« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »

2011年8月

天狗の団扇はイエスをあおぐ?

天狗の団扇は9枝のメノラーが起源かという、疑問を言う人がいます。

普通、メノラーといえば7枝を連想するが、9枝のメノラーもあるからです。

そして、天狗の団扇の羽も9枚だと。

9枝のメノラーはヘブル語で「ハヌカ」と呼ばれ、ハヌカの祭日にのみ用いられるといいます。

「ハヌカ」と呼ばれる9枝のメノラーは、ユダヤのマカベア家が、紀元前165年にギリシア・シリアに対して勝利したことを祝って作られたそうです。

 9という数は、カッバーラで十戒を授けてくださったヤハウエを表したとかでしょうかね。

一応、こういう説明がありますね。

ギリシア・シリアに対して勝利した際に、1日分の油しかなかったのに、7枝のメノラーのともし火が8日ももった奇蹟にちなんでいる。

9番目の枝は、他の枝を照らすために設けられた。

天狗の寺にある羽扇は、9枚が多いようです。

ただ、天狗の団扇には9枚以外にもあるのですよ。

例えば11枚。

中には、17枚というのもあるようです。

 そういえば、19枚というのも見た覚えがありますね。

しかし、共通するのは奇数枚ということですよ。

 カッバーラでいう陽の数ですね。

扇は奥義に通じるという暗示があることは、いえるでしょうね。

陰陽では、奇数が陽ですから。

 11枚、陰でいうと12は12支族ですね。

11自体は11面観音を指すという解釈も、有り得ますよ。

 11は生命の樹のセフィロトの数、という解釈も、できますけど。

問題は、17枚や19枚ですよ。

 17枚は16を暗示していると見れば、16弁菊花紋。

 これとそっくりなもの、故フセイン大統領の腕輪にありましたね。

 イラクに古代から伝わる王家の紋だと、言ってたでしょ。

 天狗に古代イスラエル人とかユダヤ人説が出ることと合わせると、面白いですよ。

 これを菊花紋ではなく太陽と見れば、イラクのような中東の王家はエジプトのように地上の太陽神として自らを位置づけていたことになるでしょうね。

19枚が、問題でしょ。

 19が20を暗示していると見れば、生命の樹と死の樹のダートを除いたセフィロトの数。

間の18は、どうなりますか。

 10は十字架で、8は磔刑の後昇天して隠れたイエスとか。

 8は陰で、陰は隠れを表すから。

そう解釈したら、天狗はキリスト教徒ユダヤ人がモデルという説になるでしょ。

天狗にはユダヤ人モデル説があるから。

 八咫烏は天狗の最高位という情報もあるようですけど。

 一般には、天狗の上位は大天狗とされるけど。

八咫烏は太陽に住むとされる鳥ですね。

もし、天狗の扇が太陽神崇拝を暗示するなら、有り得るでしょうけどね。

 カラス天狗がいるでしょ。

 カラス天狗は八咫烏と天狗を繋ぐ存在とか。

それではまるで、御父と御子と聖霊の絶対三神でしょ。

 だって、扇は奥義に通じ、ユダヤ教の奥義はカッバーラでしょ。

そうきますか。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

宇陀と辰砂と秦氏?

