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千葉神社

太古の昔から、太陽・月・星の運行は神秘的なものとして崇められてきました。

妙見本宮を名乗る千葉神社は、その星を祀る神社です。
もともとは、千葉宗家がもっとも厚く信仰した寺でした。
北極星が神格化された北辰妙見尊星(ほくしんみょうけんそんじょう)を、主祭神として祀っています。

千葉神社の所在地は、千葉市中央区院内1-16-1です。
 
 交通は、千葉都市モノレール・葭川(よしかわ)公園駅または栄町駅下車徒歩約5分ですよね。

主祭神は、天之御中主大神すなわち、北辰妙見尊星王です。
相殿は、経津主(ふつのぬし)神と、日本武尊。

創建は、長保2年(1000年)で、旧社格は、県社です。
古くは、北斗山金剛授寺尊光院でした。
平成2(1991)年に造営された千葉神社拝殿は、日本初の重層社殿として、二階拝殿を、“北斗殿”、一階拝殿を“金剛殿”と称しています。

妙見様は、中国の道教では鎮宅霊符神、陰陽道では太一もしくは太極、仏教では妙見大菩薩と呼ばれました。
また、妙見様は、国土安穏・五穀豊穣・除災招福、海運隆昌の守護神として信仰されてきました。

長保2年(1000年)9月12日に、「北斗山金剛授寺」の寺名を賜ったと伝えられています。

千葉氏の祖である平忠常の子・覚算大僧正によって伽藍が整備、一条天皇の眼病平癒の勅願所とされました。

江戸時代には、家康の命によって妙見寺と改称しました。

明治時代の神仏分離令によって千葉神社と改められた、妙見本宮を名乗る神社となりました。

妙見とは、国土を守護し、災厄を除く仏教の妙見菩薩でもあります。
妙見大菩薩は、日蓮宗や真言宗・天台宗などに取り入れられています。

本尊の妙見大菩薩像は上総国大椎に移されていたものを、大治元年(1126年)9月15日、千葉介常重によって千葉庄池田郷堀内へ移されたとされています。
鎌倉時代、日蓮が宗門の興隆を祈願すべく参詣した際にありがたい吉祥があり、日蓮はこの妙見神こそ我が宗門の守護であるとされたそうです。

現在でも日蓮宗では妙見大菩薩を信仰の対象としており、日蓮は請願成就ののち、「妙見こそ宗門の守護神」と述べて自筆の法華経を奉納しているそうです。
源頼朝も参詣して、願文・太刀などを奉納したと伝えられています。

 日蓮上人が奉納云々というと、何やら妙ですね。

千葉神社は当時は寺だったわけで、別に変ではありません。

 あ、そうか。
 それに当時は神仏混交、本地垂迹だったし、日蓮は八幡大菩薩ともされる八幡神も崇拝してましたね。

天正19年(1591年)と言うから、家康が関東の国主として入部した直後です。
家康は深く崇敬の念を捧げ、千葉に赴いて金剛授寺に参詣して寺領安堵ならびに太刀一振を納めました。
その時、供祭料田として永代二百石が寄進されました。

千葉神社は、あわせて十万石待遇という非常に高い格式を賜ったのです。
代々の将軍家の崇敬も厚く、全国に「千葉大妙見」と親しまれて幕末にいたったのでした。

明治期の神仏分離令によって、神社となりました。
北辰妙見神は古来からの日本の神ではないとして、妙見と同様、すべての星を司る日本古来の神という天之御中主大神を主祭神として現在にいたります。

大日寺址にある通町公園に面して開かれた「福徳殿」は、平成11年(1999年)9月に完成したものです。
各方位、十二支などをもとに、各々が自分の星の運気向上などを願って参拝できるようになっています。

「福徳殿」は、坎宮(北)・艮宮(東北)・震宮(東)・巽宮(東南)・離宮(南)・坤宮(南西)・兌宮(西)・乾宮(西北)の星宮が、中宮(中央)をめぐる八角に配されています。

