう。

誤解を恐れずに言えば、フラクタルを表した図の一点を、時間の変化に注目して動きとしてとらえるとカオスになるわけです。

フラクタルでは、小さい世界の構造が大きい世界で、あるいは、大きい世界の構造が小さい世界で、繰り返し出てくる「入れ子構造」が出てくるのが大きな特徴です。

たとえば原子と太陽系は、数学的にまったく同じ姿で描かれ、フラクタルはこのような繰り返しの現れる世界を得意としています。
さらには、素粒子の振る舞いも見事に描写するのです。

さて、このフラクタルで創世記を見たらどうでしょうね。

1 初めに、神が天と地を創造した。
神がこれから述べるような次第で天地の創造の御業をなされた、と述べています。
神が天地創造を始められたときを、聖書はこう記すのです。
2 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

これはまさに、神はカオス状態にある世界に臨んでおられることを示しているように見えませんか。

カオスにあっては、全体も部分も同じ構造が繰り返し表れます。
この記述は宇宙全体のものでもあれば、地球に関するものでもあるわけです。

3 そのとき、神が「光あれ。」と仰せられた。すると光ができた。
4 神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。

そのときとは、神の天地創造の開始された、まさにそのときなのです。
神が、真っ先に創造されたのは光だったのです。
もっと言えば、光をつかさどる御方なのです。
けれども、この方の光は、この段階では地のすべてを照らされておられないのでしょう。

神は秩序を、カオスに満ちた世界にもたらされ世界の創造が始まるのでしょうか。

さらに、神は人を自身に似せたと聖書にあります。

 でも、人の顔って結構変化に富んでませんか。

とはいっても、人の顔って基本的なところは似てますよね。

 耳の位置を問わなけりゃ、猫も目と鼻と口の形と位置が似てますけど。

フラクタルでは全体と部分は、相似形になります。

 神は人を自分に似せたのであって、そっくりにしたとは言ってませんから、相似形でしょうか。

少なくても、類似形ではありますねえ。

となると、神を全体とすれば、人は部分とみなせ、フラクタルのような関係になるのでしょうか。

ちょいと興味が持てたので、こんな想像を楽しんでみました。

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「君が代」は何を歌いたかったのか

「君が代」は、この歌詞で広く知られています。

 「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」

実は「君が代」には、「元歌」があります。
その「元歌」とは、これ。

 「我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」

『古今集』巻7に、「読み人しらず」として納められています。
その後、「我君」の箇所は「君が代」と変えられて、藤原公任撰の『和漢朗詠集』に採録されます。

二松学舎大学溝口貞彦教授は2004年3月、著書『和漢詩歌源流考 詩歌の起源をたずねて』で驚くべき説を提起しました。

「君が代」は、挽歌(ばんか)だというのです。

使ったのは、歌に使われている個々の語彙に含まれている意味を追求する方法です。

そして、「巌となりて」の「巌」は「墓石」という議論を展開するのです。

 君が代って、独特な歌だなあと思ってたけど、そういう歌だったんですか。
 サッカーの国際試合とかで、試合前に国歌を歌うけど。
 日本の国歌だけ、なぜか暗い感じがするもんね。

 君が代のときだけ、空気が変わるですもん。
 「今から試合やるぞやるぞ!!」って気分になりにくいです。

『万葉集』では、前期や中期には挽歌が大きな比重を占めているといいます。
万葉集では、相聞(そうもん)・雑歌(ぞうか)とともに三大部立ての一つです。

挽歌とは、もともとは中国で葬送の時、柩を挽く者が歌った歌のことです。
人の死を悲しみ悼む歌で、古今集以後の「哀傷」にあたります。

今では、人の死を悼む詩歌や、挽詩、哀悼(あいとう)歌をさして挽歌と言います。

ついでに、相聞と雑歌も説明しておきましょう。

相聞は今では、手紙などで互いに相手の様子を尋ねあうことの意味で使います。
でも、万葉集では「あいぎこえ」とも呼ばれ、恋慕や親愛の情を述べた歌のことです。

雑歌も、雑の歌とか雑の句と呼ばれ、今でも和歌・俳諧の題材による分類の一つとされます。
和歌では四季・恋以外のものとされ、四季・賀・離別・羇旅(きりよ)・物名・恋・哀傷などのどれにも属さないものです。
連歌や俳諧では、無季の発句および付句をさします。

