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2010年8月

「ひょんな」の語源を考えてみました。

「ひょんな」という言葉があるのです。

こんな意味で使うのです。

思いがけないさま。

意外な。

妙な。

奇妙な。

とんでもない。

予期に反して起こった、不都合なことや異様なことである場合に良く使われるのです。 

そこから、「凶」の唐宋音の「ひょう」からとする説があるのです。

また、「ひょん」は元々はヤドリギを指す「ホヨ」や「ヒョウ」が元だとする説もあるのです。

 それで、その不思議さがやがて「意外な」「妙な」「突飛な」という意味でも使われたとなるわけね。

ほかにも植物由来とする説があるけれど、複数考えられながら定説がない場合、どれも決め手にかけるということになるのです。

 つまり、まだまだ、新説を立てる余地はあるのね。

似た音の言葉に、「ひょっと」があるのです。

こんな意味で使うのです。

不意に。

突然に。

万一。

ひょっとして。

ひょっとすると。

物が突き出るさま。

にゅっと。

その事態が、必ずしも意図したものでないことを表わす言葉であるのです。

類語に、思い掛けず、とか、偶然に、不意に、うっかり、もしも、などがあるのです。

「ひょっと」は、こんな使い方があるのです。

もしかしたら、とか、ひょっとすると、などをさす「ひょっとしたら」。

もしかして、とか、万が一にも、などをさす「ひょっとして」。

「ひょっと」には、 『日本国語大辞典』に出ている『大言海』の語源説によると、「ふと」の変化したと言う説が出ているそうです。

「ふと」という語は、『竹取物語』や『枕草子』などの平安時代の文献にも用例が見られるようです。

「ひょっと」は近世からしか見られないことから、江戸時代の初め頃に「ふと」から派生したと見られるといいます。

「ふと」は、こういう意味です。

はっきりした理由や意識もないままに事が起こるさま。

思いがけず。

不意に。

ふっと。

素早く容易に行われるさま。

すぐに。

即座に。

動作の敏速なさま。

つっと。

確かに、「ふと」と「ひょっと」は、意味や用法は似通っています。

そして、「ひょんな」と「ひょっと」は、音と意味が似通っているのです。

 差があるとしたら、予想に反したら「ひょんな」で、意図に反したら「ひょっと」ということくらい。

つまり、突然事態が急展開して、それまでの流れのひっくり返ったことを指しているのは共通なのです。

 「ひょん」や「ひょっ」の指している事柄は、同じであるといえる可能性はあるのね。

「ひょんな」は事柄や関係をさし、「ひょっと」は性質や状態をさす、そう見えます。

つまり、形容詞的に使うか、副詞的に使うか、ここが、「ひょんな」と「ひょっと」の境目ではないのでしょうか。

 事柄や関係、性質や状態、これらが突然ひっくり返ったように急展開した場合に、「ひょんな」とか「ひょっと」を使う。

そういうことのようですね。

突然ひっくり返るさまとしたら、裏返るってことでしょう。

 表と思っていたら、突然、裏返る。

つまり、表裏(おもてうら)が、いきなり反対になるさまでしょう。

 表(ひょう)が、いきなり、裏(り)になる。

表裏(ひょうり)が、「ひょん」とか「ひょっ」に転化したのかも、知れないです。

 表裏(ひょうり)は、正面に向けた面を、表から裏へと返るさまを言う言葉だった。

そういうことのようですね。

 「表裏(ひょうり)な」から、「ひょんな」に転化した。

 「表裏(ひょうり)と」から、「ひょっと」に転化した。

 そういえば、昔の日本語は、ワ行を母音と見て発音したほうが読みやすいよね。

そういうのを、二重母音というのです。

昔の日本語は、U音+母音の二重母音だったようですね。

時代が下ると、だんだんと今のような一重の母音に近づいてくるのです。

 そして、昔の日本語になかった拗音が、生まれてきた。

おそらく、そうでしょう。

 拗音は、仮名から分類するとイ段音と重複する。

ええ、発音の明瞭化とともに、拗音は成立したようです。

 ただ、「ふと」の「ふ」は、気になるのね。

「向かふ(むかふ)」の、「ふ」と同じかも知れないですね。

 この「ふ」には、表面の意味も込められているのかしら。

 つまり、「ふと」は表をひっくり返すさまを表わす。

 「と」は、「扉(とびら)」の「と」。

その可能性は、ありそうですね。

 「服(ふく)」は、曲がりながら体の表面を覆うものって意味でしょうか。

その解釈は、面白いですね。

 そうそう、発音の変化の話でしたっけ。

いいですよ。

脱線は好きですから。

五十音図が、なかなか安定しなかった背景に発音の揺れがあったのです。

「ひょんな」と「ひょっと」への転化の裏には、日本語の発音の変化があったと、見てもいいのではないでしょうか。

 「ひょんな」の方が、「ひょっと」より古く見えるけど。

溌音(はつおん)の方が、成立は新しいからでしょうね。

陽である表から陰である裏へ急展開するのは、不都合なことや異様なことであり、必ずしも意図したものでない、そういう気持ちがこれらの言葉に込められているのかも。

 だから、「ひょんなことにならなければ良いけど」とか、「こいつはひょっとするとひょっとするぞ」などは、とんでもない展開を予想できるときに使う。

そういうことではないでしょうか。

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「たちわかれ」の歌で、どうして猫は帰ると言われるか考えてみる。

「たちわかれいなばの山の峰に生ふるまつとしきかばいま帰りこむ」

この歌は、猫が帰るおまじないと言われているでしょ。

猫の食器を洗ってこの歌の上の句を書くとか上の句を柱に貼っておき、猫が帰ると下の句を貼るなど、またはこの歌を3回唱えると猫が帰ると信じられていたそうです。

 猫がいなくなってしまったら、ためしてみてはいかがでしょうか?