奈良県宇陀市は、万葉集の歌に『大和の宇陀の真赤土のさ丹著かば そこもか人の 吾を言なさむ』と呼ばれたほどの真赤土の産地でした。

真赤土とは辰砂のことで、辰砂から水銀が取れます。

 日本では古来「丹(に)」と呼ばれた、水銀の重要な鉱石鉱物ですよね。

ちなみに、辰砂の別名には、賢者の石、赤色硫化水銀、丹砂、朱砂、水銀朱などがあります。

宇陀は、奈良時代の辰砂の主要産地でした。

宇陀地方の辰砂採取は4~5世紀にまで遡れ、丹生氏が採取していました。

丹生氏が採取していた頃は、露天での採取だったようです。

丹生氏は、元を辿ると日前国懸神宮神職家であった紀国造家にまで遡るようですね。

奈良の丹生氏は、丹生都比売神社や丹生川上神社の社家の祖となる小牟久から分かれたようです。

 水銀産地である宇多に神社を構えるあたり、殖産を盛んに行っていた秦氏の流れでしょうかね。

水銀の坑道採掘は6世紀後半に秦氏によってはじめられ、この宇陀の地は秦氏の管轄下におかれたとされています。

坑道採掘をしていなかったから、秦氏の一族ではないと見られているかもしれないですね。

 辰砂は、硫化水銀の一種ですよ。

 水銀を安全に取り扱うのは、ある程度の知識がないと難しいです。

 丹生氏というのは、丹の生産を管理する氏という意味でしょ。

さまざまな説があっても、大きく見れば秦氏の一族である可能性はありそうですね。

ちなみに、宇陀の水銀採取は平安初期にはおわり、その後は伊勢の水銀に代わっていきました。

 でも、何時頃から宇陀という地名だったのでしょうね。

それは、気になりますね。

同じ読みで宇多と書くと、大阪の地名になりますね。

 泉大津市宇多ですね。

泉大津市は、大阪府泉北地域に位置する市ですね。

 そのあたりも、古くから秦氏のいた地域でしょ。

市名は和泉国の国府の外港、つまり国津であったことに由来します。

和泉木綿の集散地となった江戸時代に真田紐をはじめとした繊維産業が興ると、これを地盤に明治以降毛布の製造が始まり、毛布のまちとして発展しました。

国内産毛布においては、現在も9割超のシェアを占めます。

港湾も昭和初期に近代化され、堺泉北臨海工業地帯の一角を占めます。

近年は物流拠点としての性格も強めてきているし、港湾や中心駅の再開発が進み、人口は増加傾向にあります。

ウダという音から言って、秦(ハタ)の転化した地名とみるのが自然でしょうね。

 遡れば、当時の日本語はワ行母音と言っても良い二重母音でしたからね。

 そして、秦(ハタ)氏はもともと秦(ハダ)氏と読まれていた。

 欠落しやすいH音が抜ければ、簡単にウダやウタに変わりますね。

 秦氏と言えば、最大の特徴は、殖産豪族にありますからね。

香川県綾歌郡宇多津町も、周辺はやはり古代から秦氏の地域ですね。

 石川県に、地名ではないけど金沢市に宇多須(ウタス)神社というのがありますね。

 宇多須(ウタス)も、秦氏から転化した音でしょうね。

秦氏には、いくつかの支流や分家があるけど、その中に石川家というのがあります。

そして、石川郡は石川県の他に福島県や大阪府にもあります。

 福島県や大阪府、秦氏の地域ですね。

 石川県の石川郡も、秦氏の一族である石川家に由来していそうですね。

 石川県の石川郡は、かつて加賀郡から分かれたでしょ。

 加賀は、秦氏の一族である賀茂から転化した音とみえますよ。

もし、奈良の宇陀(ウダ)が秦(ハタ)の転化としたら、こういう展開を考えても良いかもしれないですね。

4~5世紀から辰砂採取をこの地で行っていた秦氏の一族が、古来「丹(に)」と呼ばれた辰砂に因んで丹生氏と呼ばれるようになった。

6世紀後半に水銀の坑道採掘が始まったのは、より多くの産出が求められるようになったからで、土木に長けた別の秦氏一族が乗り込んできた。

しかし、辰砂の扱いに慣れていた丹生氏は、その後も辰砂に関わり続けたのでしょうね。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

プレッツェル

プレッツェルは、ドイツ語でBrezel、英語でPretzelと呼ばれる、結び目の形が独特の焼き菓子です。

ドイツやスイス、オーストリアで、とても人気があると言います。

イタリアでは、特別州のトレンティーノ=アルト・アディジェ州でも人気だと言います。

トレンティーノ=アルト・アディジェ州は第一次世界大戦まではオーストリアに帰属していたため、現在もイタリア語よりドイツ語を主に使用する住民が多数派を占めるといいます。

トレンティーノ=アルト・アディジェ州は公式サイトも、ドイツ語版とイタリア語版が用意されているそうです。

 ようは、ドイツ語圏で人気があるというわけですか。

どうも、そのようですね。

チェコでも、人気があるようですよ。

タオルの柄にまで、するくらいですから。

かつて、チェコと統一していたスロバキアや、帝国時代のオーストリア領だったハンガリーでも、よく食べられているようですね。

神聖ローマ帝国は、ドイツ語でHeiliges Römisches Reich、 ラテン語でSacrum Romanum Imperium、イタリア語でSacro Romano Imperoとよばれます。

紀元800年から1806年にかけて、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家です。

 ほぼ、神聖ローマ帝国領だった地域と、重なるようですね。

そこが、面白いですね。

 腕組をしたような形を示していると、言われますね。

語源はラテン語ブラーキテッルム brachitellum に由来し、その語根は bracchium 「腕」です。

古高ドイツ語の名称であるbrezitella を経て、現代の諸方言につながっています。

小麦粉とイーストを原料とし、焼く前に数秒間3%から5%の水酸化ナトリウム水溶液につけます。

焼ける間に、水酸化ナトリウムは二酸化炭素と反応して炭酸ナトリウムと水に変化し、表面が特徴的な茶色になります。

稀に、炭酸水素ナトリウム水溶液にくぐらせることもあります。

焼き上げる前に、岩塩の粒をまぶします。

柔らかく焼き上げた大きいものと、固く焼いた小さいものの2種類があります。

パンのように柔らかく焼き上げたプレッツェルは、焼きたてを食べ、長期の保存には向いていません。

スナック菓子のように固く焼きしめた小さいプレッツェルは、保存性があります。

柔らかく焼きあげたプレッツェルは、ドイツの伝統的なプレッツェルです。

ドイツではプレッツェル売りが、パブなどビールを飲む場所を回ってビールを飲んでいる客に販売する伝統があります。

北米ではスナック菓子タイプのプレッツェルとパン・タイプのプレッツェルの両方が普及しており、どちらも同じPretzelの名称が使われています。

スナック菓子タイプのものは、アメリカで作られた食べ物で、北米を中心に販売されています。

アメリカにおけるプレッツェル市場は、1億8000万ドルを越える巨大な産業だといいます。

 スーパーマーケットで、袋入りで市販されているのでしょ。

北米の固いプレッツェルは、ビールを飲むときのおつまみとして食べるのですって。

スポーツ観戦時のスナックとして、定番だそうです。

 ドイツでも、ビールのおつまみによく食べられるそうですよ。

プレッツェルの起源は、はっきりわからないそうです。

一般的な説では、プレッツェルはブレーツェル Brezel、あるいはブレーツェ Brezeと呼ばれている南ドイツのバーデン地方で食べられていた焼き菓子が広まったものとしています。

