即身仏と即身成仏。
仏教では、即身成仏(そくしんじょうぶつ)の考えがあるのです。
仏教で考える即身成仏は、人間がこの肉身のままで究極の悟りを開き、仏になることです。
天台宗や真言宗や日蓮宗や禅宗などで、主に説かれてますよね。
修行者が瞑想を続けて絶命し、そのままミイラになる即身仏(そくしんぶつ)と混同されがちであるが、即身成仏と即身仏とは全く別物です。
即身仏とは、密教系の日本仏教の一部で、僧侶が土中の穴などに入って瞑想状態のまま絶命し、ミイラ化した物を呼ぶ名称です。
仏教の修行の中でも、最も過酷なものとして知られます。
この背景にあるのは入定(にゅうじょう)という観念で、入定ミイラとも言われます。
入定は、本来は悟りを開くことです。
入定とは、入定した者は、肉体も永遠性を得るとされる真言密教の究極的な修行のひとつです。
僧が、生死の境を超え弥勒出世の時まで衆生救済を目的とするのです。
後に、その肉体が即身仏となって現れるとされたのです。
入定ミイラとなるとは、死を、死ではなく永遠の生命の獲得とする考えなのです。
即身仏や入定ミイラの考えって、永遠の生を得る復活体を得るための死の思想があるカッバーラと似てますね。
でも、死に方に決定的な差があるのです。
まず、アダムとイブの食べると死ぬことになると諭された善悪を知る知識の樹の実を振り返って見たいです。
どうして死ぬ運命になる知識の樹は、エデンの園にあったかです。
この世には、生だけでなく死もあると、知るためでしょ。
死と神に退けられる滅びの差は、魂の世界に居られるかどうかなのです。
生とは、肉体を失えば終わるものではなく、魂だけになっても続くものなのだということかしら。
その通りでしょうね。
受肉前のイエスであったヤハウエも、同じく絶対三神の一員でいらっしゃる聖霊も、魂だけの存在です。
滅びとは、神に退けられて魂としてさえ存在できなくなることです。
いわゆる死とは、肉体を失い魂だけの存在になることなのです。
そして復活体とは、死によって失われることのない肉体を手にした魂なのです。
その復活体としてさえ存在できなくなるのが、滅びってことかしら。
そうですね。
最後の審判によって、神に退けられたときに滅びはくるわけです。
最後の審判とは、復活体で修行を続けるにふさわしいかどうかを、神に判断されること。
そうでしょうね。
また、別の世界で誕生から出直せということでしょうね。
カッバーラから見れば、即身仏や入定ミイラとは両刃の剣のようなことかも。
入定ミイラとは、即身仏となって現世に戻ったときに用いる肉体を確保する行為ですね。
現世に戻ったとき用いる体を保存するとは、古代エジプトのミイラとそっくりね。
つまり、即身仏を目的とした入定ミイラは保管されるべきものではあっても、拝むものではないのです。
また、即身仏となることを願って旅立った魂も、拝むものではないってことでしょうね。
神でも仏でもないから。
そうですね。
崇拝されるべきは神仏であって、人の魂や肉体ではないかもです。
もし、手を合わせたいのであれば、即身仏の発願成就を神仏に願うためであるべきかも。
カッバーラと仏教、どこに接点があるかという疑問もでますけど。
カッバーラの奥義は、生命の樹に表されているのです。
生命の樹と共通する構図の特徴は、3×3です。
地上に対応する王国、つまりマルクトのセフィロトを除いて、9のセフィロトということね。
縦横ともに三つに分けられる構造があれば、生命の樹を意識して作られた可能性があるのです。
金剛界と胎蔵界の曼荼羅に、3×3の構図は見られるね。
それで、飛鳥昭雄と三神たけるは生命の樹と指摘しているのですね。
生命の樹があれば、カッバーラに通じる思想があると見て良い。
そうなるのですね。
一方、即身成仏とは人間がこの肉身のままで究極の悟りを開き、仏となること。
仏になって、永遠の生を得るということです。
しかし、永遠の生は基本的に魂のものなの。
そうですね。
魂と同様な永遠の肉体とは、本質的には復活体ということです。
じゃあ、生まれたときの肉体のまま天に召されたと見られているモーセやエノクも、いつかは死を体験することが神から求められる。
御子の地位にあるイエスでさえ、十字架の死が求められたのでしょうね。
じゃあ、人間がこの肉身のままで究極の悟りを開き、仏となることは?
釈迦(釋迦)、 梵名をシャーキャ(शाक्य [zaakya](Śākya))として知られるゴータマ・シッタルダは、肉身のままで究極の悟りを開き、仏となられたことは有名ですね。
つまり、釈尊となられた釈迦のように、究極の悟りを開き仏の教えの奥義にたどり着くことはできる。
神も仏も、知恵や知識を求めるものには気前よく教えてくださるお方です。
目的は、問わないのでしょうか。
求めよ、さらば与えられん。
尋ねよ、さらば見出さん。
門を叩け、さらば開かれん。
すべて求むる者は得、尋ねる者は見いだし、門をたたく者は開かれるなり。
マタイによる福音書の7章7節から8節にこうあることは、あまりに有名です。
そしてイエスは、カッバーラを人々に開かれたお方です。
当然、仏教もカッバーラで解釈されるべきだし、解釈できる。
生命の樹が、あるから。
一方で、あなたは自分で正しいと思うようにせよ、それが主なる神の御心に沿うかどうかは神が判断するともあるのです。
御自身の御心に沿って使う者かどうかを見定めておられる、怖いお方でもあるのです。
でも、釈迦は死なれたのでは。
入滅、つまり現世から消滅し、神仏の世界に入られたということでしょうね。
御仏から永遠の修行を認められるのは、魂であって肉体ではないのでしょうね。
復活体としての肉体は、魂と一体と見ていいかも。
即身成仏とは、釈尊のように、仏陀の教えの本質にたどり着くことでしょうか。
おそらく、そうかも。
カッバーラで仏教も理解できる、だから、イエスの教えと仏教は比較されてしまうのでしょうか。
その可能性は十分あるかもです。
仏教学を少しかじりましたが、やはり奥が深いですね。
仏教もキリスト教も、イスラム教も、実は、根っこは、そう大差ないのでは、と想う事があります。
最古の文明スメルからの伝播が、相当大きいという感じはありますね。
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