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秋田犬とヨーロッパ

秋田犬のヨーロッパ的な血液分布について、外国種との交配や交雑に由来するのではないかという疑問がでる情報に接したのです。

秋田犬の犬種としての歴史は、意外に浅いというのです。

しかも、外国の犬との交配の歴史を持っているというのです。

 これは、盲点でしたね。

品種として確立されてから、まだ100年程しか経ていないと指摘する声があるのです。

もっともこれは、秋田犬そのものが歴史が浅い犬であることを意味しないのです。

秋田犬の祖先犬は、「秋田マタギ」と呼ばれるマタギ犬、つまり山岳狩猟犬です。

元来日本犬には大型犬は存在せず、秋田マタギも中型の熊猟犬であったというのです。

 ところで、どんな特徴だったのでしょ。

遺伝子的には現在の秋田犬にも米国の研究チームにより、柴犬などのアジア原産の犬と同じルーツを持つ特徴が基本的に残っていることが確認されており、その中でも北方のマタギ犬由来とされるのです。

品種として確立されるまでには、様々な受難の時代があったというのですよ。

江戸時代、秋田犬は闘犬でしたよ。

 江戸時代の出羽国北部の秋田地方を納めていたのは、佐竹氏でしょ。

佐竹氏は、関ヶ原の戦いの後に常陸国から転封された外様大名です。

佐竹家では久保田城の佐竹東家を中心として、一族の西家、北家、南家を、それぞれ大館、角館、湯沢に配したのです。

特に佐竹西家の流れである小場家が治める大館地方では闘犬が盛んとなり、体が大きく強い犬を望む人々の手によって、マタギ犬と土着犬などの交配が行われたのです。

江戸幕府によって藩内の築城や武力の向上が厳しく規制されたため、慶長年間の1630年つまり寛永7年頃より、藩士の闘志を養うためとして闘犬を奨励したことが背景にあったと言われるのです。

この犬が秋田犬の原種となるが、当時は秋田県内でもタイプに地域差があり、この犬は県北の大館・能代地方の「大館犬」と呼ばれるものでした。

時代が移っても秋田の闘犬熱は衰えず、明治時代になると、他の地方の犬種や外国産の大型犬種との交配が積極的に行なわれるようになったそうです。

例えば、1897年(明治30年)頃からは、秋田と並んで闘犬の盛んであった高知県から土佐犬が入ってきているそうです。

その後土佐犬は、洋犬と交配を行って大型化するのです。

 じゃあ、秋田犬のヨーロッパ的血液分布には、闘犬として強くするための外国の犬との交配があったのでしょうか。

秋田犬には、柴犬などのアジア原産の犬と同じルーツを持つ特徴が基本的に残っていることが確認されているというから、相当、外国の血が入っているのでないかと言われそうですね。

 でも、土佐犬の血液型には外国と血液型分布が近いという話は聞かないね。

大型化のためだけの、一時的な交配だったのかもしれないですね。

さらに日清戦争以降は、秋田犬には、南樺太へ渡った人たちが持ち込んだ樺太犬や北海道犬も入っているのです。

一方、洋犬種としては、まず小坂銅山のドイツ人技師の飼い犬であったマスティフと思われる犬や、明治中期以降には、ジャーマン・シェパード・ドッグやグレート・デーンなどとの交配も行われたのです。

 何度もヨーロッパの犬と交配してるようでは、血液型分布がヨーロッパ犬に近いと言われても、どうせ、そのせいでしょうと言われそう。

これによって立耳、巻尾といったスピッツタイプ本来の特徴が失われた犬は、旧来の秋田マタギに対して新秋田と呼ばれたのですね。

江戸、明治と盛んに行われた闘犬だが、明治も末の1908年(明治41年)、社会的弊害に鑑みて、ついに県下に闘犬禁止令が発令されたのです。

警視庁が闘犬・闘鶏・闘牛を禁止するのが1916年(大正5年)7月26日のことです。

 8年も先駆けての禁止令は、県下での白熱ぶりを偲ばせますね。

 闘犬禁止令によって、秋田犬の飼育減ったのでしょうか。

どうでしょうね。

洋犬人気の高まりなどが重なって、秋田犬の飼育数はある程度減ったかもしれないですね。

 洋犬との雑化によるタイプの乱れは、さらに進んだのでしょうね。

ただ、疑問なのはいくら外国の犬との交配や交雑が進んだからと言って、血液型分布はヨーロッパ型に近づくでしょうか。

どの程度であれば、そうなるかという、目安はどのくらいかです。

 秋田犬に対するヨーロッパ犬の比率が、同数かそれ以上でないと、血液型分布がヨーロッパ型にならないかしら。

外国の犬との交配や交雑がいくら活発だったとしても、明治以降なのです。

しかも、活発だったのは明治期だけ。

秋田犬より外国の犬の方が多い状態が、あったと思えますか。

それより気になるのは、日本の犬は基本的にスピッツタイプとされることです。

スピッツは、犬の系統の1つで、複数の品種を含みます。

米国UKC(United Kennel Club)の分類法では北方犬種(Northern Breeds)とされているのです。

シュピッツとも発音されるスピッツ(Spitz)とはドイツ語で「鋭利な、尖った」という意味で、口のあたりや耳の尖った形からこのように呼ばれたのです。

口のあたりや耳の尖った犬の系統であるスピッツは、古い犬の特質を色濃く残す犬種なのですよ。

そして、日本の在来犬種はすべてスピッツ系です。

日本では、スピッツ系の品種の1つである日本スピッツを特に指してスピッツと呼ぶことが多いですけど。

秋田犬は、柴犬などのアジア原産の犬と同じルーツを持つ特徴が基本的に残っているにもかかわらず、血液型分布がヨーロッパタイプなのはなぜかということの方を、問うべきかも。