賀歌(がか)が登場するのは、奈良時代中期以後の歌が収められている万葉末期です。
賀歌は、和歌集の部立ての一つです。
勅撰集では古今和歌集以下に見え、長寿を祝う算賀の歌が多いです。
算歌とは長寿の祝賀のことで、四〇歳から始めて10年ごとに行った、中国伝来の慣習です。
のちには還暦の六十一歳、喜寿の七十七歳、米寿の八十八歳なども祝うようになりました。

溝口教授は、二つの流れのあることに着目し、「君が代」はどちらの系列かを問うたのです。

 現世における長寿を願う「賀歌の系列」
 死後の来世における永生を祈る「挽歌の系列」

「賀歌の系列」と「挽歌の系列」を識別するポイントの一つは、一つ一つの語彙に込められた意味の解釈にあります。

 「さざれ石の巌となりて」

これは、何を意味するかと言うことです。

 国技館の中庭に、さざれ石だと言われているものがありますね。

あちこちに、これがさざれ石ですっていうのは、展示されているようですねえ。

無生物を生物になぞらえる文学的、比喩的、表現なので、特定で具体的なモデルは存在しない。
そう思ってしまえば、普通が議論が終わってしまいます。

溝口教授は、考察しました。

 岩が成長するという思想が、当時あったかどうか

出した答えがこれ。

 そんな思想はない、小さな石が集まって大きな岩となる、「塵も積もれば山となる」式の思考法ならある

それに、砂岩のような、さざれ石、つまり砂粒のような細かい石が集まって出来る岩がある以上、非科学的ではないのです。

 小石が集まると、巌になるんですね。

 目から鱗、ボロボロ落ちまくりです。

あの、巌というか、砂岩なんですが。

まず、「さざれ石」、あるいは「ささら石」とはなにかです。
ここで「ささ」は、「さざ波」や「さざれ波」に同じだといいます。
つまり、「細かいこと」を「ささいなこと」という、その「ささい」と同じと言うわけですね。

また、「ささ」とは、微風が野原を通りすぎるときの、サーサーという音の擬音語と解します。
この葉をゆるがす音から、「笹」というようになりました。
古代人は微風の通過とともに、神の通りすぎるのを感じされました。

神の連想から、「さざれ石」も「巌」も、ともに霊石とみなされ、神性を帯びます。
これは、死んだ親あるいは祖先の「化身」とみなされます。
人が一人死ねば、霊石が一つふえることになります。

「さざれ石の巌となりて」とは、個々の霊石としての「さざれ石」が集積され、巌という「霊石の集合体」を形成することを意味しています。
「巌」は『万葉集』では、「墓地」あるいは「墓所」を指します。

巌の語は、死者を墳に葬ったのち、その入口を大きな岩でふさいだことにもとづきます。
岩戸ともいいます。

ちなみに、天照大神は岩戸隠れをします。
この解釈からすると、天照大神のお隠れとは、天照大神のご逝去を意味することになります。
実際、日本書記の岩戸隠れには、天照大神御自身のご逝去であると理解できる記述があると指摘されているのです。

その「巌に苔生す」とは、なにかです。
苔は、「再生、転生の象徴」です。
古いものを貴んだ古代においては、「苔」は好感をもって見られ、「苔むす」ことは尊いこととされました。

