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2010年2月

井戸茶碗を疑ってみる。

茶器の名器中の明記とされるのが、「井戸の茶碗」です。

井戸茶碗 は、高麗茶碗の第一とされるのですね。

 大井戸、青井戸、小井戸、小貫入、井戸脇などがあるでしょ。

井戸型という共通の形で、胴の荒いロクロ目、総釉、井戸釉と言われる枇杷 (ビワ)色の釉薬などが特徴ですね。

 井戸の名については、諸説有りますよね。

見込みが深いところから、井戸の名がつけられたという説もあるのです。

でも、奈良興福寺の寺臣、井戸氏所持の茶碗が当時名高く、これから起こったものという説が一般的です。

 井戸の名の起こりであるこの茶碗は、のちに筒井順慶に伝わって、深めで高台が高いので筒井の筒茶碗といわれたのでしょ。
 略して筒井筒と呼ばれ、井戸の中の名碗となって いますよね。

そうですね。

茶碗では、室町時代前半まで、中国産の「唐物(からもの)」が最高と考えられてきたです。

さらに茶人たちが理想とする茶碗を求め、朝鮮の茶碗に注目したのですね。

 その中で最高の茶碗とされたのが「井戸の茶碗」だった。

これは、韓国では民衆の安物の量産品ですね。

釉薬(ゆうやく)のかけ方も乱暴だが、素晴らしい形を持つのです。

 数をこなす中で熟練した人たちによって、無造作に作られたからでしょ。

意図せずに生まれたその姿を、茶人たちは「わび」の美として評価したのですね。

 自由奔放な造詣の美、伸びやかな美しさ、それは自然の形が本来持つ美の世界。

無邪気さと言う点で、幼子の愛らしさにも通じるでしょ。

 井戸茶碗は、古来高麗茶碗の王といわれ格別貴ばれていますね。

俗に一井戸二楽三唐津というように、茶碗を通じての最上とされるのですね。

講談やこの噺の落語にまで取り上げられて、茶碗といえば井戸の名を連想するほどに有名になっています。

 そうそう、「井戸の茶碗」は落語の題目になっていますね。

角川「茶道大辞典」には、大井戸の代表作は「喜左衛門井戸」、「筒井筒」、「細川井戸」、「加賀井戸」、「越後」、「有楽井戸」等が記されています。

 「細川井戸」は、この噺の井戸茶碗ではないかと見る人もいますね。

井戸茶碗は、特にその名品は、その姿が堂々としていて、作行きが優れ、枇杷色の釉(うわぐすり)も美しいですね。

 竹の節高台(こうだい)やカイラギなど、茶碗としての見所を兼ね備えている点にも、目を留めたいね。

あの、なんともいえない高台の出っ張り具合は、確かに竹を連想できるかも。

 自由ではつらつとした動きのある高麗茶碗である井戸が、評価された時代背景もあるでしょ。

天目(てんもく)や砧青磁(きぬたせいじ)茶碗に飽いた室町の堺の茶人たちには、新鮮だったのです。

 天目も、砧青磁も、茶碗形の整った、色目も美しい茶器ですけどね。

さりげなく飾り、さりげなく見る分には良いけど、時々見る分には見とれるけど、見続けると飽きる。

 茶器は、ある意味で普段使いの器でしょ。

 だから、見飽きない奥深さが欲しい。

なんとも贅沢な、悩みですねえ。

 高麗茶碗の良さというか、味わいというものは井戸茶碗に尽きるといわれていますね。

飾り気のない素朴な姿、全く華美でない渋い落ち着きのある釉色、茫洋とした大きさと、捉えどころのない風格が感じられる茶碗ということです。

 茶人たちが高麗茶碗に求めた美しさは、まさに、日常のさりげない行為であった茶の中に美を見出した茶人の気持ちにぴったりと重なった。

ところで、この井戸茶碗、どこの食器に似ていると思いますか。

 まさか、古代イスラエル。

 言いたそうな顔してますよ。

そうなんですねえ。

 井戸茶碗に日本人が違和感を覚えないのは、日本の茶碗に形が似ているからでも、あるでしょ。

古代の器は数あるけれど、意外と似たものはないのが、普段使いの器です。

 そういえば、葉っぱを食器に使って手掴みで食べる文化もあるでしょ。

ところが、古代イスラエルには、古代日本の器に似通った普段使いの器が見つかるのですよ。

 遺伝子で見ても、日本とチベットに古代中東の遺伝子が残っているといいますね。

朝鮮半島経由で、古代中東の人々が日本に来ているのでしょうかね。

 縄文人の血を色濃く引くアイヌの生活文物も、古代イスラエルに似てるでしょ。

アイヌのそっくりさんは、古代アメリカに住んでいて、フランスやスペインの石器と一緒に骨が出ました。

 縄文人って、中東から地中海、さらにアメリカを通って、日本に南の島伝いに来たのかしら。

古代アメリカから、縄文土器のそっくりさんも出てきたし。

 そうそう、井戸茶碗の話でしょ。

 名前が気になる。

井戸の名は、見込みが深いところからというのは、湯呑みで浅かったらどうするって気がするのですね。

 杯(さかずき)にして、酒でも呑みますか。

そんなに浅い湯呑み、ないでしょ。

