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揚子江と楊貴妃はかんけいあるか?

長江(ちょうこう)の中国語拼音字母はCháng Jiāng、別名チャン川(Chang River)です。

 全長は6,300kmで、中華人民共和国およびアジアで最長、世界でも第3位の長さよね。

その流域には成都、武漢、重慶などの重要工業都市、上海、南京などの商業都市を含む中国の19の省や市、自治区があるのです。

全流域の人口は、4億5000万にも達しているのです。

 古くから水上交易の盛んだった華中でも、中心的な交通路として利用されてきたのでしょ。

長江は青海省のチベット高原を水源地域とし、中国大陸の華中地域を流れ東シナ海へと注ぐ川です。

 長江と言えば、楊貴妃が生まれた蜀が流域にあったでしょ。

秦で前306年から前251のあいだ在位した昭襄王は、李冰(りひょう)を蜀守として岷江上流の都江堰(とこうえん)の治水灌漑事業に努めたのです。
前漢の高祖劉邦も、漢王としてこの地を根拠地に天下を治めたのです。

しかし一方では、劉備は諸葛亮の提言を聞き入れてここに221年から263年にかけて天下を3分する蜀漢を築いたのです。

華北が混乱する五胡十六国時代には、氐(テイ)族の成漢がたったのです。

 304年から347年の事ね。

唐末の混乱に続く五代十国の時代にも、907年から925年にかけて前蜀、934年から965年にかけて後蜀が、中原との交通を遮断して比較的安定した地方政権を樹立したのです。

長江中流の荊楚は、春秋・戦国時代には前689年から前278年の間営まれた楚の都郢(えい)を中心として、独自の文化が栄えた土地です。

上流の巴蜀は現在の四川省、中流の荊楚は現在の湖北・湖南省、下流の江南は現在の安徽・江蘇省に当たるのです。
巴蜀、荊楚、江南の3地域を横に結びつけ、各地域相互間の交流の役割を果たしてきたのが長江です。

 楊(よう)というから、下流の揚子江と関係あるかと思ってた。

 蜀があったのは、長江の上流だったのね。

揚子江の名は、揚州に由来するのです。

揚州市(ようしゅうし)は、中華人民共和国江蘇省に位置する地級市です。

 地級市(ちきゅうし)は、中華人民共和国の地方行政単位でしょ。
 地区、自治州、盟とともに二級行政単位を構成しているのよね。

 地方によっては「区級市」と呼ぶこともある、省クラスの行政単位と県クラスの行政単位の中間にある地区クラスの行政単位よね。

揚州は、本来「楊州」と書かれた漢代に置かれた13州の一つだったのです。
唐代に、表記を「揚州」と改められたのです。

漢字の偏としての「木」と「扌」は行書ではほとんど区別がつかず、よく混同されたのです。
「楊」と「揚」の両方が、用いられた時代も長いそうですよ。

 え、じゃあ、揚子江と楊貴妃は関係あるかもってこと。

さあ、どうでしょうね。
 
「揚」の字が現れるものとして古いものには『禹貢』という書や、中国最古の類語辞書ともいわれる漢代の『爾雅』などがあるのです。

「揚」の字に統一されたのは、唐代のことです。
唐代の途中で、「兗州」や「邗州」の名に改められた時期があるが、ほどなくして「揚州」に戻っているのです。

 じゃあ、楊貴妃と関係があるのでしょうか。

楊貴妃を生んだ一族となら、関係ありそうですね。

揚州は、江水とも呼ばれる揚子江を中心に、北は淮水から南は南嶺山脈までの地域のことです。
現在の江蘇省全体よりも広く、江南、つまり揚子江の南部の広大な地域をも含んでいたです。
魏晋南北朝においては、全国一の重要な地位を占める地域だったです。

楊州は北に徐州、豫州と接し、西は荊州、南は交州に接していたのです。

 楊州は三国時代、呉の孫策・孫権によって支配された土地でもあるのね。

楊州は南部が山岳地帯であるために、人も物資も北部に集中したのです。
このため、三国時代の呉では戦争が相次いで人口不足に陥り、兵力が減少して国が滅亡する一因を成したのです。

しかし楊州は中国南部の要衝地帯であり、晋滅亡後に建国された東晋は、楊州を本拠地としているのです。

 長江は日本では、最下流部の異称である「揚子江」の名で良く知られますね。

上海市の東シナ海河口から江西省湖口県までが、揚子江で知られる下流にあたるのです。

江西省湖口県から宜昌までが中流で、荊江の名があるのです。

湖北省宜昌市からチベット高原、四川盆地、三峡を経て青海省のタンラ山脈に至るまでが長江上流です。
最上流の通天河、四川西部の金沙江、四川東部の川江からなるのです。

上流の巳蜀は、長江とそこに注ぎ込む岷江(びんこう)、沱江・嘉陵江の沖積扇状地が構成する四川盆地です。
四方を山で囲まれた肥沃な地として、古来四塞・天府の国と称されているのです。

北方の褒斜道(ほうやどう)・故道・子午道などの山道によって、渭水盆地の関中と結ばれたのです。

東は三峽の名で知られる、瞿塘峽・巫峽・西陵峽の長江の難所によって荊楚に連なるのです。

 三峡といえば、ダムで広い範囲が水没しますね。

いったんそうした入蜀路が閉されてしまえば、巴蜀は別天地となるのです。

 それはともかく、長江文明って今の四川省付近に始まり浙江省あたりまで範囲を広げていったと見られているでしょ。

長江文明は、中国長江流域で起こった古代文明の総称ですよね。

 黄河文明と共に、中国文明の代表とされますね。

文明の時期として、紀元前14000年ごろから紀元前1000年頃までが範囲に入るのです。

 稲作などは、長江文明から海を渡って日本や朝鮮に伝わったという説もあるでしょ。

あるのですね。

三星堆遺跡が見つかった四川省付近が、楊貴妃の生まれた蜀のあった土地です。

河姆渡遺跡が見つかった浙江省のあたりは、揚子江に近い土地です。

ともに、長江文明としてなんらかの関連があるとして調べられているのです。

 つまり、揚子江は楊貴妃を生んだ一族にちなんでついた地名である可能性は否定できないでしょ。

そうですねえ。

 揚州は日本にとてもゆかりの深い都市ですよね。
 鑑真和上の生まれたところでしょ。

 大明寺というお寺は奈良の唐招提寺そっくりなのね。

 日本から友好の証しとして、日本最古の肖像彫刻国宝鑑真像を模した鑑真像を贈ったのね。

 同じ形のお寺に、同じ形の塑像が東シナ海を隔てて祀られているのですね。

 また、水路を利用して商売が盛んとなり、気候風土と相まってとても栄えた都市だったんですよね。

 あの有名な満漢全席も揚州で生まれたものだしね。
 
 文人では揚州八怪を輩出しているし、揚州は文化の中心だったんですよ。

 今回の話と、関係なかったかしら。

いえいえ、どうも江南って古くから日本と関わりが強い地域なようですね。

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