« 2008年10月 | トップページ | 2008年12月 »

2008年11月

あなたも不安ですか。

先が不安なのは、誰も同じです。

孤独な経営者はなお、そうです。

だから、宗教に走ったり、占いに縋ったり、なんて気分にもなる人が出てくるのでしょう。

そういう人の相談相手に認められれば、それが仕事になるでしょう。

どんな仕事でも、ある意味相談相手として受け入れられることではありませんか。

受け入れ上手、聞き上手、それを目指すことが、いるのでは?

こんなこと言ってる私も、不安の固まりです。

でも、相談に乗ることは自分の勉強と思って、いろいろ精一杯考えて話しています。

どうしても不安なら、突っ張ってないで、意地になってないで、思いっきり泣いたらいいです。

自分の弱さをすべて受け入れ、そこに開き直ってみてみませんか。

私も弱いです。

私も臆病です。

私も愚かです。

それを痛いほどわかっているから、意地にもならない、突っ張りもしない、自分の現実を受け入れてそこからすべてを始めるよう心がけています。

言うほど簡単ではないから、苦労しまくってますけど。

泣くこともできないほどの状態ってとこですか。

泣くことを怖がっているのですか。

なぜ、怖がるのです。

情に棹差せば流されるからですか。

涙かれるまで、泣いたことありますか。

すっきりするまで、泣いたことありますか。

思いっきり泣いて倒れても、地面より下には行かないし、行けないですよ。

「柳に風折れなし」

しなやかさこそ、真の強さと思えます。

男にない、女の強さ、しぶとさは、弱さに簡単に開き直ること、すぐに泣いてしまうこと、ここにあると私は見ます。

男がもろいのは、泣かないと突っ張り、強がり、弱さを見せようとしないから。

開き直った女は、そこらの下手な男より、怖いほど強いと思いますけど。

誰にも頼ることができないし・・・・ って?

そうやって一人で生きていけるオーラだしまくってると、可愛がられる人になれないのでは。

頼りあえるパートナー、本気で探した方が良いのでは。

私は、冗談抜きで、そういう相手が切実に欲しいです。

何も結婚相手に限りません。
就職しようが独立しようが、人生の楽しみを語り合おうが、頼りあえる相手は必要ではないでしょうか。

もう遅すぎると思う…ですって。

綾小路きみまろ、じゃあるまいし…。

「有効期限の過ぎた亭主賞味期限の切れた女房」

なんて言いたいのですか。

 遅すぎる 棺おけ手前で 言う言葉  

生きてるうちは、遅すぎるなんてことはないのでは。

ポチッとよろしく!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

上げると下ろすと。

一口に「あげる」って言っても、いろいろありますよね。

  「あげる」を漢字にすると、「上げる」「揚げる」「挙げる」ですよね。

 一番利用されるのは、「上げる」ね。

基本的な意味は、辞書ではこうなってます。

『そのもの全体または部分の位置を低い所から高い方へ動かす、また、移す。』

興味深い用法は、これですね。
 
 1.所有者や高位の者の手元に収める。
  
 2.定形のないものやひそんでいたものを、現れるようにする。出す。
 
 3.神仏や敬うべき人などに、ある行為がなされる。

そうなると、気になるのは対になる、「下ろす」「降ろす」ですね。

基本的な意味は、辞書ではこうなってます。

『上から下に移動させる。』

興味深い用法は、これですね。
 
 1.神仏・貴人・客などに供した物を下げる。また、お下がりをもらう。
  
 2.神降ろしをする。
 
 3.役職・地位を下げたり、辞めさせたりする。

こうしてみると、実は「上げる」「下ろす」には神に関する意味が大きな比重が占めるように感じられるのです。

 ね!
 もしそうなら、これ気になる!
 
 役職・地位を下げたり、辞めさせたりする。

 堕天使になったルシファー、連想しませんか。

そういえば…。

だったら、これどうです。

定形のないものやひそんでいたものを、現れるようにする。出す。

旧約の姿が見えなかったヤハウエは、新約では受肉してイエスになってます。

 じゃあ、上がり下がりは、ヤコブが幻に見た天使の梯子が背景にあるってこと?

「下ろす」には、“本来あったところから移す”って、意味もあるって言うのです。

 え~!
  
 それじゃあ、アダムとイブの失楽園みたい!

「上げる」「下ろす」には、とんでもない意味が隠れているのでしょうか。

 となると「天下り」は、こういうことかなあ。
 お役人様を崇めた、過去の風習ってところですかね。
 いまじゃ役人はバッシングの対象でしかないから。
 新しい言葉をつくらないと・・・。

確かに、「天下り」は、“神降ろしをする。”の意味ですもん。

辞書には元々の意味を、『天上界から地上に降りてくること。また、その人。』とありますよね。

業者にとっては、天界から火を奪って下界にもたらして下さったプロメテウス様にも匹敵する、仕事と役所とのパイプをもたらしてくださる役人様の“神降ろし”ってわけでしょうか。

ポチッとよろしく!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

猫と祟りと?

エジプトの宗教では、猫には3つの役割が有りました。

雄猫は太陽神ラーの象徴、雌猫は愛と恐怖の女神でもあった慈悲と豊穣の女神バステトの象徴で、バステトは本来は雌ライオンで破壊の力神セクメトでした。

猫とライオンは、戦いの神シェカメットの象徴でもありました。

雌ライオンの姿で描かれたシェカメットは、古代エジプトでは最も激しいハンターとして知られています。
シェカメットは、ファラオの保護者とみなされてもいました。
暑い砂漠風がシェカメットの息であるされ、砂漠をつくるとされました。

そしてシェカメットは、雌猫や雌ライオンとして描かれながら太陽の神ともされたのです。
 
 太陽神とされた点では、雄猫として描かれるラーとだぶりますね。

ええ、不思議ですね。

特にバステト神の崇拝は、ブバスティスというところが中心に行われていたのです。

紀元前1000年頃にこのブバスティスが古代エジプト政治の重要な中心となったため、ますます猫は神として崇拝され、繁栄したのです。

 これは、シヴァとお妃パールバティあるいは神紀カーリーとそっくりですね。

昼は日溜りでうたた寝し、夜になると活動し、くるくると変わる猫の目は、月神としての性格を秘めていたのかもしれないですね。
 
 月神は陰陽では陰の神、陰と言う点では、姿が見えない旧約のヤハウエや、再臨のときまでお隠れのイエスも似てますね。

しかし、猫神はイエスと悪魔(akuma)の性格を併せ持つように思える点では、シヴァと性格が似通った神ですね。

 ラーは、穏やかな神かと思えば、怒り狂って雌ライオンで破壊の力神セクメトを地上に送ったりしてるしね。

そしてまた、ネズミ=根住みを退治する猫は、おなじくネズミを退治する蛇とも同格の神ですね。

 二面性という点では、猫=蛇=シヴァとなるのかな。

シヴァは、天空の祟り神ヤハウエと地上の救世主イエスの二面性にも繋がって見えるのは興味深いです。

 だから猫は、祟るなんていわれてしまうのかなあ。

どんなもんでしょ?

 天空の祟り神ヤハウエ・・・。
 いつも旧約を読むたびに、なんでこんなに恐ろしい怒りの神なんだろうと思ってきました。
 それに対してイエスの愛。
 対照的ですよね。
 猫はその二面を併せ持つのか。

 だから猫って魅力的なんですね。
 納得。

なぜか、バステトは本来は雌ライオンで破壊の力神セクメトだったことは、旧約のヤハウエと新約のイエスに妙にだぶりますよね。

みなさんは、どうおもったでしょ。

ポチッとよろしく!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

アロハで繋がる、ハワイとシリア?

「仏教の中のユダヤ文化―聖書から見た釈迦の教えと聖徳太子伝説」

この本の末尾に、大秦景教流行中国碑の訳が掲載されています。

なかなか面白く読んだのです。

この中に、あれ!?と思う部分があったのです。

「阿羅訶」…?

「アロハ」と読むのです。

 全く違う言語なのに妙な共通点があることってね、他にもありますよね。
 なんだか不思議、なんだか楽しい。。。 。

シリア語で“神”だそうです。

だれ?

アロ~♪ハ~♪オエ~♪

歌ってませんか?
じつは、わたしも歌っちゃったのです。

でも、ハワイ語でちゃんと言うとこうなるそうです。
ローマ字風に読んで良いとの事です。

Aloha au ia `oe  アロハ アウ イアー オエ  愛してる、あなたを。

でも、ハワイって言えば先住民はポリネシア系ですよ。

 なんで?

ポリネシア人やミクロネシア人は、ちょっと見は黒人っぽいけど、実はモンゴロイドに分類されます。

ちょっと見が黒人っぽいのに、実はモンゴロイドと見られているのは謎だらけの古代アメリカ人、オルメカ人もそうなのです。

報道によると、サイエンス2006年9月15日号に、紀元前900年ごろと推定される未知の文字がメキシコ南部ベラクルス州で多数見つかり、中米最古のオルメカ人のものと見られると出たのです。
もし、本当にオルメカ人の文字なら、彼らの起源についての研究に大きな手がかりが出たといえるです。

 でも、黒人といえば分布の中心はアフリカですね。

ポリネシア人、ミクロネシア人、オルメカ人、いずれもモンゴロイドと黒人の中間とすれば、起源をアフリカに求めても自然ですね。

おもしろいことに、ハワイ語で太陽は「ラ」というらしいです。

 古代エジプト人は、地上の太陽神を「ラー」と呼んだでしょ?
 もとは、一つの神だったのかな?

可能性は、疑ってもいいかも。

 面白いですね。
 つながれば、線路は続くよどこまでも、見たいな感じ。

 へイエルダールのコンチキ号実験航海もあるしな。

ちなみに、もっとも有名なハワイ語のひとつ、Aloha-アロハは「愛」のほかに、「こんにちは」、「さようなら」を意味するです。
Aloha は、 alo と ha 二つの言葉から構成されているのです。
alo には「前面」、「顔」という意味があり、 ha は「呼吸する」、「生命の息吹」というような意味になるのですと。
この二つをあわせたAloha は、元来「相手の顔の横で呼吸する」という動作を表すけれど、愛を意味するのも面白いです。
 
 「こんにちは」とやってきて、「愛」して、「さようなら」と去っていく…なんてまるでドラマのようです。

 「相手の顔の横で呼吸する」
 なんだか、濃い愛情を思い浮かべますね。

言葉の意味が、面白いですよね。

 「こんにちは」「さようなら」と「愛」の3つを表す、というのは。
 つまり、挨拶とか愛は、人のふれあいの根本なのかな。

 人とのふれあいの根本は、顔をつき合わせて生きるということなの?
 原住民の言葉は直裁で、だからこそ意味深く思える。

 もしかすると地球上の全人類は、愛つながりで種族は同じかも。
 なんて思ってしまいますね。

Aloha が、元来「相手の顔の横で呼吸する」という動作を表すわけですからね。
「相手に声をかける」という動作を表すと、見てもいいのかも。
それで、挨拶の言葉となるわけです。

 欧米では例えば、「グッドモーニング」「グーテンモルゲン」など「あなたに良き朝がありますように」と声をかけますね。

これらの挨拶は、相手に神の愛や、神の慈悲があるようにと祈った言葉が縮まったものですよね。

Alohaに「愛」の意味があるならば、「あなたに祝福がありますように」と言い換えても良いはずです。
日本語にこういう慣用句がないから、「こんにちわ」「さようなら」「愛」と訳すことになるです。

つまり、Alohaにもっとも短くもっとも適切な訳を当てるなら、「神のご加護を」ではないかとわたしは思っちゃうのですけれど?