因幡山に往なばを、松に待つを、掛けているのです。

皆があるいはおまえが待っていてくれると風の便りにきいたらさっそく帰ってこよう

こういう意味で歌われていると、解釈されているのです。

この歌、百人一首十六首目の中納言行平の作です。

百人秀歌では九首目にあるのです。

 松は、待つにかけられているだけではない気がするの。

 風の姿を映すかのような枝ぶりは、まさに、風そのものの化身に見えます。

松そのものが、待つ人と待たれる人をつなぐ風の便りそのもの、かもしれないですね。

 この歌は確かに、行方不明の猫を思うママやパパの気持ちにぴったりですよね。

 待っていてくれると風の便りに聞いたらさっそく帰ってこようって、思って欲しいと願う気持ち。

特に、この歌を3回唱えると猫が帰ると信じられていたという、3回は意味深いですね。

 このいろんな風習に出て来る3は、やっぱり絶対三神でしょうか。

日本神話の、造化三神かもしれないです。

 古代エジプトにも、三神がいっぱいでしょ。

 太陽神を中心に、動物神を含む八百万の神でしょ。

 日本にそっくり。

そういえば、古代エジプトで太陽神は猫神、日本の天皇は太陽神の子孫とされ隠語が猫、これ面白い一致ですね。

 猫は、イエスのメタファーでもあるでしょ。

太陽神ラーから、アッラーになって、アッラーとイエスは同一視され、ラーは猫神。

 だったらイエスも、猫神。

「たちわかれ」は、上巳であるかも知れないですね。

 上巳は、三月の雛祭の原型でしょ。

三月の上巳の節句は、形代で体を撫でて、身のけがれや禍いを身代わりの人形に移するのです。

形代に移し代わらせて、川や海に流して幼子の無事な成長を祈ったのです。

形代は、身代わり信仰の現われで、人間の身代わりに用いられるものです。

でも、行事としての上巳は、神人共食(しんじんきょうしょく)の儀式でもあるのです。

 自然の中で神に会い、自然の中で神と別れ、自然の中で神を待つ。

今、別れるあなただけれど、上巳で別れた神とまた会えるように、いつの日か再び、会えますように。

そういう思いが込められた、歌かも。

 神に会い、神と別れ、神を待つ。

 ゴルゴダの丘で、イエスと別れるまでの流れみたいね。

そういえば、イエスはしきりに自らを「人の子」といっているのです。

 上巳で別れる神、上巳は神人共食ということは、最後の晩餐に似てる。

 しかも、穢れを身代わりになって背負ってくださったお方として、イエスは有名。

流し雛の人形(ひとがた)に、似ているのです、イエスって。

「山の峰におふるまつ」は、生命の樹であるとともに、松は裸子植物なので目立たないけど、花は咲くのです。

 樹木とりわけ松のような枝振りの木は、陰陽では風や息や蛇になぞらえられますね。

 神の息にして、蛇に例えられる存在といえばイエス。

花のもとで神を待つなら、‘お雛様御座れ’の上巳は、“オハナミ”そのものになるのです。

この花は当然、桃ですね。

 桃の花の雄しべと雌しべは、陰陽の大極神=太陽神をお招きする行事だったりして。
 
 ここで招きする太陽神は、イエスだと思える。

 でも、今イエスは天にお帰りになっていらっしゃるけど。

桃は、桃源郷かも知れないですよ。

 桃源郷には、エデンの園と、やがて来る神の国が、重ねあわされているとか。

桃は、生命力の象徴ではあるのですけどねえ。

 生命力の象徴の樹、生命の樹だったりしてね。

 生命の樹があった里とくれば、エデンの園でしょ。

じゃあ、ここで再会を待つ人がなぞらえられているのは、上巳で別れと再会をする神であるとともに、イエスでしょうかね。

イエスの再臨を待つ、気持ちを歌った歌でもある。

