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2010年3月

天狗下駄

平安時代より、修験者が山中を行くときに履いていたといわれている一本歯の下駄があるのです。

 下駄の歯が一本しかないので、大変不安定でしょ。

この一本歯下駄は、通称を天狗下駄というのです。

一本歯の部分が、ちょうど土踏まずの部分にくるそうです。

 一本歯下駄を履くだけで、姿勢が変わりますか。

重心線をキープしながら、バランスを取って体のバランストレーニングに最適だそうです。

下駄の鼻緒は、足の親指の所に挟むのです。

 それは、どの下駄でも同じでしょ。

実はこの構造は、足の親指のつけ根の部分を鍛えるのに大変効果的なのですって。

宮本武蔵も、この親指のつけ根の使い方について教えを残しているそうです。

 足の親指のつけ根の部分を鍛え、さらに体のバランストレーニングに良い。

 天狗って、健康のために一本歯下駄を履いていたのかしら。

理由は、別にあると思います。

 そういえば、 天狗といえば団扇だけど、八ツ手の葉を使っていましょ。

 それでウコギ科の常緑低木である八ツ手の別名は、天狗の葉扇という。

 天狗自体が、木の人形を正体とするという思想が背景にあるかも知れないって以前話題にしましたねえ。

陰陽の別名はカンバラで、河童の語源であるという説を飛鳥昭雄や三上たけるは展開しています。

 陰陽の別名はカンバラなのは、陰陽がカッバーラだからであると彼らは主張していますね。

 木の人形は生命の樹に通じ、生命の樹はカッバーラに通じ、カッバーラは河童に通じるというのでしょ。

そうですね。

そういえば、鞍馬の天狗と呼ばれる鬼一法師は義経に虎の巻を授けます。

 虎の巻が、トーラーの巻で、カッバーラの書で、天狗が生命の樹を奥義とするカッバーラに通じていたと見ると面白いね。

 木の葉天狗は、木っ葉天狗とも呼ぶ。
 木っ端天狗は、木っ葉天狗と同じかしら。

 一方で、木っ端天狗は河童天狗と混同されるのでないの。

 河童には、木の人形伝承がある。

 木っ端天狗を、木っ葉天狗や木の葉天狗というのは、木の人形が正体という考えがあるのかしら。

河童と天狗には、驚くほど似通った伝承があるのですよね。

 天狗も、河童同様、木の人形が正体と見ても良さそうねえ。

川天狗と山天狗に対して、河童と山童、見事に対応してみえます。

天狗は、樹木に棲むと信じられたと考えられているのです。
樹木は神霊の依り代とされ、天狗が山の神とも信じられていたことからです。

天狗が棲むとされる木の周囲では、天狗の羽音が聞こえたり、風が唸ったりするというのです。
風が音をたてて唸るのは、天狗の声だと考えられたのです。

 キジムナーやケンムンはガジュマルの精とされ、天狗が樹木に棲む。

 天狗の起源の一つは、明らかにキジムナーやケンムンね。

埼玉県児玉郡では、天狗の松を伐ろうとした人が、枝から落ちてひどい怪我を負ったが、これは天狗に蹴落とされたとされているのです。

 河童は金気を嫌い、ケンムンもガジュマルを切ると祟る、見事に対応するのね。

天狗の木と呼ばれる樹木は枝の広がった大木や、二枝に岐れまた合わさって窓形になったもの、枝がコブの形をしたものなど、著しく異形の木が多いです。

 要するに古木でしょ。

 ケンムンやキジムナーも、古木の精霊とされますよ。

そして、ケンムンやキジムナーは河童の仲間と見られています。

 ケンムンやキジムナー同様、天狗も古木の精霊としたら、一本歯の下駄の謎と繋がりませんか。

樹は、幹が一本で一本足に通じる。

天狗の一本歯の下駄も、一本足に通じると見れば樹に通じそうですね。

 そして、生命の樹は知識や経験をつんで、神から授けられるカッバーラを正しく理解して上って行ける…。

 このあたり、古木に繋がるのかな。

天狗も河童同様生命の樹だから、一本歯の下駄で樹の一本足を連想させたのかも。

 そうみれば、鬼一法師が義経に授けた虎の巻が、トーラーの巻で、カッバーラの書であってもおかしくないね。

天狗が、生命の樹を奥義とするカッバーラに通じていても不思議ではないですね。

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アメリカ保守派を考えてみました。

アメリカ保守派にとって、医療保険さえ社会主義にみえるようですね。

 社会保障はそもそも、犯罪と社会主義対策で始ったものでは?