 愛を伝えに来て、そして去っていった、もっとも有名なお方は、イエスですよね。

そうですね。

 言葉も共通してるのですね。

深いところで、繋がっていそうですね。

余談ですけど、ハワイ語の“アロハ”は、“アロ・ハ”です。

“アッラー”は、もともと“アル・ラー”なのです。
もし、神を意味するシリア語の“アロハ”も、“アロ・ハ”と切ってよければどうかです。

かりにシリア語の“アロハ”が“アッラー”の転化であったなら、ハワイ語の“アロハ”も“アッラー”の転化であってもおかしくないのです。

そして、“アル・ラー”の“ラー”は、古代エジプトの地上における太陽神のことなのです。
ハワイ語の太陽を表す“ラ”は、もともとは“ラー”であってもおかしくない訳です。

この推理が成り立つならば、ですけど?

 面白い推理ですね。
 世界がつながるな…。

 でも、そうなると日本って特殊だね。
 「神のご加護」という概念がないから。
 
 挨拶も愛を表す言葉もそれぞれ状況で必要となるわけ?
 「こんにちは」「さようなら」は、後に続く語を考えるとねえ。
 
 とても具体的、実用的だしね。
 愛という言葉も近代になって出来た新しい言葉だったような。

神仏のご加護、神仏のお蔭、と言う考え自体は日本など東洋にもあるです。

ただ、欧米人のように相手の人に対して神仏の守りを願う言葉を言う慣習が東洋では一般的ではない、と言うことなのです。

基本的には、ご加護、お陰、これらは神仏に向かって語りかけるべきことであって、人に対して語りかけるべきものではない、これが東洋風なのです。

これが極端なのがインドだそうです。

挨拶もぬきに、いきなり用件に入るのがインド風、「偉いのは神であってわれわれではない、なんで人に対し敬意をはらわなならん」と言うのが理屈だそうです。

 そっか、なんて面白いんだろ!

 長い年月、さまざまな地域に生きた人たちが感じてきた神の存在。
 あらわし方、感じ方はそれぞれだけど。
 それぞれが 、「神の存在」を信じてるんだなぁ。

真正面から神を信ずるもの、さまざまの理由や口実を掲げ神を利用するもの、いずれにしても神の存在を前提に動いてきたと言えるのでないでしょうかね。

もちろん一方で、いろいろな装いを凝らした無神論的思想の流れもあったようです。
現在のように、露骨でないだけですよね。

なんかいろいろいろ、連想しちゃうけど長くなりそうなのでこの辺にしとくです。

ポチッとよろしく!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

にゃんにゃんのん

水木 しげるは、鳥取県境港市出身の漫画家です。

その水木しげるに、 『のんのんばあとオレ』と言う作品があります。

のんのんばあは、のんのん婆と書いて、観世音菩薩あるいは観音さまをのんのんさまと呼ぶことから鳥取県境港市の地元言葉で信心深い老婆を指すです。
ちなみに、「のんのんさま」あるいは「ののさま」というのは、小さな子供には、「かんのんさま」と呼びにくいので、いつの間にか、こう呼ぶようになったという通説があります。

観世音菩薩は、「慈母観音」などという言葉から示されるように、俗に女性と見る向きが多いです。

しかし、経典などでは釈迦が観音に向かって「善男子よ」と呼びかけ、また「観音大士」という言葉もあることから、本来は男性であったと考えられています。

観音経では「婦女身得度者、即現婦女身而為説法」と、女性には女性に変身して説法するともあるため、次第に性別は無いものとして捉えられるようになり、また後代に至ると観音を女性と見る傾向が多くなったらしいです。

ウィキペディアには、こうあります。

これは中国における観音信仰の一大聖地である普陀落山(浙江省・舟山群島)から東シナ海域や黄海にまで広まったことで、その航海安全を祈念する民俗信仰や道教の媽祖信仰などの女神と結びついたためと考えられている。

ここで気になるのは、出雲童歌「ネコにゃんにゃん」と言う歌の歌詞にこうあることです。
なんといったって、島根県は鳥取県の左側ですから。

出雲にゃんにゃんのん 出雲にゃんにゃんのん
出雲にネコがいーたそうな にゃんにゃんのん・・・
神様がかわいくて ネコ ネコ ネコと呼ぶ、
にゃんにゃんのん・・・ ・・・

猫の鳴き声を、調子を合わせるために「のん」とつけたと見ることも、もちろん可能です。

でも、観世音が観音とつまって、さらになまって「のんのんさま」あるいは「ののさま」になったと言うなら、こんな解釈したらいけないのでしょうか。

観世音が幼児語風になまって、「にゃんにゃんのん」です。
日本語の発音は、時代を遡るほど沖縄の方言に発音が似てくると言う説もあります。
試しに口を思いっきりすぼめると、確かに「かんぜおん」は「にゃんにゃんのん」に音は似てきます。

観世音信仰が、日本ではどこで始まったのか、よくはわからないです。

それなら、いくら想像をたくましくしたって、かまわないわけです。

そこで、日本での観世音崇拝が、出雲当たりから始まったと仮定してみます。

そして、観世音がネコ(neko)として崇められていたとしたらどうでしょ。

ただし、ここで言うネコ(neko)は残念ながら生き物の猫ではないです。

おもしろいことに、アラブ語やペルシャ語に、neko(ネコ)とか、neku(ネキー)という語があって、この二つの語はペルシャ語では、こういう意味らしいです。

敬虔(父母や長上に対する)、敬服、恭敬の態度。
貧しい者に対する惜しまざる施しです。慈悲心に富む事。
誠実・正直です。他人に対して悪評を下さない事。
善です。善行、恩恵。
美しさ、優雅さ。

実は、インドとペルシャは同じアーリア人の国です。
ま、細かいことを言えばいろいろありますけど。

このため、この両国の神話には色々と対応するものがあり、対応する神様もいます。
インドでもペルシャでも、善神と悪神たちの対決というモチーフがあります。

ところがペルシャとインドでは、善悪が反転しています。

ペルシャでは善神がアフラと呼ばれ、悪神はダエーワと呼ばれています。
インドでは善神がデーヴァと呼ばれ、悪神はアシュラと呼ばれています。

ようするに、ペルシャ語にある言葉なら、インド語にあってもおかしくないです。
検索をかけると、インド語にnekoと言う語はあるように見えます。
ただ、意味はよくわからないです。
女性の名前に好んで使われるようなので、変な意味ではないことだけは確からしいです。

インド語のnekoの意味を御存知な方が居られたら、教えていただきたいです。

もし、ペルシャ語に似た意味なら、観世音はneko(ネコ)であったとしてもおかしくはないです。

 インドでは善神がデーヴァと呼ばれることと、divineとの共通点があるのかなぁ。

 英語でよく、歌姫のことを「ディーヴァ」って言いますよね。
 ディーヴァはイタリア語だけど。
 英語で言うところの「divine」な女性つまり、歌姫ってことだそうで。

 ちなみに、「divine」って、天授の、天与の、神の・・・などなどの意味です。

つながり、あるかもしれませんね。

歌姫の「ディーヴァ」と、インドの善神の「デーヴァ」、まったく関連がないとはいえないかも。

神という、共通点が見えるからです。

そういえば、神前奉納の舞は、女性が多いです。

 私の母方の祖母は新潟の人で、浄土真宗を篤く信仰していましたがね。
 仏様全般を「のんのさま」と言っていました。

それはおそらく、観世音がすべての仏を代表するという信仰が裏に張り付いているのかも。

仏の中でも、もっとも多様性に富んでいるのが観世音です。

 それだけ、人々に身近な仏ってことかも。

なお、観音経は妙法蓮華経の中の25品目にあるお経、「観世音菩薩普門品第二十五」です。
経文自体に、「婦女身得度者、即現婦女身而為説法」は見えないです。
おそらく、解釈の中で出てきた教義のようですね。

 愛媛県伊予出身者から聞いたのは、間違えないけど。
 「よらいか よらいか にゃんにゃんのん にゃんにゃんのん」
 うろ覚えな上に、前後の歌詞も忘れてしまったらしいですが。

「よらいか よらいか」は、「よりなさい よりなさい」の意味に聞こえますね。
あるいは、「よろうよ よろうよ」かも。

どっちにしても、出雲童歌「ネコにゃんにゃん」に関連が強い歌の可能性は疑って良いように見えますね。

中国四国地方に、探せばもっと面白い情報があるのでしょうか。

それとも、まだまだ意外な地域、たとえば関東などから、驚きの情報がでてくるのでしょうか。
出雲大社と鹿島神宮は、不思議な繋がりが見えるし。。。。

 出雲大社と鹿島神宮って、つながりがあるんですか!
 どちらも色々と面白そうなところですね。

そうですね。

 「ネコにゃんにゃん」、謎の深い歌ですね。

 なぜに踊りがつく?

そういえば、歴史の古い寺町には、不思議と花街がそばにあるように見えますけど。

追記

出雲の童歌「ネコにゃんにゃん」の歌詞はここに収録しています。

この歌についての情報募集中です
http://cova-nekosuki.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_78ef.html

ポチッとよろしく!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

謎のロマ

ロマは、北インド起源のロマニ系に由来する移動型民族と言われるのです。
ちなみに、ロマ(Roma)は複数形、単数形はロム(Rom)。

 以前は、ジプシーって呼ばれた人々でしょ。

ええ。
移動生活者、放浪者とみなされることが多いが、現代では定住生活をする者も多いです。

ジプシーという呼び名は、エジプト人という誤解から来ていること、及び、ジプシーという言葉が偏見、差別的に使用されていることなどを 理由に、使われなくなってきたのですね。
最近では彼等全体をロマ、あるいはその単数形のロムと呼ぶようになっているのです。

ややこしいことに、ロマという呼称はジプシー全体を指すものではないという、見解もあります。
また、ジプシーという言葉に差別的ニュアンスがまとわりついているという考えが、即すべてのジプシー集団に共通する見解でもないそうです 。

 でも、エジプトから来たと思われたのは、理由もあるのじゃないの。

そうですね。
私も、なぜかは知らないけど、面白いことはあります。

タロットあるいはタローと呼ばれる、カードを使った占いがあります。
タロットには、ロマ起源説を言う人たちがいるのですよ。
神秘主義者の間では、タロットの起源についてロマ起源説の他にも、エジプト、ヘブライ、ケルトなどさまざまな説があるそうです。

 案外、それ全部合わせたものが正解だったりして。

そう見るのは面白いけど、裏を取るのは難しいのですよ。
ロマのルーツは謎なのですから。
   
 旅芸人の印象が強いけど、ロマの人々の仕事は、伝統的に鍛冶屋、金属加工、工芸品、占い師、薬草販売などもあったでしょ。
 この、占い師と言うあたりと、タロットって結びつきそう。

一部の神秘主義者の裏付けに乏しい主張として、ロマ起源説などの彼らの言い分は、まともに取り合ってもらえないのです。
現在ではタロットは、イタリアで玩具として考案されたのが始まりとする見方が有力です。
  
 タロット誕生の裏に、ロマが絡んでたってことは?