ドイツとの国境に近いフランス・アルザスの料理であるとする説も、あります。

最初に作られたのは中世ヨーロッパ時代とする説もあれば、ローマ帝国時代だとする説、他にも古代ケルト人の菓子であったとする説もあります。

ローマ帝国説でいえば、紀元610年頃、イタリアの修道士がお祈りの勉強をしていた子どもたちのために、余った生地で焼いたのが始まりという説もあります。

 紀元610年頃のイタリアと言えば、のちに西ローマ帝国と呼ばれるローマ帝国西方領だった時代ですね。

プレッツェルの独特の形についても、いろいろな説があります。

窃盗の罪を犯したパン職人が、一つのパンから太陽を一つの角度から3度見ることができれば牢獄に入らなくても良いと領主に言われ、生地をプレッツェルの形にねじり上げて焼き上げたという伝承があります。

プレッツェルの形には、ほかにも、祈りをささげている修道士を模ったものだとする伝承があります。

また別の伝承によると、この3つの穴はキリスト教の三位一体を象徴しているとします。

 修道士が作った、修道士を模った、3つの穴はキリスト教の三位一体を象徴、ここまでくると、修道士説は有力に見えますね。

古代ケルト説、ローマ帝国時代説もあるから、発祥はイタリアというのがもっともらしいですね。

 でも、ドイツの伝統的な菓子というのは、不思議ですね。

 神聖ローマ帝国と、ドイツの関係の深さを物語る菓子なのでしょうかね。

そうかも知れないですね。

ちなみに、いわゆる西ローマ帝国は1453年に滅んでいるから、神聖ローマ帝国は西ローマ帝国を実質的に引き継いだといえるでしょうね。

いずれの伝承も後付けされたものであるようで、答えはわからないようですが。

 面白いことに、プレッツェルはパン屋のシンボルとして、よく店の看板やマークに使用されることがあるといいますね。

かつてドイツでは、3つの輪をつなげた看板がパン屋の看板として使われていたそうです。

しかし、プレッツェルの形が看板として使われたのか、プレッツェルが看板の形に作られたのかはっきりしないようですね。

 キリスト教の三位一体説、修道士が作ったのが始めとも、修道士を模ったともいわれるのでしょ。

イエスは、最後の晩餐で弟子たちの前に、パンと葡萄酒を示し、それぞれ、自分の肉と血になぞらえて与えましたよね。

そういえば、柔らかく焼き上げたプレッツェルは、もちもちした食感だそうです。

 じゃあ、やはり、プレッツェルは、イエスの肉を象徴するパンなのでしょうかね。

そうかも知れないですね。

一緒に好んでの飲まれるのは、ワインではなく、ビールですけどね。

追記

プレッツェルが最後の晩餐でしばしば描かれるという情報を得ました。

このサイトで、実例とプレッツェルの形の変遷が見られます。

プレッツェルについて調べてみました。

おいしい手帖

| | コメント (0) | トラックバック (0)

調理法から日本の食文化を見るとヨーロッパが透ける?