外国の血が混ざると、混ざった方の特徴は意外と表面に強く出るのです。

つまり、日本のほかの地域の犬は、秋田犬よりアジアの犬との混血が進んでいるとみたらどうでしょう。

 秋田犬は、ヨーロッパ犬との交配が活発だったので、元の血液型分布が保てたと見た方が、かえって合理的な説明になる。

秋田美人の色白の程度は、ヨーロッパに近い訳ですよ。

 ヨーロッパから来たと見ないと説明できないほど白い秋田美人がヨーロッパから連れてきたから、秋田犬の血液型分布もヨーロッパ型になった。

 そう見る方が自然。

考えてもみてくださいね。

ミロのビーナスが秋田美人の典型で、イタリア人やフランス人やスペインのバスク人と似た顔がいるのが、日本ですよ。

 そういえば、日本人にはゲルマンの血が入っていると見る人もいましたね。

 そして、スピッツは北方原産の犬種とされている。

スピッツは、古い犬の特質を色濃く残す犬種なのですよ。

 そして、日本は島国だから、古い時代の特質が残りやすい。

日本犬は、基本的にマタギの犬ということは、縄文は狩猟採集文化だったことからして、縄文時代から人の傍にいたとみたらどうですか。

縄文貝塚から出るネコの骨は、オオヤマネコのものと指摘されるです。

 オオヤマネコは、古代日本を除くと、アメリカとヨーロッパのネコね。

 ネコが自分で船に乗って、航海したと見るのは不自然ね。

人について行ったと見たほうが、納得いくでしょ。

 そういえば、アジアでオオヤマネコの話題は聞かない。

つまり、オオヤマネコはヨーロッパからアメリカ経由で日本に来たと見ないことには説明がつかないのです。

 秋田犬の血液型分布がヨーロッパ型なのは、祖先の血液型分布が保てたから。

日本はアジアの国だから古代はアジアだけ見れば良いと考えているから、他の地域の犬がアジアの犬との交配や交雑が進んでいるという見方ができないわけですね。

大正時代に入る頃から、学識者や関係者によって、「秋田犬を保存すべし」という世論が高まりを見せたのです。

保存運動の中心となったのは、雑化を危惧した時の大館町長であった泉茂家らです。

このような動きは秋田犬に限ったことではなく、明治期の舶来文物偏重や交通の自由化等による洋犬等との雑化と、その反動としての保存運動とは、全国の日本犬に共通の動きです。

このような流れの中、1919年(大正8年)には、種族保護に関する法律、すなわち天然記念物保存法が発令されたのです。

同法の制定に向けて中心となって動いた渡瀬庄三郎は、当時の「日本犬保守運動」の中心人物でもあります。

渡瀬らは翌1920年(大正9年)、内務省の視察団として、秋田犬の調査のために大館市を訪れたのです。

この時は秋田犬はタイプの雑化が甚だしいとみなされて、天然記念物への指定には至らなかったのです。

渡瀬は1922年(大正11年)の動物学会において 「日本犬の起源に就いて」と題する発表を行ったが、一番の議論の焦点は秋田犬であったというのです。

これ以後、同好者による秋田犬の繁殖改良・再作出への取り組みはいっそう勢いを増し、1927年(昭和2年)5月には、町長らによって「秋田犬保存会」が設立されました。

日本犬保存会が東京に 設立されたのは、これより1年遅い1928年(昭和3年)6月のことです。

日本犬保存会は、秋田犬、北海道犬、柴犬、甲斐犬、四国犬等の保存を目的とする団体です。

保存会の設立以降、秋田犬復興への取り組みはいよいよ本格的になり、1931年(昭和6年)春の、鏑木外岐雄らによる再調査を経て、同年7月31日、9頭の優秀犬が、「秋田犬(あきたいぬ)」として国の天然記念物としての指定を受けます。

これは日本犬としては初の天然記念物指定です。

この1年後の1932年(昭和7年)10月4日、帰らぬ主人・上野英三郎(東京帝国大学教授)を渋谷駅で待ち続ける秋田犬忠犬ハチ公の記事が「いとしや老犬物語」として朝日新聞に報道され、注目を集めます。

2年後の1934年(昭和9年)4月には、東京渋谷の駅頭でハチ公像が除幕されます。

ハチ公は翌1935年(昭和10年)3月8日、11歳4ヶ月で死亡したが、主人に忠実な秋田犬は、忠犬ハチ公の名とともに、ますます世に知られることになったのです。

この1934年(昭和9年)頃から、秋田犬保存会は犬籍登録を実施、1938年(昭和13年)には「秋田犬標準」も制定され、展覧会も開催されるようになります。

太平洋戦争(大東亜戦争)の勃発によって、一時中断されますけど。

もちろん現在は、社団法人秋田犬保存会によって、展覧会が実施されています

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