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日本の民俗に見る数の意味を考えてみた。

八十八夜は雑節のひとつです。

雑節とは二十四節気以外に、季節の変化の目安とする特定の日の総称です。

他にも節分・彼岸・社日・入梅・半夏生・土用・二百十日・二百二十日などがあります。

このうち土用は、年4回、四季ごとにあるのです。

これに、初午や上元・中元・下元の三元、盂蘭盆、大祓を加える場合もあるのです。

 八十八夜は、いつでしたっけ。

八十八夜は、立春からかぞえて八十八日目にあたる日で、だいたい五月二日頃ですね。

立春は二十四節気の第1で、旧暦12月後半~1月前半の正月節です。

現在広まっている定気法(ていきほう)では、太陽黄経が315度のときで2月4日ごろです。

定気法とは二十四節気を配置する方法の一つです。

太陽の天球上の通り道である黄道と天の赤道の交点すなわち春分点を基点として24等分し、こうして導き出された15°ごとの黄経上の特定の度を太陽が通過する日に正節とされる節気と中気を交互に配しているのです。

 ここでいう節季とは、二十四気ともいわれる二十四節気ね。

このため空間分割法とも呼び、現在、中気は黄経30°の倍数、正節はそれに15°足したものとされています。

この方法では、節気から節気までの日数が不均等になります。

暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とします。

恒気法(こうきほう)と呼ばれることもある平気法(へいきほう)では、冬至から1/8年つまり、約45.66日後で2月5日ごろになるのです。

平気法とは、二十四節気を配置する方法の一つで、節気間の時間が均等であることからこの名があります。

定気法が黄道を24分割する空間分割法とも呼ばれることに対し、平気法は時間分割法とも呼ばれます。

立春には期間としての意味もあり、この日から、次の節気の雨水前日までです。

 八十八夜って、何か意味があるのかしら。

八十八夜は春から夏に移る節目の日、夏への準備をする決まりの日、縁起のいい日とされてきました。

また、八十八夜の別れ霜というように、この頃から霜もなく安定した気候となり、茶摘み、苗代のもみまき、蚕のはきたてなど一般に農作業の目安とされているのです。

しかし「八十八夜の忘れ霜」「さつき寒」とも言い、急に気温が下がって霜が降り、農作物や果樹に思いがけぬ被害を与えることを警戒したことばもあるのです。

天気予報の発達した現在でも、農家では霜除けのよしずを取り払ったり、苗代の籾巻きを始めたり、というならわしを行っているところが多いです。

天然自然の暦に則って季節を迎えることが無病息災の祈りだった古人の知恵を受け継いでいるところも数多くあるのです。

 八十八といえば、霊場巡りでも言いますね。

四国八十八箇所は、空海ゆかりの四国にある88か所の札所の総称ですね。

単に八十八箇所、あるいは四国霊場と言う場合も多いです。

弘法大師は、醍醐天皇から921年に送られた諡号(しごう)です。

諡(おくりな)とも呼ばれ、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことです。

訓読みの「諡」(おくりな)は「贈り名」を意味するのです。

 八十八といえば、十一の倍数でしょ。

 十一の倍数では、三十三が、よく使われるのですね。

 でも、他の倍数はあまり使われないでしょ。

 なんでかしら。

まず、十一といえば十一面観音ですね。

この十一は、生命の樹のセフィロトと呼ばれる節の数と一緒なのです。

 十も、生命の樹のセフィロトの数とされ、門松の節の数ですよね。

そこで、十や十一にまつわるものは生命の樹の変形とみなせると言われることも多いですね。

 じゃあ、十干十二支の十干も、生命の樹だと。

可能性はあるのですね。

 十一が生命の樹を表す数なら、三神で三十三になるでしょ。

 三十三間堂の三も、三神…。

そうでしょうね。

 じゃあ、八十八の、八は「ヤー」で「ヤハウエ」の略。

 でも、八が2つでしょ…。

旧約のヤハウエは、新約ではイエスとして登場するのですよ。

そして、イエスは自らをヤハウエを意味する「わたしはある」と名乗っていますね。

 八十八の、2つの八は、ヤハウエとイエス…。

さらに、ヤハウエ=イエスは十戒をもたらしています。

 十字架の十も。あるでしょ。

漢字圏ではそう思うけど、そうでない地域では、気が付かないことです。

 そういえば、クロスと呼んでいましたね。

日本はもう一つのイスラエルだと指摘する人は、十戒のヤハウエと十字架のイエスだと言いますけどね。

 十一、三十三、八十八…。

 ほかの数字があまり登場しないのは、聖書のヤハウエとイエスに対応しない数だから。

 思い出した、高齢の祝では、七十七、九十九もある。

 これは、どう。

七は、生命の樹の変形とされるメノラーの枝の数ですよ。

九は、結界を貼る九字切にあるのです。

九字切の九は陽で、ヤハウエ=イエスを表す数である陰の十を封印した呪術と見なせるのです。

 八、つまり、ヤー、もあるでしょ。

それもあるかもしれませんね。

偶数がほとんど使われないのは、陰の数だからです。

割れるでしょ。

 中が出る数ということだから。

そうでしょうね。

それに対して奇数は、割り切れない、言い換えれば、割れない、だから封印には陽の数として奇数を使うのかも。

一桁の奇数で五を用いることが少ないのは、六を人を表す数として用いるからというのもあるでしょうね。

 そういえば、六根清浄とか、六道輪廻とか、いいますね。

 六根は、視覚の眼根・聴覚の耳根・嗅覚の鼻根・味覚の舌根・触覚の身根・意識の意根でしたね。

 六道は、天道・人道・畜生道・餓鬼道・修羅道・地獄道でしょ。

日本をもう一つのイスラエルと見る人は四は死に通じるので、神の宣告である死を封じないためだというかも知れませんね。

 十一、三十三、七十七、八十八、九十九、はカッバーラに関係する数なのかしら。

 日本には、カッバーラが仕掛けられているの。

飛鳥昭雄と三神たけるなどは、そう言っていますけどね。

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