調理と言えば、いまでこそ電子レンジとかあるけど、昔は焼くか煮るくらいしかなかったはずではないでしょうか。

 そういえば、蒸し焼きって言いますね。

 地面に穴掘って、大きめの葉に包んだ食材を入れた上で焚火するから、焼いているのだけど葉で包むから結果として蒸せてしまう。

炒めるのだって、焼きの延長線上の調理法と言えますね。

焦がしすぎないように、混ぜる行為が炒めるということでしょ。

揚げるのも、衣をつけたら石焼も鉄板焼きも、串焼きや蒸し焼きも出来ないから、油に入れて加熱することを思えば焼きの延長線と言えるでしょうね。

 煮物も、汁付けたままで石焼も鉄板焼きも、串焼きや蒸し焼きも出来ないから汁を煮締めるわけだから、これも焼きの一種でしょうね。

煮物というけど、煮汁は染み込ませたりからめたりするので、ほとんど盛り付けないですからね。

 そもそも、鍋に煮汁を焦げ付かさない程度しか残さないでしょ。

煮汁は、ひたひたにして、煮締め終わったとき煮崩れないくらいしか入れないですね。

箸の文化では、汁物でも掴める固さでやめるのは、基本ではありますけど。

 匙の文化では、掬えるようにするので多少煮崩れても構わないけど。

和えるとか、漬けるというのも、調理と言えば言えるでしょうね。

和えるとは、食材に調味料などを加えて混ぜることです。

 和え物は、浅漬けの一種といえるのでは。

確かに、本格的な漬物は発酵しているけど、浅漬けは発酵まで行ってないですね。

和え物は漬ける場合と違い、材料と合せてから余り時間を置かずに提供する場合が多いですけど。

 食材に調味料などを加えて混ぜるという点では、浅漬けとどう違うかというのはありますね。

浅漬けとは胡瓜、大根、茄子などの野菜を調味液に短時間漬けた漬物のことで、即席漬け、一夜漬け、お新香(おしんこ)などとも呼ばれるから漬ける時間の差はありますよ。

 調理法として、酢漬けや糠漬けなどの漬物を短時間で引き上げたものを浅漬けと言う場合もあるでしょ。

古漬けに対する浅漬けは、この短時間のものを指しますね。

 程度の差はあっても、発酵という点ではチーズに似てますね。

フレッシュチーズという、全く熟成させないか、あるいはほとんど熟成させないまま食用とするナチュラルチーズの種類もありますね。

他のナチュラルチーズに比べて、水分が多いのが特徴です。

カード(凝乳)を切っただけの物やクリームを添加したもの、ホエーを煮出したもの、塩水に浸けて発酵を止めたままで保存するもの、ナッツや果物を混ぜ込んだものなど、いろいろあります。

古漬けに対する浅漬けは、フレッシュチーズに近いでしょ。

 古漬けの風味は、どことなく、ピクルスに近いような気もするけど。

代表的なピクルスは、塩漬けにしたキュウリなどの野菜を、酢、砂糖などからなる漬け液につけ込んだものですね。

乳酸菌により発酵させるけど、酢を使うことで発酵させる工程を省略することもありますよ。

和え物は、むしろ、ノンオイルドレッシングのサラダと言えるのかも。

 日本とヨーロッパ、比べると意外と似ているところがあるけど、鉋を引くと押すの違いのようにところもあるでしょ。

 天麩羅は、漢字があるから古いように思えるけど、ヨーロッパから来た調理法でしょ。

 天婦羅とも書くように、当て字ですよね。

語源に諸説あるけど、いずれも南蛮渡来の語としていますね。

奈良・平安の頃の唐から伝わった唐菓子で、米の粉などを練って油で揚げたものや、鎌倉期に上陸した精進料理で、植物性の食材を衣揚げしたものもあるというけど、外来の調理法には違いないですね。

 ただ、中国にも西方から渡来した調理法でしょう。

麺も、地中海に大元の起源がある可能性は捨てきれないですからね。

中国で多彩な展開を遂げたのは、紛れもない事実ですけど。

中国文化を遡ると、現在の領土から見ると南方に発したと言えそうです。

そして、意外と西方、特に中東や地中海と繋がりがありそうですからね。

 拳法のときも、中東から西と東に独自の展開をしながら伝播したと見ましたね。

つまり、揚げるという調理法は、中東に発して、西と東に独自の展開をしながら伝播したやり方でしょうね。

 西方や中国には油を使う調理法が伝播し、日本では煮締めという汁を使う調理法が揚げるという手法が伝わった後も独自の発展をしたのかしら。

煮締めは、相当古くから日本で行われていたかも知れないですね。

日本の代表的な家庭料理の一つとされ、外国でこれに近い調理法は、少なくとも私は聞いたことはないです。

菜種油や椿油も古いけど、少なくとも菜種油よりエゴマ油の方が日本では古かったようです。

 東南アジア原産とされるシソ科の一年草で、シソ(青紫蘇)とは同種の変種でしょ。

地方名に、食べると十年長生きできる、という謂れから「ジュウネン」などがあるそうですね。

日本でも、古代からエゴマのドレッシングを用いたサラダがあったと見られています。

日本では、インド原産のゴマよりも古くから利用されていて、考古学においてはエゴマをはじめとするシソ属種実の検出が縄文時代早期から確認されているそうです。

エゴマ種実は、縄文中期の長野県荒神山遺跡で検出されているといいます。

それに、縄文クッキーと言いえるものが、クッキー状炭化物出土したことでわかっているけど、このクッキーからもエゴマが検出されていることから食用加工されていたと考えられるそうですよ。

 クッキーとドレッシングのサラダ、ここだけ聞いたらヨーロッパを連想してしまう…。

栽培植物としての観点から、縄文農耕論においても注目されているそうです。

クッキー状の炭化物は、縄文中期の長野県の曽利遺跡においてはじめて発見され、東日本において特徴的に出土するといいます。

 使われた油については、栗や胡桃も材料にあることから胡桃油も可能性はないですか。

輸入食材や業務用食品店に割りとあるのが、フランス産の胡桃油だそうです。

縄文人とフランスやスペインとの関連の強さから、胡桃油が縄文クッキーに使われた可能性はありそうですね。

現在の研究ではアジアばかりが注目されるので、東南アジア原産と見られているエゴマの方に目が行っているようですが。

追記。

和え物にゴマ油を少量、香りづけにたらすと美味しいのは知っています。

ただ、和え物に必ず加えるとまで言い切れないので、今回はノンオイルドレッシングのサラダに分けました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

河童と天狗とユダヤ人と?