 奈良興福寺の寺臣、井戸氏から来たと言う方がもっともらしいけど。

なぜに井戸氏か、気になりますね。

 なにか、特別な井戸かしら。

 井戸自体は、どこでも掘るでしょ。

井戸で有名人といえば、聖書の中でイエスがサマリア人の女性に「ヤコブの井戸」の水を求める話が知られているようですね。

 ヨハネによる福音書の、4章7節から26節ね。

ユダヤを、ヘブル語でィエフダー(יהודה)と呼ぶでしょ。

ィエフダーから転化して、イダ、イドとなった可能性は見ても良いのでは。

 だったら、エダ、ヒダ、ヒタ、ハダ、ハタ、イデ、ヘダ、トダ、キダ、キタなんかもあるでしょ。

それいったら、ヒエダ、ハイダ、イイダ、イイデ、アイダ、エンドウ、アンドウ、トイダ、トワダなど転化しそうな名前もあげることになるのでは。

 井戸茶碗の話だったはずですけど。

井戸だけに、掘り下げてみたくなったのです。

 そういえば、申翰均さんという人の『井戸茶碗の謎』という本がバジリコ社から出てます。

 この人の説では、雑器ではなく、祭器だったというのです。
 なかなか興味深い説でした。

いまだ窯すら限定できず、韓国では同種のものさえ発見されないって、ありますね。

 いよいよ、韓国より西方の可能性が出てきますね。

情報を探したら井戸氏の出自は、『寛政重修諸家譜』には藤原式部公卿宇合の六代の孫とあります。

 藤原といえば、秦氏の一族説があり、秦氏にはユダヤ人説がありますね。

いよいよ、井戸茶碗西方渡来を疑いたくなったです。

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河童。その3

河童の甲羅と嘴と尻尾の三点セットが、スッポンから引き継いでいるのは恐らく間違いないのです。

 河童は、竜神の使いとされましょ。

 竜神は、水の神とされましょ。

 スッポンも、水を司る存在として古来から扱われてきましたよね。

「月とスッポン」は、「似てるのは見た目だけで、天と地ほど違う」と言いたいとき使うのです。

 違うの。

月の満ち欠けと海の満ち引きは、連動していることが昔から知られていたのです。

さらに、陰陽では水も月も、同じ陰に配当されるのですよ。

 そして、水には月と丸いことが似ているスッポンがいるので、スッポンが月に見立てられた。

おそらく、そうです。

それと、円天方地、つまり、天は丸く、地は四角い、という思想が陰陽にあるのです。

丸い月とスッポンには、天の象徴という意味合いもあるのかも知れませんね。

 「月とスッポン」は、「天と地で水を司る者同士」と言うのが元の意味でしょうか。

おそらく、そうです。

 それで、「水を司る者同士でありながら天と地ほど違う」と言う意味に転じた。

 さらに、「水を司る者同士でありながら」の前半が省かれて「天と地ほど違う」に転じた。

おそらく、そうです。

だがしかし、河童の嘴には、もう一つルーツがあると見ます。

烏天狗同様、八咫烏です。

河童は、胡瓜が好きといわれます。
実は、木瓜(もっこう)から来ているのです。

 木瓜の花、胡瓜の切り口の図案化といわれる紋に描かれていますよね。

木瓜とは、帽額(もこう)と呼ばれる御簾の上部にたらされる布のことです。
木瓜紋は、そこに描かれた文様から発展したものとされています。

木瓜紋は本来は、「窼(カ)紋」と呼ばれる鳥の巣を象ったものといわれます。

「窼(カ)」とは地上に巣を作る鳥の巣であり、樹上に作られたものを巣と書いたです。

河童と胡瓜の繋がりの間に、木瓜(もっこう)が入るのはなぜと思うかです。

 河童には、木の人形説がありますよね。

つまり、木工ですよね。

 木瓜は、「きうり」とも読めます。

 木工=もっこう=木瓜=きうり=胡瓜

そう、河童は胡瓜が好きなのは、河童が木工の人形だと言っているのです。

 でも、そこらに転がっている木片で人形にしたって河童にはならない。

 もしなるなら、木工人形は河童に化けて、そこらじゅう河童だらけでしょ。

河童は、霊性を持った沙良双樹の木工で作られた天児が宗教的ルーツかも。

 樹の生き人形が、河童…。

 まさに、生命の樹でしょ。

そして、天狗にはユダヤ人の祭司が正体という説もあります。

 勤行の時や山を歩く時に吹く法具に、法螺貝があるでしょ。

正しい教えを、多くの人に伝えるという意があるのですって。

 十二のヒダがある頭襟(ときん)を、かぶるでしょ。

大日如来の五智の宝冠をあらわす、とされますね。

 法螺貝と見た目も音も似た、角笛を古代イスラエルからユダヤでは吹いている。

 頭襟も、フィラクリティというそっくりなものを使うでしょ。

ヒダの十二も、十二支かも知れないけど、十二支族という意見も出そうですね。

 そういえば、源義経は鞍馬山の鬼一法師から兵法を伝授されている。
 その兵法を記した巻物の名は、「虎の巻」と呼ばれたでしょ。
 今日でも、「虎の巻」は奥義書の意味で使われる。

