御父
絶対三神は、御父と御子と聖霊からなると、イエスは明かされました。
旧約聖書ではヤハウエ、新約聖書ではイエスと名乗っているよ。
それだけ見ると、別の神のようね。
でも、ヤハウエもイエスも、同じ「わたしはある」と名乗っておられるのですよ。
聖書の神は、基本的にはイエスであるといって良いってこと?
ユダヤ教徒やイスラム教徒からは、ヤハウエであるとかアッラーであるとか、言う声も出るかも。
アラーはコーランでしょ?
コーランの神、アッラーの啓示を説いたムハンマドの手元にあったのは、旧約と新約の聖書だけだったはずです。
ムハンマドは、聖書の解説者だったと?
そういう見方もできるかも。
ところで、こんなこと考えたことないですか。
神は、御自分が完全な神であり続けるために贖いや憐れみの計画を行うのかって。
なぜ、御父自身が贖いをしないで長兄であるイエスに行わせたのか?
罪を背負う事が、完全な神を不完全にしてしまうからか?
御父が全ての始まりであり自分の行った様々な奇跡によって起きた結果に対して、子であるイエスに罪を背負わせて贖わせるのはなぜ。
まるで、責任を父親が子に押し付けているみたいな感じがします。
イエスそしてアダムとイブが、御父のために選択の自由を捨ててまで御父の望む行為をしたことは謎です。
御父というお方は、直接自分の手を汚さないが、思うがまま全てを操り事を運ぶの。
それは無言の強制にも、受取れますか。
御父の、自己満足と思えます。
イエスそしてアダムとイブが、御父のために選択の自由を捨てていたのは確かかも。
そのような選択をしない自由も、神は与えておられたと。
御父は信仰心の優れた者には、極まれに姿を現すみたいですね。
出来が悪い者にこそ積極的に姿を現して叱ったり導いたりする方が、御父の求めるように成長する者が増えるように思うけどねえ。
選択の自由を侵害する可能性があるので、特別な信仰を持つ選ばれた人間にしか姿を現さないと言うのかも。
それとも、特別な相手にか姿をあらわされないのなら、テスト期間の人間に対して一切の接触を持つべきかも。
贖いとは、命をもって罪を償う事なのかも。
そのとおりかもねえ。
それとともに、死をも知るものとならねば、神の智慧、智識に近づけないからでもありえるのです。
それは、神の似姿とされたアダムとイブがなぜに死に至る知識の樹になる実を食べねばならなかったかとも、重なるのです。
すでに復活体を持ち、不死不滅の状態である御父には出来ない事なのかもしれないですね。
だからその使命を、自分と同じ栄光と力を授けた長子イエス・キリストに委ねたのかも。
何かまだ納得しきれませんねえ。
なるほどと思っても。
知識の樹の実を食す必然性があったのに、それが罪になり贖われないと助からないとは矛盾だと思います。
確かに、おっしゃるとおり、矛盾であることは認めるのです。
神はアダムとイブに、生命の樹と知識の樹の実を食べてはならぬ、と命じておられるのです。
でも、アダムとイブは食べてしまいましたよ。
神の命にそむいたのですから、大罪を犯したといえるのですね。
その大罪の償いとして、アダムとイブに匹敵する人物が命を持って償う必要があったのでしょう。
それで、御父はイエスを遣わしてみたのかも知れないですね。
いつまでも、原罪を引きずらせるわけにはいかなかったからでしょう。
それは、イエスの十字架の一側面でしかないということなの?