 方位を指す八角は、八卦に通じるでしょ。

そうです。
陰陽ですね。

また、東には「日天楼」の神霊依代「陽明柱」が、西には「月天楼」の神霊依代「光輝柱」が、「心の御柱」として立てられています。

千葉市の指定史跡とされた境内には、香取神社・姥神社・星神社・石神社・稲荷神社・金刀比宮・八幡神社・天神社・日枝神社・三峰神社・神明社・御嶽神社・西之宮・厳島神社(弁財天)が祀られています。
弁天池の水源「妙見延寿の井戸」は、九星気学の秘伝の神水祐気による吉方にあたり、一願成就の霊泉として関東各地からの「お水取り」で賑わうそうです。
 
 弁天堂の裏手には、亀石が北を向いていますよね。
 亀と言うけど、スッポンや亀は水に纏わる象徴だし、北も黒と水に配当されてます。

ええ、北向きの亀石で水を表現してるのでしょうね。

御祭神は、北辰妙見尊星王(ほくしんみょうけんそんじょうおう)とも呼ばれました。
もとは、北辰=北斗星・北極星の信仰に始まるものです。
千葉神社では、天御中主尊と同一の神としても奉られています。
民俗学者の吉野裕子は、太極=太一=天照大御神とみなしています。

北極星は、北辰妙見尊星王を神格化した存在とされました。
常に北を指している北極星は、昔から旅人の指針として仰ぎ見られ、人生の道を導き開いてくれる開運の守護神として、深く信仰されてきました。
また開運と言うことから、妙見様は何でも聞き届けてくださる守護神として、指針ということで、学問の守護神としても祀られてきました。

境内には、寿永元年(1182年)に、この神社の前身である金剛授寺の境内に勧請された雷神にして学問の神「千葉天神」が祀られています。
御祭神は菅原道真で、千葉神社の社殿は本殿が流れ造り、本殿が入母屋造りの旧社殿がそのまま使われており、古風で落ち着いた雰囲気です。

 学問の神繋がりと、言うことなのでしょうかね。

一方、本尊は新しい社殿に移られました。

 遊牧の民の習俗が、反映されているのかもしれませんねえ。

 遊牧民は、末子相続でしょ。
 なんとなく、それに近い気がしますけど。

あるいは、千葉神社はもともとは寺だったので、注連縄としての雷神が勧請されたのかもしれませんね。

 ああ、雷雲としての注連縄ですか。
 縄を雲、紙四手を雷に見立てた。

北は陰=女性原理=水なので、千葉神社で弁財天が境内にいらっしゃるのは意味があることです。
水もしくは水分は、陰陽道では陰で女性原理を指します。
水は月でもあり、月は鏡でもありましょう。
これも、寺としては鏡は本尊に置き得ないので、代わりなのでしょうか…。
弁天堂の背後には、北を向く亀がいます。
つまり南=陽=男性原理を指し、北=陰=女性原理である弁天と共に陰陽合一の太極=天照大御神と天照国照彦の合一としての太陽が暗示されているのです。

そして、八方位を表す門があります。
亀と合わせて八方睨みの亀、なのでしょうか…。

北辰妙見尊星王はその名のとおり、北天の中心に位置して全宇宙の神々を掌握すると考えられていた北辰、つまり北極星と北斗七星の具現された神とされています。
この神社は、関東の豪族であった千葉氏の祖である平良文が妙見の加護を得たという故事に因み、千葉氏代々の守護神として崇敬を集めました。
他にも、梅花紋や、山の字の原型を乗っけた月星紋もありました。

千葉神社は、二種類の紋を有しています。
月星紋(つきぼしもん)の別名で知られる神紋の『三光紋』と、十曜紋の別名で知られる社紋の『九曜紋』です。

そのどちらも、御祭神・妙見様の差配する御力を現していると伝えられています。

 千葉神社の月星紋に由来して、「ツキを呼び、ホシ(勝ち星)を拾う」とかで、参拝者の人気が高いのでしょ。

神紋の三光紋(さんこうもん)の意味は、太陽と月、 そしてその他の諸星を示した日・月・星の三つの光を現すと言います。
神紋は、千葉氏の家紋でもあります。

 星といってもどこかの会社のマークのような星型ではなく、三重の円でしょ。

ええ、左端を接した三重の円です。
乾の方位に、当たるでしょうね。

なかでも太陽と月は、妙見様の神格化である北極星の差配される星々の中でも、大きな力を持つとされます。
外輪部だけを見れば「太陽」となり、右下部分だけ見れば「三日月」となり、月を隠せば左上の「星」が残ります。