そう考えるのも、面白いですね。
彼らの職業に、占い師がありますから可能性は否定できないでしょうね。

ところで、インドにはドラビダ語族に属するタミル語というのがあります。
大野晋の日本語に関連付ける説のほかにも、ユダヤ語との関連を疑われたことがある言語です。

 でも、ロマはインド北部、タミル語はインド南部でしょ。

ここが難点ですけどね。
ただ、もしも、タミル語が陸路でユダヤと繋がったとすれば、通り道かもしれないわけなので情報を捜す価値はあるかも。

 あ、そうか。
 タミル語に結び付けられたユダヤ人は、アフリカの地中海沿いにいた人々だったはずね。

 中東からの道を考えてみると…。
 海路からと見ても、陸路を通った人々がいれば途中になりますよね。

 でも、ロマ語って、どこに分類されるの。

ロマ語はインド・ヨーロッパ語族とされるが、分類は難しいようです。
流浪した分だけ、あちらこちらの言語を取り入れているからです。

 インドやヨーロッパに広く散っちゃったので、インド・ヨーロッパ語族っぽく見えてるだけだったりして。

定住した各土地の言葉を多く取り入れた、クレオール言語を使っているグループもあると言いますもの。

クレオール言語とは、異なる言語を話す商人などの間で自然に作り上げられた言語が、その言語の使い手達の子供によって母語として話されるようになった言語を指します。

 じゃ、ロマ語の系統を調べるって大変じゃないの。

彼らは、世界中に散在する事から様々な名で呼ばれてきました。

 英語では、 ジプシー gypsy。
 フランス語では、 ジタン gitan、ボヘミアン bohémien、ツィガーヌ tzigane、ロマニシェル romanichel、マヌーシュmanouche。
 スペイン語では、 ヒターノ gitano。
 ポルトガル語では、 ロン Rom。
 オランダ語では、 ジヘーネル zigeuner。
 アフリカーンス語では、 シヘーネル sigeuner。
 ドイツ語では、 ツィゴイナー Zigeuner、シンティ。
 イタリア語では、 ズィンガロ zingaro。
 ハンガリー語では、 ツィガーニ cigány。
 ルーマニア語では、 ロミ rromi、ツィガニ ţigani。
 フィンランド語では、 ムスタライネン mustalainen。
 アラビア語では、 ズット غجر。
 トルコ語では、 ファラウニ。
 ロシア語 では、 ツィガーネ Цыгане、と言っていたけど近年は「ロムィ」とも。
 ウクライナ語 では、 ツィーハヌィ Цигани、と言っていたけど近年は「ロマ」とも。

「エジプトから来た」という意味を起源とするジプシー系と、昔ギリシャで「異教徒」を意味したアツィンガニ系の主に二系統があります。

 「エジプトから来た」と見られたことと、ギリシャで「異教徒」とみられたことは、矛盾しないのでは。

同感ですね。
ヨーロッパから見れば、エジプトは異教徒の地ですもの。

ロマというと、さすらいの民、音楽が得意、などという印象が強くないかです。

 歌と踊りは、有名すぎるくらい有名じゃないの。
 歌劇『カルメン』なんて、まさにそうかも。

はい。

 カルメンって言えば、フラメンコですよね。

フラメンコとフラダンスと、阿波踊り、振り付け似てるです。

 ロマ音楽のリズムには、どんな特徴が?

強弱の入れ子になってるです。

前半が強く、後半が弱く、その前半と後半にも、それぞれ強弱があるのです。

 強さの順で言うと、強い順に4・2・3・1って感じ?

実際に手拍子を打った方が、わかりやすいですよ。
 
 Ton!ta!ton!ta Ton!ta!ton!ta (大文字小文字に強弱を対応させて手拍子)

日本の民謡も、その多くはこの拍子を変形したリズムでできているようです。

 これを覚えれば、たいていの日本民謡に合わせて手拍子が打てるって言うの。

はい、おそらく大半の曲で合うかも。

 となると、出雲にはタタラのような製鉄技術と関係が指摘されるヤマタノオロチ伝説があるでしょ。
 関係あるかもしれないですね。
 
 おまけに、出雲阿国とかいるし。

 ロマって、気になりますね。

ええ、気になるです。

 民謡や舞踊で、想像、連想していくと、なんかつながってきますね。

あ、そうそう。

振り付けが似てるって言うと、沖縄のカチャーシーやインドネシアのガムランの舞踊、どことなくフラメンコなどと似てると言えば似てませんか。

 フラメンコ人口、つまりフラメンコを踊る人、習っている人の数ってね。
 国別でみると、スペインの次に多いのは日本だそうですよ。
 日本人にはフラメンコに引かれる何かがあるのかなぁと思ったのですが・・・。
 もしかして、関係あるのでしょうか?

今回取り上げた理由のひとつは、まさにそこにあります。

ロマはどうにも引っかかるのです。

 B型の本に、「ジブシーはB型」って書いてありましたよ。

日本人は一応A型優位だが、O型もB型もかなりいます。

わたしが日本との文化などでの比較で注目したいのは、英国とイタリアなのです。

日本とイギリスは、ユーラシアの端にある島国と言うだけじゃないです。

緑茶と紅茶、妖怪と妖精、ストーンサークル、猫の王伝承、アメリカで見つかった古代人骨と幕末に二度にわたって指摘されたブリティッシュ顔が日本にいること、など奇妙な類似があります。

日本とイタリアは、列島と半島の違いはあっても海に囲まれた火山と温泉の国です。

蕎麦や饂飩とパスタ、もんじゃ焼きやお好み焼きやたこ焼きとピザ、米を食し、海産物も豊富、江戸とローマのウナギの焼き方と味の好みも似ているなど、生活の基礎である食文化の面白いほどの類似があります。

 ここまで似ているのは、やはり何かあるのでしょうか。

でも、イギリスもイタリアもB型の比率は日本より低いようです。

 日本のB型の比率は、ロマが高くしてるでしょうか。

B型の比率はアイヌも高いそうなので、東日本についてはアイヌがあげている可能性はあります。

複数の民族が交じり合ってできているのが日本人だけに、判断は難しいけど。

ポチッとよろしく!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

猫耳の筑波山?!

筑波山の女体山と男体山を乗っけた姿は、まるで猫耳です。

 近くから見ると、ちょっと気がつかないけど、遠くから見るとそうなのですか。

筑波山中腹には、全国屈指の由緒ある神社の筑波山神社があるのです。

筑波山神社は、筑波男ノ神(いざなぎ)、筑波女ノ神(いざなみ)を祭神とし、 縁結び、夫婦和合の神として広く信仰されています。

天空で燃える男性神と女性神との愛の炎の光は、太陽の光とみなせるので、陰陽太極の太陽神の神社が筑波に祭られたのは、猫は、光りを表したからかも。

 それで、筑波山麓に七色唐辛子だったりして。

太陽の七色、ありそうですね。

猫を世界でいちばん最初に飼い猫としたエジプトでは、鳴き声をそのまま猫を表す語としMAUと表現していいました。

また、MAUには、猫の瞳が闇にキラキラ光るため“光り”という意味があり、猫と光りが同義語です。

猫目は太陽の目とされ、雄猫は太陽神ラーの象徴だったのです。

猫の目は夜でも物が見え輝くので、夜、太陽は猫の目を通してものを見て外界を旅するのです。

月は女神バスト(バステト)の化身であり、雌猫は月の女神、猟の女神、愛の女神の象徴とされ、夜には月が太陽の目になったです。

 月も猫の目も、太陽の目ですね。

夜=闇が最も恐怖だった古代エジプトでは、猫=月=太陽と同一視されたわけです。

夜を照らす月神とされたからかもかです。

さらに闇と夜=死の世界を支配する神ともみなされたです。

月神はお隠れのイエスでもあるです。

しかし、猫神はイエスとルシファーの性格を併せ持つ、シヴァと同格の神です。

また、ネズミ=根住みを退治する猫は、ネズミを退治する蛇とも同格の神です。

二面性という点では猫=蛇=シヴァとなり、シヴァは、天空の祟り神ヤハウエと地上の救世主イエスの二面性にも繋がるのですよ。

これ、シヴァとお妃パールバティあるいは神紀カーリーとそっくりに見えてしまいます。

 だから猫は祟るなんて、いわれてしまうのかな。

そう思うけど、どうでしょ。

イザナギから太陽神アマテラス、月神ツクヨミ、さらにスサノオが生まれたです。
けれど、神の系譜は系譜にあらずです。

 どうゆうこと?

系譜は、別名と思っても良いのですよ。
神話によって、系譜が異なる神もあるのです。

 そういえば、ありますね。
 
つまりイザナミ=アマテラス=ツクヨミ=スサノオなのです。

猫目は太陽の目、雄猫は太陽神ラーの象徴、猫は太陽神で光りと生命の源泉です。

猫の目は、夜には太陽の目です。

そして月は女神バスト(バステト)の化身で、雌猫は月と猟と愛の女神の象徴で、夜には月が太陽の目です。

 月も猫の目も太陽の目だけど、イザナギは男性神ですよね。

しかし、性別はあってないようなのが神々の世界で、夫婦、兄妹、姉弟とあっても無視でき、イザナギ=イザナミとみればすべて収束してしまいます。

 あ、そういえば、女性神とされる天照大神も、もとは国照彦天火明櫛玉饒速日尊、あるいは、天照国照彦火明命とも呼ばれる男性神だったのですね。

バストは愛と恐怖・慈悲と豊穣の女神としてもエジプトで崇拝されるけれど、本来は雌ライオンで、破壊の力神セクメトなのです。

さらに、猫とライオンは戦いの神シェカメットの象徴だったので、荒ぶる神スサノオも合わさっています。

夜=闇が最も恐怖だった古代エジプトでは、猫=月=太陽と同一視され、夜を照らす月神とされ、闇と夜=死の世界を支配する神でもあるです。

 黄泉の国にお隠れになったイザナミが当るのでは、なんて想像してみたりしたけど、どんなもんでしょ。

どんなって、言われても、どう突っ込めと…。

 それはそうと、猫は太陽神とみなされ、光りと生命の源泉とされたのですよね。

ええ、猫神太陽神ラーの娘に、バステトとも呼ばれるバストがいますね。

バストは愛と恐怖・慈悲と豊穣の女神としてもエジプトで崇拝され、本来は雌ライオンで、破壊の力神セクメトだったのです。

さらに、猫とライオンは戦いの神シェカメットの象徴でもあったのです。

特にバスト神の崇拝は、ブバスティスというところが中心に行われていたのです。

紀元前1000年頃にこのブバスティスが古代エジプト政治の重要な中心となったため、ますます猫は神として崇拝され、繁栄したのです。

 だから、ネコが大事にされたのね。

ところで、関係ないけど、窓越しに見ただけだけど、出雲大社常陸分社、6トンの注連縄すごいですね。

社殿が小さく見えます。

ポチッとよろしく!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サタンは本当に醜いか?