この「虎の巻」には、「トーラーの巻き」が語源という説があります。

 鬼一法師といえば、鬼一法眼という、室町時代初期に書かれた『義経記』に登場する伝説上の人物がいますよね。

京の一条堀川に住んだ陰陽師で、六韜(りくとう)兵法という呪術兵法の大家です。
文武の達人と、されますね。
 
 源義経が、その娘と通じて伝家の兵書『六韜』を盗み学んだという伝説で有名。

剣術においても、京八流の祖として、また剣術の神として崇められています。

 陰陽と、カッバーラと、タントラは、素朴な唯物論的弁証法という共通点もある。

そういえば、飛鳥昭雄は陰陽の起源はカッバーラという議論を展開してます。
 
 でも、日本の文化を調べてみると、中東が頻繁に顔を出すのよね。

陰陽とカッバーラは、起源を共有している可能性は否定できないかも。

 陰陽では、水は天に配され色では黒に当てられるね。

 陰陽には、五行思想があるでしょ。

 木・火・土・金・水のそれぞれに、東・地・人・西・天と、青・赤・黄・白・黒が対応。

地には鳥の朱雀が、配当されます。

天に玄武、東に青龍、地に朱雀、西に白虎。

 天の言葉を伝える鳥が、天の黒と地の鳥の合体である、烏なのかしら。

 そういえば、烏の行水って言う。

烏の行水は、烏の水による禊ともとれないでしょうか。

 なるほど、その水に河童とスッポンがいる。

スッポンは地の月です。

 月が陰なら、太陽は陽。

太陽には、八咫烏がいるとされますよね。

 太陽の八咫烏に対する、月の烏が烏天狗かなあ。

それで、地上の月がスッポンです。

 陰陽では、天と水と月が陰で繋がり、天と月がスッポンと丸で繋がる。

さらに、陽の太陽の八咫烏に陰の月の烏天狗が、対応するように見たのではないでしょうか。

 河童とスッポンは、水でつながる。

 河童からスッポン、スッポンから月、陰の月は陽の太陽に対応。

 太陽の八咫烏は、月の烏天狗に対応。

 烏天狗と河童は、水で繋がる。

 ややこしい、議論ねえ。

でも河童には、烏天狗同様、嘴があるのは確かです。

 めくるめくラビリンズ・・でもおもしろーいっ。

連想で遊んでいくと、いろいろ想像できて面白いのです。

古代の人々は、どんな思いでさまざまな妖怪変化や風習を生み出したかは謎です。
それだけに、どうとでも空想に浸れるのは楽しいです。

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天体の質量と重力は、正しく測られているか?重力と電磁力?その2

こんな天文情報が、2010年1月27日に首都大学東京から出されていました。

「すざく」、木星のまわりになぞのX線放射を発見

X線天文衛星「すざく」のデータから、木星の周辺にエネルギーの高いX線放射が発見された。
これまで木星のまわりでは、比較的低いエネルギーのX線放射は知られていたが、高エネルギーX線が観測されたのは初めてのことである。

首都大学東京の研究グループが、X線天文衛星「すざく」のデータから、高エネルギーのX線(硬X線)放射を発見した。
硬X線は、木星の周囲約100万km×50万kmの範囲(衛星イオの軌道の2倍以上)に広がっている。

これまでに他のX線天文衛星の観測から、木星本体や衛星イオの軌道から比較的低いエネルギーのX線(軟X線)が放射されていることは知られていたが、高エネルギーのX線が発見されたのは初めてのことである。

硬X線の広がりは、木星の強力な磁場にとらえられた粒子が作る帯状の構造(放射線帯)とよく一致しているという。
木星の磁場は、地球の磁場の1万倍である。

また、硬X線の放射メカニズムは、何らかのしくみで光速近くにまで加速された大量の高エネルギー電子から、太陽の光子がエネルギーを得ているためではないかと考えられており、このような現象が惑星から検出されたのも初めてである。

なお、木星の放射線帯を探査機が直接観測するのは難しいため、今後「すざく」をはじめとするX線観測衛星が木星の放射線帯における粒子加速のメカニズムを探る新たな手段になると期待されている。