河童とユダヤ人、遠目にはよく似て見えるのではないかと話したことがありました、

ユダヤ人も、お皿伏せたような帽子です。

これでマント羽織ったら、遠目には河童みたいになるのではと、ふと思いました。

そのとき、河童と天狗には、奇妙な類似があると話したのですよ。

天狗は修験に、修験はユダヤの習俗に、姿が似ていると言われることも。

そうしたら、イスラエル人に知り合いがいると仰る方から、面白い情報を戴きました。

ユダヤは、元々胡瓜を食す文化だそうです。

インドでの半年の同居生活中、サラダに胡瓜は欠かしてませんでしたと、語ってくれました。

頭のお皿、高い鼻、好物の胡瓜、確かに河童を連想できるそうです。

やはり、この人もこんな感想言ってくれました。

「自分も河童と天狗とユダヤ人の関連性に興味があり、自分なりに推測してて同じことに興味のある方がいる!と嬉しく思いました。」

これは、嬉しかったですね。

 イスラエル人を知っている人が、同じ推理をしているのですね。

そして、こんな議論を展開してくれました。

「世界各地から日本に辿り着いた漂流民もきっといたことでしょう。なかにはユダヤ教徒もいたかも知れません。」
「河川敷や、秩父等河川流域の山間部に残る河童や天狗伝説はそういった漂流民がたまたま日本に漂着し、その後利根川等の河川から内地に移動した後に定住を図ったと考えた方が自然と思います。」

話は、してみるものです。

私も、そういった可能性は十分にあると思います。

 そういえば、ユダヤ人のあのお皿のような帽子、キッパというらしいですね。

 あるサイトで偶然知りました。

 こういう名前です。

 キッズポータル
 子供向けのサイトの情報や日々の出来事なんか書いちゃいます。
 http://ameblo.jp/kidsportal/entry-10474721937.html

キッパ、カッパ、似てますね。

 飛鳥昭雄や三神たけるはカッバーラから転化したという説だけど、カッパの語源はイスラエル人のキッパという被り物かも。

そっちの方が、一般には説得力あるでしょうね。

 ただ、彼らがもっと周辺の人たちと交流していたなら、河童という妖怪にされることはなかったのでは。

古代の一過性な出来事なら、昔話や伝説にはなっても、妖怪話にまでなるでしょうか。

繰り返し、謎めいた存在が目撃されたから妖怪話が生まれた、そう見えませんか。

 そういえば、妖怪の多くは、身近な存在の化身。

河童の仲間の妖怪も、職能集団としての性格を持ってますよね。

 日本の妖怪で、職能集団の性格を持つのは、河童の仲間くらいかも。

しかも、複数の地点が現場のように感じられます。

 定住はしたが、地域との日常的な接点を持っていない。

サンカ(山窩・ 山家・山稼)は、実態が謎に包まれた集団ですよね。

 そう言えば、穢多などと呼ばれた人々は、被差別部落に住んでいるから、詳しい実態が知られていないとしても河童の正体ではありえないですね。

化身であれば、当然、言い伝えに出てくるはずでしょ。

そうかと言って、サンカは可能性はあり得るけど、恰好で疑問が残ります。

 河童には、化身とされる実在する集団は伝わっていないですからね。

ある理由があったので隠れ住む必要があった、ユダヤの集団の可能性は考えて良いかもしれないですね。

仏教公伝の年次については、近年も様々な説が提唱されています。

ただし各史料の記述から、欽明天皇期に伝来したことは疑いないと思われているのです。

もし、ユダヤ人の中に、動物の捧げものに拘る人々がいたとしたらどうでしょう。

 『岩国領の被差別民について』の著者である宮田伊津美は、こう書いているそうですね。

 「エタの職業の代表は皮革関係であるが、全体的にみれば生活基盤は皮革ではなく農業活動にあったと考えるべきであろう。」

 さらには、海岸沿いの穢多には、漁業を「家職」とすることが許されたそうですね。

 にも拘らず、穢多というと皮革という印象がある。

穢多は、文字通り読むと「穢れが多い」ということですね。

「けがれ」は「穢れ」のほか、「汚れ」とも書かれます。

こういう意味です。

1 けがれること。特に精神的にみにくいこと。よくないこと。清潔さ、純粋さなどを失うこと。また、失われていること。「―を知らない子供たち」

2 不名誉であること。名誉をけがすこと。名折れ。「家名の―」

3 死・出産・月経などの際に生じるとされる不浄。罪・災いとともに、共同体に異常をもたらす危険な状態とみなされ、避け忌まれる。この間は、神前に出たり人に会ったりするのをつつしむ習慣もあった。

ところが、元の文字はそれぞれ、けっして悪い意味ではないです。

「禾」は稲、麦、粟など穀物を、「歳」は地球の一周する時間や一年をさすとともに穀物の実りの良し悪しを、表します。

「水」は文字通り「みず」を、「于」は場所や対象を、表します。

つまり、むしろ、農業にそった言葉でさえあります。

そこで、私は「気枯れ」だったと見ました。

「気」は「元気」「勇気」「病気」などの「気」で、「気」が「枯れる」とは死を意味したのではないでしょうか。

 穢多は、死に関することを生業としたがゆえに穢れとして遠ざけられ、被差別部落が生まれた。

穢れが多いと書いて「エタ」というのは、動物を捧げ物とする風習を仏教の禁畏とされた後も続けようとしたユダヤ人が、世間からの隔離を受け入れることと引き換えに、続行を認められたからかも知れません。

