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声聞

声聞(しょうもん)は、サンスクリットでश्रावक(Zraavaka)と呼ばれます。
仏教において、「教えを聴聞する者」の意です。

 初期経典では、出家・在家ともに用いられ、後になると出家の修行僧だけを意味したのでしょ。

 聖書やコーランで言うと。

修行できるわけだから、預言者ではないですよ。

 じゃ、カッバーラに近い。

声聞は、カッバーラに当たるかも。
神から教えを授かることが、カッバーラなのですから。

『法華経』授記品において、4人の大弟子を総称して四大声聞といいます。

 釈尊から、未来の成仏の記別にあずかった人たちですか。

その4人は、次のとおりです。

摩訶迦葉(まかかしょう)
須菩提(しゅぼだい)
迦旃延(かせんねん)
目連(もくれん)

声聞には、4つの目標であり「向(こう)」と、それに応じた4つの結果「果(か)」があるとされ、これを四向四果といいます。

 四つの段階、どこかで聞いたような。

 生命の樹って、四段階ですよね。

三段階ですよ。

 二段目と三段目の間の、隠れたダートって、段階じゃないの。

最高の三段目に入る前の、大事な通過点と言う意味では段階と言えないこともないけど。

 そうなんだ。
 ちょっと、勘違い。

でも、段階とは似ていそうですね。

四向四果を上から挙げると、次のとおりです。

阿羅漢(あらかん)あるいは応供果(おうく)
阿那含(あなごん)あるいは不還(ふげん)
斯陀含(しだごん)あるいは一来(いちらい)
須陀洹(しゅだおん)あるいは預流(よる)

大乗仏教の立場からは、声聞は、主に四諦を修習し、自己の解脱のみを得ることに専念し、利他の行を欠いた、阿羅漢を目指す修行者であるとされます。

 四諦(したい)は四聖諦とも呼ばれ、サンスクリットで चत्वारि आर्यसत्यानि(catvaari aaryasatyaani)ね。
 仏教用語で、釈迦が悟りに至る道筋を説明するために、現実の様相とそれを解決する方法論をまとめた苦集滅道の4つをいうのでしょ。

聖諦とは「神聖なる真理」という意味で、四諦とは「4つの真理」の意ですね。

4つの真理とは、次のとおりです。

人が生きるということは苦であるという真理
その苦の原因は人間の執着にあるという真理
この苦を滅した境地が悟りであるという真理
その悟りに到達する方法が仏道であるという真理

この際の「道」は八正道とは違い、神道で言う「かんながらの道」にあたると見て良いかも。

八正道(はっしょうどう)のサンスクリットは、आर्याष्टाङ्गो मार्गो(aryaaSTaaGgo-maargo)です。
釈迦が最初の説法において説いたとされ、涅槃に至る修行の基本となります。
正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の、8種の徳です。

「八聖道」とも「八支正道」とも言うが、『倶舎論 』では「八聖道支」と記します。
『倶舎論 』は『阿毘達磨倶舎論』の略で、仏教哲学の基本的問題を整理したものです。

 苦集滅道は順に、苦諦・集諦・滅諦・道諦と呼ぶのでしょ。

 四向四果と対応しそうね。

 道諦と阿羅漢あるいは応供果、滅諦と阿那含あるいは不還、集諦と斯陀含あるいは一来、苦諦と須陀洹あるいは預流。

このうち前二者の苦諦・集諦は流転の因果を示し、後二者の滅諦・道諦は悟りの因果を示すそうです。

大乗仏教は、自己の解脱のみを目指すとして、声聞を目指す従来の立場を小乗と呼ぶのです。

 小乗とされた側は、上座部であると反論してますね。

羅漢とも略される阿羅漢の語源は、サンスクリットでअर्हत्(arhat)で、サンスクリット語"arhat"の主格 "arhan" の音写語です。
応供と訳されるのは、仏教において、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のことだからです。

もとは、釈迦の尊称の一つです。

釈迦が生きた時代のインドでは、宗教的に最高の境地に達した聖者のことだったのです。
如来の別号である十号の一つにあげられる、仏そのものを指す呼び名です。

阿那含は、サンスクリットのअनागामिन्(anaagaamin)の音写です。
不還と訳されるのは、もはや人間界にもどることなく、天界以上の階位に上って悟りに至る者のことだからです。

不還向とは,前段の一来果を得た者が、次の不還果を得ようとして残余の修惑三品を断ちつつある位のことです。
部派仏教では、下位の世界に結びつける五つの煩悩である五下分結を断じた者が得る位とされました。

『倶舎論 』では、欲界の修惑である情的煩悩をすべて断ち切ったため、もはや欲界に戻らずに悟りに至るとします。

斯陀含(しだごん)はサンスクリットのसकृद् आगामिन्(sakRd-aagaamin)の音写です。
一来と訳されるのは、一度 (sakRd) 天界に生れ再び人間界に戻ってさとりに入る者のことだからです。

原始仏教では、有身見(うしんけん)・戒禁取見(かいごんじゅけん)・疑の三結を断ち、貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)の三毒が薄くなった者をさしたです。
『倶舎論』は、一来向は情的煩悩である欲界の修惑(しゅわく)の前三品または四品を断じた者とし、人界の家と天界の家とを往復するから「家家」(けけ)と呼ぶのです。
一方、一来果は欲界の前六品を断じた位です。

須陀洹は、サンスクリットのस्रोत आपन्न(srota-aapanna)の音訳です。
預流と訳されるけど、無漏(むろ)の聖者の流れに入った者であり、四向四果の最初の段階です。

原始仏教では、有身見(うしんけん)・戒禁取見(かいごんじゅけん)・疑の三結を断じた者が得る位でした。
『倶舎論』では、見道において見惑の八十八随眠(ずいめん)煩悩を断った者が得るとしています。

須陀洹の位に達すると退転することがないので預流と呼ばれ、最大でも7回人間界と天界を往来するだけで悟りに達するとされます。

あまり立ち入った説明を始めると仏教講座になっちゃうので、説明しなかった言葉は、こういう仏教用語もあるくらいに思ってください。

 一般にユダヤ教神秘主義と呼ばれるカッバーラは、四段階で成り立っているとされるでしょ。

カッバーラでは、絶対神の四つの創造段階を『流出世界=アツィラー』『創造世界=ベリアー』『形成世界=イェツィラー』『活動世界=アッシャー』と呼ぶのです。

 四つの創造段階といっているなど細かいところを除くと、構図はすごく似てますね。

 声聞は、カッバーラに似てるし。

キリスト教を取り入れて大乗仏教が出来たといわれるけど、仏教自体が意外とユダヤ教と似た思想なのは面白いですね。

 そういえばイッサつまりイエスには、インド、チベットで仏教を調べていたという伝承もあるとか。

ここまで、仏教とユダヤ教が似ているとありえる話に見えますね。

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