 北極星を良き羊飼いになぞらえられるイエス、日・月・星は聖書の太陽の栄光・月の栄光・星の栄光を連想してしまいました。

社紋の九曜紋(くようもん)は、中央の大きな星の周りに九つの小さな星が配されている紋です。
九曜紋は、妙見様とされる中央の北極星によって差配される星々を現す紋とされます。

九曜紋と言っても、小さな九つの星と大きな一つの星が組になっているので十曜紋とも呼ばれます。

 九星と十干と見れば、これも陰陽ですね。

 門松の十個の節とも、関連ありますかね。

九つの星の意味には、三つの説があると言われます。

第一の説は、古代の代表的な天体であった太陽・月・北斗七星の九つの星とする説。
第二の説は、日曜星・月曜星・火曜星・水曜星・木曜星・金曜星・土曜星・計都星(けいとせい)・羅喉星(らごうせい) という易学で分類される九つの星とする説。
第三の説は、九星気学での人間の運命星(一白水星・二黒土星・三碧木星・四緑木星・五黄土星・六白金星・七赤金星・八白土星・九紫火星) の九つの星とする説です。

 北斗七星は多くの伝承で、南斗六星と対をなす存在としてとらえられていますよね。
 陰陽師が昔は天文学者を兼ねていましたが、北斗七星は特別な存在とされてきました。

 九星気学も、陰陽道より派生していますよ。

その通りです。

三つの説があると見えても、すべては陰陽五行説に収束してしまうのです。 

 なるほど、ここでも陰陽が関連してくる…。

千葉神社は、陰陽に関連した神社だったわけですね。

神社では毎年8月16日から七日間、厄除け開運特別祈願大祭である「妙見大祭」が行われます。
この祭りは、常重が大治元年の千葉移住に伴い始まったとされます。
民衆のために年に一度、妙見神を神輿に乗せ奉り、七日間にわたって御仮屋に逗留させることによって神力をあまねく行きわたらせようとしたと伝わっています。
祭りの期間が七日間というのは、北斗七星に一日一回の願掛けを行うためです。
22日の縁日で満願となり、願いは成就されるといわれます。

大祭で担がれる神輿は、将軍家から朱色の使用が認められた三神輿の一つで、もっとも古い神輿の形である鳳輦の姿を今に伝えています。

 鳳輦は、天皇の乗輿の事ですね。

屋根の上にある鳳凰(千葉では孔雀と呼ぶ)は稲穂をくわえ、豊作を祈願しています。
期間中は、千葉神社独自の縁起物「ねがい鳥・かない鳥」が授けられます。
「ねがい鳥・かない鳥」には、赤い羽根の鳥と青い羽の鳥が裏表に描かれ、上には九曜紋が飾られます。

8月16日、神輿はまず千葉神社の東にある香取神社へ向います。このとき屋根にある孔雀ははずされており、香取神社を後にしたときにはじめて掲げられます。
神輿の舁き方はめずらしく、「ヤレヤレヤー」という掛け声とともに三度下へ降ろし、三度目に頭上まで差上げて揉んだあと、肩に入れます。

 神紋の九曜紋や、呪術の九字切り、三々九度、などを思わず連想しますね。

「ヤレヤレヤー」という掛け声は、蹴鞠の「アーリァオー」と同じく三神を意味するようにも見えますね。

神輿を先導する太鼓も、出陣の触太鼓を起源とした「二段打」という特殊な叩き方をします。
向かい合った二人の打ち手が「ドォンドン、ドォンドン」と強弱を左右で打ち分け、太鼓の皮を叩き破ると豊作とされました。
太鼓を稲穂と見立て、稲穂がはじけ飛ぶことを意味しています。
  
  強弱を基本とした拍子のとり方は、日本の民謡に広く見られますね。

いつのころからか「千葉のだらだら祭り」という呼ばれ方をするようになったのは、太鼓を叩く音が「だらん、だらん」と聞えたことからと言われています。
祭りの最終日、8月22日午後7時から行われる「宮入り」では、神輿は鳥居をくぐって千葉神社殿前にいたって勇壮なもみ合いが行われます。
無数の提灯に照らし出された朱塗りの大神輿は非常に壮観で、この全国的にも非常に珍しい「昇殿勇め」によって、七日間の祭りのクライマックスを迎えます。

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