サタンの正体は堕天使、堕落したとはいえ、元は天使、しかも最高位とされる光の天使。

実は、サタンであるルシファーって美しいのです。

 もちろん、サタンの手下たちも堕天使。
 かれらもまた、美しいのですね。

 ただ、堕落したのは自分のせいなのを棚に上げ、人間たちを堕落の道ずれにしようとする浅ましさは、醜いと見られても仕方がないですよね。

神の側に立つ天使は、聖書を見ると、私たちと同じような肉体を持って地上にやってきます。

神の怒りをかって滅ぼされたソドムとゴモラでは、町の誰もが天使を気づけなかったことが記されています。

また、天使の軍団が誰にも見えない形で活躍する場面も聖書には数多く出てくるのです。
人々が気づかないようにできるからといって、触れることが可能な肉体がないわけじゃないのですね。

それに対して、サタンや手下たちは霊的な存在であって、私たちのように手を触れられる体ではないようです。

それはともかく、サタンは人に似た姿ってことです。

でも、一般のイメージの中では、山羊頭だったりしてないでしょうか。

 ええ、角の生えた醜い姿を想像しやすいですね。

醜い姿で描かれる悪魔(akuma)は、実は、悪者を懲らしめる側にいるのじゃないでしょうか。

 異能の持ち主であるから、悪魔(akuma)は異形で描かれるのかも。

古代の異能の神々は、結構、異形で表現されることが多いのですよ。

ヒエロニムス・ボスの有名な三連祭壇画「快楽の園」に描かれた異形の者たち、あれは悪魔(akuma)と思えるのですね。

 仏教説画の地獄絵に登場する、鬼たちとよく似た役回りを演じているって感じでしょうかね。

さらに、山羊の姿とされる悪魔(akuma)とは、とほうもない時間の中で半端じゃない智恵と知織を蓄えた長老を表していると思えます。

誤解しないで欲しいのは、本来の悪魔(akuma)にはサタンが含まれないこと。
サタンの姿が誤って判断されたことは、サタンと悪魔(akuma)の混乱のもとになっているのです。

一方、羊とはまるまると育った健やかで無邪気な幼子の似姿であり無垢な魂の象徴かも。

 聖書で贖罪の献げ物とされるのは、羊ではなく山羊でしょ。

贖罪は罪滅ぼしともいわれ、実際の行動によって、自分の犯した罪や過失を償うことです。

善行を積んだり金品を出したりするなど具体的なことで、償いたい気持ちを形にする行為です。

だとすると、地獄の火とは贖罪の山羊が焼き尽くされる火となってしまうのでしょうか。

そして、ゴルゴダの丘の受難のイエスを動物で表すと、山羊となってしまうのでしょうか。

神の智恵と知織に通じていながら、人々の贖罪したい気持ちを一身に背負って受難するイエス。

魔女が悪魔(akuma)から授かった子供に見立てられていたばっかりに、魔女狩りで迫害された猫と、イエスはますますイメージがダブっちゃうのです。

つっこみにくいネタでしょうか。

 山羊と羊は、日本語の漢字で書くと山があるかないかで、親戚みたいなものだけど。

 キリスト教やユダヤ教では、その象徴するものが違いますよね。
 西洋人にとって、イメージがだいぶちがうんでしょうね。

 日本人にとって、山羊も羊もあまりなじみのある動物じゃないです。
 肉も乳製品も、あまり食べないしね。

身近だからこそ、たとえになるってのは確かにあるです。

ますます、イエスと猫又、似てくるです。

 確かにヒエロニムス・ボスの絵は、異様で不気味ですよね。

 ルシファーたちは美しいはずなのに・・・・ 。

 異様に描かれるのは、私たちの心の反映なのかなあ。

ヒエロニムス・ボスの絵で異様で不気味なのは、確かに心の反映を意識してるかも。

古代の神々は、異形に描かれることは多いです。

超常的存在であると、一目見てわからせるためですね。

おそれや畏敬の気持ちが、自然とわくようにしむけるってのも、狙いにあるかも。

たいてい、なんらかの動植物が、何らかの形でイメージされちゃってるようですね。

ポチッとよろしく!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

スサ様は何様?

素盞嗚尊(須佐之男命)を祀る神社は、須佐神社と言います。

須佐神社(すさじんじゃ)という名前の神社は、日本各地にあります。
もちろん、社名は祭神名によるものです。

須佐神社 (出雲市)(島根県出雲市佐田町須佐) - 式内小社・国幣小社・別表神社。
古来より、須佐之男命の本宮とされたお社です。

須佐神社 (有田市)(和歌山県有田市) - 式内名神大社・県社
須佐神社 (御坊市)(和歌山県御坊市) - 村社
須佐神社 (田辺市)(和歌山県田辺市) - 村社(旧称 牛頭天王社)
須佐神社 (三次市)(広島県三次市)
今井津須佐神社(福岡県行橋市) - 旧称 今井津祇園社

出雲市の須佐神社の御祭神は、この方々。

須佐之男命(すさのをのみこと)
稲田比売命(いなたひめのみこと)
足摩槌命(あしなづちのみこと)
手摩槌命(てなづちのみこと)(須佐家の祖神)

スサノヲ命は、素盞嗚尊の他、須佐之男命の字が当てられます。

となると、素盞嗚も須佐之男も、当て字。

それでいて、神社の名前は須佐神社。

それは、スサノヲ命とは「スサ」の「男」命と、解釈するのは自然。
「ヲ」は「ヲノコ」すなわち「男」を指すから、須佐之男。

「スサノヲ」と呼ばれる神でいらっしゃるのに、神社では「スサ」とだけ記されるのはすでに触れたとおりです。

お名前は、「スサ」の二文字のみと、神社は口をそろえて証言している。

では、「スサ」の男命のお名前、「スサ」は何を意味するのでしょうか。

面白いことに、似た名前の地名にある神社はいくつかあります。

諏訪神社は、「スワ」神社です。

本来は神宮とのみ言うべき、伊勢神宮は、「イセ」神宮です。

この、イセという地名には驚くべき説が登場しています。

イエスが活躍した時代のユダヤ人の言葉は、ヘブル語の一方言とされるアラム語だったです。

イエスは、アラム語で発音されるとイッサとも言われるのです。
ISSA のAがEに転化しイッセISSEになり、これがISE(伊勢)になったのではないのかというのです。

さらに、ヘブル語ではイエスは、“イエシュア”と発音されることになるのです。

 発音が変化すれば、“伊勢志摩”と聞こえてもおかしくないですね。

「イッサ」の音が、もしも、少し詰まったとしたら。

多少、丸唇音化するだけで、第二音の撥音(はつおん、はねるおん)の「ッ」と、第一音の「イ」は重なって「セ」とか「ス」に転化するのでは。
第三音の「サ」は、もちろんそのまま「サ」かも。

 そうなると、「イッサ」は「セサ」とか「スサ」に転化しても、おかしくはないかも。

でも、もう少し丸唇音化が進むとどうなるでしょうか。
第三音の「サ」は、もちろんそのまま「サ」でしょうか。
第三音の「サ」が、子音が聞き取りにくくなって「ワ」に近づく可能性は無いのでしょうか。

もし、この議論が成り立つなら、こうなるかもです。

「イエス」のアラム語である「イッサ」は、日本で地名に変化した。

その地名とは、「イセ」や「スワ」や「スサ」であったかも。

ひょっとすると、「イッサ」の転化で生まれた可能性が考えられる地名は、ほかにもあるかも。

「イエス」のアラム語である「イッサ」は、日本で別の神名に変化した。

その神名とは、「スサ」。

「スサノヲ」とは、「スサ」の男であり、「イッサ」という男、であったのかも。

ひょっとすると、「イッサ」の転化で生まれた可能性が考えられる神名は、ほかにもあるかも。

でも、なんで?!

 ええっ!?なんと!
 そういうつながり、できますか!

 確かに当時のアラム語で考える必要がありますよね。

 どうしても、英語の発音で考えてしまうからねえ。
 でも、それで見たのでは、このつながりが見えてこない・・・・・。

どこか、変なら変と、正直に突っ込んでくださいね。

 いえいえ、とっても興味深いです。
 須佐之男命って、以前からすごく興味があります。
 古事記での位置づけが面白くて。

 時代的に伝播するスピードと矛盾はないですかね・・・。
 神様同士連絡をとっていたのでしょうか。
 須佐神社にこの8月に足を運びました。
 世襲している宮司さんの名字は『須佐』さんと言います。
 今の宮司さんは異能者なので、まさに神がかりかなと思った次第です・・・。

 また、地元甲子園の氏神さんは、素盞嗚神社なんです。 
 あちこちにスサノヲは、いるんですね。

そのようですね。

ポチッとよろしく!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ねこはねこでも?

2008年の秋、ワイオミング州でのことです。

「迷惑な猫がいるので追い払ってほしい」

通報を受けた警察は、警官一人を現場の民家に送りました。
警官の前には、確かに迷惑な猫はいました。

ただし迷惑な猫は迷惑な猫でも、大型ネコ科のピューマだったです。

今回の珍事は、まさか民家のそばにピューマがいると思わなかったことが原因です。

通報者のビバリー・フードさんは、「big cat」がいて迷惑していると緊急通報ダイヤルや動物管理局などに電話しました。
それを聞いた通信指令係は、“big cat”を飼い猫だと思って警察にそう伝えたです。

どうしてそうなったかというとです。

英語では、“big cat”に二通りの意味があります。
メインクーンやフォレストキャットのような大きな猫と、ピューマやライオンのような大型のネコ科です。

もっとも大型ネコ科にも、ヒョウやライオンのヒョウ亜科 (Pantherinae) と、ネコ、ヤマネコと同じネコ亜科 (Felinae)がいるです。
ピューマはチーターなどとともにネコ亜科に属し、ネコ亜科では最大級の大きさです。
オスは体長1~1.8m、体重65~100 kgに達し、メスは一回り小さいです。

フードさんはピューマに歯をむかれたが、怖いとは思わなかったといいます。
大きな猫がおどかしてるくらいに、思えたのでしょうか。

実際、アメリカには大きな猫を飼う人は多いです。

例えばメインクーンは、体長は、1メートルを超える場合もあり、2006年には1メートル22センチが最も身長の長いメインクーンとして記録されているです。
つまり、メスのピューマの体長は最大級のメインクーンと良い勝負なのです。

ただ、体重は文句なしにピューマが勝ちます。
ピューマは、体重65~100 kgに達します。
一方メインクーンは、体重が11~12キロに達する固体もあるが雄の成猫の平均体重は6~9キロで雌は若干軽いです。

到着した警察官は、飼い猫ではなく体重40キロもあるオスのピューマがいるのを見つけて仰天しました。
ピューマは後に麻酔銃を撃たれ、別の場所に移されたそうです。

アメリカには、いわゆるイエネコが住み始めた歴史は浅いようです。

それでも山猫はいたのか、古代の神官が山猫を意識したメイクか刺青をしたと思われる像や文様とか、山猫を模ったと思える像や文様が見つかるです。

山猫は神、あるいは神の使いとして神の声を伝える存在と考えられる作品が、像や文様に多く見られるです。

それは、長い舌の先に顔がある姿で現されます。
舌は声、顔は言葉を表すと考えられます。

ただ、神官の方は若干ショッキングな姿で表わされることがあります。

舌を突き出した顔、首を持った両手。

これは、両手を舌とみなして顔を持っていたようです。

古代アメリカの遺跡には、首なしの遺体が埋葬された墓地がしばしば見つかるです。
メキシコのピラミッド遺跡で発見された複数の首無し遺体など、のようにです。

おそらく、神官の手に持たれた首の主であったでしょうか。

ちなみに、日本でも吉野ヶ里などから首なし遺体の墓地が見つかるので、そのうちアメリカと類似な遺物が出土するかも。
なにしろ、古代日本と古代アメリカ、ミトコンドリアDNAが繋がることは確認されているからです。

 首なし遺体、日本にもあったんですか!
 メキシコの古代文明には、生贄、人の首を捧げる儀式があったとは聞いていましたが…。
 日本にも同じような痕跡があったとは驚きですね!