私が注目したいのは、木星の磁場は、地球の磁場の1万倍であることです。

 地球の磁場の1万倍、大きいですねえ。

想定される磁場の姿は、地球とそっくりですよ。

 木星の磁場の形って、地球の磁気圏とそっくりですか。

でも、私が気になるのが、磁場の強さです。

 なんで。

磁場があれば電場が出来る、つまり、強力な電磁場があるというわけです。

その強力な電磁場が、木星の北極と南極の間にあるのです。

 磁極があれば、当然でしょ。

電磁場は重力に曲げられた空間に沿うように進むというのが、アインシュタインの一般相対性理論ですよ。

言い換えれば電磁場の進路が曲がっていれば、空間も曲がっている、重力場も曲がっているのです。
それが、アインシュタインの一般相対性理論から導かれる答えですよ。

重力場も、電場や磁場と同様に真空が保持する状態のひとつというのは、最新物理理論の出している答えです。

電磁場は、空間を電磁波として伝播します。

このとき同時に、重力場も重力波として電磁波と同じ場所を電磁波と同じ方向に伝播します。

 つまり、磁場と一緒に重力場も、天体を取り囲む。

天体の重力は、天体の質量が周囲の空間を歪めて発生させるというのが、アインシュタインの一般相対性理論ですよ。

 ところが、磁場と一緒に動いている、重力場もある。

天体が歪めて作った重力場は、磁場の作った重力場に、乱されている可能性は大いにあるでしょ。

 しかも、木星の磁場は地球の一万倍。

それは、地球の場合より一万倍近く、周囲の重力場を乱されていることになりませんか。

 見方を変えれば、磁場を曲げ疲れた重力が測定されている。

 木星の重力は、地球の重力より強力な磁場を曲げている分疲れてへとへとになっている。

 そういうことですか。

 疲れて消耗した重力のエネルギーを見ているから、発生に必要な質量は小さく見積もられた。

疲れて消耗した重力、結果としてはそうですねえ。

乱されて小さく見えている重力エネルギーを、測定してるのですけど。

実際より小さくなった重力のエネルギーを見ているから、発生に必要な質量は小さく見積もられたのは確かでしょうね。

 そうなると、ガス型天体には太陽系では、木星・土星・天王星・海王星が分類されるでしょ。

いずれも地球より直径で4倍以上、質量で10倍以上のサイズであって密度は小さい惑星とみられていますね。

 太陽系はもちろん、ガス型天体と思われてきたすべての天体の重力と質量は、見直しが必要では。

そうなるでしょうねえ。

程度の差はあっても、地殻型天体の重力と質量も、磁場によって小さく見えている可能性もありえますね。

 宇宙を支えていると見られている、ダークマターや、ダークエネルギーに相当する質量やエネルギーが算出できたりして。

プラズマ宇宙論を用いて量子電磁力学の方法論で計算すると、ダークマターのような未実証の空想上の物質の存在を無理に予言する必要がないという結果になるそうですね。

 すべての天体の重力と質量を見直した結果、ダークマターや、ダークエネルギー相当分に近い値がでるかどうか、誰かやってみてほしいですね。

そのうち誰かが、やるのでは。

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神棚とイエス?

神棚のお祀りの仕方には、いろいろ約束事があるのです。

 人が出入りをする場所の上は、だめでしょ。

たとえば、ドアの上であるとか障子や襖の鴨居の上に神棚を設けることは避けるようにするのです。

 神社の鳥居は、下を通って良いけどねえ。

神棚は、神様をお迎えする場所ですよ。

 あ、そうか。

 神社と、同じと思わないと…。

神棚は、不浄な所にお祀りしてはいけないのです。

 便所は、御不浄の異名があるから当然だめでしょ。

便所の傍に置くのは、大凶とされているのです。

 不浄とは、穢れにまつわることですものね。

糞尿の汚さも勿論だけど、便所はある意味、食物の最後の場所ですよね。

 そういえば穢れは、死と深い関係がありますねえ。

 糞尿は、確かに食物の死にあたるかも。

東北や西南の位置は、避けるべきです。

 それぞれ、鬼門と裏鬼門でしょ。

 鬼が入って来るところと、鬼が出て行くところ。

 つまり、鬼の通り道よね。

神棚の向きは南向き、東向きがよいとされるのです。

 祀る場所の、北か西が良い訳ね。

それぞれ、陰の方角ですよ。

 陰は、魂の場所ということね。

 神は、魂の最高位といえる存在でいらっしゃるから、陰の場所がふさわしい。

 ふさわしい場所から、神に見守っていただくと言うことでしょうね。

そうですね。

神棚を仏壇と並べてお祀りする場合は、仏壇より高い位置にする習わしがあるのです。

 本地垂迹という、仏が本で神が末と考える思想があるはずなのにねえ。

拝む視線から見れば、後ろと見ることもできますよ。

 なるほど、背後から仏を守っている位置におけないから。

 でも、仏の字は膝まついて礼拝している姿にも思えます。

 人偏は人の子イエスを表し、イエスを礼拝する姿だったりして。

仏の中心は、大日如来とされるのですよね。

地上の太陽神であるラーを、礼拝する姿が「仏」の字の元かも知れないですね。

 そういえば、日本の神は太陽神を中心に動物神を含む八百万の神が三神構造をなしています。

 古代エジプトと、そっくり。

 仏教の仏も、大日如来を中心に諸仏が三仏で並びますね。

さらに、佛の旁の弗(ふつ)は、「あらず」の意味があるのです。
そこから「途絶える」とか、「突然」などのほかに、「神仏に祈って罪や穢れや災いを除き去る」という意味も出たのです。

 人でありながら、人にあらず。

 突然に先が途絶えた、罪や穢れや災いを除き去る祈りの対象。

 佛は、そんなふうに見たくもなる字ね。

 やっぱり、イエスが連想できますね。

神座の順位については、神棚の中央を最上位とし、次に向かって右側、その次が左側となるのです。

 この順位も、御父と御子と聖霊に似てますよ。

三社造りのように宮形が大きい場合には、中央に伊勢の神宮の神札である神宮大麻(じんぐうたいま)を、向かって右側には自分の土地の氏神さまの神札を、左側にはその他の崇敬する神社の御神札をお祀りするのです。

