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サタンは本当に醜いか?

サタンの正体は堕天使、堕落したとはいえ、元は天使、しかも最高位とされる光の天使。

実は、サタンであるルシファーって美しいのです。

 もちろん、サタンの手下たちも堕天使。
 かれらもまた、美しいのですね。

 ただ、堕落したのは自分のせいなのを棚に上げ、人間たちを堕落の道ずれにしようとする浅ましさは、醜いと見られても仕方がないですよね。

神の側に立つ天使は、聖書を見ると、私たちと同じような肉体を持って地上にやってきます。

神の怒りをかって滅ぼされたソドムとゴモラでは、町の誰もが天使を気づけなかったことが記されています。

また、天使の軍団が誰にも見えない形で活躍する場面も聖書には数多く出てくるのです。
人々が気づかないようにできるからといって、触れることが可能な肉体がないわけじゃないのですね。

それに対して、サタンや手下たちは霊的な存在であって、私たちのように手を触れられる体ではないようです。

それはともかく、サタンは人に似た姿ってことです。

でも、一般のイメージの中では、山羊頭だったりしてないでしょうか。

 ええ、角の生えた醜い姿を想像しやすいですね。

醜い姿で描かれる悪魔(akuma)は、実は、悪者を懲らしめる側にいるのじゃないでしょうか。

 異能の持ち主であるから、悪魔(akuma)は異形で描かれるのかも。

古代の異能の神々は、結構、異形で表現されることが多いのですよ。

ヒエロニムス・ボスの有名な三連祭壇画「快楽の園」に描かれた異形の者たち、あれは悪魔(akuma)と思えるのですね。

 仏教説画の地獄絵に登場する、鬼たちとよく似た役回りを演じているって感じでしょうかね。

さらに、山羊の姿とされる悪魔(akuma)とは、とほうもない時間の中で半端じゃない智恵と知織を蓄えた長老を表していると思えます。

誤解しないで欲しいのは、本来の悪魔(akuma)にはサタンが含まれないこと。
サタンの姿が誤って判断されたことは、サタンと悪魔(akuma)の混乱のもとになっているのです。

一方、羊とはまるまると育った健やかで無邪気な幼子の似姿であり無垢な魂の象徴かも。

 聖書で贖罪の献げ物とされるのは、羊ではなく山羊でしょ。

贖罪は罪滅ぼしともいわれ、実際の行動によって、自分の犯した罪や過失を償うことです。

善行を積んだり金品を出したりするなど具体的なことで、償いたい気持ちを形にする行為です。

だとすると、地獄の火とは贖罪の山羊が焼き尽くされる火となってしまうのでしょうか。

そして、ゴルゴダの丘の受難のイエスを動物で表すと、山羊となってしまうのでしょうか。

神の智恵と知織に通じていながら、人々の贖罪したい気持ちを一身に背負って受難するイエス。

魔女が悪魔(akuma)から授かった子供に見立てられていたばっかりに、魔女狩りで迫害された猫と、イエスはますますイメージがダブっちゃうのです。

つっこみにくいネタでしょうか。

 山羊と羊は、日本語の漢字で書くと山があるかないかで、親戚みたいなものだけど。

 キリスト教やユダヤ教では、その象徴するものが違いますよね。
 西洋人にとって、イメージがだいぶちがうんでしょうね。

 日本人にとって、山羊も羊もあまりなじみのある動物じゃないです。
 肉も乳製品も、あまり食べないしね。

身近だからこそ、たとえになるってのは確かにあるです。

ますます、イエスと猫又、似てくるです。

 確かにヒエロニムス・ボスの絵は、異様で不気味ですよね。

 ルシファーたちは美しいはずなのに・・・・ 。

 異様に描かれるのは、私たちの心の反映なのかなあ。

ヒエロニムス・ボスの絵で異様で不気味なのは、確かに心の反映を意識してるかも。

古代の神々は、異形に描かれることは多いです。

超常的存在であると、一目見てわからせるためですね。

おそれや畏敬の気持ちが、自然とわくようにしむけるってのも、狙いにあるかも。

たいてい、なんらかの動植物が、何らかの形でイメージされちゃってるようですね。

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