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茶器

茶器は、ある意味哲学的です。

 景色や見付から銘をつけていくさまは、まったく奥深いですね。

 しかも形の歪みなども、全て受け入れていくでしょ。

 日本独特のものでしょうかね。

日本独特のものでしょうね。

茶器の歪みは、静の中に動をみる、所作の様式は動の中に静を見る、そういうことでしょうね。

 まさに陰陽ですね。

 景色は、何を意味するのでしょうね。

景色は茶器に世界を見ます。

だから茶道は、生き様そのものです。

形の歪みなども、全て受け入れていきます。

形も色もあるがままを見、面白い見立てができれば喜ぶ感性は、欧米では前衛芸術でもなければまず、排されてしまうでしょうね。

 景色は、茶器に世界を見るというと。

それは、世界は全部茶室と見るということです。

 裏を返せば、世界を茶器とみる。

茶器は、飲み干すでしょう。

つまり、世界もすべてを受け入れることに通じるわけですよ。

 茶道は、生き様そのものですね。

だから、茶器は、哲学的存在となるのでしょうね。

茶器が一つある空間は、すべて茶室であり、茶道の場ということでしょうね。

歪みは、あるがままだから許されます。

寛容の心だけれど、だから、甘えてはいけないです。

あるがままを許してくれるからこそ、許される姿であることが逆に求められます。

それが、作法ということでしょう。

 聖書は、あなたは自分の正しいと思うようにせよ、判断は神が下すという立場、なんだか似てますね。

茶道の作法と、ミサの作法を比較して、似ているという人もいますよ。

茶道の成立は安土桃山時代、キリスト教が公然と布教された時代に重なります。

 利休の周辺にも、クリスチャンが多かったと指摘する人もいますね。

茶道の成立とキリスト教、まだまだ、これからいろんな議論が出るでしょうね。

話を戻しますね。

茶器の歪みは、下手とは違います。

上手を目指したうえで、それでもなおかつ出てくる歪みだから、許されます。

景色は、上手のなかにあってこそでしょう。

下手の中では、ただの恥の上塗りです。

 歪みも、深いものですね。

 日本庭園と同じく、作為を感じさせない自然の凝縮だからでしょうね。

 アシンメトリーは、東洋美の真骨頂ですね。

それが、静のなかの動、でしょうね。

だから、あえてアシンメトリーで動を表現します。

静の中に動、動の中に静です。

 つまり、とどまらない。

 完成しない。

 常若に通じますね。

常若は、日本文化を読み解くキーワードの一つでしょうね。

武家が茶を愛したのは、密会の場として好都合だったこともあります。

不穏な動きは静寂を破るので、すぐに察することができます。

また、狭いので刀に向かないです。

それだけではないです。

上辺だけの者は、茶室ではすぐに襤褸を出したでしょうね。

 ある意味、怖い空間ですね。

一流の茶人は、一流の哲学者にして人間観察者ですからね。

だから一流の武人は、一流の茶人を傍におきたがります。

時に一流の武人は一流の茶人でもありました。

 なるほど。

茶は、単なる造形美にとどまらず哲学的な要素も包容しているということでしょうね。

 深いものですね。

そうですね。

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