 そして、イエスを丸ごとなぞらえることができる猫。

つまり、猫待ちの歌になるのでしょうかね。

 と、いうことは、本気で唱えたら、ご利益あるのでしょうか。

どうでしょうね。

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神社と鹿。

神社にはよく、鹿がいますよね。

 鹿せんべいも、売ってるところ多いでしょ。

角の生え代わりがある鹿は、脱皮する蛇同様滅びと再生の象徴として飼われているのです。

 年末年始の行事に鹿がらみのがあったりすると、説得力ありますけどねえ。

目立つ形であれば、もっと早くにみんなが気付いたでしょうね。

そうでないのは、陰陽の理が、見落とされてきたからです。

日本神道の最高神アマテラスは、岩戸隠れのエピソードをお持ちです。

 お隠れは、かなり高貴な方のお亡くなりになられた時にのみ使われる言葉ね。

アマテラスの岩戸隠れをお亡くなりと見て、滅びと再生の説話だったのです。

ちなみに、アメノウズメは“陰処(hoto)”を顕にしていますよね。

“ホト”は“火処”という意味の“ホト”に通じるのです。

岩戸に隠れられてから“火処”を経て、岩戸をお出になる訳です。

お隠れ、つまり、お亡くなりで、陰の極みです。

陰といえば、天体で言えば月。

 月は反射で光っているのであって、自ら光ってない。

“火処”を経て、自ら光る太陽神と再びなられる。

そして岩戸をお出でになる、陽の極みです。

陰極まりて陽となる、陰陽の理そのものです。

 ただ、この岩戸がいろいろな意味でぷんぷん匂う。

 禰宜も、何故に“ネギ(negi)”なのかですよね。

岩から生まれる太陽神であるミトラの祭司は“マギ(magi)”、岩戸で復活する太陽神の祭司は“ネギ(negi)”、偶然としたら似すぎですね。

神社にしばしば鹿や蛇が絡むのは、日没と日の出、冬至、日食などの、太陽神の滅びと復活が暗示されてるからでしょう。

 入り口近くのお清めの水も、全身を清める禊の簡略形ね。

禊は、蛇の脱皮、そして滅びと再生を表し、陰陽の生旺墓の繰り返しの追体験です。

 そこに、鹿の角も、陰陽の生旺墓の繰り返しの追体験。

そういうことでしょうね。

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神輿とアーク?

神輿の重さは、聞いてはいけないです。

神が乗るので、量ってはいけないです。

量ることは、神を評価することと考えられたからです。

 神を評価してはいけない、これは、神を試みてはいけないとする、聖書の教えに通じる。

千貫神輿というが、実際の重さのことではないです。

重要さをあらわすといいます。

 なら、なぜ、万や億ではないのかしら。

万や億、兆は多さの表現にはなっても、なぜか、価値の表現にはならないです。

その点、千は「値千金」のように、価値の表現に用いられます。

 千も、聖書に千年王国などの形で登場する。

そうでなくてさえ、神輿は大きさといい、上に乗る鳳凰といい、聖書のアークに比較されます。

 担がれることも、アークと同じ。

さらに、本来の担ぎ棒はアークと同じ二本です。

担ぎ手が、胸元がはだけるほど激しく担ぎます。

 これも、アークを担いだダビデの姿が連想される。

おまけに、聖書にあるアークの川渡同様、水の中に入っていく場合もあります。

改めて、神輿とアークは、形ばかりか、風習などに込められた思想まで似ているのに驚かされます。

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ピラミッドと猫?