死後の再生、転生を経て、しかるのち初めて「千代に八千代に」という「永生」がえられます。
「君が代」=挽歌説は、まず語彙の側面から論証されます。

『万葉集』には、長寿や永生を祈る歌が少なくないです。
天智天皇の皇后であった、倭姫の次の歌が比較的初期のものに数えられます。

 「天の原ふりさけみれば、大君の御寿は長く天足らしたり」

この歌の意味はこうです。

 大空を遠く振り仰ぐと、天皇の御寿命は悠久に、大空一杯に満ちている

「君が代」に似た内容であり、大部分の生徒は長寿を祝う賀歌と理解したと、ある高校の国語教師の証言にあるそうです。

ところが『万葉集』で、この倭姫の歌が分類されているのは、巻2の「挽歌」なのです。
「天皇聖躬不予之時、太后奉御歌」、つまり天智天皇が危篤のとき、皇后か作られたとする題詞がついています。
不予とは、臨終という表現をはばかって用いる危篤と同じ意味の言葉です。

古歌が好んで使った手法が、本歌取りです。
本歌取りとは、それに先行する歌を本歌とし、その一部の語句をとり入れて作るやり方です。
その本歌が賀歌ならば、本歌取りによって作られる歌も賀歌です。
反対に、本歌が挽歌ならば、本歌取りによって作られる歌も挽歌です。

そこで、溝口教授は、「君が代」を本歌取りの観点から調べされました。

「君が代」の本歌は、どんな歌かです。
「君が代」が本歌として想定していたのは、『万葉集』巻2の挽歌の一つです。

 「妹が名は、千代に流れむ姫嶋の、子松が末に苔むすまでに」

この歌には、こう注釈がされています。
「河辺宮人が、姫嶋の松原で、乙女の屍を見て悲嘆し作れる歌」

後半の「子松が末に苔むすまでに」は、君が代の「苔のむすまで」に似ています。

本歌の作者は「小松が成長して大木となり、さらに老樹となって、そこに苔むすまでの時の流れ」のうちに、現実には果たせなかった乙女の長寿・永生の姿を見ようとしています。

以上の考察を経て、溝口教授はこう結論づけます。
「君が代」の歌詞の意味は、「千代に八千代に」という永世の願いを、死後の「常世」に託したものであると。
それは「死者の霊に対する鎮魂の歌にほかならない」と。

溝口教授は、紀貫之が個々の秀歌を「さざれ石」にたとえ、それらを数多く集めた『古今和歌集』こそが「巌」だと説いている事実に着目します。

貫之が「我君は」の歌を「賀歌」の部に含めたことは、「この歌の基本的性格を見誤ったもの」であるとします。
貫之はこの歌を「賀歌」ではなく、「挽歌ないしは哀傷歌」のうちに含めるべきであったとみなします。
そこで溝口教授は、「この歌を自分の都合のよいようにつまみ食いした」という批判を免れえないと指摘します。

溝口教授の所説は、三つの点に要約できます。

 「君が代」に盛られた思想内容の分析
 用いられた語彙の分析
 「君が代」の本歌の性質を分析することを通じて、「君が代」が挽歌であると論証する

さらに、これを賀歌とする誤解は、貫之の「つまみ食い」に始まることを証明した形と判断しました。

 だけど、溝口教授は非難されたりしていないの。
 単純な右翼が一部だけ聞いて怒りそうな説です。
 なんてたって、君が代はタブーですよね。

まあ、扱いが難しい主題では、ありますねえ。

ま、それはそれとして、溝口教授の説を見て、疑問が残るのでないかです。
どうして、「君が代」が賀歌と解釈されたのかと。

私は、天照大神の岩戸隠れが鍵と見ます。

天照大神の滅びと復活こそ、岩戸隠れの本来の意味ではなかったのかです。

人が現世で復活することは、現実にはありえないですけど。

古代エジプトには、死者は死後の世界で復活し永遠の生を得るという思想があります。

死が滅びではなく、死後の世界での永遠の生への旅立ちと言う思想が、古代日本にあったとしたらどうです。

無念の死を遂げた者の魂を『怨霊』として恐れ、崇拝された者の魂を『守り神』として崇めるのは、死が滅びと見ると矛盾するのではないかです。
死後に永遠の生があると、見てこそ成り立つ想いではないのかです。

