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「ある」問題について思うこと。

“アル・ラー”の“ラー”は、古代エジプトの地上における太陽神のことなのです。

さて、この“アル”が、一般に定冠詞とされるのです。
定冠詞は冠詞の一つで、名詞に冠して、特定、既知などの意を表すとされるのです。

ところがヘブル語では、“アル・ラー”の“アル”は、“エル”と転化して「神」を意味するのです。
ご丁寧に “エロヒム”という複数形まであるのです。

神である“エル”は「わたしはある」と名乗られたのです。
これは言い換えれば、「わたしの名は“存在”である」となるでしょうね。
つまり、神の名は“存在”となるのです。

そうなると、“アル・ラー”は、「ラーという存在」と訳してもかまわないことになるです。
“アル”はどういう訳であるか、今まで苦労して来たのがうそのようにすっきりするのです。

聖書には、いたるところで不思議な言い回しが登場しますね。

「神は生きておられる」

たいていは契りを交わす場面です。

ヘブル語原文にあたってないので、憶測に過ぎないのは承知で訳しなおしてみますね。

「神がここに存在しておられる」

訳としてこなれていないので、意訳してみますね。

「神は立ち会っておられる」

こう解釈すると、すんなり意味が通りませんか。

“アル”が“存在”をさす言葉であったことが、その後の運命を決めたといっていいでしょうね。
「何々という存在」という風に存在をさす枕詞と化し、定冠詞となってしまったのではないかとわたしは想像しています。

フランス語の定冠詞“ル”“ラ”“レ”、英語の“ザ”、ドイツ語の“デス”などなどなど、すべての定冠詞は、この“アル”から転化して展開していったのでしょう。

 ん?

まさか、日本語の「ある」は、この“アル”がその意味のまんま来ちゃったのでしょうか。

 イタリア語で言うところの神は、「Dio」です。
 若しくは、定冠詞を付けて「Iddio(=il dio)」ですが。
 essereという動詞(英語でいうところのbe)に定冠詞を付けて、「l'Essere」という風にも表すことがあるようです。
 まさに「存在」ですねぇ。

イタリア語での興味深い現象の紹介、感謝します。
まさに、まさに「存在」ですねぇ。

 そういえば、私の大好きなイタリア映画「CINEMA PARADISO」の中でこんな場面がありました。
 神父さんが急な上り坂を歩きながら、 こんな台詞をはあはあ言いながら呟くシーンが印象に残っております。
 かなり意訳というかウロ覚えですが。
「神さまは下り道、後押ししてくださる。登り道は・・・見守っていて下さるだけだが。」

 定冠詞アルが「存在」を意味するなら
 まさしく日本語の「ある」は存在そのものですよね。
 まさか、でもやっぱりつながってるのでしょうか。

いろいろと中東と日本の文化的つながりは指摘されるけど、おやっと思うものは探せばまだまだあるかも。

 Eli,Eli, lama sabachthani?

言われちゃったですね。
「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」
と訳されるあまりに有名なイエスの言葉ですね。

 ご丁寧に、 “エロヒム”という複数形まであると、言いますか。
 
 複数形の形を取るが、単数扱いですよ。
 意味は、唯一神ですね。
 エルの複数形は、男性名詞の複数語尾イムをつけて、エリムですかね。
 だからといって、複数形のとき、神の意味を持つかどうかは謎です。
 エルは神のほかに力・能力という意味もあるので。

 エル:אל
 エロヒム:אלהים
 複数語尾(男性):ים
 エルの複数:אלים

エロヒムは複数形の形を取るが単数扱いという、突っ込みどうも感謝します。
エルは神のほかに力・能力という意味もあるという、補足の説明ありがとうです。

ここでは、定冠詞“アル”の転化と思えるにもかかわらず、“エル”には単数形ばかりではなく、複数形もある、つまり完璧に名詞扱いであると言いたかったのです。

ヘブル語ではたいていの名詞に へー ה をつけて女性名詞になるのでなかったかです?
エロヘ:אלה
エロヒム:אלהים
ところがエロヒムは女性名詞の複数形になるにもかかわらず、しばしば御父エロヒムとして扱われているはずですね。

このエロヒムの解釈問題は、あつかいが非常にやっかいなのです。
それで、そこまで言うと話がややこしくなるので突っ込まなかったのです。

 生き物には、つきますけれど。
 本とか平安とか文法とか女性に出来ない名詞にはありえないので、仰る、たいていの名詞、ってほどじゃないですよ。

 因みに、一般的な女性形の複数語尾はיםじゃなくてותです。
 やはり、エロヒムを女性名詞の複数形と仰る意味が、ちょっと分かりかねますね。
 もちろん、宗教的な特殊な事情は排除し切れませんが。
 
