ムハンマドとイエスは矛盾するか。
預言者ムハンマドは、姦通の石打刑、窃盗の断手刑を執行したと指摘する人がいるのです。
イエスは、娼婦とされる女性が石を投げられそうなとき助けたでしょ。
イエスは一方で、「罪のないものが投げろ」という、言葉も言っているのです。
ムハンマドとイエスは、矛盾はしていない。
ムハンマドは、アッラーが命じられるままに投げたのでしょうね。
それは、彼がアッラーの預言者だったから。
じゃあ、イエスも石を投げた可能性はあった。
この話しよく例に出されるけど、主がこの女は十分に悔いているから救うに値すると、イエスに命じたのでしょうね。
そして、周囲の人々の素行には問題が多いことも、主は見通しておられた。
そうでしょうね。
イスラームは、多様な人間のクドラに応じて、様々な形で発現すると指摘する人もいるのですよ。
クドラとは、意思と訳される言葉です。
聖書には、自分が正しいと思うように振舞うよう求める箇所があるのです。
それが神の目に適うかどうかの判断は、主なる神がなさるという注釈がつくのですけどね。
おそらく、そのことを言っていると思われる。
ええ。
イスラム社会の刑で、いろいろ批判されることはあるでしょ。
だが、一番問題にすべきは、聖書やコーランの教えをきちんと踏まえて裁いたか、でしょうね。
啓典にあるからといって、杓子定規に実行すれば、「主よ主よとこれ見よがしに言う」だけの者として主なる神に「あなた方を知らぬ」と退けられる。
そういうことでしょうね。
イスラム社会は、預言者の教えを受けたにもかかわらず重罪を犯した弱い信者をも内に抱える包括社会です。
これも、聖書の教えを踏まえている。
意図せずに罪を犯してしまった場合、逃れの町に行けば良いとあるだけではないのですね。
過ちを犯した以上に、神の導きを求めず悔い改めないことのほうが、より神の前では大きな罪ってことね。
救い主で知られるイエスだけど、最後の審判では容赦ない裁き人として再臨するのです。
そこでうろたえないでいられる、生き方って難しいけど、試みていくしかないですね。
| 固定リンク
「聖書・コーラン」カテゴリの記事
- 日本語と日本人は何処に遡れるのか。(2019.04.06)
- やはり日本の神社はただものではない?!(2019.02.23)
- 「死にたい」と聞いたならあなたならどうする?(2019.01.18)
- モーセとイエス。(2019.01.06)
- 山岳信仰から見えてくる日本と古代イスラエルの繋がり。(2018.12.13)
コメント