猫は、一匹で、あるいは数匹で、ピラミッド型を現すことがあるでしょ。

また、香箱座りといって、体を箱型にする座り方をすることがありますね。

 この二つが、同時に見られる構造物があるでしょ。

ギゼーのピラミッド群、ですね。

 そういえば、古代エジプトでは、太陽神も猫でした。

こうやって見ると、ギゼーには天に太陽神の猫、地にはピラミッドとスフインクスの猫、と言う構図になるのでは。

 さらに、ファラオは地上の太陽神ラーの子孫とされた。

 太陽神ラーは、猫神だから、ファラオも猫の化身ねえ。

時代が下るとピラミッドは作られなくなり、神殿が現れるようになったのですね。

 でも、オベリスクの先端として、ピラミッドは残った。

つまり、ピラミッド=スフィンクス=猫=オベリスクの構図なのでしょうか。

 スフィンクスやピラミッドが、神殿に姿を変えたと見ることも出来ますね。

 スフィンクスやピラミッドが、内部に入っていけないのに対し、神殿は入れる。

 神々の空間で人は神に会える、それが神殿だとしたら。

ピラミッド=スフィンクス=猫=オベリスク=神殿の構図が、見えてきそうですね。

 古代エジプトは、なぜ前庭を神殿に必要としたかよね。

 神殿前に空間が欲しいだけなら、広場でも良い。

それをなぜ、囲われた空間か。

香箱を組んだ猫の姿である、スフィンクスを意識していたのだとしたら。

 神殿の入り口に立っていたオベリスク、神殿はピラミッドやスフィンクスが姿を変えた猫神の象徴だった。

神殿に祀られていた神像は、猫神の化身だったのでしょうかね。

 猫も、魔女に結び付けられるくらいだから、さまざまに化けてもおかしくない。

そういえば、古代エジプトも日本も、太陽神を中心とした三神構造の動物を含む多神教ですね。

 古代エジプトの神殿と、日本の神社は、構造が似ている。

古代エジプトは猫(neko)が太陽神で、日本は太陽神に使えるのが禰子(neko)ですからね。

 じゃ、日本の神社も香箱猫かしら。

さあ。

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四国にも?イタリアと日本の味な繋がり。

アツアツのうどんを、生卵と醤油でかき混ぜるだけの食べ方を釜玉うどんというのです。

 釜玉の玉は、もちろん、卵でしょ。

釜は、釜揚げという食べ方のことです。

麺を茹でた釜そのままから掬い上げたものを食べるため「釜揚げ」というのです。

少し固まった卵がまた美味しい! そうです。

作り方はこうです。

うどんを茹で、温めた器に入れる。

うどんに生卵を割り入れ、刻みネギを入れてすばやくかき混ぜる。

だし醤油を回しかける。

人によっては、卵を割り入れた器に茹でたうどんを入れるようです。

 このあたりは、好みでしょうね。

実に、混ぜるものはバリエーションに富んでいるのです。

この釜玉うどん、セルフサービスのうどん屋に常連が卵を持ち込んだのが始まりとか。

釜揚げは、汁の絡みやすい食べ方なので、こういうやり方もあるわけ。

いっぽう、水で締めた麺を湯を張った桶に入れたものは「湯だめ」というのです。

湯だめは、麺が締まったしこしこ感が強くなるのです。

 一見して釜揚げうどんと同じだけど、食べればわかる人にはわかる。

ええ、本来の釜揚げうどんは、水で締めていないのでうどん特有のもちもちとした歯ごたえが楽しめる。

 一見して釜揚げうどんと同じであるため、湯だめを釜揚げと称して出す店もあるとか。

時間が経つと小麦粉のアルファ化が進行して食味が低下するため、タイミングが味の決め手となるから作り置きができないのです。

 うどんのもちもち感は、パスタのアルデンテに通じる食感ね。

ええ。

釜玉うどんにそっくりな食べ方が、パスタにあるのです。

 カルボナーラですね。

カルボナーラ(Carbonara) とは、炭焼職人のことです。

Carbonara(炭焼人)が仕事の合間にパスタを作ったら、手に付いた炭の粉が落ちてこんな風になるのではないかという感じの、黒コショウをからませたパスタなのです。