旧約と新約を比べてみて。
ヤハウエ時代と、イエス時代、イエスがいかに成長されておられるか、感じ取れるかも。
そのイエスといえども、知らないものがあったと。
それが、死なのだと思えるです。
たぶん、アダムやイブもまた、エデンの園にいる以上、死を経験することはなかったでしょう。
しかし、御父もまた死を経験してこの世のすべてに関する智慧と智識を得られたお方なのかも。
御父の智慧と智識に近づくには、死をも知らないといけなかったのかも。
アダムとイブは、サタンに堕落したルシファーにそそのかされたのは確かでしょう。
しかし、御父の意思を受けて自分たちを創造されたイエスがなぜ、ルシファーを阻止しないかを、二人は悟ったのかも。
御父は、死を知ることを求めておられると。
子を得て、子孫を増やすことは神の導きで可能であったとしても、アダムとイブを守る必要のある御父とイエスに、二人に落ち度もないのに死を求められないのかも。
それで、神の言いつけにそむき、死を命ぜられる立場を選ばなければならなかったのかも。
イエスもまた、アダムとイブ同様、死ねない運命だったのかも。
だから、あえて冤罪を着て十字架に臨み、死ななければならなかったのかなあ。
まず、神は正義そのものであるので人々の塵ほどの罪を許すことは出来ないかも。
もしそれを許すことになれば、神は絶対的な正義の立法を犯すことになるかもね。
それは、神を神ではなくしてしまうことかも。
「アダムとイヴが実を食べる必要があったのに、神が食べるな、と命じておられた、とは矛盾では?」に関してですが、そうだとしたら矛盾かも。
実はそもそもそういう意味ではなく、“死にたくなければ”食べたらあかんよ、という意味かも。
同じやんか。
それなら、別の言い方して見たいです。
「レモンを食べたら酸っぱい思いをしますよ、酸っぱい思いをしたくなければ、食べないでおきなさい」という意味で、レモンを食べること自体が絶対悪である、とは言ってないということかも。
奥が深いのでしょうね。
聖典に分かり易い例え話や解説があれば、もっと読み易くて神を信じる人も増えるかもね。
結局のところ、イエスもアダムもイブも御父のような完全な神を目指すために死を選んだのかも。
食べること自体が絶対悪である、とは言ってないと。
アダムとイブが神の警告を聞かなかったのは、確かかも。
神は完全すぎて人間に近くないから、イエスの体を借りたのだと思います。
神は死なないので、死を持つ肉体が必要だったのでしょう。
「死」という概念を通さないと、人間が理解しないからでしょう。
神には「死」がないので、神自身がその役割を果たすことは不可能でしょう。
人間に分からせようと思ったら、そのレベルに近い位置に降りて来なくては、ならないでしょうね。
それはどのようなレベルにおいても、そうでしょう。
上の者が下に降りて分かる言葉で、表現せねばなならないのでしょうね。
神を、御父御子聖霊の、御父と言う意味で見れば、仰るとおりと言えるかも。
つまり、御父は完全すぎて人間に近くないから、御子に受肉させるためイエスの体を借りた、という見方も可能ということです。
私が、御父御子聖霊の三者を別々の存在と見た方が、いろいろな想像の可能性が広がる分、面白いと感じてるのです。
高みに居過ぎる御父が、まだまだ未熟で発展途上な人間に、身近な導き手として御子をお送りくださったという方が、自然に見えますね。
新約のイエスは、生まれながらに人格があまりに完成されて見えるけど。
それに対し、旧約のヤハウエは姿こそ見えないけど、もっと人間くさい存在に見えますよね。
特に、モーセがいる時のヤハウエときたら、振り上げたこぶしの下ろし方に困ってはモーセにきっかけを作ってもらって体面を保っているようにさえ感じられます。
それ以外にも、人間の扱い方や自分の力の使い方を試行錯誤で学習していってる風にみなした方が自然な展開があっちこっちに見受けられます。
もしもヤハウエがもっと早く受肉していたら、ギリシャ神話の神々のように人間くささがはっきりと見えたでしょうね。
威厳よりも親しみのある神の印象が強かったのではないかと、考えたくもなるのです。
御父は、御子の体面を考慮して受肉を遅らせたのかな。
ヤハウエは姿が見えないことで、体面と威厳を保ちながら人々とともに成長できたのかも。
御子ヤハウエが十分経験をつみ、学習も出来たと判断した御父は、満を持して受肉させ人として光臨させたのでしょうかね。
御子に、旧約では伝え切れなかったメッセージを人々に伝えさせるとともに、裁かれる者や処罰される者の気持ちを体験させようとなさったのでしょうか。
神の言葉さえ受け入れれば復活は可能であると言うことを、事実で人々に知らせる意図もあった。
そんな解釈も、御父御子聖霊の三者を別々の存在と見れば可能になりますね。
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