 宮形、つまり神棚の形よね。

ええ、三社造りとは三つの扉が並ぶ神棚です。

 それぞれの扉の前に、御神札を祀るのね。

伊勢の神宮の神札は、天照皇大神宮の札です。

 大麻って、白い布よね。

白は西に配されるほか、光にも配されるのです。

 白は魂にも、配されるよね。

 西は死の、東は生の、方角とされるでしょ。

 光に包まれ、復活の時を待つ、魂の世界のお方…。

 やっぱり、イエスが連想できますけど。

一社造りのように宮形が小さい場合は、神宮大麻を一番手前にお祀りし、その後ろに氏神さま、次に崇敬する神社のお神札を重ねてお祀りするのです。

 三神をあたかも一神のごとくに崇めよと、言ってるようにも見える。

 絶対三神による、唯一神とくれば御父と御子と聖霊に似てますよ。

御神札の数が増えて、宮形に納められない場合には、棚の上に丁寧に並べても差しつかえないのです。

 でも、神棚には三神でしょ。

そうですね。

 多くの天使を従えた、絶対三神にしか見えないけど。

こういうのって、一つの見方をしてしまうとそこから離れられないことは、よくあるでしょ。

 そればかりでは、ない気がするけど。

そんなに、構図似てますか。

 う~ん、確かに似ているなあ。

そう言われると、そんな気がしてきますねえ。

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徐福。

年代的にも秦氏以前に日本にいたとされる物部氏(もののべうじ)こそ、徐福の子孫なのではないでしょうか。

 その話、飛鳥昭雄がしてるでしょ。

それで、考えて見たいことがあります。

徐福(じょふく)は、斉国の琅邪(ろうや)の出身といわれるのです。

 別名は、徐巿(じょふつ)ね。

中国の、秦の時代(紀元前3世紀頃)の方士です。

 さて、時代があうかどうかよ。

日本書紀によると応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ)が、朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったというのです。

 弓月君は、新撰姓氏録では融通王でしょ。

伽耶とも書かれる加羅、または新羅から来たのではないかとも考えられています。

 新羅は、古く辰韓つまり秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承があるでしょ。

日本書紀には、次のようにあります。

応神天皇十四年、弓月君が百済から来て、天皇に奏上した。
「私の国の百二十県の人民が帰化を求めています。しかし新羅人が拒んでいるので、みな加羅国に留まっています。」
天皇は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を遣わして、加羅国の弓月の民を召されたが、三年を経ても襲津彦は帰らなかった。
応神天皇十六年、天皇は平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わした。
天皇は精兵を授けて、命じた。
「襲津彦が帰らないのは、きっと新羅が邪魔をしているからだ。お前達は速やかに赴いて新羅を撃ちその道を開け。」
木菟宿禰らは精兵を進めて新羅の国境に臨んだ。
新羅王は恐れて、その罪に服した。
二人は、弓月の民を率いて襲津彦と共に帰ってきた。

弓月君は一説には、五胡十六国時代に氐族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もあります。

物部氏は、河内国の哮峰にニニギノミコトよりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒミコトを祖先と伝えられる氏族です。

 天孫降臨も、徐福も、日本で言えば弥生時代でしょ。

 河内国の哮峰って、今の大阪府交野市あたりとか。

そう見られています。

物部氏は、連の姓(かばね)です。
八色の姓の改革の時に、朝臣姓を賜ったのですね。

 穂積氏、采女氏をはじめ、同族枝族のすこぶる多いことが、その特徴として知られているでしょ。

物部氏は、元々は兵器の製造や管理を主に管掌していたのです。
しだいに、大伴氏とならぶ有力軍事氏族へと成長していったのです。
五世紀代の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになったのです。

 一方では、神道の祭祀も司っていたでしょ。

そうですね。

蘇我氏とは、国家祭祀で対立したとする見方もあります。

 ニニギノミコトが高千穂山に降臨したという、「天孫降臨神話」はどうでしょ。

実は、物部氏の伝承がルーツだとする説もあります。

ニニギノミコトは『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場します。

 ナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)をもうけたでしょ。

『古事記』ではウマシマジノミコトは、物部連、穂積臣、采女臣の祖としています。

 「蓬莱山=高千穂山」であれば、「徐福=物部氏の祖先」という説は成り立つかも。

そうですねえ。

 尾曲がり猫分布の謎は、突然変異説で、この事実が説明できますか?

突然変異じゃ、無理でしょ。
ところで猫の話に、変えたいのですか。

 猫、好きですもの。

 悪い?

 尾曲がり猫が、九州と台湾のあいだに連なる西南諸島では沖縄の島々には少ないのね。

 南西諸島を北上して鹿児島に近づくほど、尾曲がり猫の出現度が多くなるの。

 とくに尾曲がり猫が多いのは九州などの南西部で、全体的に、東北地方に行くにしたがって、出現度は少なくなります。

 どうしてこうなるのでしょう?

この分布は、品種改良によって米つくりの北限が北へと広がる以前の米作地帯とほぼ重なるはずですよね。

日本に米つくりを伝えた人たちは、九州に上陸し、北へ北へと広がっていったのです。

 彼らによって、米つくりが伝え得た地域でもあるのでは?