ユダヤを、ヘブル語でィエフダー(יהודים)と呼ぶでしょ。

 ィエフダーから転化して、イダ、イド、エダ、ヒダ、ヒタ、ハダ、ハタ、イデ、ヘダ、トダ、キダ、キタとなった可能性を見てきましたね。

ィエフダーから、エタも転化してきたとみれば、被差別部落の起源は生贄の習慣を守ろうとしたユダヤ人という情報と合いますよね。

 穢多というと皮革という印象は、生贄の習慣を守ろうとしたユダヤ人だったからということで、辻褄は合いますね。

穢多は、有名な割には実態が意外と知られていません。

奈良本辰也著の『吉田松陰と「討賊始末」』に、長州藩では「穢多」身分とされた宮番の妻であった登波の旅は、病気に倒れて、常陸国の百姓家に寝込んでしまう事があったと記していると言います。

「穢多」身分であった女に、宿を貸し、看病までしてくれ、回復後、あらたな旅へ送り出してくれた「常陸国の百姓」がいたというのです。

これは、被差別部落民という括りだけで捉えたら説明が付きません。

 穢多は正体がユダヤ人であり、関東に多かった秦氏もユダヤであったとしたら、成程と思えますね。

 ひょっとすると、人としての河童や山童は、まだまだ謎の多い穢多の知られざる側面だったのかしら。

さあ、まだまだ、知られていないユダヤ人集団があるかも知れないから、即断はできません。

でも、胡瓜が好きな河童は、カッバーラの転化という飛鳥昭雄と三神たけるの主張は、ユダヤは元々胡瓜を食す文化というから、現実味が出てきましたね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

恐竜の骨を見直してみた。どこへ向かうか、恐竜研究。その9

テラノサウルスの頭骨、穴の数からは一見双弓類風です。

しかし、前の方にある二つの穴は眼窩として一体と見る方が、自然ではないでしょうか。

 そういえば、前の二つの穴と、猫の頭骨の眼窩を比べてみると、眼窩と後方のくぼみと見た方がしっくりきますね。

人の頭骨でも、眼窩の後ろには穴とまでいかないけど、窪みがあります。

 テラノサウルスの頭骨を見ると、側頭窓も数からいえば紛れもない単弓。

なんとなく、テラノサウルスの側頭窓は佐渡島みたいな形でしょ。

 元が双弓だったなら、なぜ、単弓になる必要があったか、ですよね。

つまり、単弓類とみて爬虫類型哺乳類に分類した方が自然だと思いますよ。

何しろテラノサウルスには、体毛も確認されています。

 体毛があったら、テラノサウルスは爬虫類型という括りから、外したほうが良いのでは。

飛鳥昭雄や三神たけるは、恐竜自体、哺乳類だったと言い切っていますね。

 体毛が指摘されたのは、テラノサウルスだけじゃない。

さらに、体毛があったと指摘される恐竜は増えていくでしょうね。

 双弓類の基本的頭蓋骨は、側頭窩が上下に2つあるでしょ。

 爬虫類に分けられている有鱗目の基本的頭蓋骨は、下の弓が消失とされるけど、納得できる説明できているのかしら。

有鱗目は側頭窩が1つという点に注目すれば、単弓類に分類されてもおかしくないですよね。

単弓類は、哺乳類型爬虫類とも爬虫類型哺乳類ともいわれてきました。

有鱗目は、胎生を発達させた唯一の現生爬虫類なのです。

有鱗目を単弓類に分類しなおせば、哺乳類型爬虫類とも爬虫類型哺乳類とも、位置付けをし直す必要が出てくるでしょうね。

後に双弓類に分類される首長竜類などの鰭竜類、魚竜、カメなどは単弓類に分類されていました。

 その首長竜に赤ちゃんの化石が見つかる。

有燐類を、胎生を発達させた胎生を発達させた唯一の現生爬虫類としてきた、その延長線上で、首長竜に赤ちゃんがいても驚かないと言っているようですけどね。

ところが、ここに面白いことがあります。

有鱗目も、鰭竜類も双弓亜綱に分けられるのです。

 側頭窓が二つの穴のようで、二つの穴でない。

そういうことでしょ。

双弓類と紛らわしい単弓類、そういうことでしょうね。

 双弓類と紛らわしい単弓類に、胎生…。

 単弓類は哺乳類型爬虫類とも爬虫類型哺乳類とも呼ばれる。

だったら、赤ちゃんが見つかった首長竜は爬虫類型哺乳類でもいいはずでしょ。

 しかも、恐竜の消化器系は鳥に似ている。

 嗉嚢(そのう)も、ありましたよね。

嗉嚢といえば、鳩、フラミンゴ、インコ、オウムなどでミルクを出していたでしょ。

改めてこの記事を見てみましょう。

首長竜の「クー」、赤ちゃん産み子育て? 米チーム研究
http://www.asahi.com/science/update/0812/TKY201108110642.html

