再び「君が代」を問う
君が代には、本歌と見られる歌と、元歌と見られる歌と、二つの歌があります。
並べて比べてみたいです。
「妹が名は、千代に流れむ姫嶋の、子松が末に苔むすまでに」
「我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」
「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」
元歌と歌詞が違う場所が、どうしても気になったので再度取り上げました。
二松学舎大学の溝口貞彦教授は、一般に賀歌と見られている「君が代」は挽歌だという驚くべき説を、歌に使われている個々の語彙に含まれている意味を追求して導くです。
それは、本歌と見られる歌の分類が挽歌であることも、大きな原因です。
古歌が好んで使った手法が、本歌取りです。
本歌取りとは、それに先行する歌を本歌とし、その一部の語句をとり入れて作るやり方です。
その本歌が賀歌ならば、本歌取りによって作られる歌も賀歌です。
反対に、本歌が挽歌ならば、本歌取りによって作られる歌も挽歌です。
現世における長寿を願う「賀歌の系列」
死後の来世における永生を祈る「挽歌の系列」
君が代は、本歌が挽歌だから元歌も挽歌、それは歌を見比べても納得しないわけには行かないです。
「妹が名は」と「我が君は」は、故人となった個人だから、挽歌と見ても違和感はないけどねえ。
それに比べて、「君が代」はどう見たって個人ではないでしょ。
なんの断りもなく、「君」とくれば古代では「大君」のことです。
「大君」には、親王や諸王など天皇の子孫の敬称の意味もあるけれど、真っ先に来るのは天皇を敬っていう語としての使い方です。
「君が代」は、「大君の治めておられるこの世界」というわけね。
横浜市立大学名誉教授の矢吹晋は、「君が代」に対して私の抱いてきた感性的な違和感を見事に裏付けてくれたように思うといってこう主張しました。
『万葉集』以来の豊かな古典を誇る日本民族にとって、挽歌「君が代」を慶祝の式典で歌うのは、ふさわしくない。
ひとたび『万葉集』の本歌に触れて、それが挽歌である事実を知った者には、もはや慶祝の場で違和感なしには歌えないはずだ。
そのような違和感こそが日本民族本来のやまと心なのだ。
しかし、ちょっと待ってほしいです。
死が滅びではなく、死後の世界での永遠の生への旅立ちと言う思想が、古代日本にあったとしたらどうなのかです。
これは、死後の来世における永生を祈る「挽歌の系列」として溝口教授も指摘していることです。
無念の死を遂げた者の魂を『怨霊』として恐れ、崇拝された者の魂を『守り神』として崇めるのは、死が滅びと見ると矛盾するのではないかです。
死後に永遠の生があると、見てこそ成り立つ想いではないのかです。
死は、永遠の滅びに対する嘆きの対象ではく、永遠の生に対する祝いの対象となるでしょ。
だから、賀歌として受け取る解釈が成立していったのではないかです。
「大君の治めておられるこの世界」に対する挽歌を歌った目的は 何なの。
左翼が祝杯を挙げ、右翼が激怒する、そんな歌がこの時代に許されたと見るなら国文学者としていかがなものかです。
「大君は神にしませば赤駒の腹這う田居を京師(みやこ)となしつ」
ここに、解釈の鍵があると思えるです。
神である大君はお隠れの後も、「千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」われわれを守っていただきたいし、守っていただけるはずです。
苔は、「再生、転生の象徴」であります。
古いものを貴んだ古代においては、「苔」は好感をもって見られ、「苔むす」ことは尊いこととされました。
死後の再生、転生を経て、しかるのち初めて「千代に八千代に」という「永生」がえられるです。
大君が、現実には果たせなかった長寿と永生の姿を見ようとしている人々は、大君が名実ともに神となられたことをむしろ歓迎したと見たら間違いかです。
歴代の大君は、太陽神である天照大神の子孫として崇敬の対象だったのでは。
大君は祖先神である天照大神の傍らで地上を見守ってくださるとみれば、「君が代」は賀歌となるってみたらどうよ。
つまり天皇の崩御は生の終わりではなく、お隠れであり、神の世界で生きておられ死後の来世における永生を得られるための通過点に過ぎないってことかです。
現世における長寿を願う「賀歌の系列」 になるかって疑問も、そもそも大君である天皇は神として崇敬され不死の存在とされたから崩御、お隠れと言われたとしたらどうです。
そう、死後の来世における永生を祈る「挽歌」と現世における長寿を願う「賀歌」という区別は、天皇には無縁ってこと。
むしろ、大君が岩戸隠れの後再び出てこられた天照大神同様、お墓にお隠れの後、神の世界で再生されることを願い祝ったのが「君が代」の正体だったのでしょうか。
古代の天皇墓が形はいろいろあっても、ほとんどは横長であったのはなぜかです。
岩戸になぞらえたと見るほうが、自然ではないかです。
君が代が挽歌だったとは・・・・・
しかし、ここでも死と蘇りがテーマになるんですね。
古事記の世界か。
日本文化の深層の真相に素直に心いたせば、見えてくるはずの風景でしょうね。
深く意味を掘り下げていかないと、わからないという点では…ぅうん。
やはり、日本の国歌ですかねえ。
UKの国歌なんて、読んで字のごとくだもの。
なぜに、崩御、なぜに、お隠れ。
一般人にも、臨終といい、お亡くなりといっても、無事成仏してほしいと願いを込めることとあわせ考えれば、こんな感想はいえるでしょうかねえ。
こういう葬式の晩歌を祝いの席で、日本民族の伝統だといいなして、無理やり歌わせるのは、無知もいいところ。
滑稽きわまる。
これも日本の健康なナショナリズムとは見なし難い。
言ってる本人の無知を、わたしゃ疑いたくなるです。
秘める東洋と、現す西洋、陽の東と、陰の西。
陰陽で見ると、東洋と西洋の奇妙な対比は興味深いです。
死生観に関する姿勢がどうかで、君が代「挽歌説」で止まるか「賀歌説」に進めるか、それが分かれるかもです。
教授といわれる人々でも、古代を見るのに近・現代的死生観で無意識に考えてるのがわかるのは少々寒いです。
死生観は普遍的なようでいて、案外、地域や時代で多様性があるので興味深い課題ですね。
追記
これはこの話の続編なので、合わせてみていただければ幸いです。
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