尾曲がり猫は中国では沿海部に多いので、米の伝播ルートとの関連が期待出来そうに見えます。

中国沿岸部というのは、朝鮮半島の南からインドシナの北の範囲です。

この奥地に広がる地域は、実際、日本の米文化のルーツとして研究者達から注目されている地域でもあります。

 日本に米を伝えた人たちに連れられて渡来したのは、尾曲がり猫であった。

 そう考えた方が、自然な分布ではありませんか。

一方、中国では、内陸部は直尾猫ばかりで、福井県から京都府、奈良県にいたる地域にはたいへん多く、これらの地区には尾曲がりが少ないそうです。

こちらの方は、経文と一緒に来た猫たちの仲間かも知れないですね。

 尾曲がり猫や、米作りの伝播ルート、そしてその後の分布を重ねると、徐福や物部が匂ってくると思うけどねえ。

でも、尾曲がり猫とマンクスの伝承はどうなります。

 インドや日本から、フェニキア人がマン島につれていったという、伝承でしょ。

 インドと日本には、日本語タミル起源説があるはず。

確かに、インド人から同胞に間違いないと断言されて否定しても納得してもらえずに困った人の話って、あります。

 でも、日本の稲作起源とされる江南地域と、インド北部は近いでしょ。

遺伝子で見ると、チベットと日本は古代中東の遺伝子を共有してると出ています。

 インドのタントラも、中国の陰陽も、弁証法思想なのは共通でしょ。

 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を 

 この歌を、シュリーヤントラで解けると推理したの、あなたでしょ。

古代インドには、ペルシャ人と近縁の民族が入っていますよね。

ペルシャにも、二元思想のゾロアスター教があります。

 ゾロアスター教の神、太陽神と同一視する説のあるミトラがいて、岩から生まれるでしょ。

女性神とされる天照大神には、実は男性神天照国照彦だったという説があるから似てきます。

 すると、中東の民であったフェニキアが尾曲がり猫を連れて出発したのがインドか日本というのは、単なる伝承と笑えないのでは。

でも、そうなると徐福は中東に遡る人物だったのかと、なるのでは。

 あ、そうか。

想像するのは、自由ですけどねえ。

 話しは飛ぶけど、直尾猫は、秦氏と言って果たして良いのかどうかが、疑問ですけどね。

直尾猫と秦氏はルート的には、面白いですけど。
天孫だって、疑っても良いのでは。

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小林氏。

小林姓は、全国に分布しています。

 全国でも、十位以内にはいる多さでしょ。

丹波篠山にある沢田城主小林氏は、南北朝の争乱期、山名氏にしたがって上洛、その有力部将として守護代に任じられたものの子孫とされています。

室町時代初期、上野一揆の有力国人としても小林姓が見えています。

戦国時代はじめの甲斐国東山梨郡に小林尾張守の和泉守という豪族があるのです。

同じく甲斐国巨摩郡には、信濃から移住したという小林氏がいたのです。

信濃の隣の越後国では上杉謙信の侍大将の一人に、小林左馬介の名があるのです。

江戸時代の長岡藩士や米沢の上杉の家臣にも、小林氏が見られます。

 元禄赤穂事件で有名な、三河吉良氏の家臣に小林平八郎がいるね。

 上杉から三河吉良氏にいって、事件に巻き込まれたとされてます。

さらに上総・下総・相模に平姓小林氏、下総・甲斐・三河・大和に藤原姓小林氏、東北の羽前・飽海郡、岩代・合津郡から発祥した小林氏があるのです。

特に、長野県では一位、新潟や山梨では二位、北関東三県でも二位、三位を占めるのです。

 関東甲信越に、多い苗字ですね。

小林氏は家紋の種類も多く、代表紋とよべるものはなさそうです。
 
 出自が多流に、およぶからでしょうかね。

とくに多用されているのが桓武平氏の代表紋とされる「揚羽蝶」で、武蔵・上総・下総・相模の各小林氏はこの紋を用いて、桓武平氏を称しています。

その他、「輪違い」「揚羽蝶」「蔦」「酢漿草(カタバミソウ)」「三階松」「梶の葉」などがあるのです。

 「酢漿草」といえば、「剣方喰(ケンカタバミ)」を藤原氏と共有する一族もあるのですよね。

 それぞれ出自を反映したものと思えるけど、多彩ね。

小林とは文字通り小さな林であり、まだ若い成長途上の若林の意味にも使われたのです。

また、小林の小は「オ」と呼んで美称の接頭語を表します。

 「おはやし」は、「お囃子」に通じますね。

 祭りにも、関係あるでしょ。

小林氏には、神官が多く見られます。
これは、木を伐採したのち山の神を祭ることに由来するようです。

 鎮守の森も、小林姓とつながるでしょうね。

伊勢の度会姓小林氏、大和宇陀郡小林の大神姓小林などがあるのです。

ほかにも、魚沼郡にある越後一宮弥彦神社の神官に小林氏がいたのです。

 下田の八幡神社にも、神官に小林氏がいたでしょ。

 小林氏をたどったら、肥田氏もでてきましたね。

そうです。

さらに、肥田氏は秦氏にさかのぼれるかも知れないです。

