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生命の樹と死の樹と弁証法。生命の樹 その3

生命の樹と死の樹の関係については、なかなか理解が難しいようですね。

 死の樹を、どういう意味で使うかよね。

死の樹を理解するには、カッバーラとはなにかを考える必要があるかもしれないですね。

 カッバーラって、授かるものでしょ。

 この場合のカッバーラは、神から授かるものと言うことでしょ。

それだけでは、この問題は理解できないのです。

さらに内容に踏み込んで、議論をする必要があるのです。

カッバーラは、弁証法的思想です。

 哲学的な思想という意味かしら。

カッバーラもタントラも陰陽も、極めて弁証法的な構造を持った思想ですよ。  

弁証法とは、対話や議論や討論が異なる意見や見解を語り合うことによって物事への理解を深めるように、物事のあり方が相対する要素の共存や統一と対抗や対立によって変化や展開していくことだと、考えてもらえれば良いかもしれないですね。

 対話や議論や討論が、異なる意見や見解を語り合うことによって物事への誤解に脱線していく場合もあるのでは。

正しい理解や知識を持っていないもの同士の場合、ありえるのです。

物事への誤解に脱線していく場合、実践や経験で得られた知識で訂正や修正する必要はあるでしょうね。

弁証法は、思想であると同時に世界を動かす原理原則でもあるのです。

つまり、哲学思想としての弁証法は、世界を動かす原理原則を心に鏡像のように反映したものなのです。

世界を動かす原理原則と言う生きた現実世界=生命の樹と、心に鏡像のように反映した哲学思想=知識の樹の構図になるかもしれないですね。  

 現実世界と哲学思想、生命の樹と知識の樹の双方を貫くのが、弁証法ね。

そして知識は過去の出来事の心への反映を蓄積したものと言う意味で、死んだ物の系統的な蓄積でありその姿を生きた現実に対する死んだ知識と言う意味で死の樹と言っている側面もあると思うのです。

弁証法は、分析と総合をきちんとやれば真理に近づくけれど、分析と総合をずさんにやると詭弁に堕落するのです。

分析過程を下降、総合過程を上昇というのです。 

下降する分析過程を知識の樹に、上昇する総合過程を生命の樹に、対応させると面白いことがわかります。

分析を分解、総合を組み立てと言い換えれば、こうなるのです。

きちんと分解してきちんと組み立てれば、ちゃんと動くのです。

 これが、鏡面対象の死の樹。

ずさんに分解してずさんに組み立てれば、動かないか誤動作するのです。

 これが、回転対象の死の樹。

システムは分解したら動かない、つまり、死と同じ。

システムは組み立てれば動く、つまり、生と同じ。

裁きを行うのは、生命の樹に対して鏡面対象の死の樹。

裁きで捨てられるのは、生命の樹に対して回転対象の死の樹。

生命の樹に対して回転対象の死の樹は、言ってみれば故障や不良に相当するのです。

裁きを行う、生命の樹に対して鏡面対象の死の樹。

これを悪魔(akuma)と見たから、神の一族といったのです。

裁きで捨てられる、生命の樹に対して回転対象の死の樹。

これが堕落した天使、サタンのルシファー。

知識は、何をなすべきか、何をなすべきでないかを、判断する基準を示してくれるから、善悪を知る知識の樹であり、悪を地獄に送る裁きの死の樹でもあるかもしれないですね。

しかし、知識は同時にミスリードで自らを地獄の苦しみに追い込むサタンの樹でもあるかもしれないですね。

この知識の持つ二面性が、正しく導いてくれる鏡面対象の死の樹と、誤りの袋小路に迷い込む回転対象の死の樹として、語られていると見たいです。

 では生命の樹の上昇には、何が必要と考えますか。

カッバーラやタントラや陰陽の根幹を成す弁証法は、まず、世界を動かす原理原則なのです。

思想としてのカッバーラやタントラや陰陽が神からの授かり物と名実ともに呼び得るのは、世界を動かす原理原則を歪みのない鏡像として心に反映させられたときでしょうね。

しかし残念ながら私たちは、心に鏡像として取り込んだ世界を動かす原理原則や現象を、まったく歪みのない鏡像のように知識に出来るわけではないのです。

知識は、願望や先入観などによって、程度の差こそあれ歪んでしまうのです。

幼子のような素直な心が求められるのは、願望や先入観などによって理解や解釈や判断を歪めないためといえるかもしれないですね。

幼子のような素直さで、世界を動かす原理原則を歪みのない鏡像のように心に反映させるとともに、理解や解釈や判断を願望や先入観などによって歪めないことかもしれないですね。

 神を見失わないとは、世界を動かす原理原則の理解や解釈や判断を願望や先入観などによって歪めないこと。

願望や先入観などによって歪められなかった世界を動かす原理原則の理解や解釈や判断を得ることは、正しい理論を構築することの大前提ですからね。

そして、正しく構築された理論を、こんどは実践に正しく生かしていくこと。

正しく構築された理論は、鏡面対象の死の樹に相当すると共にエデンの園にあった善悪を知る知識の樹であるかもしれないですね。

生命の樹は、正しく構築された理論を正しく実践に生かしていくことに相当するかもしれないですね。

アダムとイブの失楽園は、せっかくの正しく構築された理論が願望や先入観などによって歪められた結果かもしれないですね。

 しかし、アダムとイブはあえてせっかくの正しく構築された理論が願望や先入観などによって歪められる道を選んだのかしら。

願望や先入観などによって歪められた正しく構築された理論を自力で正していける能力を磨くように、神は望んでおられると気づいたのかもしれないですね。

 もちろん、神に導かれながらでしょ。

願望や先入観などによって歪められた世界を動かす原理原則に対する理解や解釈や判断を、神の導きによって正していく過程が実際の生命の樹を上る行為なのかもしれないですね。

神の指導とサタンの誑かしを願望や先入観などによって取り違えて、神を見失わないよう気を付けたいものです。

神は、その人の成長段階や成長程度に合わせて、乗り越えられる範囲で課題をお出しになられるようです。

 その人がここに気がつけるかどうか、問題の解き方を素直に神に求められるかどうか、じっくり見てくださっている。

だから、思い込みで突っ走るとろくなことがないが、落ち着いて事態の推移を見て要点をつかめば、それなりにうまくいくか、失敗を最小に抑えられるのかもしれないですね。

困難に悩み苦しむのは、神に見放されたのではなく、神を見失いかけているからではないでしょうか。

追記

死の樹については、一般に、善悪を知る樹とも、善悪を知る知恵の樹とも、単に知恵の樹とも、呼ばれています。

私自身も、特に混乱しない場合には、死の樹を一般的な呼び方にならって知恵の樹と呼ぶ時があります。

今回の議論では、情報化した知恵という意味で知識と呼ぶ方がしっくりくると見て、死の樹を知識の樹と呼んで議論を展開しました。

今後も、死の樹を必要に応じて知識の樹として扱うことがあると思いますが、呼び方に一貫性がないのではなく、どこに注目するかで使い分けているだけですので、ご了承ください。

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