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聖書には猫の出てくる記事もあった。

エレミヤの手紙に、聖書では珍しく猫がでてきます。

 旧約と新約を通して、猫が出るのはエレミアの手紙だけですよね。

エレミヤの手紙は、バビロンへ拉致されることになった民への手紙という形式を取っており、偶像礼拝の愚かさ、無力さを一貫して指摘しています。

偶像は生命を持たず、歩けず、喋れず、何も感じず、と無能さを列挙した上で、それを畏れる者もまた嘲られるというのが主題です。

エレミヤの手紙は、カトリック教会と正教会では旧約聖書に含めている書物の1つです。

そういえば、続編付というのもありますね。

一方、ユダヤ教とプロテスタント諸派では外典として扱いますからね。

 だから、聖書に猫が出てこないと言われるわけですね。

そうですね。

バルク書の第6章として含まれることもあり、哀歌の後続の小編として位置づけられています。

ちょっと長くなるけど、どんな文脈で猫が登場するか見てみましょう。

バビロニア人の王によって捕らえられ、バビロンに連れて行かれようとしている人々に、神から命じられたことを伝えるため、エレミヤが送った手紙の写し。

1、あなたたちがバビロニア人の王ネブカドネツァルによって捕らえられ、バビロンに連れて行かれようとしているのは、神に対して罪を犯したからです。

2、バビロンに行ったら、何年もの間、七代にも及ぶ長期間そこにとどまることになるでしょう。しかしその後、神はあなたたちを平和のうちに連れ戻してくださいます。

3、バビロンでは、金や銀や木でできた神々の像が肩に担がれて、異邦の民に恐れを抱かせているのを見るでしょう。

4-5、気をつけなさい。群衆が神々の像を前から後ろから伏し拝むのを見て、あなたたちまでが異国から来た民に似た者となり、それらを恐れるようなことがあってはなりません。むしろ心の中で、「主よ、伏し拝むべき方はあなたです」と言いなさい。

6、神の使いがあなたたちと共にいて、あなたたちの生活を見守っているからです。

7、神々の像は金や銀で覆われ、その舌は職人が磨き上げたものであり、まやかしにすぎず、口を利くこともできません。

8、おしゃれな娘にでもしてやるように、人々は金で冠を作り、

9、神々の像の頭に載せています。ときには祭司たちが、神々の像から金や銀をくすねて自分のものとし、

10、その一部を神殿娼婦に与えることもあります。神々の像は、人間にするように、衣で飾られますが、もともと銀や金や木でできていて、

11、さびと虫食いから身を守れないのです。紫の衣をまとってはいますが、

12、自分の上に神殿の埃が積もるために、顔をふいてもらう有様です。

13、また、地方総督のように笏を持ってはいますが、自分に対して罪を犯す者を殺すことができません。

14、右手に短剣や斧を持ってはいますが、戦争や盗賊から身を守ることもできません。このように、それらの像が神でないことははっきりしているのですから、恐れてはなりません。