 古くから肥田氏のいた関東は、秦氏の一大勢力を構えた土地で、しかも「はた」はもとは「はだ」ですもの。

小林氏と肥田氏の接点が見えたのは、諏訪だったです。

信濃(しなの)の小林氏は、伊那郡と諏訪郡から発祥した二つの流れがあるのです。
いずれも、諏訪神家にゆかりがあるのです。

  岐阜の米田城主であった肥田氏の本当の姓は諏訪氏であり、諏訪大明神に仕える家柄でしたね。

諏訪郡の小林氏は、諏訪氏と同族です。
伊那郡の小林氏は、知久氏の分かれです。

知久氏は清和源氏満快流だが、諏訪氏と姻戚関係があり諏訪氏とは同族とみなされます。

その他、木曽義仲の子孫、藤原氏の流れという小林氏があるのです。

 でも、木曽義仲も源氏でしょ。
 つまり、小林氏は知久氏からも木曽義仲からも、源氏につながる。

木曽義仲は、平安時代末期の信濃源氏の武将で、源義仲が本名ですよね。
河内源氏の一族、源義賢の次男で源頼朝と義経とは従兄弟にあたるのです。

その、岐阜の米田城主であった肥田氏が木曽義仲に仕えていたのは、興味深いですね。

 さらに、藤原氏と天皇家は密接な婚姻関係ね。

でも、藤原氏も秦氏からでたという説があるのですね。

 そういえば、肥田氏も天皇に血筋がありませんか。

あったです。

肥田姓を歴史をさかのぼってみると、古代からかなりなものであったらしいです。
なんと、肥田宿禰なる人物が登場、清和源氏土岐氏の流れや、藤原氏などが祖先候補としてあがってくるのです。
 
 そして、岐阜の米田城主であった肥田氏は、諏訪大明神に仕える諏訪氏の出でしたね。

諏訪氏は代々、諏訪大社の大祝を務めてきた一族ですね。
その血筋は「神氏」といい、出雲神話の神である建御名方神(タケノミナカタヌシ)に始まるというのです。
桓武天皇を祖とするとも、清和源氏の源満快を祖とするとも称した一族です。

 つまり、諏訪氏を通じて小林氏と肥田氏がつながるのは、かなり確かでしょうね。

名字としての小林は全国的に分布するが、とくに目立つのは上野(こうずけ)と、先に触れた信濃の小林氏です。

上野の小林氏は桓武平氏の出で、緑野郡小林と多野郡御厨小林を根拠とした秩父氏高山党の分かれというのです。

源頼朝の奥州征伐に際して、同族の高山氏や大胡・佐貫氏らと参加しています。

 小林は、名字としては林と似てますね。

桓武平氏からは上総国鹿島郡林村から起こった大掾氏系鹿島氏から分かれた林氏、三浦氏から出た林氏がいます。

 桓武平氏まで、小林氏と共通ですか。

重ならない部分も、多いですけど。

尾張の林氏は、良峰氏の分かれで立木田高義の曾孫高綱に始まるそうです。

伊予からは、越智流河野通有の三男通種が越智郡拝志に住して林を称したといわれます。

美濃からは、安八郡林村から起こった河野氏流稲葉氏から分かれた林氏が出たです。

織田信長の家老として知られる林通勝は、美濃林氏の一族と思われます。

ついでにいうと、奈良の林が「楢林」氏、東海の林が「東海林」氏といわれます。

林氏の家紋も、多彩です。

利仁流林氏は、ずばり「林の字」をはじめ「葉陰の菊」「抱き柊」「松葉菱」です。

大名林氏が、「三つ巴下に一文字」「三階菱」を用いたのです。

伊那氏系林氏は「三つ巴上に一文字」「開き扇」、河野氏系は「隅切角に三文字」「三つ巴」を用いているようです。

その他にも、出自が多彩なだけに鶴、桔梗、柏、花菱など多種な家紋が用いられています。

 家紋の多さまで、似てる。

ハヤシは、ハヤスから転化して語です。
ハヤスは映す、栄す、囃す、生やすなどの字が用いられます。
光彩を添え、変化をもたせ、称揚して効果をあげることをいるのです。
木を植えたり、歌舞の調子をとったりして、物事を称揚することは全てハヤスことです。

 なるほど、「お」をつければ「おはやし」で「こばやし」に通じますね。

確かに、「おばやし」と読む小林もあるのですけどね。

流行するという意味のハヤルも、ハヤスと同義です。
ハヤシを「拝志(師)」と書いたのは「ハエシ」と発音したことにちなみ、林はその当て字だったです。

 「土師(ハジ)」と、「拝志あるいは拝師(ハエシ)」、関係ないでしょうかね。

 土師は、聖書では神から選ばれた部族の指導者よね。

日本で土師氏といえば、奈良の技術に長じた古代豪族ですね。

 渡来系とする説もあるでしょ。

あるのですよ。
4世紀末から6世紀前期までの約150年間の間に築かれ、古墳時代の中期を代表する古墳群、古墳造営や葬送儀礼に関った氏族ですね。

土師氏の祖とされる野見宿禰は、天穂日命の末裔とされますね。
殉死者の代用品である埴輪を、発明したと伝わるです。
第11代天皇である垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」を、曾孫の身臣は仁徳天皇より改めて土師連姓を与えられたと言われますね。

 そうそう、林氏でしたっけ。

林は、のちに家のまわりなどに樹木を植えて林が増えたことから、林のある村の意ともされるようになったのです。
奈良時代「地名は二字の佳名に」ということで、林の地名を「拝志・拝師」と表記するようになったともいうのです。