 驚きといえば、駆けつけた警官も驚いただろうなあ・・・・ 。

まさか、ピューマを猫と、こともなげに言ってくるとは思わないですよね。

 猫もいろいろですね。

 スナドリネコっていましたよね。
 すごく泳ぎが上手なんですって。
 私のとこの猫なんか、水をみただけでプルプルって手をふるうほどね。
 水がつくのを嫌がるのです。
  
 そうそう!
 この前テレビで見た!
 すいすいと泳いでるのを見てびっくり。
 いろんな種類の猫がいるんですね。

 あっ、でもうちの猫は水は怖がるくせにね。
 お風呂場のタイルの水を舐めに行きますよ。

 首なし…コワイけどかわいそう。

ちょいと、ショックで声でないですか。

 でも、猫って思ったより深いですね。

ええ、深いですね。

ポチッとよろしく!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

猫とカボチャの不思議な関係 その1

食物の起源神話の中には死体化成神話というものがあり、東南アジアなどに広く分布しているのですね。

 インドネシアからメラネシア・ポリネシアを経て、南北アメリカの一部に至るまで、広く分布してるでしょ。

ええ、そうです。
死体の各部から、作物や種子が生えてくるというものですね。

日本でも、『古事記』のオオゲツヒメ、『日本書紀』のウケモチの記事は同系統の神話とみなされているのです。

 死体化成伝承や神話って、女神の死と穀物の起源を結び付けて語る、ハイヌベレ型の説話が多いでしょ。

ハイヌウェレ神話という、言い方もあるのですね。

死体化成神話が東南アジアに広く分布することや、稲作文化の類似から見て江南地方から来た人々が持ち込んだものであることは確実といわれます。

カボチャは、ウリ科カボチャ属の総称です。
原産は南北アメリカ大陸で、果実を食用とします。

 ひまわりの種なんかのように、カボチャの種を食べる風習も、国によってあるのですよね。

あるのですね。

 今から30年ほど前の資料では、原産地について確定してなかったようね。

インド、ナイル河沿岸、ペルー、アンゴラ、 南アジアなど諸説があったが、決め手にかけていたからです。

原産地が確定できなかったのは、それぞれの土地からこんな報告されていたから。

「野生種に近い種が見つかった」、「古い文献にカボチャが載ってる」、「古墳からカボチャの種が見つかった」 などです。

中南米原産説が定説になったのは、最近になって中南米の遺跡の研究が進み、メキシコの洞窟で紀元前7000年~5500年の地層から カボチャの種が発見されてから。

現在の日本カボチャは、日本には1541年に大分に漂着したポルトガル船が、大名の大友宗麟にカンボジア産のカボチャを贈ったのが最初と言われているのです。
この時にカンボジアから持って来たので、カンボジアがなまってカボチャと呼ぶようになったそうです。

「カボチャ」という語はポルトガル語の「Cambodia abóbora」(カンボジャ・アボボラ、「カンボジアのウリ」の意)の後半が略されたものです。
逆に前半を略してボーブラあるいはボーボラと呼ぶ地方もあるのです。

「南瓜」は、「南京瓜」の略です。
南瓜の漢字は、中国語の南瓜(ナングァ nánguā)に由来します。
「唐茄子(とうなす)」「南京(なんきん)」という呼び名も、使用されることがあるのです。

つまり、カボチャも死体化成神話に関係してきても、不思議ではないのです。

 なにが、言いたいの。
 死体化成伝承や神話の分布と、カボチャの分布は重なって見えるのは確かだけれどね。

理由はいろいろ付けられるけれど、猫が殺されてしまう伝承は、日本各地にあるのです。

その中に、猫の死体化成神話ともいうべきものがあるのです。

殺された猫から出てくる作物は、私が知る限りでは、ほとんどがカボチャ。

そのカボチャは、埋められた猫の頭から生えるという展開が多いです。

 猫の死体化成神話とカボチャのつながりは、知らなかった!
 おもしろいですねえ。
 つくづく猫って、興味深いです。
 犬にはこの手の話は、全く無いですからね。

 ところで、ちょっと気になるけど。
 そのカボチャ、食べられるの?

殺された猫の恨みが詰まったカボチャとされ、食べたら危ないと忠告する者が現れるのですが…。

 食べられないカボチャとは言っても、猫に死体化成神話と似た話があるって興味深いですね。

また、天から食物の種を携えた神が天降って来たとする記述も見られます。

日本書紀における天孫降臨にはアマテラスが、高天原にある稲穂をアメノオシホミミに授け、オシホミミは天降る際に生まれたニニギにそれを授けて天に帰ったとの記述があるのです。

また、日本書紀におけるヤマタノオロチ退治の話にも、高天原を追放されたスサノオは新羅に降りたが、「ここにはいたくない」と言って出雲へ向かうのがあるのです。

この時、スサノオの子のイソタケル(五十猛神)は高天原から持って来た木々の種を新羅には植えず大八洲国と呼ばれていた日本に撒いたので、大八洲国は青々とした地になったとしているのです。

 これは、ギリシャのデメテル神話に類似しているのねえ。

はい。

 ギリシャ神話が日本書紀や古事記に伝播しているとしたら、一体どのような手段で広がるのでしょうね。
 想像すると、ワクワクしますね。

デメテル、またはデーメーテールは、ギリシア神話に登場する女神ですね。
豊穣神であり、穀物の栽培を人間に教えた神とされるです。
オリュンポス十二神の一柱で、「掟をもたらす者」という意味の「デーメーテール・テスモポリス」という添名があるです。

古代中南米の遺跡から、猫神とみられる遺物もでてきたのです。

 作物がらみの神でしょうか。

関連はまったくないとは、言い切れないですね。
古代神事と農業などは、つながりが強いですからね。

ただ、山猫を意識したと見られる面の神官像の出土例もあるのです。

 神の使いとされることが多い蛇と、人である神官の合体が猫であるとか。

私は、猫は神の使いとされることが多い蛇と、人である神官の合体と見る立場ですよ。

 日本の神官が、禰子の子孫だから禰宜というのは面白いですよね。

音だけといっても、符丁合いすぎですね。

 あと、猫って女と結び付けられるって多い。

魔女や猫娘、老女と特定される猫多羅天女や火車婆…。

 火車婆とは、死後は火車に乗せられる悪心(あくしん)の強い老婆で、火車と略されることもあるのね。
 火車の正体とされる猫の妖怪は、なぜか化け猫よりも、猫又ではないかという声が多いよね。

猫自体も、女に化ける話多いですねえ。

 死体化成神話や伝承の典型例が、ハイヌベレ、あるいは、ハイヌウェレの神話や伝承。
 猫と女の繋がりの深さ…。

埋められた猫の頭から、カボチャが生えるという展開の背景は、奥が深いようですね。

猫とカボチャ、どっちも丸いって共通点はあるけどです。

ふれなかったけれど、なぜか、目から生えるという話が多いです。

ひょっとすると、冬瓜からカボチャに摩り替わったかもって、思ったけどです。

 たしかに、カボチャより冬瓜の方が栽培は早いですね。

冬瓜の出る伝承と猫の接点が見えないので、今回はパスしたです。

 冬瓜は、冬まで保存できるということから中国で冬瓜と名付けられたそうね。
 日本で「とうがん」と読むのは、中国語の発音がdong gua(どんぐゎ)がなまったと言う説があるけど、違うのかなあ?

冬瓜は日本での栽培は平安時代から、となると中国語dong gua(どんぐゎ)が「とうが」の語源というのは十分ありえます。

冬瓜は、ウリ科のつる性一年草。
別名にトウガ、カモウリ、シブイなど。

原産はインド、東南アジアの方面です。
日本では、平安時代から栽培されています。
7~8月に収穫される夏の野菜で、実を食用とします。

実は大きいもので短径30cm、長径80cm程度にもなります。

元々の名称は「とうが」で、これが転じて「とうがん」となり、「冬瓜」の字が宛てられたそう。
他にも、果実を丸のまま冷暗所に置けば冬まで、保存できるとされることから「冬瓜」と書かれるともいいます。

 かぼちゃと猫のつながりは、面白いね。
 魔女には猫はつきものだけど、かぼちゃともつながったかなあ?

魔女とカボチャ、直接の繋がりは見えてないです。
猫の死体からカボチャという伝承の背景を探ったら、今回のようなことに行き当たったってとこでしょうか。

ポチッとよろしく!

| | コメント (2) | トラックバック (0)

七色唐辛子

饂飩や蕎麦などの麺類や、牛丼などの薬味として使われることが多い七味唐辛子。
しばしば、「七味」と略されます。
 
 なないろとんがらし、ときに略してなないろ、とも言われますよね。

七味唐辛子は別名を、薬研堀(やげんぼり)とも呼ばれます。
薬研堀の名は、漢方薬からヒントを得て、江戸時代に両国薬研堀で作られ江戸名物になったからだそうです。

一方、七味唐辛子というのは、上方風の名前。
江戸では七種唐辛子、七色唐辛子(なないろとうがらし)と呼ばれていたのです。

 ずっと、七味唐辛子だと思ってた・・・ 。
 七色唐辛子っていう言い方も、あったんですね。

筑波山は、西側に位置する男体山(標高871m)と東側に位置する女体山(標高877m)からなるです。

筑波では、七色唐辛子と言うそうです。
筑波山の麓では、七色唐辛子は光誉上人が大坂の陣で使用した福来みかんの皮で作った陳皮を主剤とした漢方内服薬が起源であると主張します。
この七色唐辛子から、七味唐辛子が出たと言いたいわけですね。

なぜ、七色かと言うと、色にこだわって配合したから。
勘違いあれば教えて欲しいけど、家によって多少違いはあっても、材料はこれらのものだったと思うです。

 ゴマ、赤唐辛子、青じそ、みかんの皮、菜種、麻の実、ケシの実。

ゴマだけでも白黒金の三色、みかんは、福来(ふくれ)みかんの皮だそうで。

陰陽の五色は、青赤黄白黒。
青は緑、赤は紅に置き換えることもあるです。
筑波の七色唐辛子も、材料をこの五色に並べてから混ぜていったと記憶しています。

さすがは男体山と女体山からなる筑波山の麓、明らかに、陰陽を意識してるです。

福来みかんは筑波山の特産で、背の高い木に、ゴルフボールほどの小粒の黄色い実がなるです。
実は少し酸っぱく、種も多く、皮は柔らかく、ゆずのような芳香がするそうです。

そのまま食べたり、乾かした皮を七色唐辛子に入れたりして、地元で親しまれてきたというです。
けれど、すっぱい実は捨てられ皮だけが唐辛子に使われるだけとなり、だんだんと温州みかんに押され栽培量は激減したというです。
今では、地元のみかん園でも数本あればいい方で、老木ばかりが目立つのですと。

筑波の七色唐辛子が知られるようになれば、少しは福来みかんも栽培が増えるかもです。

五色なのに七色と呼ぶのは、七が神に関わる色と考えていたからかも。

 それはそうでしょ。
 七福神とか言うし。

江戸で七色と呼ばれたのは、この筑波の七色唐辛子から来たのかも。

今のような七味になった起源の一つが、薬研堀だったのかも知れないです。

筑波などの唐辛子が七色と言いながら実際は五色なので、せめて味だけでも七にしたかったのかも。

唐辛子を主原料とし、七種類の原料から作られることからその名があるです。
各種の副材料で風味をつけるとともに、辛味をほどよく抑えています。

唐辛子以外では、これらがよく使用されます。

芥子(けし、ケシの実)
陳皮(ちんぴ、ミカンの皮)
胡麻(ごま)
山椒(さんしょう)
麻の実(おのみ、あさのみ)
紫蘇(しそ)
海苔(のり)
青海苔(あおのり)
生姜(しょうが)