プレシオサウルスの母親と胎児の化石=米ロサンゼルス自然史博物館提供

プレシオサウルスが赤ちゃんを産む様子の想像図=米科学誌サイエンス提供

(C)1993Coo製作委員会

 プレシオサウルスという首長竜の仲間は、卵ではなく赤ちゃんを産み、群れで暮らしながら子育てをしていたかもしれない。

化石になった身重の母親を調べた米国の研究チームがそんな論文をまとめ、12日の米科学誌サイエンスに発表する。

 プレシオサウルスは恐竜のいた時代に海で暮らしていた爬虫(はちゅう)類。

景山民夫さんの直木賞作品で、現代に生き残ったプレシオサウルスの子「クー」を少年が育てる物語「遠い海から来たCOO(クー)」に登場。

アニメ映画にもなった。

 チームが、米カンザス州の7800万年前の地層から掘り出された化石を調べたところ、母親の腹の部分から胎児とみられる骨も見つかった。

胎児は1頭。

母親の体長は4.7メートル。胎児は少なくとも1.5メートルで、比較的大きかった。

 海で暮らす古代の爬虫類には、卵でなく赤ちゃんを産んでいたとわかっている仲間もいるが、産むのは1度に複数。

大きな赤ちゃんを1頭だけ産むという特徴は、むしろシャチや小型のクジラなど、群れを作って子育てをする現代の生き物に近く、チームは「同じような暮らしぶりだったかもしれない」と推測している。

(小宮山亮磨)

ここで注目したいのは、ここです。

大きな赤ちゃんを1頭だけ産むという特徴は、むしろシャチや小型のクジラなど、群れを作って子育てをする現代の生き物に近く、チームは「同じような暮らしぶりだったかもしれない」と推測している。

シャチや小型のクジラなどのように、群れを作って子育てをする、ここに、嗉嚢がミルクを出した可能性を重ねてみましょう。

 シャチや小型のクジラなどの、群れを作って行う子育てと、ますます、似てきますね。

さらに、恐竜の足の指の発生を哺乳類のマウスと比較した記事や、恐竜の心臓を鳥や哺乳類と似ていると指摘した記事などを、思い起こしてみましょう。

 恐竜は、鳥よりも、哺乳類に、ますます近づいていく。

見直しは、時間の問題でしょうね、

| | コメント (0) | トラックバック (0)

スェーデンと日本?

スウェーデン人はスウェーデン王国の国民という意味だが、民族としてのスエーデン人とは、スエーデン国民のなかでもゲルマン民族の人々を指します。

主にスウェーデンで使用されるスウェーデン語は、インド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派北ゲルマン語群のノルド語の一種に分類されている東スカンジナビア諸語に属する言語です。

ノルド語の元となったノルド祖語は、北ゲルマン語族の祖語で、ゲルマン民族の大移動の時代に話されていたと推定されています。

スエーデン人は、北欧スカンディナヴィア半島に分布するゲルマン民族の総称でもあります。

 ゲルマン人と言えば、主に、スエーデン、ノルウェー、デンマークで、スエーデン人と呼ばれているのでしたね。

 そうそう、日本人にはゲルマンの血が入ってるなどという人もいるでしょ。

ゲルマン人と日本人も、細かい違いはいろいろ指摘されながらも、民族性は面白いほど似ているとよく話題にされますね。

 日本と、イギリスと、ドイツは、ストーンサークルで繋がるのかと驚いたけど、スエーデン人ともゲルマンで繋がるなら、ストーンサークルはあるかしら。

スカンディナヴィア南部はゴートランドあるいはイェータランドと呼ばれ、ゴート族を含むゲルマン系民族がポーランド一帯に遺したストーンサークルと類似するものがスカンディナヴィアで発掘されているというのでしたね。

 じゃあ、スエーデンには…。

スエーデン南部にも、3000年は遡れるであろうストーンサークルがあるそうですよ。

ゲルマン人は、はかにも、ドイツ、オーストリア、スイス、ルクセンブルク、オランダ、イングランドのアングロ・サクソン人、ベルギーのフランデレン人、フランスのアルザス人、イタリアの南ティロル人がこの集団の系譜を引いていますよ。

近年の世論調査では、スエーデン王国国民の90%がスウェーデン人を自認しているそうです。

 ゲルマン人とはゲルマニアにちなむ名称で、自らは、アングロ・サクソン人やゴート人という部族名を名乗っていたのでしたね。

疑問視されている説ではあるけれど、ゴート族はスカンディナヴィア半島を発祥とする民族という意見もあるのです。

9世紀ころには、小さなゲルマン人の王国や首長に率いられた小集団となって北欧に暮らしていたようです。

 このあたりが、ゴート族はスカンディナヴィア半島発祥の民族という意見が出る理由の一つなのでしょうね。

古代に北ドイツから移住したスヴェーア人、いわゆるノルマン人が原初スウェーデン人であるといわれますけどね。

ゴート族はスカンディナヴィア半島発祥の民族というのは、550年頃にアリウス派僧侶でゴート人の歴史家であるヨルダネスが、東ゴート王国の学者カシオドロスの著書を要約して著した史書『ゴート人の事跡(De rebus Geticis)』に載ってるそうです。