そう。

死は、永遠の滅びに対する嘆きの対象ではく、永遠の生に対する祝いの対象となるのです。

だから、賀歌として受け取る解釈が成立していったのではないのかです。

君が代の、元歌と本歌を並べて見ましょう。

 「我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」
 「妹が名は、千代に流れむ姫嶋の、子松が末に苔むすまでに」

苔は、「再生、転生の象徴」です。
古いものを貴んだ古代においては、「苔」は好感をもって見られ、「苔むす」ことは尊いこととされました。

死後の再生、転生を経て、しかるのち初めて「千代に八千代に」という「永生」がえられます。

溝口教授はこの共通点に注目し、どちらの歌も現実には果たせなかった長寿・永生の姿を見ようとしていると、指摘したのです。

なのに、賀歌とされた理由まで踏み込んでくれなかったのは残念です。

 現実には果たせなかった長寿・永生の姿を見ようとしている

それは願いであるとともに、祝いでもあったのですね。
だから、挽歌として歌われたにもかかわらず、賀歌として受け取られていったのかも。

長ったらしい上に、ややこしいですか。

 びっくりした!
 とっても面白いです。

 深いですねえ。

ありがとうございます。

追記

気になるところがあったので、後日改めて考察してみました。

合わせてみていただければ幸いです。

再び「君が代」を問う

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秦氏と八幡と肥田氏と源氏と…。

伊豆の下田に、下田開国博物館があります。

 下田にそんな博物館があるのは知りませんでした。
 何度も行っているのに。
 今度機会があったら行ってみたいと思います。

前身を豆州下田郷土資料館といい、資料館の開館には郷土史研究家の肥田喜左衛門が深くかかわっていました。

肥田喜左衛門氏も指摘していることだけれど、伊豆のあたりは、秦氏が一大勢力をはっていた地域のひとつでありました。
伊豆は、かなり早い時期から秦氏の一部である賀茂氏が支配していた場所です。
伊豆諸島の神社は、ことごとく賀茂氏の祭神である事代主命を祀っています。
そして、秦氏はもともと、「はた氏」ではなく「はだ氏」を名乗っていました。
となると、「ひだ氏」は「はだ氏」がなまった可能性を疑っていいのかもしれないとも思えるです。

では、肥田喜左衛門氏は秦氏の流れをくむ人物なのでしょうか。
彼を含む肥田一族の顔の印象は、ユダヤっぽいと私は見るのだけれどです。

肥田姓を歴史をさかのぼってみると、古代からかなりなものであったらしいです。
なんと、肥田宿禰なる人物が登場、清和源氏土岐氏の流れや、藤原氏などが祖先候補としてあがってくるです。

ところが藤原氏は、秦氏と、政治の藤原、経済の秦、といっていいほどの関係を持ち、二人三脚を組んでいたといっても言い過ぎではないほどです。
平安京造営を境として、秦氏は藤原氏に座を譲って裏に引っ込んだとさえいえるです。

清和源氏は清和天皇の第六皇子貞純親王の子、経基王を祖としています。
藤原氏は天皇家と姻戚関係が深いので、ほぼ、肥田宿禰は清和源氏土岐氏の流れとみていいのかもしれないです。

興味深いことに、清和源氏は石清水八幡宮を氏神として崇敬していました。
さらに、源義家が石清水八幡宮で元服して自らを八幡太郎と称したことから、清和源氏は八幡神への崇敬を篤くしたと考えられています。

