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縁覚

縁覚(えんがく)は、辟支仏(びゃくしぶつ)また独覚(どっかく)ともいいます。
仏教やジャイナ教において、師なくして独自に悟りを開いた人をさします。

 辟支仏は、pratyekabuddhaあるいはpaccekabuddhaの音訳ね。

はい。
縁覚は、サンスクリットでप्रत्येक बुद्धと表記されるです。

 独覚ともいうのは、師なくして独自に悟りを開いた人だからね。

 師というのは、人の師でしょ。

ええ、ここで言う師には神仏は含まれないと見るのが妥当でしょうね。

 神仏のみに頼って、悟りを開くというわけね。

 神仏によって悟るという意味では、声聞(しょうもん)に似てますね。

だから、声聞縁覚と一対で語られることも多いですよ。

声聞とは、神仏の声に気づくことといえるかも。

それに対して縁覚とは、十二因縁(じゅうにいんねん)を観じて理法を悟り、あるいはさまざまな外縁によって悟るという意味の仏教用語です。

 神仏の声ではなく、象徴によって導かれるということかしら。

象徴というより、神仏が示してくださる気づきのきっかけによって悟るということでしょうね。

 そういえば、飛鳥昭雄はカッバーラでは大きなことは小さなことに、小さなことは大きなことに、投影されると指摘してますね。
 大きな世界の真理を知るには、小さなことに隠された神の諭しに気づく必要があるということかしら。

 そう思うと、十二因縁もカッバーラと関係あるかもね。

 十二という数字も、十二支族を連想できるでしょ。

十二因縁(dvaadaZaaGga-pratiityasamutpaada)は、仏教用語の一つですよ。
苦しみの原因は無明より始まり、老死で終わるとされる、それぞれが順序として相互に関連する12の因果の理法をいいます。

なお、十二因縁は旧訳とされる鳩摩羅什訳の言い方で、新訳とされる玄奘訳では十二縁起と訳されます。
 
 十二支縁起、十二支因縁という言い方もあるでしょ。

『阿含経』では、釈迦が悟った直後、自らの苦を解決する道が正しかったかどうか、十二支によって確認したことによります。

 人間が「苦」を感ずる原因を順に分析したものが、ここでいう十二支ね。

古い経典では、釈迦の成道は、十二因縁の順観(anuloma)と逆観(paTiloma)によると説いているそうです。
迷いとはどのようなものであるかを正しく知ることが、とりもなおさず悟りであるといいます。

この十二因縁が、迷の事実を示しているとします。

十二支縁起の要素は、次のとおりです。

無明(むみょう)はavidyaaをさし、過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。
行(ぎょう)はsaMskaaraをさし、志向作用のこと。
識(しき)はvijJaanaをさし、識別作用のこと。
名色(みょうしき)はnama-ruupaをさし、物質現象(肉体)と精神現象(心)のこと。
六処(ろくしょ)はSaD-aayatanaをさし、六つの感覚器官のこと。
触(そく)はssparSaをさし、六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。
受(じゅ)はsvedanaaをさし、感受のこと。
愛(あい)はTRSnaaをさし、渇愛のこと。
取(しゅ)はupaadaanaをさし、自分の求めるもののために馳求する位。
有(う)はbhavaをさし、存在のこと。
生(しょう)はjaatiをさし、生まれること。
老死(ろうし)jはaraa-maraNaをさし、老いと死のこと。

独覚は、麒麟の角のように独りで悟りを得る麟角喩独覚だけではないです。
仲間をつくって修行する、部行独覚もあります。

 部行って、クラブ活動みたいだけど…。

クラブ活動と思って、良いでしょうね。

 でも仲間と修行しても、悟るのは自分でするのでしょ。

だから、縁覚を独覚ともいうのですよ。

 天台宗では、仏の世で十二因縁を観じて覚(さと)ったものを「縁覚」、無仏の世で飛花落葉(ひからくよう)などの外縁を観じて覚(さと)ったものを「独覚」と区分しているそうですけど。
 
飛花落葉とは花が散り、秋には葉が色づいて落ちることです。
絶えず移り変わる、世の中のはかないことのたとえですね。

無仏とは仏のいない世界をさすけど、釈迦が入滅してから弥勒菩薩(みろくぼさつ)が出現するまでの世界のことです。

 つまり、今の私たちの時代は独力で覚らないといけないのだと、天台宗では見ているのかしら。

そうかもしれないです。

無仏の間は、地蔵菩薩が衆生を救うと考えられているです。

大乗仏教では縁覚もまた声聞とともに自己中心的なものと考え、声聞と縁覚を二乗と呼んで下に見る立場に立ちます。

 でも、声聞と縁覚なしには、神仏の真意を本当に知ることは出来ないのでしょ。

 大乗仏教でも、大事なのではないの。

多くの衆生が救済されることの方を、大乗はより重く見ているのです。

 それで、心から神仏の慈悲にすがって身をゆだねることの方を大事だとする絶対他力の思想も出てくるの。

そうでしょうね。

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