 元々は20世紀前半に考案されたローマの料理で、イタリアで広まったのは第二次世界大戦後とか。

第二次世界大戦の後アメリカ軍が進駐し、戦災援助として卵が大量に配られるようになり、卵料理がイタリアに浸透してからのことですと。

「炭焼のパスタ」といわれる、パスタソースの1種です。

チーズ、黒コショウ、塩漬けの豚肉、鶏卵を用いるのです。

釜玉うどんのバラエティのなかにも、肉入りがあったりするのです。

 添えられた柚子胡椒とダシ醤油を交ぜて、食べたなんて話もありますね。

これにチーズが入れば、和製カルボナーラって感じですね。

実際、オリーブオイルと粉チーズをかけて食べる人もいますよね。

 これまでも、ピザとお好み焼き、パスタと饂飩などと、イタリアと日本を比べたけど多くは中国地方ね。

東日本でも、能登の食材はイタリアンに使えるなんて話もありましたね。

 今度は四国…。

日本は、イタリア風食品や食材が結構あるようですね。

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コーランしか読もうとしない、現在のムスリムの立場は、本当にそれで良いか。

ムスリムは、旧約聖書を読まないです。

ムスリムは、新約聖書も読まないです。

 聖典は、コーランとも発音されるクルアーンのみというわけね。

これが、現在のイスラームにとっては当然視されているようです。

 一般ムスリムが読むのは、もっぱらクルアーンというわけ。

今のイスラム教徒にとって、旧約聖書の内容は、コーランに書かれた事が全てであり、旧約聖書は必要としないとされています。

これは、新約聖書も同じ事です。

ムハンマド自身は、「旧約聖書は完全無欠」とコーランで語っているのにですよ。

さらに、「聖書も読め」と勧めているのです。

ムハンマド自身は、コーランは「聖書が正しいことを確証するためにある」とまで断言しているのです。

しかし一方で、コーランは、旧約聖書の記述と大きな食い違いをみせているように見えるのも確かなのです。

 でも、聖書の内容は、新約・旧約ともにクルアーンとは原理上矛盾しないはずでしょ。

最後の預言者であるムハンマドに下されたコーランが「確証」するべき「聖書」とは、現存するユダヤ教徒・キリスト教徒の聖書ではなく、「本来の」聖書であるとするのです。

 「本来の」聖書、ですか。

イスラムは、いまある旧約聖書も新約聖書も不完全なもの、歪みが入ったものと見ているようです。

イスラーム側では、記述の食い違いという矛盾を解決する手段として、「ユダヤ教徒やキリスト教徒による聖書の改竄・歪曲」という主張を編み出したのですよ。

すなわち、当時から現代に至るまで現実にユダヤ教徒・キリスト教徒の間で使われている聖書は、歪曲・改竄が繰り返されたことで啓示された本来の内容から離れたと主張するのです。

