苦しいとはどういうことか、思ってみた。
自分は何でこれほどまでに、苦しいのか。
神に見放されたのではないか。
そう思って、神に背を向けたり、神を呪ったりする人は、多いようです。
違うの?
神に見放されるとは、神に退けられることですよ。
聖書には、神に退けられたものの多くは、悲惨な最期を遂げています。
生きてない。
その通りでしょうね。
たいていの宗教で、神に見放された者は生きていられなくなるのではないでしょうか。
どんなに苦しくても生きていると言うことは、見放されていない。
そうなりませんか。
ただ、犯罪や人災とも言いえる災害の被害者を、ここでいう神に退けられたものに含めるのは適当ではないでしょうね。
殉教や、何らかの事故、病気、戦争、犯罪被害者等、悲惨な最期を迎える人々などと、彼らを犠牲や被害にあう原因を作った人々は分けて考えるべき。
犯罪や人災とも言いえる災害の加害者になっているのに自覚がないか、自覚があっても反省する意思のない人々は、神に見放される可能性は高いでしょう。
じゃあ、苦しんでいる人々は、どうして苦しいわけ?
神は、その人を試して居られるのでしょう。
神に救いを求め続けられるか、どうか。
神を呪うか、どうか。
でも、神を呪い続ける人でも、生きてるじゃないですか!
神は、我慢強いお方だからでしょうね。
あるいは、単に気が長いだけかもしれないけど。
神は永遠を、生きておられるから。
人にとって長い日々も、神にとっては一瞬ってこと。
それもあるでしょう。
それだけじゃあ、ない。
修行を積んで、永遠の魂を神に認められるなら、今の苦しみはその人にとっても一瞬になるからでしょうね。
永遠の魂を神に認められるって、生命の樹を上ることかしら。
そうでしょうね。
どんなに神を呪っている者でも、悔い改めて神を受け入れるなら、その神を受け入れる水準は漠然と祈っている場合よりもっと深くなるでしょう。
苦しさを神の試しと受け止め、導きのために教え諭してくださっているありがたいお方として感謝できるかどうかでしょうね。
悔い改めて福音を信ぜよ、神の国はあなた方のうちにある。
神の国に入る権利は、すべての人に認められていると気づきなさいということでしょうね。
悔い改めて福音を信ぜよ、神の国は近づいた。
これは、少なくとも二つの解釈が可能でしょうね。
一つは、悔い改めた者には神の国は今まで以上に近い存在になった。
もう一つは、最後の審判の時は確実に近づいている、悔い改めるなら早いほうが良い。
実際は、この両方の意味ではないでしょうか。
今味わっている苦しみは、神の試しであり、諭しと導きであるから、見捨てられていないことに感謝したほうが良い。
そして、ここから何を学ぶべきかを素直に祈りながら神の応えを求めた方が良い。
そう思った方が、少なくとも気は楽になるのではないでしょうか。
なんだ、気休めを言ってたの!?
どう受け取るかは、その人の自由でしょうね。
あなたは自分が正しいと思うようにするが良い、判断は神が下す。
これが神の立場のようですから。
追記
2010年10月17日、記述の一部を補足修正しました。
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