神輿と怨霊?
輿(こし)は、二本の轅(ながえ)に屋形を乗せて人を運ぶ乗り物ですよね。
輿は、棺をのせる、上輿(あげごし)の略でもあるけどね。
死者は魂や霊の世界、つまり、この世の存在ではないという意味も、上輿にはあるようですね。
もちろん、死者は歩いてくれないから運ぶしかないという現実もあります。
輿は、肩に担いだり、腰の辺りに手で支えたりしたでしょ。
平安時代には、天皇・皇后・斎宮などに限られたのです。
鳳輦(ほうれん)・葱花輦(そうかれん)や腰輿(たごし)などが主なものだったでしょ。
平安後期以後、使用者の範囲も広がり、種類も増えたのです。
輿を敬っていう語の御輿〈みこし)は、神幸の際に神霊が乗る場合は神輿と記します。
「輿」を「腰」にかけて、腰をあげるとか、立ち上がるという意味で「みこしを上げる」なんて言いますね。
どっかりと座りこんで動かないとか、腰をすえることは「みこしを据える」なんていいますけど。
人をおだてて祭り上げるとか、また、それに一役買うなんてことは「みこしを担ぐ」。
だまされて「担がれた」なんてのは、おだてて祭り上げる言葉が嘘だったのに、まんまと乗せられてしまったということでしょうか。
神輿〈みこし)は、神輿(しんよ)とも呼ばれますね。
神輿〈みこし)は、屋根の中央に鳳凰(ほうおう)や葱花(そうか)を置き、台に何本かの担ぎ棒を通し大勢で担ぎます。
担ぎ棒の基本は、二本ですよね。
今でも、二本の地域はありますよね。
平安中期に怨霊信仰が盛んになるにつれ、広く用いられるようになったようですね。
怨霊がなんで、信仰されるかですよね。
怨霊は、恨みをいだいて、祟り(たたり)をなす霊でしょ。
祟りは、神仏や霊がその意に反する人間の行為に対して、もたらすとがめや災禍でしょ。
ある行為の報いとして、受ける災難でもありますね。
本来なら、受けるはずのない、受けてはいけない、理不尽な仕打ちによって不遇な仕打ちを受けた者達。
裏切ってはいけない、裏切られてはいけない、それなのに裏切られた者達。
そうでなければ、怒りを抑えてもらわないといけないと言う、合意はできませんよね。
つまり、怨霊の恨みは正義の怒りですよ。
怨霊になれるのは、逆恨みを抱いた霊ではだめなのね。
だから怨霊には、神仏や霊がその意に反する人間の行為に対して、もたらすとがめや災禍と同等の祟りができる。
正義が踏みにじられたとき、とがめを目的に災禍をもたらす点では、怨霊も神仏も一緒なんです。
それで、怨霊は神になれる。
問題は、とがめのためなら災禍をもたらす神をなぜ、神輿で巡行してもらうでしょうか。
歴史上有名な、移動を続けたとがめのためなら災禍をもたらす神といえば、ヤハウエですよ。
聖書には、ヤハウエのアークの前に無力をさらけ出す異教徒の偶像の、哀れな姿も描かれますね。
ヤハウエとアークの怒りに、異教徒はなすすべもない。
そうですね。
実力行使ができる怨霊って、ヤハウエ並みにすごくありませんか。
実力行使ができる点では、ヤハウエも日本の神も怨霊も同列ね。
そうですね。
神輿を見たイスラエル人は、何でアークが日本にあるか不思議に思うわけでしょ。
全体が金張りで、衣装が乱れるくらいにぎやかに担がれ、担ぎ棒は本来二本、ケルビムを連想する鳳凰が乗る。
大きさも、アークとほぼ同じものが多い。
しかも、神輿が広く用いられるようになる時期は、平安京中期でしょ。
平安京を、ヘブル語に訳すとエルサレムですからね。
エルサレムを巡行するアークが、平安京を巡行する神輿だったりして。
でも、この国は日本ですからね。
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