そして、清和源氏の氏神である八幡神、秦氏と深いかかわりがあります。
「八幡」は俗に「はちまん」と呼ばれるけど、正式には「やはた」というです。
「はた」は「秦氏」の「はた」という説もあるけれど、「や」が説明できないという無理があります。
「やはた」にはもっと仰天の説があります。
飛鳥昭雄=三神たけるがとなえる、「ユダヤ」=「ィエフダー」がなまったというのです。
確かに、秦氏にはユダヤ人説があるくらいだから、妙に説得力はあります。

 八幡はユダヤ・・・

 またいろいろでてきたぁ。

秦氏は産業氏族に徹しただけあって、技術にはたけています。

ライバルであった平氏が平姓ばかりを配下にしていたのに対し、源氏の配下は姓がまちまちです。
これは、大きな謎でありました。

「源氏」は、「みなもと氏」と読め、「水源氏」とも解釈できるです。
この「みなもと氏」と読めることに、謎を解く鍵がありそうです。
つまり、配下の人々は何者であったかを見れば、なんで「みなもと氏」であったかが、わかるだろうというわけです。

源氏が水源、つまり治山治水をつかさどる土木の人々であったとする根拠は何かって。
それを物語るのは、源氏が東国を拠点にしたという事実そのものなのです。
秦氏の拠点といえば、京都の太秦では、という方は多いかも。
実際は、秦氏の一大拠点は東国にもあったのです。

秦氏が土木建築にたけた人々であったのは、ご存知です。
彼らの拠点がある東国に、八幡神を氏神とする清和源氏が乗り込むのは、彼らの力を期待したからと想像したくなるというもの。

そして、伊豆には加茂氏や肥田氏がいるのです。
伊豆の肥田氏については、藤原系との声も確かにあります。
でも、藤原氏が秦氏と緊密な間柄なのは周知の事実。

そして、清和源氏土岐氏の流れに肥田氏が登場とくれば、この肥田氏はぷんぷん匂いたちます。

え?
肥えた田なら、肥やし?

ちがいます!

八幡の語源に「ユダヤ」=「ィエフダー」説があるように、秦氏にも「ユダヤ」=「ィエフダー」語源説があります。
秦氏がもともと「はた氏」ではなく「はだ氏」ならば、肥田氏だって「ユダヤ」=「ィエフダー」語源説があってもいいのではないでしょうか。
ていうか、「はだ」よりも「ひだ」のほうが転化しやすいとさえ、私には感じられるのです。

 ィエフダーのフは、huなので(日本語の「ふ」はɸu)、当時の日本人にはどう聞こえたか、考えると面白いですよね。

古代日本語は丸唇の傾向が強く、ワ行母音といっても差し支えなかったようですね。

それからすると、イエハダーに近い音はまず考えられます。

ただ、音にあいまいさが強いので、明瞭化の都合でイエヒダーになっちゃう可能性は捨てきれないと見て、今回の仮説を展開してみたのです。

発音明瞭化による転化を考えれば、「いだ」「えだ」「やだ」もありかも、と想像はできます。

天皇には平安京造営のとき、秦川勝の土地を譲り受けるという不可解な事実があります。

もしも、このときすでに天皇家の親戚筋に秦氏系の肥田氏がすでにいたとしたらどうでしょ。

それこそ、天皇家の血縁に当たる秦氏の土地が右から左へ移っただけということになっちゃうのです。

祭司としての肥田氏は、表の歴史には聞いたことはないです。
でも、もしも皇室のそば近く仕える神官であったとしたら。

いまはまだ、推測の範囲を出ないですけど。

謎が深いと、いろいろ妄想できて、楽しいです。

下田は、開国に大きくかかわった土地です。
開国の舞台となった土地の歴史を知るのも、面白いかも。
温泉や海水浴だけじゃない、下田の別の顔が見えるです。

八幡は秦氏が深くかかわり、秦氏はユダヤであるから八幡もまたユダヤの神を祀っているはずという議論は、飛鳥=三神以外にも展開するものは少なからずいるようですね。

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