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肥田氏と諏訪氏と賀茂?

祭司としての肥田氏は、表の歴史には聞いたことはないと以前お話しました。

ところが、直接肥田氏という形ではないものの、面白い話を見つけたです。

諏訪神社といっても、岐阜県美濃加茂市下米田町山本の神社に関するもの。
元々は美濃国賀茂郡下飯田村中山、現・加茂郡川辺町下飯田に鎮座していたと言います。

主祭神は、建御名方神。
社格は式内社、旧郷社です。

式内社(しきないしゃ)は、また式社(しきしゃ)とも、言います。
正式には延喜式内社で、「延喜式の内に記載された神社」の意味です。

『延喜式』は延長5年(927年)にまとめられ、そのうち巻九・十は、延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)と呼ばれるです。
延喜式神名帳は、当時「官社」とされていた全国の神社一覧です。

加茂市の諏訪神社の創建時期は、不明とのことです。
一説には、郷社として延喜5年(905)に創建され中山社と呼ばれていたと言います。

永禄年間に兵火で焼失したが、永禄12(1569)年に米田城城主肥田玄蕃の命で肥田長寿丸により現在地に再建されました。
肥田長寿丸は、肥田玄蕃と親子です。
ちなみに当時の神主は山田左近右衛門。
再建の際、信濃国諏訪大社、つまり諏訪明神を祀り、諏訪神社に改称しました。

諏訪明神は、米田城主であった肥田一族の守り神となります。

なぜ、主祭神は建御名方神なのに諏訪神社としたか、ここに面白い史実があると言います。
米田城主であった肥田氏の本当の姓は諏訪氏であり、諏訪大明神に仕える家柄だったことによると言うのです。

諏訪氏は代々、諏訪大社の大祝を務めてきた一族です。
大祝は祭神の神託により、身体に神が宿るとされ代々、正一位の神階を継承しています。
その血筋は神氏といい、出雲神話の神、建御中主尊(タテノミナカタヌシ)に始まると言います。
異説には桓武天皇を祖とするとも、清和源氏の源満快を祖とするとも称します。

肥田玄蕃助軌休より4代前は、木曽義仲に仕えていたそうです。

諏訪氏は、神官であると同時に武士としても活躍していたです。
木曽義仲の先祖である源義家(八幡太郎義家)が出羽の清原氏討伐のため、後三年の役に介入すると、源氏軍に加わったと言います。

木曽義仲といえば、清和源氏の一人であったです。
清和源氏は清和天皇の第六皇子貞純親王の子、経基王を祖としています。

肥田姓を歴史をさかのぼってみると、肥田宿禰なる人物が登場、清和源氏土岐氏の流れや、藤原氏などが祖先候補としてあがってきます。
藤原氏は天皇家と姻戚関係が深いので、ほぼ、肥田宿禰は清和源氏土岐氏の流れとみていいのかもしれないです。

清和源氏土岐氏は、源満快の兄弟である満仲からでていると言います。
肥田氏には満仲だけでなく、満快の流れもある可能性があるということになるが、いずれにしても天皇の一族からでた可能性は高いと言えます。

そして天皇家と言えば、神官の最高位でもあります。

その上、肥田氏に祭神の神託により、身体に神が宿るとされる大祝であった諏訪氏との関わりが見えます。
そうなれば、肥田氏自体も神職を出していた、それもかなり高位の神職がいたと見てもおかしくないことになってきます。

そして、肥田氏の昔からいた関東は秦氏の一大勢力があった土地、一方、諏訪大社は聖書のアブラハムとイサクのモリヤ山での物語とそっくりな祭があります。

ますます、肥田氏は秦氏の一族で、秦氏はユダヤの一族、つまり肥田氏もユダヤの一族であったと思えるようになって来たです。

 おお、肥田氏と秦氏がつながっているんですか!
 秦氏って興味がつきないんですよね。
 ユダヤつながりですか・・・・・。

はたと思ったけど、岐阜県の諏訪神社は今は美濃加茂市でかつては賀茂郡、つまり昔も今も加茂の付く土地にあります。

ここで思い出すのは、賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の2つの神社の総称の賀茂神社です。

賀茂別雷神社は、京都府京都市北区上賀茂本山。
賀茂御祖神社は、京都府京都市左京区下鴨泉川。

加茂神社は加茂氏の氏神だけど、加茂氏は秦氏の一族です。

加茂にこだわって鎮座の場所を定めたあたり、やはり諏訪氏は加茂氏との繋がりが疑え、秦氏につながる可能性がありますね。

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