 自由主義の妨害で資本主義に捨てられた社会保障の旗は、社会主義に拾われたのでしょ。

 アメリカ保守派=自由主義だから、銃犯罪社会から脱出できないのかも。

 社会保障反対=犯罪温床培養の構図。

ホームレス支援で治安回復しつつある地域も、アメリカにあるそうです。

でも、ボランティアだからすすんでいるらしいです。

 ホームレス支援を、国や地方の政府がやったら保守は妨害するのでしょうか。

国や政府がやれば、元出は税金ですからねえ。

 税金を他人のために払いたくないのが、アメリカの自由主義的保守派ですか。

 でも、アメリカ保守派はWASPなはずでしょ。

WASPは、ホワイト(White)+アングロサクソン(AngloSaxon)+プロテスタント(Protestant)の略ですよ。

 つまり、クリスチャンでしょ。

 貧乏人を足蹴にして平気な金持ちに対して、イエスは警鐘を鳴らしたのでは。

金持ちが神の国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい。

イエスはそう言ってますね。

 そして、地獄に落ちた金持ちは神の国にいけた貧乏人を恨めしそうに見る…。

旧約にも、神に従えば困る事はないといいながら一方でイスラエルの民に助け合いの大切さを説く箇所がありますよ。

 ザカートと呼ばれる、困窮者を助けるための義務的な喜捨はイスラム教の五行の一とされるでしょ。

 イスラムを特長つけるとされるけど、聖書に起源があるわけですね。

当然でしょ。

聖書の教えの徹底を求めて、イエスもムハンマドも、神の命令を受けて行動を起こしたのですよ。

喜捨は、制度喜捨あるいは救貧税とも訳されるけど、本来の意味は「浄め」だそうです。

預言者ムハンマドは「サダカ」という名で、神に仕える者の徳目として自由な喜捨を推奨していました。

 ただし、喜捨は義務ではなかった。

喜捨を指す語としてはサダカもザカートも、クルアーンにおいては両者とも自由な喜捨を意味したようです。

現代においては、自由喜捨をサダカ、制度喜捨をザカートとして区別しているそうですね。

630年以後、新たに従った部族に対する喜捨の義務化がおこなわれたようです。

 つまり、困窮者を助けるのは聖書の教えなのですね。

ただし、自発的な行為でないといけないなら、行政に強いられるのはごめんというのもわかる気がするけど。

 じゃあ、制度としての医療保険に反対する人は困窮者に自発的に手を差し伸べているの。

中には、いるでしょう。

 でも、少数派だから、多くの困窮者は制度としての援助の手を求めた。

そう。

制度として強いられるのが嫌なら、自発的に援助の仕組みを自分たちで作るべきでしょう。

 それを怠っているから、行政は強制せざるを得ない。

自らを真のキリスト教徒と想うなら、自分たちで困窮者支援のルールと仕組みを工夫したら良いでしょ。

 わからなければ、神に教えを請えば、惜しげなく教えてくださる。

神は、まことに気前のいいお方と、聖書もコーランも説きますよ。

 イエスの教えに反したから、イエスは罰するものを寄こした。

それが、今回は行政であったと気がつくべきだったのではないでしょうかねえ。

 官から民へと旗を振った竹中平蔵氏がよく似てます。

 近著を読んでそう思いましたね。

 日本人にも似たようなマインドの人間が増殖中ではないでしょうか。

そういえば、竹中平蔵と一緒にやっていた小泉純一郎には、“アメリカのポチ”のあだながありましたね。

 アメリカの共和党は、超保守派=キリスト教原理主義派がのさばって、反対してますが、聖書に忠実を掲げているのに、矛盾してますよねえ。

原理主義、すなわち、教条主義、ということでしょうね。

実態や現実より、杓子定規な対応で善しとするから、かえって矛盾がひろがるわけでしょう。

表面だけを見て内実を見ようとしない、それが原理主義であり教条主義の特質ですから。

神の判断より、自分の判断を上に置いて平然としているのが、宗教的原理主義の最大の過ちです。

主よ主よと、これ見よがしに私の名を呼ぶものがいる。
私は言う。
あなた方を知らぬ。

もっともらしい解釈ばかりして、内実の伴わないものを痛烈に批判したイエスの言葉です。

そっくり、超保守派=キリスト教原理主義派に進呈したい気分になりますねえ。

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中田氏を考えてみました。

ふと、気になって中田姓の人たちの顔を眺めてみたのです。

女性男性問わず、ひとつの傾向に気がついたのです。

モンゴル風の顔もなければ、尖った顎も、見当たらない。

 「豊かな頬、長い顎」、そう見える。

目も、くりっとした丸い感じより、どちらかと言えば切れ長、でしょ。

 ギリシャ風…。

足指が、どうかは知らないけど。
日本人は、いろいろな血筋が混ざってます。
ローマ風の足指も、ありえるからです。

ただ、中田姓の女性タレントに色白の評判がある人は多いようですね。

 色黒と呼ばれる人も、色が白い分かえって黒さが気になるとも、言えますね。

“nakata”あるいは“nakada”という、読みはどこから来たのでしょうか。

“hakata”と、“nakata”あるいは“nakada”、似ていると思えないでしょうか。

 そうなると、“hakata”の語源は気になるところ。

博多を含む北九州には、秦氏の一大勢力があったでしょ。

 “hakata”と“hata”、転化はありえるでしょうね。
 “hata”は、もともと“hada”だから、“hada”から“hakata”の転化もありえるのでは。

中田姓が昔からいたであろう地域と、秦氏の勢力分布はもっと調べると面白いでしょうね。

“nakata”あるいは“nakada”と、“hakata”と“hata”あるいは“hada”、無関係とは思えないです。

 そういえば、名前の知られた中田姓の人たち、関東が結構いますねえ。

 甲信越も、含めて…。

それと、“nakata”あるいは“nakada”の読みがある苗字には、中田の外、仲田、半田とか、あるでしょ。

 中田、仲田、半田、複数の字が当てられてますねえ。

つまり、“nakata”あるいは“nakada”の音がまずあって、漢字は後からついてきたということでしょうね。

しかも半田の読みには、“nakata”あるいは“nakada”のほか“handa”もあるのです。

 中田、仲田、半田、みんな秦氏の一族である可能性は見て良いでしょうね。

 そういえば愛媛出身のピアニストに、仲田姓の人がいますねえ。

 オフシャルサイトで顔を見たら、まさに、今話題にしている「豊かな頬、長い顎」、そう見える。

愛媛を探ったら、愛媛って秦氏との関連が思った以上に強そうですね。

 “handa”からは、“hanada”、“haneda”も、ありえるかもね。

そうですねえ。

“handa”からは、“kanda”、“kanada”、“kaneda”も、ありえるでしょうね。

 陸奥亮子の出自である金田姓を重ねると、面白いかもね。

わかった範囲で見ると、金田姓は千葉や長野につながっているようです。

 千葉一体も、秦氏の勢力下だったですよね。

中田、仲田、半田、これらの姓と秦氏の繋がりもありそうに見えてきますね。

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政党政治ってなに?