唐辛子など全部足すと七種類以上になるのは、内容は生産者や生産地によって異なるから。

東京・浅草寺門前「やげん堀」、京都・清水寺門前「七味家」、長野・善光寺門前「八幡屋礒五郎」の三者は、日本三大七味唐辛子と称されています。

 京都清水寺門前の七味は、有名ですよね。
 って、私は一味唐辛子が好みですが。

やげん堀・七味家・八幡屋磯五郎のような一般的なものの他に、新潟・上越のかんずりなど七味から発展した調味料も存在するです。

 日本三大七味唐辛子、どれも大きなお寺の門前の老舗なのね。
 京都の七味は、よくお義母さんがくれるのですが。
 ダンナしか使わないんです。。。
 わたくしは辛いの苦手で。

ま、苦手はしょうがないですね。

七色唐辛子は、五色の材料で混ぜられています。

つまり間に、六が隠されています。

仏教で六と言えば、六根清浄(ろっこんしょうじょう)ですね。

六根清浄とは、人間に具わった六根を清らかにすることです。

六根とは、五感と、それに加え第六感とも言える意識の根幹です。

 眼根(視覚)
 耳根(聴覚)
 鼻根(嗅覚)
 舌根(味覚)
 身根(触覚)
 意根(意識)

それが我欲などの執着にまみれていては、正しい道である八正道を往くことはかなわないです。
そのため執着を断ち、魂を清らかな状態にすることを六根清浄と言うです。

八正道(はっしょうどう)は、釈迦が最初の説法において説いたとされます。
涅槃に至る修行の基本となる、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、8種の徳。「八聖道」とも「八支正道」とも言います。
仏教哲学の基本的問題を整理した倶舎論では、「八聖道支」としています。

 倶舎論は略称。
 正式には、『阿毘達磨倶舎論』でしょ。

よく知ってますね。

八正道は聖者の「道」であるから、聖道とされますね。

あるいは、七色唐辛子が七色と言って五色だけなのは、八雲といって七しかない出雲大社の雲の絵や、東照宮の逆さ柱に通じる、あえて未完のままでおく、持続を願う呪術かも。

ポチッとよろしく!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

二大政党は、正当性があるか?

チェンジを訴える大統領が、アメリカに誕生しますね。

 二大政党で一体どこまでチェンジができるのか、お手並み拝見と言うところですね。

そもそも、政権交代可能な二大政党とは、政策的な差が本質的にあまりないから、政権交代が何度でも可能と言うことでもあるでしょうね。

 日本でも、保守と革新で交代はありますけどね。

日本で今まであった、保守と革新で交代は地方政治くらいのものでしょ。

 それは、地方政治だから手法の差くらいしか出せないからですよね。

 保守から革新、革新から保守の交代は、国政では何を意味するでしょうかね。

国政の段階では、国のあり方自体の方向転換になるでしょうね。

 つまり、政治のあり方を基本から転換していくと言うことですね。

変換へのハードルが高い代わりに、一度転換したら簡単に後戻りするのは勇気がいりますよね。

 それに対して、頻繁な政権交代が可能と言うことは、手法の差しか違いがないということでしょ。

変換のハードルが低いということは、本質にほとんど差がないということです。
やり方を改めるだけだから、安心してくれと言うわけです。

 平たく言えば、政権たらい回しですね。

たらい回しの曲芸は、たらいを回しながら受け渡していくもので、回すたらいが変わっても、たらいを回す足の方は変わらず同じでしたよね。

それで、順送りする意味として使われるようになったのですね。

 基本が変わらない二大政党だから、頻繁な政権交代が可能です。

それは、選択肢が乏しいということでしょうね。

選択肢が乏しいということは、変化に適応する能力に、乏しいと言うことです。

 どんなに変化を訴えても、基本が対抗する政党と変わらないことを前提とする以上、変化の幅にも制約があると。

小さな変動に対応できても、大きな変動に対応できないと言うことですね。

逆に変化しようとして、手法は極端から極端に振れ、微調整が利かなかったりしますね。
現実的対応のために妥協点を探るより、有権者に違いを見せる方を優先させるからです。

だから、二大政党を前提とした小選挙区の故郷であるイギリスでも、選挙制度の見直し論議が起きているです。

そもそも、“小選挙区”は“相対的多数性”、すなわち比較的多数を取った候補に当選させるものです。

 有権者の過半数である必要はないってことですねぇ。

イギリスの例で言うと、当選者の半数近くが、50%以下の得票率だそうです。

 日本でも、似たようなものでしょうね。

ええ、おそらくね。
それと、イギリスでいえば、競争のある選挙区は150程度で、大半がセーフティシートになっていて、有権者がしらけ投票率低下の要因といいます。

 それでは、有権者の意見がひずむ…。

そこで、投票率を反映させるために、さまざまな選挙制度の試行が地域選挙を舞台に行われていると言います。

 イギリスの議論の成り行きを、見守りたいですね。

ただ、二大政党では硬直化が起こり、袋小路に陥りやすいと言う欠点があるでしょ。
 
 第三の選択肢が出にくいからなのです。

アメリカでも第三党構想は挫折し続けているし、イギリスでも少数党に転落した自由党は挽回に苦戦していますね。

アメリカの選んだチェンジは、目先と小手先の変化に過ぎないのか、大きな方向転換を起こすのか、その行方を注目したいですね。

 あまり知られてませんが、イギリスにも民主党ってあるのですよ。

確かに、知られてませんね。

 ええ、民主党って、結構得票しているのにね。
 選挙制度の壁に阻まれて、議席をとれないんですよね。

制度がそこまで、民意をゆがめて良いのでしょうかね。

 日本では、小選挙区制のために自民党から二世、三世以外の新人がでられなくなっているし・・・・・ 。

まさに、セーフティシート確保優先以外の何者でもないですね。

 オウムのように二大政党制と叫び続けるメディア、政治家は、ちゃんと考えているのか疑問ですねえ・・・・。

二大政党制を叫ぶメディアと政治家の願いはずばり、共産党封じでしょ。

 日本では有権者の間に、まだまだ共産党に対する心理的抵抗は大きいですけどね。

それなのに、共産党を封じたいばかりに無理やり二大政党に政治状況を捻じ曲げ、政治に対する批判を政権交代に摩り替えようとしているのです。

 多彩な声を反映する多党化を妨げ、国民の間に政治に自分の声が届かないと言う不毛を生んでいる元凶ですね。

国民の声を届ける道の多様化こそ、結果として共産党の比率を下げる効果が高いと思われます。

 オバマ氏のチェンジは日本がチェンジせざるを得ない状況になるということだと考えています。
 日本人にとっては、大統領の肌の色などさして重要ではなく、民主党の大統領が誕生するという現実に思いを巡らせなければならないのではないかと思います。

アメリカの矛盾のしわ寄せが、来る可能性が大きいでしょうね。

 オバマ当選は、嬉しい側面も正直ありますがね。

確かに、白人の血が入ってると言っても、アメリカ初の黒人大統領ですもの。

 こんな話をオバマ当選を喜んでメールして来た在米の友人にしたら、「温度差があるのかな。こっちは凄い騒ぎで、とにかくオバマが勝ったことで持ちきりだ。」と返事が来ました。
 
それだけ、アメリカの現状は深刻と言うことでしょうけどね。

日本は、相当な覚悟を強いられると見る方が良いかも。

ポチッとよろしく!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

キップリングは長崎でバスク人に会ったか?

作家ジョゼフ・ラドヤード・キップリングは、日本からインドの新聞社に寄稿するための手紙を何通も書いているのです。

キップリングが送った長崎からの手紙に、不思議な内容があるのです。

バスク(Basque)人に似た青年のひく人力車に、乗ったというのです。

 バスク人て言ったら、スペインのピレネー山脈に近いバスク地域に住んでる、あのバスク人でしょ。

はい。
バスク地方は、フランスとスペインにまたがるピレネー山脈西部一帯の地方です。
古来より、バスク語を話すバスク人が居住する歴史的な地域です。
バスク人が、バスク地方の住民の大半です。

ついでにふれておくと、バスク人の大半を占めるバスク国は、スペインの自治州の一つです。
バスク国は、スペイン語の“País Vasco”による呼び名です。
バスク語では、“Euskadi”だそうです。
州都の名前、ビトリア=ガステイスは、スペイン語のVitoriaとバスク語のGasteizを合わせた名前です。

バスク人の住んでいる地域全体を指して、「バスク国」と言う言い方がされることもあるのです。
その場合、スペイン内ではバスク国だけでなく、近隣のナバラ州の一部や、フランスのピレネー=アトランティック県が含まれるのですよ。

スペイン領のビルバオとフランス領のバイヨンヌが、広い意味でのバスク国、つまりバスク地方の中心都市です。

ビルバオ(Bilbao)はスペイン語で、バスク語ではBilbo。
ビルバオは、スペイン北部の都市でバスク国ビスカヤ県の県都です。
人口は約35万4千人で、スペイン第10位、スペイン北部屈指の港湾都市で、鉄鋼業が盛んです。

バイヨンヌ(Bayonne)はフランス語、ガスコーニュ語およびバスク語ではBaionaです。
バイヨンヌはフランス南西部、アキテーヌ地域圏、ピレネー=アトランティック県の郡庁所在地で、フレンチ・バスクの中心都市です。

バスク人は、人類学・言語学上独自な固有の文化をもつことまではわかっていても、出自は謎とか。

バスク語は、バスク地方で話される言語です。
周囲ではインド‐ヨーロッパ語族に属する言語が話されているが、これらとは異なるそうです。

 数十万の話し手をもつのに、バスク語の系統は不明なの。

語源が注目されるバスク語の単語として、「ナイフ」「天井」等があると言うのです。
イベリア半島では、正体不明の非印欧語族があったと思われるそうです。
それでバスク語は、インド・ヨーロッパ語族言語を話す民族がヨーロッパに入ってくる以前から話されていた、先住民族の言語の可能性を指摘する声もあるのです。

日本語との親族関係も、指摘された事があるそうです。

 え?
 じゃあ、キプリングが乗った人力車の青年はバスクに遠縁の親戚が居るとか?

