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詰め込み教育とゆとり教育を考えてみた。

知ることとわかることは、しばしば混同されます。

 そういえば、知ってるっていう言葉は、ちゃんと理解できてから言ってくれって、よく言いますね。

でも、言葉は知っているけど、どういうことかまでは、わかっていないってこと、ありますよね。

知ることとわかることを、記号でつなぐとこうなりますね。

知ること≧わかること。

わかることとは、知ったことを、理解していくことなのですね。

 あ、そうか。

 子どもの頃、なんでだろうって思っていたこと、大きくなってからわかるってよくありますね。

 電車に乗ってから移動している大人が不思議だったけど。

 どこから降りたら乗り換えが楽になるとか考えてたってわかってから、自分もやるようになってたとか。

知識として持っているだけでは、使うべきところで適切に使いこなすことはできないのでしょうね。

 なんでかって、わからないと使いこなせない。

それで、知識と知恵という、二つの言葉が必要となるわけでしょうね。

円周率の3.15を知識として知っていることと、知恵として使いこなすことは別というわけなのですね。

 しるこに塩を入れるとおいしいけど、砂糖や素材の甘さを引き出してくれるからなので、少々でいい。

 塩と胡椒を使う時も、塩を控える目的もあるのでバランスが大切。

とにかく、わかろうがわかるまいが知りたいから面白いから知識を集める段階と、集めた知識を理解しようとする段階が、交互にやってきます。

 知識を集めて知恵とする。

 知恵を使って知識を集める。

 わかるとは、この過程の繰り返しなのね。

言ってみれば理解の山の登山列車はスィッチバックで、登るものなのですね。

いったん止まって周囲を見回し、また登っていくのです。

学生時代は発想があるが知識がない、だからとにかく学ぶことです。

学んだものほど発想が膨らむです。

社会人は知識はあるが発想がない、だからヒントを得るために学ぶのです。

新しい知識は驚きと気づきの宝庫です。

言ってみれば充実期と身長期です。

 こういう、対比でみるといろいろと面白いことに気づくね。

 陰陽って、こんなことも考えるの。

物事を対比の中で捉えるのが、陰陽ですからね。

あれかこれか、でも、あれもこれも、でも、ないです。

物事は常に、対比のなかにあります。

そして、状況に応じてどちらの面が大きく出るか変わってきます。

対立の中に統一を見、統一の中に対立を見、全体を大きく捉える視点が持てるかどうかが、問われますよね。

 平たく言えば、一面的に見るな、多面的に見ろってことなのね。

そうですね。

詰め込み教育の是非は、しばしば議論になります。

詰め込むには、詰め込める心の状態に持って行ってあげることが大切です。

受け入れる姿勢ができていない相手に、詰め込もうとするのは時間と労力の無駄です。

 詰め放題で、ただ詰めるより、袋を詰めやすいように工夫する人っていますねえ。

 似たようなものねえ。

おもしろい!知りたい!そう思えればどんどん自分から詰め込むのでしょうね。

詰め込み教育をとやかく言う連中に限って、押し付けを詰め込みと勘違いしています。

詰め込むには、どう組み立てて与えていくかが大切です。

効率の良い詰め方と悪い詰め方があるのは、結晶を見ても言えます。

 最密充填って、結晶にある言葉でしょ。

 この方法って、詰め放題にぴったりなのよね。

我笛吹けど、汝等踊らず、我等踊れども、汝足らわず。

 聖書にある言葉ね。

実際はこうですけどね。

マタイ伝11章17に、あります。

「われら汝等のために笛吹きたれど、汝等踊らず、歎きたれど、汝ら胸うたざりき」

聖書の方は、聞く耳持たない者に、言うだけ無駄ということのようですね。

我笛吹けど、汝等踊らず、我等踊れども、汝足らわず。

これは、太宰治の作品だったです。

お互いがお互いを、力不足と言い合って、不毛な争いしていると皮肉を言いたかったのでしょうね。

 詰め込み教育派も、ゆとり教育派も、一面的な議論で不毛な対立。

ええ。

ゆとり教育が失敗したのは、ゆとりを作ったことではないです。

インプットなしのアウトプットはないのですよ。

インプットせずにアウトプットしろと言ったから破たんしたのです。

 無い袖は振れないって、ことでしょ。

 いちいち、横文字使わないでよ。

でも、言いたいことは、わかるでしょ。

 ええ、まあ。

のびのびインプットできる環境を作ってあげてこそ、本当のゆとりだったです。

3.15を3で良いなどとは、論外な話です。

3.14を3.1415まで教えるくらいの方が、よかったのですね。

 面白がらせるなら、もっと長くても良い。

まあ、そうですね。

誰でも、感じ取る能力は持ってるのでしょうね。

あとは、表現するのに必要な言葉を知ることと、適切な言い回しを選べることなのですね。

思考回路がちゃんとできているかどうかです。

 考える力が、ちゃんとできているかってこと。

考えをちゃんとまとめ上げるには、道筋立てて考えることも要ります。

 文章をきちんと書けるか、読めるかですね。

 筋道立てて考えると言えば、数式なんか典型ね。

数式も解けることは大事だが、それ以上に大事なのは文章として読める力なのですね。

数式は、普通の文章が文字でやっていることを、記号や数字でやっているだけです。

数学は計算の仕方を教えることも大事だが、論理的思考を身に着けることがもっと大事なのですよ。

数式は、数学の言葉で書かれた言語なのですね。

 だったら、外国語とある意味同じことですね。

もっと、ここに注目した数学教育があっていいですね。

外国語教育も、自国とは違う論理の組み立て方を理解することです。

数学教育も、論理的な文章の組み立て方を理解することです。

ここに注目したら、もっと面白い教育方法が出来上がりそうですね。

 誰かやってみたら良いのに。

それは、教育学者にやってもらいたいですね。

 やらないの。

体がいくつあっても、たらないです。

一つの内容を表す言い回しは、複数あります。

一つの答えが導き出される式も、複数あります。

どれを選べばいいかは、どういう状態にあるか、どういう条件にあるか、などで決まります。

 どっちも、場の空気が読めないと的確な選択はできませんね。

詰め込み対ゆとりの構図で、教育を論じること自体、馬鹿馬鹿しいです。

 量を詰め込むにはゆとりがいるし、ゆとりがあればたっぷり詰め込めますね。

詰め込むゆとりのできた生徒を、いかに効率よく増やすかこそ、考えて欲しいものなのですね。

どうすれば良いかの答えは、現場にあるはずです。

本当に、ゆとりが必要だったのは、生徒一人一人をきちんと見る時間のない教員です。

ゆったりした心で、一人一人に向き合ったなら、もっと効果的な詰め込み方をきめ細かく指導できます。

 それもわからん馬鹿は、教育行政にはいりませんよね。

 ゆとりという言葉を、知ったふりして振りかざして教育に混乱と停滞しか、残らなかったからですね。

知ることと、わかることは、別なのですよ。

そして、知ることもわかることも、限界はないです。

極めれば、いつの日か必ず神の領域にまで達するのです。

 まさに、我々に似せて人を作ろうですね。

そうですね。

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コメント

音楽の知識と曲作りは別物のような気がしますが、それと同じように知識と知恵も全く別物の可能性もあるかもしれませんね。

投稿: Q | 2011年3月11日 (金) 08時10分

知識として知っていることと、生かせることは、別次元という側面は確かにありますね。

学者は専門分野に詳しいだろうけど、きちんと説明できる議論を立てたり理論を展開できる人は、どれだけいるかは別ですよね。

投稿: cova | 2011年3月12日 (土) 21時31分

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