意見を表明すれば、同意する人も、反対する人も出ますよね。

 当然でしょ。

 でも、意見に賛否が出るというのは事実だから…。

 意見を言えば賛否が出るという意見には、賛成はあっても反対はないのでは。

 だってそうでしょ。

 聖書には、神の言葉であっても逆らう人の話はたくさんある。

同意する人が集まれば党が、できるでしょ。

 同意しない人は、批判するために詰め寄ろうと集まってくる事もあるかも。

 などと、言ってみたりして。

批判のために詰め寄った人が付きまとい続けたら、妨害しかしないのでは。

 妨害しなくたって、批判のために付きまとわれたら、邪魔ですよね。

政治意見を表明し、同意する人が出れば政党ができるのでは。

 今ある政党の中には、同意が出来上がっている人が集まっているかどうか、怪しいのもありますけどね。

少なくとも、まったく傾向が違う人は集まってないのでは。

 そういえば、思っていたのと違ったと、離党する人が出る党は今までにもいくつもありましたね。

政党って、賛同者が増えれば、議会に進出したりしませんか。

 国政か地方政治か、差があっても賛同者が増えたと思えば立候補する、ねえ。

 なかには、賛同者がたくさんいると勘違いしている党もあったりして…。

あるでしょうねえ。

 一方では、賛同者を募る手段として、選挙を使う党もあるでしょうねえ。

多くの党は、多かれ少なかれ、宣伝機会としても選挙を使うでしょうね。

そして集まった賛同者が十分な数になれば、議席に届くでしょ。

たとえ、それが一議席だったとしても。

 そうねえ。

多数が取れれば与党になれ、多数になれなければ野党になる。

 もっと少なければ落選する。

 それだけのこと…ですねえ。

そしてこれが、政党政治ではないでしょうか。

 いろんな人が、いろんな事言って、いろんな事やってるから、複雑に見えるだけ。

原則が簡素であればあるほど、具体化したら多様になるわけでしょ。

 囲碁も、ものすごく簡素だけど奥が深いですねえ。

でしょ。

 猫も、単純に見えてつかみ所がないですねえ。

でしょ。

政党政治、知ってるようで意外とどういうことか考えてない風に感じたので、やって見たのですけど。

 今の状況は、与党は、離れたら選挙で落選すると怖くてしがみつき、野党は離党するだけのふんぎりがつかなくてふらついているって状況ですかねえ。

 なかには、勢い余って前後を考えずに党を出ちゃう人もいるようですけどねえ。

本当に国民や住民のために自分がすべき事、できる事を本気で考える政治家であって欲しいですねえ。

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シンデレラと火車?

『シンデレラ』 は、「灰かぶり姫(はいかぶりひめ)」とか、「灰かぶり(はいかぶり)」という意味です。

『シンデレラ』 の話は、グリム兄弟(Brüder Grimm) によってグリム童話に「No.21 Aschenputtel」として納められたものや、シャルル・ペロー(Charles Perrault) によるものが知られています。

 実際には、各国でさまざまに伝わっているのですか。

中国にも楊貴妃がモデルと言われる「掃灰娘」という類話があるなど、古くから広い地域に伝わる民間伝承だそうです。

ドイツ語のAschenputtelのほか、英語でCinderella、フランス語でCendrillon、イタリア語でCenerentola、などの名前で呼ばれています。

英語のcinder、フランス語のcendre、ドイツ語のAsche、イタリア語のcenere などはいずれも「燃え殻」「灰」を意味します。

細部は異なるものの、大筋としては以下のとおりです。

シンデレラは、継母とその連れ子である姉たちに日々いじめられていた。

あるとき、城で舞踏会が開かれ、姉たちは着飾って出ていくが、シンデレラにはドレスがなかった。

舞踏会に行きたがるシンデレラを、不可思議な力が助け、準備を整えるが、12時には魔法が解けるので帰ってくるようにと警告される。

その不思議な力は、話によって異なる。
魔法使い、仙女、ネズミ、母親の形見の木、白鳩などが登場する。

シンデレラは、城で王子に見初められる。

12時の鐘の音に焦ったシンデレラは、階段に靴を落としてしまう。

王子は、靴を手がかりにシンデレラを捜す。

姉2人も含め、シンデレラの落とした靴は、シンデレラ以外の誰にも合わなかった。

シンデレラは王子に見出され、妃として迎えられる。

ここで注目したいのは、なぜに主人公はさまざまな国で「灰かぶり」と呼ばれるかです。

 通称であって、本名ではないはずと。

でも、本名が別にあったとしても伝わっていないのでは「灰かぶり」と呼ぶしかないでしょ。

ここには、ジャック・オ・ランタン(Jack-o'-Lantern)が有名な、ウィル・オ・ザ・ウィスプ(Will o' the wisp)と呼ばれる話が、かかわっていると見ます。

 え。
  
 ジャック・オ・ランタンやウィル・オ・ザ・ウィスプは、鬼火とされるのでは。

 ジャックもウィルも、罪深いとされるでしょ。

実は、ペローやグリムよりも以前の17世紀の南イタリアで書かれた『Cenerentola(灰かぶり猫)』という作品があるのですよ。

五日物語という意味のPentamerone(ペンタメローネあるいはペンタメロン)という、ナポリ方言で書かれた民話集に収められています。

17世紀初めにナポリ王国の軍人・詩人であったGiambattista Basile(ジャンバティスタ・バジーレ)が、Gian Alessio Abbattutis(ジャン・アレッシオ・アッパトゥーティス)という筆名を用いて執筆した作品です。