バスクと日本、距離も時間も離れすぎでです。

それに、とっぴ過ぎる説として支持されては、いないらしいですよ。

血液型を決定する因子の一つのRh因子には、D抗原の有無で陽性・陰性で表すRh+(プラス)型とRh-(マイナス)型があるのです。
バスク人は、85%がRh-型です。
  
 3人に一人、多いですね。
 
このことから、バスク人はヨーロッパで最も古い種族ではないかと推測されているのです。

欧米の白人系では、Rh-がかなり多いからです。
イギリスでは16.4%、フランスでは18.2%、ス ウェーデンでは15.5%、アメリカ白人では17.6%も存在するのですと。

日本人では、全体で見るとRh-の人は約0.5%と言われているのです。
血液型で差があり、A型は0.2%(500人に1人)、B型は0.1%(1000人に1人)、O型は0.15%(666人に1人)、AB型は0.05%(2000人に1人)だと言われているのです。

 200人に1人の割合ですね。
 なるほど、そんな違いもあるのですか。

日本人でも、アイ ヌ系には比較的多く、5%前後存在するとのこと。
沖縄でも、1%以下存在しているようです。
ちなみに、アイヌと琉球は、ともに縄文系と見られているのです。
 
 でも、桁違いですね。

時代がたっているので、薄まってしまった可能性もあるのです。

日本以外にも、中国人、韓国人、そしてネイティブアメリカンなどには極めて少なく、1%以下しかいないと言うからです。

 どの民族も、日本と関わりが深いですよね。
 沖縄の1%以下と、日本、中国人、韓国人、そしてネイティブアメリカンなどの1%以下は、同じ1%以下といっても数値が違うのでしょうねえ。

そうですねぇ。

文法的特徴として能格の存在があげられるので、カルトヴェリ語族に分類されることもあったです。
現在は比較言語学上、孤立した言語に分類されるのですって。
 
 能格って?

後で触れるですよ。

ちょっと、わかりにくいから、そんな文法用語があるくらいに思ってです。

バスクのことわざに、こういうのがあるのですって。

 山は山を求めないが、人は人を求める。

こういう文は、能格の例だそうですよ。

カルトヴェリ語族は南コーカサス語族とも言わるです。
グルジア国内で話されているグルジア語、メグレル語、スヴァン語、主にトルコ国内で話されているラズ語の4つの言語から成るです。

 トルコって言えば、どういうわけか日本人に親近感を持ってるそうね。
 バスク語が、日本語との親戚関係を疑われることを思うと、やはりなにかあるのかなあ。

私も、気になっているけど、情報が、なかなか見つからないのですよ。

 バスク語と日本語に、もし関わりがあるとすれば縄文時代、アイヌと琉球なんでしょうけどね。

もし、そうなら面白いですけど。
  
 キプリングを乗せたバスク似の青年は、縄文に来た人々の子孫だったりして。

能格 とは、複数の意味で用いられる文法用語です。
 
動詞は、主に動作や状態を表し、項として主語や目的語などの名詞句をとる語を言うのです。
自動詞は、主語のみをとる動詞です。
他動詞は、主語および目的語をとる動詞です。

 例えば、「立つ」「落ちる」「笑う」は自動詞で、「読む」「壊す」「落とす」は他動詞、でしょ。

その一つは、言語の類型としての能格言語です。
他動詞の目的語と自動詞の主語が共通の格で示され、他動詞の主語が別の格で示されるです。

ほかにも、能格言語において他動詞の主語を示す格を、能格と言うのです。
 
他の言語でも能格性といって、能格言語と同じように、他動詞の目的語と自動詞の主語が共通の格で示される性質が部分的にあるのです。
特に、この性質を示す動詞を能格動詞と言うのです。

バスク語は、能格構文を構成しているのです。
周りの言語の殆どが、主格構文であるのに対照的ですね。

言語学的に、バスク語のほかに、グルジア語なども能格構文の言語として知られるので、カルトヴェリ語族との関連がありそうって見られたわけですね。

 バスクって言えば、石かつぎ競技が有名ですよね。

有名すぎて、他がかすんでるですね。
もとは、自然石を用いたそうです。

いまでは、石の形4種類だそうです。
立方体、直方体、円筒形、球形。
球形以外は、手をかける場所が設けられているのですって。

 そういえば、日本でも石を持ち上げる占いみたいなのあるし。
 江戸時代から明治時代にかけては力石(ちからいし)を用いた力試しが、日本全国の村や町でごく普通に行われていたそうね。

石の占いと、石の力試し、文化的なつながりは確認できないそうですね。

主に、個人が体を鍛えるために行ったり、集団で互いの力を競いあったりしたそうです。
神社の祭りで出し物の一つとして、力試しがなされることもあった、というのは少々気になりますけど。

私はむしろ、神社に奉納される「独り相撲」と比べてみたいですね。

 でも、石は?

聖書には、ヤコブと神の使いの相撲が記されているのです。
 
さらに、神や神との契約の象徴として石が出てくるです。

 聖書の最初の方でしょう。

ええ。

日本の「独り相撲」と、ヤコブの相撲を似てるという説があるのです。

バスクの石かつぎの石を神の象徴と見れば、ヤコブの相撲や日本の「独り相撲」と似てるのでは?

 そう言われれば、そうかも。
 でも、ちょっと強引かも。

強引は、承知です。

バスクと日本、何があるのでしょうか。

 バスク地方、独立運動で一部が過激化してますねえ・・・。
 なんか、テロの印象しかないけど。
 でも、文化として興味ありますね。

まあ、どこにでも困り者の過激なのは居ますけど。

もっと、詳しく紹介されていい民族かも。

 ビルバオにはいったことがありますよ。
 いってみるととても豊かな国でした。
 独立運動も、実はバスク地方は独立しても全然困らないくらいお金持ちで自国でやっていけるくにのようです。
 シエスタが一時から五時というのが、桁外れでびっくりだったです。

逆に言えば、独立されたら困るスペインが邪魔していると言うことでしょうか。

 そうみたいです。
 しかも、外資に頼らなくていいほどらしいですよ。

バスク人、やるものですね。

ポチッとよろしく!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

麻雀

任天堂株式会社は今でこそ、家庭用レジャー機器の製造・販売の大手ですよね。

 社名は、「運を天に任せる」「人事を尽くして天命を待つ」と言う言葉に由来すると言われているそうね。

初代社長が死去しているため、詳しいことは不明だそうですが。
前社長の山内博も、どちらかと言うと運命的な要素を信じる傾向の人というから可能性あります。

 つまり、玩具・ゲームを製造する会社ってことですね。

特に家庭用ゲーム機業界では日本、世界問わず最大級の企業ですよね。

創業した明治22年9月23日のころ作っていたのは、もちろんテレビゲームなんかじゃないです。

麻雀、囲碁、将棋、花札用具のメーカーとしても知られているけど、もともとはこれが本業だったです。

 元々は、京都で花札屋として創業した玩具企業だったでしょ。

 それと、今は中国語では麻雀ではなくって麻将と書くの。
 麻雀だと、雀になっちゃいますよ。

そうですか。

たしかに、中国語に設定して「麻雀」で画像検索すると「分類:雀形目、麻雀科、麻雀属、麻雀種」なんて表記して雀の写真が出たりしますね。

日本では、麻雀のほうが通りが良いので、こちらで表記させてもらいますね。

1983年7月15日に、ファミリーコンピューター、略してファミコンと銘打って売り出されたゲーム機が大当たりしたのが任天堂の転機でしたね。

 浮き沈みの激しい中で、テレビゲームを今も引っ張り続けているのはすごいですよね。

麻雀(マージャン、Mahjong)とは19世紀中頃の中国を起源とし、日本をはじめ世界中で親しまれている原則として4人用の牌を使ったテーブルゲームなのです。
 
 麻雀ってやったことないんですよね。
 色々覚えるのが難しそうで・・・・。

実は、私も未経験ですが。

 あらら・・・。

 ところで、任天堂の話は、枕なんですか。

ま、硬い事言わないでです。

原則としてと言うのは、3人麻雀が、関西や四国など地域によっては4人麻雀より主流だからです。

 3人麻雀の盛んなとこって、もしかして饂飩好きな地域と重なってませんか。

どうなのかです。
西日本全体として、饂飩派と蕎麦派の分布がどうなっているか見た方が良いかも。

 出雲弁地域は、やっぱり蕎麦派でしょうかね。

どちらかといえば、そうかです。
もっと、調べる必要はありそうですね。

 私はうどんのような粉食文化と言葉、そして3人麻雀の関連性に強く惹かれるよね。

麻雀は1850年代、上海近辺で生まれた遊戯といわれているです。
もとになったのは、馬弔(マーチャオ)、馬将(マーチャン)とも呼ばれた伝統的な紙札遊戯と、骨牌遊戯の一種の天九牌(てんきゅうはい、てんかおはい)だそうです。

馬弔は、古代より中国で遊ばれていた紙牌を用いるカードゲームが、象牙・牛骨製の牌ゲームに変化し誕生したものですと。
各札は、1枚ずつで合計40枚で1セットとなるカードゲームなのですと。

馬弔の構成は以下の通り。

文銭が11枚。
 一文 二文 三文 四文 五文 六文 七文 八文 九文 枝花 空湯
索子が9枚。
 一索 二索 三索 四索 五索 六索 七索 八索 九索
萬貫一が9枚。
 萬貫 二萬貫 三萬貫 四萬貫 五萬貫 六萬貫 七萬貫 八萬貫 九萬貫
十萬貫が11枚。
 二十萬貫 三十萬貫 四十萬貫 五十萬貫 六十萬貫 七十萬貫 八十萬貫 九十萬貫 百萬貫 千萬貫 萬々貫

このゲームは宋の時代には存在した可能性があるとされているが、なんとなく現在の麻雀の元祖といった感じだそうです。

 馬弔(マーチャオ)、馬将(マーチャン)の名前から言っても、麻雀(マージャン)の元祖でしょうね。
 でも、今でも続くカードゲーム、トランプとの関係はあるでしょうか。

4種のカードを奇数枚づつ、と言う点では共通ですね。
 
 トランプは、占いと関係が深いでしょ。 

馬弔と占いってかです。
どことなく陰陽は、背景にありそうですけどね。

天九牌は、骨牌の枚数は32枚。
西洋のドミノ牌のルーツともいわれる、中国のドミノ牌です。

 天九牌は、香港、米国の中国人等で遊ばれているようであるが、主として賭博に用いられているようで。

西洋のドミノのように、全く同じものが2つない内容ではなく、 全部で21種あり、このうち10種は1枚ずつ、11種は2枚ずつ。
天九牌は、1枚しかない10枚の牌を軍人(武牌)、2枚ずつある11種22枚の牌を市民(文牌)と呼ぶそうです。
ある種のゲームでは、この区別が重要な意味を持っていると言うです。

 ドミノは、一説によると、紀元前3世紀に現在の中国で行われていたそうね。

ドミノの起源ははっきりしていないが、マルコ・ポーロによりイタリア、そしてヨーロッパ全土にもたらされたといわれているから、中国発の遊びと言えるかです。

かつてのシルクロード沿いの国々で、ドミノに興じる姿を見ることができると言うからです。

天九牌の目は、西洋のドミノ牌と違って0の目がないそうですね。
  
 ドミノ牌の各正方形には0個から6個、あるいは0~9個の印からなる模様、つまり目がサイコロのように書かれていますね。
 市販されているドミノ牌には、木製、象牙製、およびプラスチック製のものが多いのですって。 

 ドミノ牌は28枚1組で、目が0~6のドミノ牌が入ったひとそろいをダブル・シックスといいます。
 ダブル・シックス0~6で、可能な目の組合せ((0,0),(3,6)など)が全て一枚ずつ入っています。
 (3,6)と(6,3)のように順番を逆にしただけのものは同じ牌と見なされ、3と6が書かれた牌は一つしか入っていません。

ドミノ牌の目はサイコロをもとにして作られたといわれ、ドミノと言う名は「頭巾」を意味するのですと。

天九牌では、点の色は1と4、それに6-6の牌の6の片側の3つが赤く塗られてるです。
親を決める際には3個のサイコロを振り、 このさいころも1と4の目が赤く塗られてるです
出た目の合計だけ、時計と反対回りに数えていくそうです。

 赤と黒、左回り、やはり陰陽が背景にありますかね。

赤が南、黒が北、左回りは陰の方向、そう見て良いかも。
 
 馬弔も、奇数枚の陽、偶数組の陰、そう見たら陰陽、中国古代の遊戯と陰陽って関係深く見えますね。

任天堂の出発となった花札は、「花かるた」とも呼ばれた日本の伝統的カードゲームの一種です。
 
 今では、一般に花札といえば八八花のことね。

一組48枚に、12ヶ月折々の花が4枚ずつに書き込まれているです。

48枚の由来は、ポルトガルのトランプが一組48枚だったころに伝来した名残だそうです。

 ポルトガルとの交易を通じて、日本にカードゲームが初めて上陸したのは安土桃山時代でしょ。
 日本の「かるた(歌留多、骨牌)」の語源は、ポルトガル語でカードゲームを示す「carta」だったよね。
 国産のかるたは天正時代(1573~91)にさかのぼれるそうで、当時の札が一枚だけ現存するのですって。

宣教師が、鉄砲やキリスト教、カステラ等と共に伝えたそうです。

2人で遊ぶこいこい、2人以上で遊ぶ花合わせ、と言う遊び方が一般的ですね。
愛好家の中では八八と言う遊び方に人気があり、そのほかにも、全国各地で独特な遊び方してるのですね。

 トランプと占い、関係は深いですね。
 任天堂って社名、そう思ってみると意味深長ね。

「運を天に任せる」「人事を尽くして天命を待つ」と言う言葉に由来すると、解釈されても仕方ないかも。

 囲碁と将棋は?