15、人間が作った器は、壊れてしまえば何の役にも立ちませんが、

16、彼らの神々の像も同じようなもので、神殿に据えられているだけのものです。その目は、出入りする人々がたてる埃にまみれています。

17、また、王に危害を加えた者を死刑にするとき城門を閉ざすように、祭司たちは神殿を扉と鍵とかんぬきで固めて、盗賊に略奪されないようにします。

18、祭司たちは必要以上にともし火をともしますが、神々の像はそのともし火一つ見ることができないのです。

19、神々の像は、あたかも神殿の梁のようなもので、よく言われるように、その内部は虫に食われています。地からわいた虫が体や衣をかじっても、何も感じません。

20、その顔は神殿に漂う煙で黒ずんでいます。

21、その体や頭の上を、こうもりやつばめ、小鳥が飛び交い、猫までやって来ます。

22、このようなことで、それらの像が神でないことは分かるはずですから、恐れてはなりません。

まだ後があるけど、いかに偶像崇拝が馬鹿馬鹿しいか述べる文が続くだけなので省きますね。

 猫まで、って言ってますね。

要するに、神がどれだけ呆れているか表すために、猫がひきあいにだされるわけですね。

 おそらく、動物たちは象徴でしょうね。

蝙蝠は無節操、燕は見栄っ張り、小鳥は小者、でしょうね。

もちろん、蝙蝠は無節操じゃないし、燕は見栄っ張りじゃない、小鳥は小さいけど小者というのとは違うわけですけどね。

だとすると、ここでいう猫は、甘言で人々を誑かす偽物の救世主=サタンの回し者を仄めかすのでしょう。

 あ、そうか。

 猫はイエスのメタファーだからですね。

猫はイエスのメタファーという場合、猫の性質を丸ごと使ってイエスの比喩にするわけでしたね。

逆に、イエスは猫のメタファーといえば、イエスの性質を丸ごと使って猫の比喩にすることになります。

 だからといって、猫とイエスは等号では結べないですよね。

つまり、猫が来たことをイエスが来たことと取り違えてはいけないわけですね。

猫はイエスの象徴であって、イエスそのものではないですから。

 そこで猫は、偽物イエスに成りすますこともできるわけでしょ。

 もちろん、ここでも猫自体が偽物イエスではない。

 イエスもどきではあるけど。

象徴するものと象徴されるものの混同が、イエスもどきをイエスと取り違える過ちに繋がるわけですね。

 偶像もまた象徴するものであって、象徴されるものではない、そういうことですね。

そういうことです。

 神の偶像は説明の方便として生まれたのであって、神自身ではないから間違えるなと。

神を見失うなとは、象徴するものと象徴されるものを混同するな、という意味でもあるわけですね。

 本質を見失った段階で、真理は詭弁に堕落する。

そういうことです。

崇められた偶像に災いを齎すことなく寄るとすれば、この場合の猫は反イエスの象徴以外あるでしょうか。

 そういえば、アークは異教徒に持ち去られた時、偶像に悪戯をして恐れさせましたね。

猫は、魔女狩りでは悪魔(akuma)の化身と見なされて問答無用で殺されたこともありました。

魔女狩りの最盛期は16世紀から17世紀であったが、17世紀末になって急速に衰退していきました。

17世紀末期に魔女狩りが衰退した理由は、いろいろ議論があるようです。

ただ、知識階級の魔女観が変化し、裁判も極刑を科さない傾向が強まったこと、カトリック・プロテスタントともに個人の特定の行為の責任は悪魔(akuma)などの超自然の力でなく、あくまでも個人にあるという概念が生まれてきたことは確かと言われます。

一般庶民の間では、依然として魔女や悪魔(akuma)への恐怖があって「魔女」の告発が行われてたようですけどね。

肝心の裁判を担当する知識階級の考え方が変化して、無罪放免というケースが増えたことで、魔女裁判そのものが機能しなくなっていったようです。

イングランドで1624年に制定された魔女対策法が廃止されたのは1736年であり、最後の40年間はこの法律によって死刑となったものはいなかったと言います。

近代でさえこうですよ。

 本質を見失ったことで始まった魔女狩りは、袋小路に入って破綻した。

そうなるでしょうね。

聖書編纂の時代はなおさら、異教で神と結び付けられた過去のために、猫は、偽物の神の象徴としても、意識されていたのでしょう。

つまり、蛇も猫も、神と悪魔(akuma)の二面性を理解しないと聖書を読み違える危険性があるといえるでしょう。

 アダムとイブを誑かした蛇と、出エジプトで人々を癒した蛇ですね。

ラーがアッラーの正体であり、アッラーは聖書の神と同一です。

そして、ラーは猫神です。

当然、イエスも猫神なわけですよ。

 そして猫は、預言者の象徴ですね。

 エレミヤの手紙で猫までやって来るという場合の猫は、具体的には預言者を指すのですね。

そうなりますね。

 本物の預言者ではないのに、本物が礼拝に来たかのように偶像崇拝者は思い込んで喜ぶのでしょ。

 しかも猫は、イエスに匹敵する救世主であるかのような預言者を指していますね。

ええ、コーランも指摘しているように、イエスは御父エロヒムの預言者です。

コーランでは、御父エロヒムはアッラーと名乗っていますけど。

 イエスは、旧約、新約、コーランを通して御父エロヒムの預言者ですね。

ただし、絶対三神の1人でもあるという、別格の預言者ですけどね。

 猫はイエスのメタファーであるとともに、預言者のメタファーでもあるが、メタファーでしかないから間違えてはいけないですよね。

神を見失うなというのは、そういう意味でもあるわけですよね。

 そうなると、さびと虫食いも、腐敗や退廃の象徴ですね。

そうなるでしょうね。

ときには祭司たちが、神々の像から金や銀をくすねて自分のものとし、とあります。

さびと虫食いは、宗教を食い物にしている祭司のような連中のことでしょうね。

今回は聖書に一か所だけ登場する猫について、考えてみました。

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