この民話集は、死後の1634年から36年に刊行されました。

1日目第6話として収録されたこの話は、ペローやグリムよりも古い形と考えられ、両者と異なる部分があるそうです。

なおシンデレラはゼゾッラの名で登場します。

主人公のゼゾッラと裁縫の先生は共謀して、ゼゾッラと不仲であった最初の継母を殺害する。

主人公は、裁縫の先生と父の大公を再婚させる。

継母となった裁縫の先生は、6人の実娘を迎えるとゼゾッラを裏切って冷遇する。

その後、父の大公が旅行中に継母の娘には豪華なお土産の約束をするが、ゼゾッラはただ妖精の鳩がくれる物が欲しいとだけ答える。

その後、大公が妖精から授かったナツメの木の苗を土産として与えられたゼゾッラはその木を大切に育てる。

ナツメの木は実は魔法の木で、彼女は木の魔法によってきれいに着飾ってお祭りに参加して国王に注目される。

国王の従者に追いかけられたゼゾッラは、履いていたピァネッレを落としてしまう。

ピァネッレとは、17世紀のイタリアで履かれていた木靴のこと。

斎日に国王が国中すべての娘を召し出して靴を履かせた結果、ゼゾッラだけが靴に合致して王妃に迎えられる。

継母の6人の娘たちがそのときの屈辱を母親に伝えたところで、物語の幕を閉じる。

バジーレの作品の最大の特徴は、最初にゼゾッラが最初の継母を衣装箱に挟んで首を折って殺害する場面があることです。

このシーンは、グリム童話の1つである「ねずの木」と共通する側面を有していると指摘されます。
 
 主人公の灰かぶりは、罪を犯す場面がありますね。

でしょ。

さらに、猫とあるけど猫はどこにも出ないのですよ。

 寒がりな猫は、火を落とした後の竈で暖を取って灰かぶりになる。

 その竈から出てきた猫のように、灰かぶりだから「灰かぶり猫」。

それだけではないと思いますよ。

罪人を地獄に送る火車(かしゃ)も、被っているのかも知れません。
 
魔法使いとか仙女は、しばしば老女の姿とされますよね。

 となると火車婆、ですか。
 
だから猫がでるのでは。

火車の正体は、猫又とされますよ。

 猫又の尻尾は、裁きの悪魔と救いの神を、それぞれ表す。

生命の樹と、そっくりですよ。
生命の樹は救いの神に、死の樹は裁きの悪魔に、それぞれ対応すると見ても良いでしょうね。

 母親の形見の木も、イエスが生命の樹だとする解釈があることを思えば、母マリアとイエスに、重なってしまう。

そうですねえ。
 
 だから、魔法の木であるナツメの木が出る。

ナツメの木、つまりナツメヤシは、メソポタミアや古代エジプトでは紀元前6000年代にはすでに栽培が行われていたと考えられています。
またアラビア東部では、紀元前4000年代に栽培されていたことを示す考古学的証拠が存在するそうですよ。
紀元前4500年代から紀元前400年代のウルの遺跡で、ナツメヤシの種が出土しているといいます。

アッシリアの王宮建築の石材に刻まれたレリーフに、ナツメヤシの人工授粉と考えられる場面が刻まれていることはよく知られています。

ナツメヤシはギルガメシュ叙事詩やクルアーンに頻繁に登場し、聖書の「生命の樹」のモデルはナツメヤシであるといわれるのです。

 救いの神がイエスとしたら、妖精の鳩は聖霊となりますよ。

 主人公にはイエスに救われる罪を犯した女、マグダラのマリアまで重なるではないですか。

さらに、イエス自身も罪人とされて十字架にかかるでしょ。

 そして猫は、イエスの隠喩…。

ジャック・オ・ランタンを意識したから、フランスの文学者シャルル・ペローはガラスの靴を履かせるだけではなく、カボチャの馬車に乗せるというモチーフを付け加えたのかも。

ちなみに、シャルル・ペローが"Cendrillon ou La Petite pantoufle de verre(サンドリヨンあるいはガラスの小さな靴)"と、ガラスの靴としているのは説話を正確に記録したからだそうです。
フランスの昔話研究家であるポール・ドラリュの研究によると、「サンドリヨンは本来、毛皮の靴を履いていた」とする説は、間違えなのですって。

グリム童話は、ペローの影響を強く受けているといわれます。
でも、この物語に関してはペローのものよりも原話により近いのではないかといわれています。

ペローとの違いは、これらの箇所です。

魔法使いが登場しない 。
当然カボチャの馬車も登場せず、代わりに白鳩が主人公を助ける。

美しいドレスと靴を持ってくるのは、母親の墓のそばに生えたハシバミの木にくる白い小鳥。

ガラスの靴ではなく、1晩目は銀、2晩目は金の靴である。

シンデレラが靴を階段に残したのは偶然脱げたのではなく、王子があらかじめピッチを塗って靴が絡め取られたから。

ピッチとは、コールタールのことで古代から使用されていました。

王子が靴を手がかりにシンデレラを捜す際、連れ子の姉たちは靴に合わせるためにナイフで長女が爪先、次女は踵を切り落とす。

しかしストッキングに血が滲んで見抜かれる。

物語の終わり、シンデレラの結婚式で姉2人はへつらって両脇に座るが、シンデレラの両肩に止まった白鳩に復讐としてチェストつまり目潰しされたところで物語が終わる。

などが挙げられます。

初版から7つのヴァージョンを経る間に、これらの要素は表れたり削られたりと一定ではないそうですよ。

 じゃあ、私たちが知っているのはペローのですか。

ええ。
日本では、ペロー版が有名です。

 グリム童話では、1晩目は銀、2晩目は金の靴でしょ。  

そうですね。

 そうなると、長女と次女が白鳩に目潰しされるのは三晩目。

 生命の樹に対応させると、銀と金は御子と御父。

 白鳩は、聖霊…。

 見事に対応しますねえ。

シンデレラを考えたら、ジャック・オ・ランタン(Jack-o'-Lantern)やウィル・オ・ザ・ウィスプ(Will o' the wisp)、火車、さらには生命の樹や聖書にまでいっちゃいました。

面白いことに、日本版シンデレラともいえる作者不明の『落窪物語(おちくぼものがたり)』があります。

美しい容貌を持つ主人公の落窪姫君が、その名の通り寝殿の隅にある、畳の落ち窪んだ陋屋(ろうおく)に住まわされ、継母からのいじめにあうという話です。

 陋屋は、狭くてむさくるしい粗末な家でしょ。

 確かに冷遇ですねえ。

 シンデレラとも似通った構図を持つ、継子いじめ物語ですか。

題名の「落窪」は、主人公の薄倖な姫君が置かれた部屋の名前に由来します。

『落窪物語』全4巻は、10世紀末頃に成立したとされる中古日本の物語です。

物語は、漢籍の引用があり、露骨な表現や下卑た笑いもみられます。
作者は当時の男性下級貴族であろうと推測されているが、はっきりしたことはわかっていないです。

候補には源順、源相方などが挙がっており、巻四は清少納言が書き加えたとする説まであるが、いずれも確定に至っていないです。

 源順は従五位、源相方は正四位、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされていたから、地位はあってますねえ。