以後検討しょうかって。

 でもほんと、面白いこと満載ですね。

楽しんでもらえましたか。

ポチッとよろしく!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

出雲と関東

伊豆の方言では、終わりに「だじゃ」「ずら」などがつきます。

伊豆市八幡という、八幡がつく地名があります。

出雲の方言では、終わりに「だが」がつきます。

出雲市佐田町八幡原、松江市八幡町などという八幡のつく地名があります。

 果たして、偶然でしょうか。

松本清張の長編小説に、『砂の器』があります。

 『砂の器』は、映画にもなったよね。
  高校生だった私は、らい病問題のことをこの時知ったの。

1960年5月17日から1961年4月20日にかけて、『読売新聞』夕刊に掲載されたのです。
1961年には、光文社からカッパ・ノベルスの一冊として刊行されたのです。

駅の操車場で起きた殺人事件を、東北訛りと「カメダ」という言葉を手がかりに追った社会派推理小説で、特に傑作として高く評価されているのです。

当初は、秋田県に「カメダ」に似た地名があるなどの理由で、東北の方面を調べたのです。
調べていく中で、出雲地方にも似た方言があることがわかったのですよ。

 方言で繋がる東北と、出雲?
 
 言葉や地名、とくに方言の相似は興味深いね。

『砂の器』は、方言を調べた本から次のことを抜書きしているのです。
 
 出雲の音韻が東北方言のものに類似していることは古来有名である。
 たとえば「ハ」行唇音の存在すること、「イエ」「シス」「チッ」の音の曖昧なること、「クゥ」音の存在すること、「シェ」音の優勢なることなどを数えることができる。

作品では、岡山の一部で東北弁と似た発音をする「出雲弁」が使われていることが事件に結びつくという形で、触れられているのです。

 出雲弁って、島根だけじゃないの。 

『砂の器』は、方言を調べた本から次のことも抜書きしているのです。

 中国方言とは、山陽・山陰両道のうち岡山・広島・山口・鳥取・島根の五県の方言を総称するものである。
この方言をさらに二区に分ける。
一は出雲・隠岐と伯耆(ほうき)との三国の方言で、これを雲伯方言と名づけ、その他の地方に行われる方言を、かりに中国本部方言と名づけたい。

伯耆は、伯州と呼ぶこともあり、現在の鳥取県中部及び西部にあたります。
さらに、島根にも「カメダ」に似た地名があることがわかり、捜査に向かうのです。

 捜査では地名違いは、致命的な間違いになりますよね。
 で、どうなるの?

後は、自分で読んでくださいね。

 内容の紹介では、ないようで…。
  
残念だったですか。

出雲地方には、ほかにも面白いことがあります。

東日本の蕎麦好きに対し、西日本の饂飩好きと言いたいところだけれど、例外があります。

出雲地方なのです。

 小麦粉食文化が圧倒的な西日本で、なぜ出雲そばなのかね。
 前から気になっていたのです。

 東日本と、出雲。

 畿内の大和勢に分断された。 
 畿内の大和勢を迂回した。
 
 どちらでしょ。

どうなのかです。

出雲と関東には、興味深いことがあります。

埼玉県さいたま市大宮区高鼻町一丁目にある氷川神社は、足立郡を中心に武蔵国、つまり東京都・埼玉県各地にある氷川神社の総本社です。

須佐之男命・奇稲田姫命・大己貴命を、主祭神としてるです。

 神社名は、地名に由来?

ええ。
社名の「氷川」も、出雲の「簸川」に由来するという説があるのですよ。

 出雲から、分霊を勧請し鎮祭したのが氷川神社の名の由来でしょうか。

おそらく、そうですね。

島根県出雲市大社町杵築東の出雲大社は、茨城県鹿嶋市宮中の鹿島神宮と、日本を貫く東西の線がもっとも長く取れる位置に営まれる一対の神社と言う指摘もあります。

 出雲大社の御神座のある御内殿の西向き、鹿島神宮の神座は東向き、それぞれは西と東を向いているのでしたね。

吉野裕子は、出雲大社は海を西に見るところに建てられ、鹿島神宮は海を東に見るところに建てられたともいっているのです。

 古代の関東には、日本と名乗る国があったそうですね。

関東地方の国である古代「日本」と、中国地方の国である古代「出雲」、なにかありそうです。

 関東も、秦氏の一大拠点でしたよ。
 出雲は特殊な場所として、他地方のつながりを考えれば、納得できるのですね。

出雲もまた、秦氏にかかわる土地でしょうかね。

 出雲と関東にそんな関連があるとは・・・・。
 秦氏って興味が尽きないですね。
 調べたら色々でてきそうだな。

 以前、鹿島神宮に行ったことがあります。
 あの荘厳の雰囲気、出雲大社と似ている感じがしました。
 やはりつながりがあるんですね・・・。

そういえば、秦氏ゆかりの神社の名ですね。
八幡と言う名は。

ポチッとよろしく!

| | コメント (2) | トラックバック (0)

三徳山三仏寺投入堂

鳥取県東伯郡三朝町三徳にある三徳山三仏寺投入堂は、おそらく平安時代までさかのぼれるそうです。

2007年1月、テレビで偶然、この投入堂を取り上げているのをみて、興味深いところがあったのです。
投入堂は創建当時の色彩を再現してみると、白壁に弁柄の赤い柱と屋根、金色の金具という彩り鮮やかな姿であったと推定できるというのです。
ここには極楽浄土を拝みたいという、末法とされた世に生きる人々の思いは確かにあるのでしょうね。

不動尊とも呼ばれる不動明王が祀られる投入堂の向かって左には愛染堂が、小さく添えられているのです。
愛染堂とは、愛染明王が祀られるお堂です。
不動明王も愛染明王も、密教特有の尊格である明王の一つです。

ふと思ったのですよ。

「何か変」

そう、神仏の像は単独か三尊、もしくはそれ以上というのが古代になればなるほど、一般的なはずなのです。
不動明王と愛染明王のみの配置は、創建当時としては、少なくとも私にとっては、どう見ても不自然なのです。

不動明王は、大日如来の使者とされるのです。
一般的には、激しく燃えさかる「迦楼羅炎」(かるらえん)を背に、大きく開いた眼で天地を見据え、右手に降魔(ごうま)の宝剣、左手には羂索を持って岩の上に立っている姿で、表されるのです。

愛染明王は、その名が示すとおり「恋愛・縁結び・家庭円満」などをつかさどる仏としてあがめられてきたのです。
また、「愛染」が、「藍染」に通じるとして染物・織物職人の守護神としても信仰されているのです。
日輪を背負うことが多く、一面六臂(いちめんろっぴ)の身体で、怒りの形相、頭にはどのような苦難にも挫折しない強さを象徴する獅子の冠をかぶり、叡知を収めた宝瓶(宝の壺)の上に咲いた蓮の華の上に結跏趺坐(けっかふざ)で座るという姿で、表されるのです
しかし藍染明王は、手放しで愛欲を受け入れるわけではないわけです。
人間の本能である煩悩と愛欲を抑えるのではなく、むしろ向上心の元とすべしと戒めるお方です。

こうみると、太陽神である大日如来の御使いが並んでいることが感じられるのです。

となると、不動明王の向かって右にも大日如来の使いが祀られていいはずです。

陰陽で見ると、左は西に、右は東に配当され、西は日没で死を、東は日の出で生を、表すとされるのです。
つまりは投入堂は、もう一人が現れて太陽神の御使いが揃い、救いが成就することを願う場所であるのかもしれないです。

これは、彩りに同じく陰陽五行を当てはめても見ることはできるようです。

白壁に弁柄の赤い柱と屋根、金色の金具ということは、白と赤と黄がそろっているのです。
白は西、赤は南、黄は中央、となって黒の北と青の東がないのです。

陰陽五行では北に天、南に地を配するので、天と東が抜けていることになるです。

やはり、もう一人の太陽神の御使いを待望する心情が見て取れるのです。

しかし、周りに目をやってほしいのです。

山には緑があるのです。

緑には、「緑の黒髪」というみずみずしさを表現する言い方があるように“黒”が隠れているのです。
これで、天は揃います。

さらに、“緑”はみずみずしさを表すことからか、“青”と混同されることも多いので、“青”も隠れていることになるかも。
これで、東も揃いますね。

そうなると、天の神も、もう一人の太陽神の御使いも、すでにおられることに気がつくようにとの伝言も、見て取れるのかもしれないのです。

なんか、似ていないでしょうか。

「悔い改めて福音を信ぜよ。神の国は近づいた。」
「悔い改めて福音を信ぜよ。神の国はあなたがたのうちにある。」

どう思われますか。

ついでにいえば、明治の神仏分離令まで日本は神仏混交で、神道ではしばしば森そのものが神とされます。

修験は神仏混交信仰の最たるもの、つまり神に抱かれたお堂という見方は、的外れではないと見るのですけれど。。。

 あなたの推測はいつも突飛そうだけど、話を聴いて行くうちになるほど!って思います。

 宗教ができた大元を考えれば、「自然を畏れる」ってことでしょうね。
 陰陽五行の色もすべて自然のものの象徴としているのだから、なるほどなんですね。

世の中に存在するもの、そして生活するということ、それらは色を抜きにしては成り立ってはいないということでしょうね。

 色の一つ一つに、意味と力があるんですものね。
 神代の昔からそれはきちんと証明されているんですね。

そういえば、仏教にこうあったです。

「空即是色」
「色即是空」

陰陽五行と、みごとに対応して見えますね。

 そういえば、こういう話し聴いたことありますね。
 「宗教の真理は共通。それが人の目に見えないのは悪魔のしわざ」

 こちらは仏教<空海>とキリスト教<イエス>の話でしたが…。
 言葉が違うだけであって。

面白いですね。

ポチッとよろしく!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年10月 | トップページ | 2008年12月 »