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聖書にとってイエスとは?

「キリスト教を信仰してる」そういう人の中には、「新約だけ読めばキリストの教えがわかるから、わざわざあの分厚い旧約読まないでも良いよね」って思ってる傾向が相当あるようで、新約と旧約が分けて売られていますね。

 聖書は読み物としても、おもしろいですよね。
 柔らかく翻訳されていれば、ですけど。

 どちらかというと神道、仏教贔屓の私ですが、高校のころ買った聖書は、まだ本棚に居座ってます。

 一度、世界に散らばる創世記を掻き集めて、その世界観に埋もれてみたいですね・・・。
 ある意味新境地かも・・・。

 それはさておき、新約しか知らないキリスト信仰者も、多いのでないでしょうか。

 しかしですねえ、イエスって、実在だったのですか。

イエスが何教徒だったか知ってますか。

 キリスト教の教祖でしょ。

そんな考え、あまいですよ。

イエスは、ゴリゴリこってこてのユダヤ教徒ですよ。

啓典である聖書より解釈書であるタルムードが幅を利かせていたユダヤ教に、渇を入れた人だったわけですね。

本来の姿に戻そうとした宗教改革者、誤解を恐れずに言えばユダヤ教のプロティスタントってところです。

「信仰のみ聖書のみ!」

「解釈者としてのパリサイ人の言葉には耳を傾けてもいいが、パリサイ人の真似はするな!」

解釈者に過ぎないパリサイ人に乗っ取られていたユダヤ教を、本来の姿に戻そうとしたのがイエスなのです。

つまり、イエスはキリスト教を立ち上げようとしてはいなかったのです。

神との直接の契約者こそ、真のユダヤ、真のイスラエル。

イエスは啓典についての真の解釈を神に託された預言者。

よって、イエスに従うものこそ、真のユダヤ、真のイスラエル。

それが、イエスの立場、イエスに従うもののとるべき立場ということになるようです。

新約しか読まないものは、イエス読みのイエス知らずというわけです。

旧約をちゃんと読んでこそ、真のイエスがわかるというものでしょうね。

考えても見てくださいね。

イエスの時代、聖書といえば今で言う旧約だけだったのです。

 私はプロテスタントの高校で、旧約聖書は勉強したことなかったです。
 それって、考えれば変だったわけですねえ。
 どちらにしても真面目に聞いていなかったから、同じかなあ。

イエスをキリスト、すなわち救世主と見ることは間違いではないでしょう。

でも、それはイエスを一面しか見てないことなのでしょうね。

 結局”キリスト教”は、使徒達が立ち上げたものだしねえ。
 
 しかし、彼の人々はどうしてあんなにも、流派が分かれていかなければならなかったんでしょうか。
 人間の原罪が、宗教本来の目的を歪めていくから?

 ”偉大なる意思の存在”を、漠然と信じてはいますがねえ。

”偉大なる意思の存在”って言ったら、いわゆる啓典、すなわち旧約、新約、コーランの神は一人の神「わたしはある=やはうえ」を崇める一神教です。

どうしてあんなにも、流派が分かれたかってかですよね。
それいったら、仏教も宗派が分かれたし、イスラムも分かれたし、教派神道も分かれたし。

 神の智恵は一つでも、人の智恵はそれぞれに解釈して分派しちゃうって訳でしょうか。

ま、神社神道は分派をつくろうにも、教義らしい教義ないですけどねえ。

 キリスト教やユダヤ教のいう神は、それとは違うみたいであんまり馴染めない・・・。
 ・・・なんて、不勉強なヤツの戯言でした。
 お許しあれ。

直系の弟子たちのエルサレム教団はちゃんとイエスの意向をくんで、正統派ユダヤ教をめざしていたのです。

ローマンカソリックなどは、エルサレム教団を引き継いだといってるけれど、イスラムやキリスト教東方諸宗派に比べたらヘブライ色が薄まってるです。

教義優先のプロティスタントにいたっては、異民族の風習に染まったあとでキリストの教えに改宗したユダヤ人のために民族色を抜いたアンティオキア教団さながらといえます。

なお、エルサレム教団については、カソリックなどに引き継がれるどころか、消息不明になってるはずという主張をいう人もいますね。

 聖書に限らず経典というのは、抽象的で難しくてねえ。
 いろんな解釈が出来るから、いろいろ分かれちゃうのかなあ。

 新約と旧約、両方知って初めて、ほんとのことが見えてくるんですね。

聖書を読み、思いをはせることに遅すぎると言うことはないです。

イエスを知りたければ、旧約でも新約でも素直な心で読むことです。

むりに答えを求めず、答えを得られるまで気楽に、気長に、祈りながら過ごすことです。

人智学だの、神智学だの、神学だの、神秘学だの、言う発想は結局人の狭い知識や経験に、神の智恵や教えを狭めてしまうことにしかならないでしょうね。

解釈しようとするから、異論が出て分派が出来るのでしょう。

素直な心、おかげさまの心、そういう心に導かれながら、感じながら読むことでしょうね。

イエスは復活するというのは、十字架の後すでに復活し、肉体を持って昇天してます。

イエスが今度来るのは、救世主として再臨されるとき。
どのタイミングになるかは、御父の心次第。
御子であるイエスは、御父の指示に従われるのであって、ご存知ではないのです。

そしてまた、イエスは御父の預言者。
つまり、イエスは御父のメッセージを伝えられるお方。

 素直な心は、大切ですね。

イエスでさえお知りにならないことを、人がわかると主張するのは、僭越であり、傲慢というものでしょうね。

追記

関連のある面白い記事を見つけました。

新約聖書は誤訳 - 原典聖書研究
http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/28543982.html

(前略)当然の事として新約聖書に権威を持って引用されている聖書はすべて(当時=新約聖書は現在生成途上でした)旧約聖書ナノです。もし、旧約聖書なんて言う言い方を使徒や教父達が聞いたら腰を抜かすほど驚いてそれは「背教者だ!!」と決別を宣言した事でしょう。

(中略)

本当は新約聖書も 旧約聖書も 
 ★「καινη+διαθηκη =新鮮+契約=両者共現在有効な最新の契約」★
と言う事です。

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