『落窪物語』は『源氏物語』に先立つ中古の物語で、『枕草子』にも言及があります。

恩讐のけじめをはっきりさせている、やや単純な筋書きではあります。
継子いじめの筋を軸に、当時の貴族社会を写実的に描写した物語として評価されています。

主人公は、中納言源忠頼の娘である落窪姫君です。
針子として家族の着物を縫わされ続けていたためか、裁縫が非常に得意です。
皇女である母と死別した落窪姫君は、継母のもとで暮らすことになりました。

出自は継母や義姉妹たちより遥かに高いが継母からは冷遇を受けて落窪の間に住まわされ、不幸な境遇にありました。

 下女同然に冷遇されている点は、シンデレラと酷似していますね。

しかし、そこに現われた貴公子、右近の少将道頼に見出されて、姫君に懸想した道頼は彼女のもとに通うようになりました。

姫君は、継母に幽閉されます。

 事実上の外出制限をされる点も、シンデレラと共通ですね。

そこを道頼に救出され、二人は結ばれます。

 救出者が現れる点も、シンデレラにも見られますね。

道頼は姫君をいじめた継母に復讐を果たし、一家は道頼の庇護を得て幸福な生活を送るようになります。

 冷遇したものは復讐され、主人公が幸せをつかむ展開もシンデレラと似ていますね。

日本とヨーロッパ、ここでも似ていますね。

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ジャック・オ・ランタンを考える。 猫とカボチャの不思議な関係 その2

猫とカボチャの不思議な関係を、以前考えたことがありました。

 猫を殺して埋めたら、その猫の口から毒のある南瓜が生えたという話で、殺した者に喰わすために猫の執念から生えたものだという話でしょ。

ええ。
口や目など、猫の頭からという話が多いようです。
このパターンは、猫南瓜という怪異のジャンルの一つにまでなっていたのです。

同様の話は、和歌山県西牟婁郡など各地方に見られるというのです。

調べていくと神奈川県横須賀市浦賀には、南瓜ではなく胡瓜がなったという話があるそうです。

 南瓜、胡瓜、どっちも瓜科ねえ。

胡瓜には、胡瓜封じの風習があるでしょ。

 そして、胡瓜と言えば河童。

南瓜には、ハロウィンのジャック・オ・ランタン(Jack-o'-Lantern)に使う風習があるでしょ。

 ジャック・オ・ランタンは“ランタン持ちの男”を意味し、ジャックランタンとも呼ばれますね。

ジャック・オ・ランタンは、アイルランドやスコットランドに伝わる鬼火のような存在だそうです。

普通の火の玉の姿の他、光る衣装を身に纏うカボチャ頭の男の姿であらわれる事もあるというのですよ。

 生前に堕落した人生を送ったまま死んだ者の魂が、死後の世界への立ち入りを拒否された姿と聞きましたが。

悪魔からもらった石炭を火種にして、萎びて転がっていたカブをくり貫いて作ったランタンに入れたと言うのが元の話だそうです。

そのカブのランタンを、片手に持って彷徨っている姿だとされているのですね。

こんな話もあります。

悪賢い遊び人が悪魔を騙し、死んでも地獄に落ちないという契約を取り付けました。
ところが死後、生前の行いの悪さから天国へいくことを拒否され悪魔との契約により地獄に行くこともできず、カブに憑依し安住の地を求めこの世を彷徨い続けている姿だともされているのです。

 この話は、ウィル・オ・ザ・ウィスプと呼ばれる世界各地に存在する、鬼火伝承の名の一つとされますよね。

ウィル・オ・ザ・ウィスプ(Will o' the wisp)は、ウィルオウィスプとも呼ばれる世界各地に存在する、鬼火伝承の名の一つですね。
「一掴みの藁のウィリアム」の意味で、この藁は松明に使われたところから「松明持ちのウィリアム」と訳されることもあるのです。

 ウィル(Will)は、ウィリアム(William)の通称ね。

ウィル・オ・ザ・ウィスプは墓場などに出没し、近くを通る旅人を危険な道へと誘うとされます。

 日本の人魂みたいねえ。

ウィル・オ・ザ・ウィスプの正体は、死後の国へ向かわずに現世を彷徨い続ける、ウィリアムという名の男の魂だというのです。

ウィルの生前は、極悪人だったそうです。

遺恨により殺された後、霊界で聖ペテロに地獄行きをいい渡されそうになった所を、言葉巧みに聖ペテロを説得し、再び人間界に生まれ変わるのです。
しかし、第二の人生もウィルは悪行三昧で、また死んだとき死者の門で、聖ペテロに「お前はもはや天国へ行くことも、地獄へ行くこともまかり通らん」と煉獄の中を漂うことになるのです。

それを見て哀れんだ悪魔が、地獄の劫火から、轟々と燃える石炭を一つ、ウィルに明かりとして渡したのです。
この時にウィルは、この石炭の燃えさしを手に入れるのです。
そして、その石炭の光は人々に鬼火として恐れられるようになったそうです。

 ジャックはよくある男の名前なので、アイルランドやスコットランドではジャック・オ・ランタンとなったのかしら。

どうでしょうねえ。

ジャック・オ・ランタンの話がアメリカに伝わったのち、カブのランタンは、移民したアイルランド人によりアメリカでの生産が高かったカボチャのランタンに変化したというのですね。