 カッバーラを知らないと本来の聖書はわからないと言う人々と、歪曲・改竄が繰り返されたとする点では、イスラムは意見が合うのね。

イスラムは、歪曲・改竄が繰り返されたことでコーランとの食い違いが生じるとするのです。

一方、コーランは神の言葉がそのまま記された完璧なもの、というのが現在のイスラームの立場です。

 つまり、コーランには、聖書を真に理解するために必要とされるカッバーラのようなものは存在しない。

少なくても、ムスリムにカッバーリストのような存在がいるとは聞いたことないですね。

公然といたなら、コーランは神の言葉がそのまま記された完璧なものという、公式見解と矛盾するでしょ。

 でも、イスラムにもカッバーリストのような存在はいてもおかしくない。

いてもおかしくない気は、するのですけどね。

 食い違いの中に隠されたメッセージを、読み解く人はどこかにいる。

いるかも。

イスラムの支配下地域では、聖書が禁書とされ、それは現在までも続いているのです。

 聖書は、イスラムで聖典のひとつとされているでしょ。

 それなのにイスラム教徒のほとんどが実際には聖書を読まないのは、聖書が禁書にされていることに原因があるの。

ムスリムは、コーラン以外に、ハディースという文献、というより文書集をよく引用するのです。

ムスリムにとっての第二聖典であるハディースは、使徒ムハンマドの言動の伝承を後代に編集したものとされているのです。

このハディースは、イスラムの世界支配が確立したのちに成立しているのです。

 コーランでは、「旧約聖書は完全無欠」、「聖書も読め」、コーランは「聖書が正しいことを確証するためにある」といわれているのに…。
 
 ムスリムには、ほとんど知られていないの。

ええ、残念ながらその通りですね。

ハディースはコーランには答えの書いてない、解釈できないような生活や社会の規範を決める根拠にするのです。

ハディースは、いろいろな種類があり一つではないそうです。

イスラムの教義や法学を勉強する人は、ハディースを読むのです。

大多数のイスラム教徒は現在、第二聖典とされるハディースの主張である「コーランは聖書よりも優れている」との考えを採用しているのです。

イスラームでは、旧約のうち最初の基本的な5書のみをトーラーすなわち律法として、聖典とみなすようです。

アブラハムの息子のうち、妾ハガルに生ませた息子イシュマエルがセム族つまり、アラブ民族の始祖という伝説です。

 でも、セム族とはノアの息子セムの子孫と言う意味でしょ。

そうですよ。

アラブはセム族の一部です。

また、イスラムの天使もユダヤ教の天使と共通するものもあります。

ムハンマドにコーランを与えた天使は、ガブリエルと解釈されているのです。

 でも、そうなるとイスラムはイエスの明かした御父と御子と聖霊をどう見ているのでしょ。

ただ一人の神であるアッラーの啓示を、ムハンマドが受けたと見ているわけです。

ムスリムのイエスに対する解釈は、おそらくこうです。

イエスは、聖霊を伴ってアッラーから使わされた特別な預言者であり、御子ではない。

イエス自身も、人の子と自らを呼び、神の子と言う呼び方を退けている。

アッラーの言葉に、わしに子供はおらんとある。

矛盾はないでしょう。

 しかし、こういう解釈もあるでしょ。

 イエスは、聖霊を伴ってアッラーから使わされた特別な預言者なのは、御子だから。

 イエス自身も、人の子と自らを呼び、神の子と言う呼び方を退けているのは、御父もかつては人の子だったから。

 アッラーの言葉に、わしに子供はおらんとあるのは、イエスがアッラー、すなわち御父エロヒムの言葉を伝えているから。

ええ、わたしは、そちらの立場です。

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日ユ同祖論がありながら割礼がない日本。

割礼(circumcision)の慣行を持つ民族は、ユダヤ教圏、イスラム教圏、アフリカ、オーストラリア等に分布しているのです。

 割礼とは、成長期に性器の一部を切除する慣行のことでしょ。

 イスラム教も、ユダヤ教復古運動の側面があるので割礼の習慣があっても不思議ではない。

男性の割礼の場合には、陰茎包皮を切除し、女性の割礼の場合には、陰核全体あるいはその一部を切除することがみられます。

 でも、聖書の宗教でありながら、キリスト教には割礼の習慣を聞きませんね。

新約聖書に、「使徒言行録」、あるいは、「使徒たちの活動」の名で収録された文章に割礼廃止の決定があるからではないでしょうか。

割礼廃止決定の根拠となったのは、神が無割礼の異邦人に聖霊を与えられたことや、神の預言の言葉だというのですよ。

 「使徒行伝」は96年にはローマで、115年までにはアンティオキアとスミルナで広く読まれていたことはさまざまな記録から明らかなようね。

成立時期が70年より前ということは、考えにくいと言うのです。

「ガラテア人への手紙」は、西暦50年から52年ごろ書き終えられているのです。

「ガラテア人への手紙」には、割礼がもはや要求されていないという決定がガラテア人に知らされたことが記されています。

神が、無割礼の外国人をキリスト教信者として受け入れることを示された後,多くの無割礼の外国人たちが原始キリスト教の布教にこたえ応じていたのです。

 無割礼の外国人たちも割礼を受けるべきではないのか、という質問も出たでしょうね。

ええ。

使徒言行録には、そのときの様子が生々しく残ってるのです。

原始キリスト教の代表者団は、無割礼の外国人たちも割礼すべきかと言う問いかけに関する決定を下したのです。

その結論は、割礼はもはや行う必要ないというもの。

その時の詳細な内容が、使徒言行録の15章6から29節に記されているのです。

 「使徒言行録」の成立は、「ガラテア人への手紙」よりも後ね。

会議の記録が散逸しないよう、編纂されたのかも。

 イエスも預言者として受け入れているイスラム教に割礼があるのは、割礼廃止がイエスによってもたらされた決定ではないからかしら。

そうかも。

 そうなると気になるのは、ユダヤとの同祖論がある日本よ。

ユダヤと同祖だというなら、日本になぜ割礼がないでしょうか。

その鍵を握るのは、日本になぜか残る原始キリスト教を連想できるさまざまな事柄でしょうね。

 そういえば、日本の神道に神社建築をもたらした秦氏にはユダヤ人キリスト教徒説がある。

それも、年代から言って原始キリスト教であった可能性があるのです。

秦氏の基になったのは、日本書紀によると応神天皇14年に朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化した弓月君(ゆづきのきみ)ですね。

