エルサレム教団は日本に来たか。
キリストとして知られるイエス自身は、新宗教の教祖になる気はなかったのです。
そういえば、ユダヤ教には、救世主待望の思想があるのね。
ええ、キリストとは救世主を意味する古典ギリシャ語のΧριστός(Khristos)から来ているのです。
ヘブル語で言えば、「(油を)塗られた者」を意味するמשיח(Mashiah)ですね。
当初、ユダヤ教徒はユダヤ人を救いに来た人がイエスと思っていたのです。
ところが、タルムードに偏っていったユダヤ教の原点回帰を訴えたのが、イエスだったのです。
それで、ユダヤ教徒は耳障りなことしか言わない彼をうっとうしく感じたのです。
神殿から、商人を追い出したのでしょ。
まともに商いをしていればともかく、神官と結託して信者を食い物にするような連中だったという話もあるのですからね。
しかし、イエスに共感した人々も居て、ユダヤ教原点回帰派ともいえる集団が形成されたのです。
この人々が、やがてエルサレム教団となっていくのです。
なお、イエスやイエスにヨルダン川で洗礼をしたヨハネは改革派のエッセネ派と呼ばれるクムラン宗団に属していたという情報もあるのです。
クムラン宗団といえば、死海文書が有名よね。
ただ、仏教で言えば小乗とあだ名される上座部にあたる性格をもつクムラン宗団にたいし、神によって誰でも救われると大乗にあたる運動に踏み切ったのがイエスとパブテスマのヨハネだったという説もあるのです。
この説によれば、イエス派と先に殺されたヨハネの一派から合流した人々によって、エルサレム教団が形成されたことになるのです。
なぜ、ヨハネの一派から合流した人々といって、殺されたヨハネの一派が合流と言わないかというと。
ヨハネの教団は、その後も存続し続けたという設定で作品を書く人もいるのですからね。
当時は、ヨハネの教団の方が、格上で規模も大きかったから新参者のイエスの下につくことを快く思わない人は多かったかもね。
それに、ヨハネ自身が、イエスを自分より格上といいながら、ついて行ってませんからね。
ただ、ヨハネはイエスより先に殺される自分の運命を預言者として知っていたために、イエスが自分の巻き添えになることを避けていた可能性はあるでしょうね。
イエスの教団はイエスの死後、直弟子たちによって引き継がれていくのです。
実際はイエスは死んだのではなく、刑死の後に復活体を得て昇天していくのでしょ。
ええ、イエスは御父のもとで時を待っておられるとみられています。
そしてまた、エルサレム教団には、異教徒になっていた人々からの参加も増えていきました。
改宗者がエルサレム教団の少数派だったころは、彼らは積極的に本格派ユダヤ教徒になろうとしました。
ところが改宗派が増え始めると、ついてこれない人も増えるでしょ。
ついてこれない改宗派の人々をあつめて、いわば初級者集団ともいえる団体が作られたのです。
これが、アンティオキア教団と呼ばれる集団になっていくのです。
プロテスタントは、聖書だけみていればいいという発想からして、アンティオキア教団的といえるだった。
アンティオキア教団は、基本的にユダヤ教の風習にとらわれずにイエスの言葉と聖書、いまでいう新約にだけ従えばいい集団だったのですから。
エルサレム教団は、ユダヤがローマ帝国と戦うとき、忽然と姿を消し消息を絶ちました。
「第一次ユダヤ戦争」が勃発するやいなや、戦火を逃れてエルサレムを離れてしまったのでしょ。
4世紀の神学者エウゼビオスは『教会史』によると、彼らは、第一次ユダヤ戦争が本格化すると見るや、エルサレムを脱出し、ガリラヤ湖南方、ヨルダン河東岸にある「ペラ」というギリシア人都市へ集団移住したというのです。
エウゼビオスは『教会史』の中で、こう述べているのです。
「エルサレムの教会の人々は、戦争の前に啓示を介してその地の敬虔な人々に与えられたある託宣によって、都を離れ、ペレアのペラという町に住むように命じられた。そこでキリストを信じる人々はエルサレムからそこに移り住んだが、そのためにユダヤ人の第一の首都とユダヤの全地は聖なる人々から完全に見放された形になった。そして、ついにキリストや使徒たちへの悪質な犯罪のために、神の審判がユダヤに臨み、不敬虔な者の世代を人々の間から完全に絶ったのである。」
ローマにピエトロ大聖堂を持つローマカソリックは、ユダヤ教の風習を引き継いでいないにもかかわらず、エルサレム教団を引き継いだといっているのです。
わたしは、ローマカソリックはアンティオキア教団の流れではあっても、エルサレム教団の流れではないとみたいです。
仮に、エルサレム教団員が居たとしても、少数だったはずです。
敵前逃亡したとして、戻れる筋合いではないからです。
戦争が終わったあと、ユダヤ教保守派はイエス派ユダヤ人への迫害を更に強化したというのです。
また、アンティオキア教団からもユダヤ教の風習にこだわるエルサレム教団はうっとうしかっただろうから、アンティオキア派に鞍替えしない限り戻るすべはなかったでしょうね。
「エルサレム教団」のイエス派ユダヤ人たちは、古代ローマ帝国、ユダヤ教保守派、そして非ユダヤ系イエス信者たちからの迫害、弾圧、差別を、一身に受けることとなったようですね。
2重3重の迫害、弾圧、差別を受けていたら、「エルサレム教団」は戻れないよね
また、東方正教会の流れも、どこまでユダヤ教の風習を引き継いでいるかは疑問です。
ローマカソリックよりは、民族宗教的でしょうけど。
なお、エルサレム教団についてはさらに東へ向かい、ついには日本について神道と混交してしまったという人もいるようです。
飛鳥昭雄と三神たけるは、秦氏こそエルサレム教団という説を展開しているでしょ。
基本的には、そのようですね。
何しろ日本先住民の流れを汲むはずのアイヌについても、古代イスラエルと極めて似通った生活文物や文化を持つという声があるくらいですから。
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