スコットランドでは、現在もルタバガというカブを使っているそうですよ。

この他、毎年10月31日のハロウィンの日に作るカボチャのロウソク立てをジャックランタンと呼び、善霊を引き寄せ、悪霊達を遠ざける効果があるといわれているのです。

ジャックランタンは、旅人を迷わせずに道案内をする事もあるというのです。

 罪人と炎と言えば、火車(かしゃ)を連想するのよね。

火車には、猫又が正体という説があるのですね。

 猫と南瓜は、火車が間に入って繋がっていくのかしらね。

可能性は、疑う余地がありそうですね。

ここで気になるのは、ウィル・オ・ザ・ウィスプの火には水面の上にしか現れないとする伝承もあるそうなのですよ。

 水面で火が現れると言えば、キジムナーがいるのよね。

 キジムナーは、河童の仲間。

天狗火(てんぐび)もあるのですよ

天狗火は、神奈川県、山梨県、静岡県、愛知県に伝わる怪火です。

主に水辺に現れる、赤みを帯びた怪火です。

その名が示すように、天狗が超能力によってもたらす怪異現象のひとつとされるのです。
神奈川県や山梨県では川天狗の仕業とされるのです。
夜間に山から川へ降りて来て、川魚を捕まえて帰るとも、山の森の中を飛び回るともいうのです。

人がこの火に遭遇すると、必ず病気になってしまうといわれているのです。
そのため、土地の者はこの火を恐れているそうです。

出遭ってしまったときは、即座に地面にひれ伏して天狗火を目にしないようにするか、もしくは頭の上に草履や草鞋を乗せることでこの怪異を避けられるというのです。

 近くを通る旅人を危険な道へと誘うとされる、ウィル・オ・ザ・ウィスプと似てますね。

一方、天狗火が人を助けたという民話もあるのです。

天狗火が人を助けた話は、愛知県豊明市などに伝わっているのです。

昔、尾張国東部のある村で、日照り続きで田の水が枯れそうなとき、川から田へ水を引くための水口を夜中にこっそり開け、自分の田だけ水を得る者がよくいたそうです。

村人たちが見回りを始めたところ、ある晩から炎の中に天狗の顔の浮かんだ天狗火が現れ、水口を明るく照らして様子をよく見せてくれるようになりました。

水口を開けようとする者もこの火を見ると、良心が咎めるのか、明るく照らされては悪事はできないと思ってか、水口を開けるのを思い留まるようになり、水争いは次第になくなったというのです。

また、こんな話もあります。

愛知県春日井市の民話では、ある村人が山中で雷雨に遭い、身動きできずに木の下で震え上がっていました。
すると、どこからか天狗火が現れ、おかげで暖をとることができた上、道に迷うことなく帰ることができたというのです。

 旅人を迷わせずに道案内をする事もある、ジャックランタンと似てますね。

しかしこの村では天狗火が見える夜に外に出ると、その者を山へ連れ去ってしまうという伝承もあるのです。
ある向こう見ずな男が「連れて行けるものならやってみろ」とばかりに天狗火に立ち向かったところ、黒くて大きな何かがその男を捕まえ、山の彼方へ飛び去っていったというのです。

 アイルランドやスコットランドといえば、ケルトの土地でしょ。

 そのケルトの地と日本に似た話があって、ブリテッシュに似た顔がいると幕末の日本を知る欧州人が報告してる。

 アメリカで、イギリスと日本両方に似た顔の古代人骨が出た。

 偶然にしては、出来過ぎ。

そうですね。

私が気になるのは、猫南瓜の話に河童と天狗が絡んでいそうに見えることですけどね。

 さらに、ウィル・オ・ザ・ウィスプやジャック・オ・ランタンも絡んでいそうよ。

想像以上に、猫南瓜は奥が深そうですね。

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出羽三山を考えてみる。

月読(つくよみの)尊が祀られる月山は、出羽三山の一つです。

 出羽三山と聞けば、三つの山があると思っている向きもあるようね。

月山は、その眺めからまたの名を臥牛山と呼びます。

出羽三山とは、臥した牛の北に向けて垂れた首を羽黒山、その背にあたる頂を特に月山、尻に至って太もも腹の間の陰所とみられるあたりを湯殿山といい、その三山を指すのです。

もっとも秘奥な奥の院とされる湯殿山のごときは、頂に近い大渓谷で山ではないのです。

 遠く望む山があるかに、思ってしまいがちね。

 ようするに、お尻を山にみたてたくらいのものでしょ。

月山を死者の行くあの世の山として、それらをそれぞれ弥陀三尊の座になぞらえたのです。

三山といっても、月山ただ一つの山の名称なのです。

 魂が入って、再び力を得て、復活する場と言うことね。

そうですね。

 ところで、山といえば女性神を祀る印象があるけど。

つくよみの尊といえば、月読のほか月夜見とも記す男性神ですよね。

 女性神の祠を祀る山もあるので、一貫性がないと思われても仕方ないでしょ。

牛は、古代インド人にとって、仏教世界を指し示すためにこの世に派遣された仏の使者、もしくは仏そのものと神聖視されていたのです。

牛に見立てられた月山の場合は、仏を象徴するとして男性神の祠があるのかも。

その一方で、山に祀られるのは女性神なので同じ陰に配される月の神の祠としたと見ても良いのでは。

 さらに、月は満ち欠けを繰り返す、滅びと再生の象徴でもありますね。

御仏の化身とされる牛の姿の月山は、魂を救ってこの世に返してくださる存在として崇拝された。

そこで、滅びと再生の象徴である月の神を祀る山とされた可能性はありえます。

 月読尊として祀られたことは、再生のときを管理する神でもあるのでしょうかね。

そうかも。

 ところで、ギゼーの三大ピラミッドで気になることがあるのよ。

 内部構造は、真ん中の大ピラミッドばかりが話題になりませんか。

 中に入れる盗掘穴が、ここにしかないからでしょうか。

ほかの二つも、考察する人はいますね。

 あまり、知られていないだけ。

でしょうね。

何が、気になるのですか。

 月山は、魂が入って、再び力を得て、復活する場と言うことね。

 三大ピラミッドにも、魂が入って、再び力を得て、復活する場と言う説があるでしょ。

オリオン座の三ツ星を意図して配されたとみる、三基一組説もあります。

 しかも、三という数字もあっている。

オリオン座は男性ですねえ。

でも、大ピラミッドについては左右対称の内部構造が指摘されます。
しかも、滅びと再生の場という議論もある。

母胎に見立てられている可能性は、考えて良いかも知れないですねえ。

 そうなると、外見の差にもかかわらず、三大ピラミッドと出羽三山の名がある月山、思想はそっくりとなりますよ。
 
魂が入って、再び力を得て、復活する場という説があるのは九州のトンカラリンもそう。
 
 トンカラリンの滅びと再生の場という説は、ピラミッドとの比較から出たでしょ。

そうですね。

 つまり、日本には東西に、ピラミッドと同じ思想で作られた滅びと再生の場があることになりませんか。

またしても、古代日本と古代エジプトは繋がってしまいますね。

 月山って、そんなに奥深いものだったんですか。

古代文明のつながりって、現代人の想像を超えるものがありますからねえ・・・。

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確率論と集合論って、どんな関係?