 新撰姓氏録では、融通王と記するのね。

 弓月、融通、これって、ユダヤの転化でしょうか。

弓月は“ゆんづ”が本来の読みと、指摘されるのではないでしょうか。

 “ゆんづ”“ゆんづう”“ゆうづう”と並べて、“ゆだ”“ゆだや”と続けると、音が似てるの。

転化の可能性を疑う価値は、ありそうですね。

 ユダヤの当て字だったから、複数の書き方があるとみればどうでしょ。

それは、ありえるのではないでしょうか。

秦氏の“はた”にも、“ゆだや”が“いぇはだー”に聞こえるので転化したのだという説があります。

 弓月、融通、秦、これ全部、“ゆだや”の転化だとしたら…。

弓月君もしくは融通王とは、“ゆだやの王”とか“ゆだやの指導者”となるのですね。

応神天皇は第15代の天皇で、在位は270年2月8日から310年3月31日と見られているのです。
 
 つまり、「使徒言行録」や「ガラテア人への手紙」よりずっと後ね。

もしも秦氏がユダヤ人キリスト教徒で、しかも原始キリスト教であったとしても、割礼廃止された後の人々だったということになりますね。

 そして、秦氏と天皇家の関係が、わたしたちの想像以上に深いとしたら…。

そういえば、神道最高祭司であるはずの天皇の周辺には意外なほどキリスト教徒が多いとの指摘もあるのです。

 ザビエルも、日本人の精神文化がキリスト教的であると驚いている。

 偶然とは思えませんね。

 ユダヤと同祖であるという説がある日本に、割礼がない理由は…。

原始キリスト教徒だが割礼廃止された後の人々であった、秦氏の影響でしょうか。

追記。

古代イスラエルを連想できる風習を数多く持ちながら割礼がない日本が、十支族がやってきた国の候補に挙げられる理由は聖書の記述にあります。

エレミヤ書 16:13にはこうあります。

「わたしは、お前たちをこの地から、お前たちも先祖も知らなかった地へ追放する。」

お前たちも先祖も知らなかった地というから、地中海世界やアラブ、中央アジア、インドなどは十部族の定住先の候補から自動的に除外されます。

また、イザヤ書11.12では、十支族を「イスラエルの追いやられた者たち」と呼んでいます。

この「追いやられた者」とは、「割礼なき者」を意味する言葉でもあります。

今回は、この聖書の預言がどのような形で成就した可能性があるか、考えてみたわけです。

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ちょっかいを考えてみる。

ちょっかいと言うのは、 横合いから干渉することという意味です。

他人に、からかい半分の気持ちで手出しをすることや、余計な世話を焼くことなどをさして使うのですね。

 他人に、からかい半分の気持ちで手出しをすることから転じて、たわむれに異性を口説くこと、特に、男性が女性に言い寄ること、などの場合にも使うのね。

手、特に手首から先の部分を卑しめていう語でもあるのですね。

 「ちょっかいを出す」、「ちょっかいをかける」と用いるでしょ。

ええ、ネコなどが前足の片方で物をかき寄せる動作をすることも、さしますね。

 「手使い」や「手遣い」と書くと言う人も、いるのね。

でも、「手使い」や「手遣い」は「てつかい」と読んで、こういう意味ですよ。

手の使い方。手の運び方。

手勝手。

自分の家で使うこと。

操り人形で、糸操りなどに対し、人形遣いが手で直接に人形を遣うやり方や、その人形。手遣い人形。

配下の者を遣わすこと、また、軍勢を配備すること。

だから、勘違いですね。

ちょっかいは、もともと、ネコなどが前足の片方で物をかき寄せる動作をすることをさしたのです。