林、あるいは拝志や拝師は山野の多い日本の各地にあり、名字としては北陸から東海地方にかけて多く分布しているようです。

 東日本と言えば、アイヌでしょ。
 アイヌの生活文物と、古代イスラエルの類似が指摘される。

そして、アイヌは縄文人の末裔と言いたいのですね。
でも、林姓は北陸から東海地方にかけて多く分布ですよ。
 
 なんか、聖書の土師と、林あるいは拝志や拝師は、関係ある気がするけどねえ。

林あるいは拝志や拝師は、県別でみると、岐阜県でトップの他、富山県で二位、山口県で三位、福井県で四位を占めています。

 岐阜と言えば、諏訪氏から出た肥田氏が米田城主を勤めているでしょ。

 偶然とは、みえませんねえ。

古代氏族の林姓としては、河内国志紀郡拝志郷から起こった武内宿禰の子孫波多氏族の林臣が知られます。

林臣はのちに朝臣姓を賜り、河内から近江に広まったです。
同じく河内国志紀郡拝志郷を名とする大伴氏族の林連があり、志紀郡には伴神社が鎮座しています。
大伴氏族の林連は山城国葛野郡の上林郷に住み氏神を祀ったとあり、河内の林連はのちに朝臣姓を賜っています。

その他、河内からは百済系帰化族の林連、この族で摂津から出た林史が『姓氏禄』にみえています。

東漢氏族の坂上氏系から林忌寸が出て、弘仁三年に宿禰姓を賜っています。

一方、北野天満宮や下鴨社の社家に林氏があり、古代豪族の流れをひいているようです。

 下鴨社といえば、賀茂氏でしょ。
 賀茂氏も秦氏の一族、小林氏に通じる藤原氏も秦氏といわれる。

 このあたりも、神官を多く出す小林氏と関係ありそう。

伊豆のあたりは、秦氏が一大勢力をはっていた地域のひとつだったです。
伊豆は、かなり早い時期から秦氏の一部である賀茂氏が支配していた場所です。
伊豆諸島の神社は、ことごとく賀茂氏の祭神である事代主命を祀っています。

 そして、伊豆を含む関東に藤原氏の起源を求める説がある。

 藤原氏から、神官を多く出す小林氏が分かれる。
 
 小林氏は、賀茂氏とどこかでつながらないかしら。

 だって、諏訪氏神官の一族だった肥田氏が城主だった米田城は、岐阜県加茂郡よ。

 加茂にこだわって鎮座の場所を定めたあたり、やはり諏訪氏は加茂氏との繋がりが疑え、秦氏につながる可能性があるのね。

推理としては面白いけど、もっと資料がほしいですねえ。

それに、これは林氏のことです。
 
 私の親友が、結婚して小林になりました。
 
 確か、旦那様は北関東だったかしら。
 今は京都の下賀茂神社の近所に住んでます。

 これ偶然かなぁ~?

 小林氏を出した藤原氏も、賀茂氏の勢力下だった関東の出よ…。

 さらに、大祝とされた諏訪氏も小林氏と絡む。

 小林氏が神官を多く出す、無関係じゃないでしょ。

いくら似た苗字でも、小林と林、関係が見つかる資料がないと…。

 起源では、重なる部分も結構あると思うけど。

武家では、加賀国拝師郷を本拠とした林氏が知られます。

『尊卑分脈』によれば、利仁流藤原忠頼から起り、代々加賀介に任じられた在地領主で、富樫氏らと同族です。

 ほら。

 藤原氏の出なのは、小林氏と共通でしょ。

加賀国拝師郷を本拠とした林氏は、源平争乱期、平家の軍と戦って名をあらわしました。
承久の変で宮方に属して勢力を失墜、南北朝期の内乱で嫡流は没落してしまいます。
しかし、一族は加賀から越中に広まり、北陸地方に繁衍しました。

江戸幕府の儒官として有名な林羅山の先祖は加賀の人といい、利仁流林氏の分かれであろうと思われます。

秀郷流藤原氏にも、林氏が見えます。
秀郷六世の孫で上野国住人行房が、林六郎を名乗っています。

 藤原氏系林氏では藤原南家工藤氏流、肥後の菊池氏族などがいるでしょ。

清和源氏では源満快の後裔伊那為扶の孫快次が林二郎を称し、小笠原清宗の二男光政が信濃国林村に住して林を称しています。

 小林氏の元のひとつとされる知久氏は、清和源氏満快流でしょ。

 ここでも、つながる。

幕末、請西一万石の藩主でありながら脱藩して徳川家のために戦った林忠崇は、小笠原光政の後裔で最後の大名となった人物としても有名です。

また、村上氏族の上野康宗の流れからも林氏が出ています。

いずれも、信濃から発祥した林氏です。
 
 長野県で五位を占める林さんは、これら林氏の子孫かも知れないですね。

 ここでも小林氏と林氏が、信濃でつながるのか。

でも、小林氏と林氏、比べてどうなると…。

追記

小林の「小」は「オ」と読んで接頭語を表すから、本来は「林」と同じ意味を持つとの情報もあり、林氏と小林氏の系譜が絡まり合っているように見えるのもこのあたりに原因があるのかも知れません。

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