 なお、双数形のיםは、その直前に「あ」の音を伴うので、除外して考えてみました。

エル אל の複数なら、エルムもしくはエラム אלים のはずですね。
ところが複数を表すエロヒム אלהים と言う形があるです。

アッラーのもともとはアルラー、それがなまればエロハー、あるいは、エロヘーとなるです。
この、エロハー、あるいは、エロヘー、ヘブル語表記にすれば אלה となるのでないかです?
ところが、へー ה を語尾につけると、ヘブル語では名刺は女性名詞となるのではないかです。
特に生物を指す名詞はです。
でも、実際はエロヒム אלהים は男性名詞の複数形扱いなのは仰るとおりです。

言語によっては、名詞なら何でもかんでも男性名詞、女性名詞があったり、中性名詞があったりするから厄介なのです。

エロヒムと女性名詞のややこしい関係というのは、神の姿に関する考察に関して出てくるのです。
とりあげると、長くもなり、私自身も詳しくつかみきれていない問題に踏み込んでしまうのでここでは省かせていただきたいです。

 いやいや、エロヒムは男性単数あつかいですよ。

 アッラーのもともとはアルラー、それがなまればエロハー、あるいは、エロヘーとなりますよ。
 
 因みに、女神はאלהですが、エロハーでもエロヘーでもなく、エラーとしか発音しません。
 というか、このスペルでエロはーとかエロヘーと発音する・させる・あてはめるってのは、ヘブライ語っぽくないような気がします。

 根拠は、私がこれまで見てきた単語からの類推でしかありませんが。

しつれい、エロヒムאלהיםは複数形なのは形ですね。
聖書では確かに、単数であるかのごとく振舞っておられます。

アラブもイスラエルも、神は同じはずです。
アラブの祖はアブラハムの子イシュマエル、イスラエルの祖はイサクの子、アブラハムの孫であるヤコブ。
イサクとイシュマエルは異母兄弟ですけど。

ところがアラーは奇妙なことに、自らを単数で語ったり、複数で語ったりいらっしゃいます。

 これは、三位一体神としての単数と複数なのか、エロヒムとしての単数と複数なのでしょうか。

三位一体では、混乱します。

三神で唯一神会を構成していると、見た方がすっきりしますね。

אלהはアレフ・ラメッド・ヘー、綴りどおりなら“アラヘー”、もしくは“アラー”ではないでしょうか。
ヘブル風に読めば、仰るとおり“エラー”。
エロハーやエロヘーは、アラーや、アルラーの対比として出させていただいたけれど、言葉が足りなかったですね。

 ふむふむ、なるほど。
 西洋の言語が全く解らない私は、一生懸命聞いていました。

 全然外れちゃうことになるかも、知れないけど。
 「ある」という動詞について、中国語のことを話してみたいです。

 中国語では「ある」は、そのものずばり「在」という動詞を使います。
 この場合の主語は、人や物で「誰々(何々)は何処々々にある・いる」となります。

 もう1つ、「ある」と訳せる動詞があるのです。
 「有」です。
 この場合、主語は場所を表す言葉になるのです。

 国語では、人や物を表す名詞の後に場所を表す接尾語をつければ、全て場所を表す言葉になるのです。

 この「有」という動詞、もし主語が人やものなら、所有。
 つまり「持っている」と訳すのです。
 
 でも元は同じです。

 だから、場所に人・物がいる・あるということは、場所が人・物を持っていると言っているのです。

 どちらを主体に考えるかによって、使う動詞が全く違ってくるんですな。

 中国語では「ここに神がいる」のと、「神がここにいる」のとでは、動詞が違うんです。
 
 ニュアンスも大きく変わってきます。

いえいえ、日本語でも「だれかがいる」「なにかがある」のように、存在の表記で「いる」「ある」の区別を持っていますよね。

それは、まさしく中国語の「在」「有」に対応するでしょうね。

途中で、どのような変化をしたのか、あるいは、どのような変化をしなかったのか、まだまだ探求の余地はたっぷりあるのです。

 日本語にも「有る」「在る」の区別はあるし、「いる」「ある」の区別もあります。

 でも、どちらも物や人が主語です。

 場所は主語にはならないです。
 
 中国語は場所が主語になるんです。

 「どこどこはなに(だれ)をもっている(=有)」ってです。

 基本的に中国語と日本語では語順が違うから、とか日本語は膠着語だから、というのと関係しているから、仕方がないことなんですけれど。

 場所が主語になるのが、面白いと思いますね。

「この会社は、いい技術者がいる」
「この牧場は、大きなサイロがある」
たいていはこう言いますね。

「この会社は、いい技術者を持っている」
「この牧場は、大きなサイロを持っている」
欧米語の直訳っぽいです。

確かに日本語では、場所は所有の主体にはなりにくいです。
少なくても場所は、生物、特に人に対する所有の主体にはあまりならないです。
所有するのは、一般に生物、特に人。
所有されるのは、一般に無生物、物や場所のような。
これが日本的な感覚だからでしょうか。

その意味では、厳密な対応関係とは言えないのは事実ですね。

この問題、奥が深いですねえ。

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