確率論と集合論って、どんな関係にあるか、考えたことありますか。

 関係が深いって話なら、聞いたことある。

 でも、どこから手をつけたら良いか、さっぱりわからない。

確率って、ようは、どれが実現性が高くって、どれが実現性が低いか、ってことでしょうね。

 確率の高さに、ランキング。

 確かにつけられますね。

あんたの成績だったら、いけるのはこの学校。

入れる可能性のある学校をリストアップして、ここから選べば間違いない。

 誰もがあこがれる学校が、ひとつでもあれば、やった!って思う。

 なかったら、がっくり。

そう、その人の実力と見合った入試レベルの学校を、並べるわけですよ。

 数ある学校の集合と、自分の実力の重なるところが、入れるお勧めのところ。

 やりたいことのために行きたい学校と、自分の実力のギャップが大きいほど、がっくりよね。

やりたいことの実現に近づくために、行きたい学校に入ろうとがんばれば成績は上がる。

 でも、とどかないで落第することだってある。

 そっちの人の方が、多いのでない。

だけど、夢に向かう道は、ひとつではない。

回り道かも知れないけど、あきらめずに探していけば、あるとき突然道が開けることだってあるのでしょうね。

 知らないうちに、気がつかないうちに、新たな可能性が開ける方に進んでいた。

 道を見失うこともある、繋がっていたこともある、それって集合で言えば重なっていたかどうか。

でも、負の連鎖に陥る道もあるのでしょうね。

一歩道を選び間違えると、堕落と破滅へのスパイラルでしょうね。

 成功と成長に結びつく確率の高い集合と、堕落と破滅に結びつく確率の高い集合。

新たな展望や、新たな方向が、見える出会いもある。

 一人一人の持つ可能性や、実力は小さい。

 だけど、手を繋ぎあえば、一人一人の持つ実力や可能性はどんどん高まっていく。

 これは、複数の集合の重なりあった姿ねえ。

 一人の代わりに、集団を持ってきても、結果は同じ。

世界中のみんなが、手と手を取り合って、もっと素敵な世界を作るために、小さな集合がどんどん集まれたなら。

 今はあきらめている、素晴らしい明日への展望が開ける可能性が高まるでしょうねえ。

求めよ、さらば与えられん。
尋ねよ、さらば見出さん。
門を叩け、さらば開かれん。
すべて求むる者は得、尋ねる者は見いだし、門をたたく者は開かれるなり。

マタイによる福音書の7章7節から8節にある言葉に、今回も行き着いてしまったようですねえ。

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進化論はどこへ向かう?

宇宙の創成、地球の誕生、化学物質の進化、生命の誕生と進化を経て、自立した知的生命体として自然を認識できるのです。

これが、現在の公式見解ですね。

 進化というけど、非ダーウィンの立場でいう進化と、ダーウィンの立場で言う進化と、ありますねえ。

研究者でダーウインの主張通りに、進化論を展開している人は最早少数でしょうね。

ダーウイン派は、今日ではネオ・ダーウィン派を指すといって良いでしょうね。

非ダーウインの人も含めて、ダーウィンの論理を修正する必要性は大半の人が感じているはずですよ。

 そうですか。

ええ。

化学反応に伴い、反応の時間的振動や空間的パターンがひとりでに形成されるそうです。

 これが、化学反応についての最新の思想ですね。

現在、科学者は、生命現象に現れる形態形成すなわち時間・空間的な構造の発生や自己組織化現象を、自然科学の法則に反する特殊なものとはみなしていないです。

生命が負のエントロピーを消費する、エントロピー増大の法則に従わないシステムであるのは特殊なことではないのです。

チューリング(A.Turing)は、現代の計算機科学の基礎とも言える“チューリング・マシン”を考案した人として知られています。
そのチューリングは、1952年に“形態形成の化学的基礎”と題する論文を出しています。
論文の中で、周期的な空間構造が自発的に発生する可能性を、ヒドラの形態形成のモデルとして示しているといいます。

 自己組織化する量子宇宙という、最新研究と対応するでしょうね。

まさに、フラクタルでしょうね。

 これは、大きなパラダイムシフトですね。

ええ、考え方の大きな転換ですね。

シュレディンガーは1944年の著書“生命とは何か”で、生命が負のエントロピーを消費する、エントロピー増大の法則に従わない特殊なシステムであることを強調しているそうです。