 そういえば、日葡辞書では、ゆがみ曲がった腕、または、指が曲がって不具になった手、とあるようね。

まさに、じゃれ付く猫の手の形ですよね。

本来は、ネコが片方の前足で物を掻き寄せる動作を意味する語であったことから、こんな解釈もあるのです。

「ちょっ」は「ちょっと」の意味、「かい」は「掻き」の意味で、「ちょっ掻き」のイ音便化と考えられる。

 確かに、猫の手が「ちょっと掻いている」ように見えますねえ。

でも、「ちょっ」がアイヌ語の猫の「ちゃぺ」で、「かい」が腕の古語「かいな」をさすとしたらどうです。

つまり、「ちょっかい」は「猫の手」だとしたら。

手を「ちょ」と読むのは「手水」「ちょうな(釿)」も、そうですね。

「ちょうず」の名は「てみず」の転訛で、ウ音便化を含むテミヅ → テウヅ → チョーズという規則的な変化と言われるのです。

とは言っても、「手水」を使うときも、手はどこか猫の手に近い形になるのです。

まったく、猫の手に無関係とは思えないのです。

ちょうなは、わが国では、古代から、釿は主に柱や梁など用材の荒削道具として使われてきたのです。

ちょうなは、独特の湾曲をした柄に、刃が柄と直角になるように取り付けられているのです。

刃の形は、使用する地域によって少しずつ異なるのです。
その中で、大工が使用するものは、主として両刃で、刃先がまっすぐなものと、内側に湾曲しているものがあるのです。

刃幅は、三寸から三寸五分位で、柄は主としてエンジュでこしらえるのです。
まっすぐな材を藤づるで縛って曲げ、乾燥させて、独特の曲線をつくるのです。

ヨーロッパなどでは、主に日本の鉞(「えつ」とよむ「まさかり」のこと)に相当する刃幅の刃が柄と平行についている斧で用材を削り仕上げしたといわれているのです。

 現在のちょうなの形は、日本独特に発展した道具なのね。

 木造建築の減少、洋風建築の普及のため、大型の用材をふんだんに使うことがなくなり、大工道具としてちょうなの出番は少なくなってきているの。

 ちょうなは、いまではもっぱら宮大工の道具になってしまいました。

ちょうなは、独特の湾曲をした柄に、刃が柄と直角になるように取り付けられたその形を見ると、猫の手に似てるのです。

 そういえば。

ひょっとすると、「ちょぺ」+「て」が「ちょうな」に転化した可能性はあるのです。

古代日本語は二重母音だったというのは、定説になっているのです。

簡単に言うと、ワ行が母音。

だから、「ちょぺ」+「て」が「ちょうな」に転化するのはおおいにありえるのですよ。

さらに、「手」には「て」のほかに「た」という読みがある。

「ちょぺ」から「た」、さらに「て」になったのかも。

 つまり、「ちょっかい」「ちょうず」「ちょうな」の「ちょ」は、全部、猫?

そうかも。

 そうみると、面白いことが見えますね。

 猫はイエスのメタファーでしょ。

 そして、イエスは大工でもあった。

 イエスは、預言者、つまり祭司でもあった。

さらに、日本でも祭司、つまり神職は禰子の一族から出る。

そして、神職の頂点、天皇は「やまとねこ」。

天皇は太陽神の子孫として、地上の太陽神。

日本の太陽神は三神構造で、動物神を含む八百万の神の頂点。

 この日本の神界の構図は古代エジプトと瓜二つ。

 神殿の基本的構図もそっくり。

おまけに、古代エジプトの太陽神は猫神。
 
 つくづく、日本は猫の国?

なんででしょうね。

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