 “生命とは何か”は、岡、鎮目訳で、岩波新書から1951年に日本でも出ましたね。

 シュレディンガーは、量子力学で物質波の波動方程式を提案した人でしょ。

そうです。

シュレディンガーが議論した、負のエントロピーは開放系で部分的に実現可能です。

 負のエントロピーでは混沌とした乱れた系から、秩序が形成されるのでしょ。

平衡系の熱力学が、エントロピー最大の状態への“死の行進”であるのとは大きく異なります。

 正のエントロピーでは秩序の形成された系から、混沌とした乱れに移行するのでしょ。

そうですね。

それに対して、非平衡の開放系には、生命が誕生できるのです。

 これら全てのダイナミックスを支えているのは、壮大なエネルギー源としての太陽の存在ですか。

最新科学では、そうですね。

 クリスチャンは、義の太陽であるイエスが御父の導きによってこの秩序をお作りになったというでしょうねえ。

 壮大なエネルギー源としての太陽、すなわち、神の御声がこれら全てのダイナミックスを支えていると。

太陽の栄光、すなわち、御父の御膝元であると。

 そうかも。

霊魂や魂の不滅や輪廻を解く宗教的、神秘的な不可知の存在としての生命像から、物理・化学あるいは情報という科学の言葉による物理システムとしての生命像への転換です。

 現代は生命が単なる物質であるとする誤解が、浸透しすぎているのかも知れませんね。

マルクスやエンゲルスは、19世紀に生命は蛋白質の存在形式だと指摘していました。

 やっと、時代が二人に追いついてきたのですね。
 アミノ酸の振る舞いで、生命現象が解けるというのが最新研究の方向でしょ。

そうですねえ。
まさに、生命現象の舞台が蛋白質ですよ。

 あなたは、唯物弁証法は古代思想であるカッバーラやタントラや陰陽道の時代から、その正しさは神に由来するとされてきたと言ってるでしょ。

神、すなわち、世界を作り動かす根源的力の論理の反映が、カッバーラやタントラや陰陽道など古来から続く唯物弁証法ですよ。

 神は、神秘的な不可知の存在ではない。

神といえども、物理的世界に基礎をおかない限り、現実には手も足も出ません。

唯物弁証法の正しさは、神が神秘的な不可知の存在などではなく、世界を作り動かす根源的力であり物理的存在の仲間であることの証明でもあるでしょうね。
 
 認識は、限りなく神の領域に迫り得る。

気の遠くなるほど、長い期間は必要ですが。

 原理的には、神の段階まで知恵や知識は到達可能。

ええ。
それが、唯物弁証法の見解です。

 おっと、話が脱線しましたね。

元に戻しましょ。

古代から正しいとされてきた唯物弁証法の主張は、認められるべくして認められたわけですよ。

 さらに、これらの全過程に負のエントロピー、つまり、混沌とした乱れた系から、秩序が形成されるシステムが働く。

人類の出現に至る壮大なドラマの中で、輪廻や永遠の生命の本質とも言える遺伝子のしたたかな戦略と造形の芸術性の荘厳さは、生命への畏敬を喚起させるに十分のはずです。

チューリングが生物の形態形成のモデルとして提案した周期的な空間構造が自発的に発生するというパターンは、最近、化学反応系や生体系で確認されつつあるといえるでしょう。

周期的な空間構造が自発的に発生するという方向は、世界の階層性を研究するフラクタル理論と一致し、唯物弁証法からみても基本的に支持できるものです。

 そうですか。

ロスアラモス国立研究所の物理学者であったアンソニー・ペラットは、集合したプラズマが合体して銀河と同じ螺旋(らせん) 構造を形成するのを発見したといいます。

 まさに、リマ=デ=ファリアの説く「選択なしの進化論=自律進化説」の、素粒子、鉱物、生命体からヒト社会に至るあらゆる「形態と機能」は、素粒子など基本的な水準の「形態と機能」に基礎があるという主張に繋がりますね。

 そういえば宇宙自体にも、壮大なDNAのような螺旋構造が見つかったという報告もありましたね。

ええ。

 そうなると、進化論は展開論など別の看板を架け替える必要が出ませんか。

ありえますねえ。

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これも、猫っかぶり?

なんと、東京国立博物館収蔵品の中にとんでもない代物の情報を得ました。
http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?processId=00&ref=&Q1=&Q2=&Q3=&Q4=14&Q5=&F1=&F2=&pageId=E15&colid=J8008

こんな説明がついています。

山梨県御坂町上黒駒出土
高25.4
縄文時代(中期)

■解説
奇怪な顔と形をした半身の土偶。目尻が鋭く吊り上がり,人の顔というより獣面に近い。
この顔の表現は中部高地や関東地方西部の中期の土器の人面把手に共通する。
胸に当てられた左手の三本指の表現もこの時期の土器につけられる人体および動物装飾にみられる。

この土偶に、猫面土偶という風評がたっているのです。

もし、風評どおり猫面土偶なら、えらいことになるのです。

古代アメリカと日本に、遺伝子の共有が指摘されています。

そして、古代アメリカからどう見たって猫面の祭司を表した出土品が複数出ているのです。

つまり、日本にも猫面の祭司がいた可能性を疑る必要があるかも知れないのです。

 さらにいえば、古代日本と古代エジプトは太陽神を中心に動物神を含む八百万の神を祀ってきたでしょ。

 三神構造まで、共有。

 日本に、しかも縄文時代に、猫を連想できる獣面土偶がある。

 偶然とは、思えない。

気になるのはバステトは女性像、この像はそれを特定できるかどうかです。

 でも、動物を除けば女性像が圧倒的に多いでしょ。
 
その動物土偶も、猪のような神に関係した動物ですね。

たとえば猪は、女神とされることが多い山の神の使いといわれます。

猪は、蛇と並んで重視されます。

五行の思想から、太陰=猪という思想的繋がりを民俗学者吉野裕子は指摘しました。
そして、太陰=山猪=山姥=大奥方という構図に到るのです。

 多くの土偶は女性を表すとみなせるため、土偶にはハイヌヴェレ神話と関連つける説も出た。

 この獣面土偶の撫で肩に強調された腰のくびれ、どう見たって腰に目がいく形でしょ。

 バステトは豊穣を司る女神、この獣面土偶も多くの土偶のように豊穣祈願を込めて作られ、埋められたならバステトこそぴったりでしょう。

 獣面土偶、別の面から見たら蛇を連想できる写真もありますよ。

そして、蛇も古代エジプトでも崇拝された生き物ですねえ。

 そして、猫と蛇は印象の重なる部分が多い。

魔女の傍にいる猫を、魔女が授かった蛇神の子として議論を展開しましたねえ。

 日本の神社でも、神の使いとして蛇を扱うことは多いでしょ。

今の神社建築は、秦氏がかかわって今の形になったのでしたね。

でも、それまでの信仰を踏まえて造形したから、みんなに受け入れられたはずですねえ。

 でしょ。

 その神社の構造は、古代エジプトの神殿にそっくり。

 それまでの日本の信仰に、古代エジプトとの類似をみたからだとしたら、どう。

だから、大陸の建築技術を持込んだ秦氏は、私たちの知っているような神社を建てたのでしょうか。

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