 スカンディナヴィア南部はゴートランドあるいはイェータランドと呼ばれたのでしたね。

 「ヴィア」とか「ビア」というと、「シア」「シャ」に音が似てます。

 「シア」「シャ」のある地域には、不思議と日本との繋がりが見えますよね。

スカンディナヴィア半島では、フィンランド人と日本人は遠縁の親戚筋にある民族であることを見てきました。

北欧と日本、文化の比較はもっとされても良さそうですね。

スヴェーア人たちは、ヴァイキング活動の最中に纏まりを見せ、10世紀までにスウェーデン王国を形成しました。

なお、東方及び東欧に進出したヴァイキングの中には、ルーシ族ないし、ヴァリャーグと呼ばれ、キエフ・ルーシ等ルーシ諸国家の建設を担ったものもいたが、これもスヴェーア人を含んだゲルマン人だとされています。

 ルーシ、つまり、ロシアと言えば、ロシア民族歌謡と日本の民族音楽との類似が見えましたね。

ルーシ人は、キエフ・ルーシの人民という意味で用いられ、11世紀から20世紀半ばにかけてウクライナ人とベラルーシ人の自称でした。

なお、ルーシ人は、ラテン語で「ルテニア人」と呼ばれます。

 「ニア」も、「シア」「シャ」に音が似てます。

ロマ音楽が大きく影響している国には、よく見ると面白い傾向が見られるでしょ。

インド・トルコ・マケドニア・アルバニア・セルビア・ギリシャ・ルーマニア・ブルガリア・ハンガリー・ロシア・スペイン・フランス。

 「シア」「シャ」に似た音が名前に入っている国多いですね。

ロシアがルーシから始まっていることを思えば、スエーデンなどスカンディナヴィア半島の国々の音楽も注目した方が良さそうですね。 

 スエーデンに限らず北欧諸国の音楽に特徴はないという指摘もありますね。

 北欧民族音楽にも、強いて言えばどこかの物に似ているとか、ないのですかね。

日本人にはゲルマンの血が間違えなく入っていると見る人もいるので、ゲルマン系の民族と日本はもっと比べてみる必要がありますね。

スヴェーア人、いわゆるノルマン人は、スカンディナヴィアおよびバルト海沿岸に原住した北方系ゲルマン人です。

初期の時点では、「ヴァイキング」という概念とほぼ同じと言って良い存在でした。

これらのゲルマン人によって、スウェーデン人が形成されたものと思われます。

民族としてのスウェーデン人は、16世紀のデンマークを盟主としたカルマル同盟からの独立によって成立したと言えます。

フィンランドにいるスウェーデン人は、北方十字軍以降に移住したスウェーデン系フィンランド人を指します。

また19世紀から20世紀にかけてアメリカ合衆国に移住したスウェーデン人は、スウェーデン系アメリカ人と言い、主に北部に移住しています。

アメリカ移民と同時期にカナダに移住したスウェーデン人は、スウェーデン系カナダ人を形成しました。

スウェーデン語を母語とするスウェーデン人は、現在、本国スウェーデンの他、フィンランドとフィンランドの自治領オーランド諸島に住む。

南部のスコーネ県はデーン人に由来し、現在もデンマーク語に近い方言を話すが、一般的にはスウェーデン人に含まれます。

なお、スウェーデン国内には、サーミ人やフィンランド人も少数おり、近年は移民も受け入れています。

宗教はプロテスタント系のルター派(ルーテル教会)が多数を占めており、国教(スウェーデン国教会)となっています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

赤ちゃんで生む恐竜の仲間がいた。どこへ向かうか、恐竜研究。その8

朝日新聞に、この記事がありました。

首長竜の「クー」、赤ちゃん産み子育て? 米チーム研究
http://www.asahi.com/science/update/0812/TKY201108110642.html

プレシオサウルスの母親と胎児の化石=米ロサンゼルス自然史博物館提供

プレシオサウルスが赤ちゃんを産む様子の想像図=米科学誌サイエンス提供

(C)1993Coo製作委員会

 プレシオサウルスという首長竜の仲間は、卵ではなく赤ちゃんを産み、群れで暮らしながら子育てをしていたかもしれない。

化石になった身重の母親を調べた米国の研究チームがそんな論文をまとめ、12日の米科学誌サイエンスに発表する。

 プレシオサウルスは恐竜のいた時代に海で暮らしていた爬虫(はちゅう)類。

景山民夫さんの直木賞作品で、現代に生き残ったプレシオサウルスの子「クー」を少年が育てる物語「遠い海から来たCOO(クー)」に登場。

アニメ映画にもなった。

 チームが、米カンザス州の7800万年前の地層から掘り出された化石を調べたところ、母親の腹の部分から胎児とみられる骨も見つかった。

胎児は1頭。

母親の体長は4.7メートル。胎児は少なくとも1.5メートルで、比較的大きかった。

 海で暮らす古代の爬虫類には、卵でなく赤ちゃんを産んでいたとわかっている仲間もいるが、産むのは1度に複数。

大きな赤ちゃんを1頭だけ産むという特徴は、むしろシャチや小型のクジラなど、群れを作って子育てをする現代の生き物に近く、チームは「同じような暮らしぶりだったかもしれない」と推測している。

(小宮山亮磨)

恐竜の仲間にも、子育てをする話があります。

だが、卵生がほとんどです。

子育てをして、しかも、赤ちゃんを産む話はこれがはじめてです。

 体毛があると見られる恐竜は、すでにかなりいる。

さらに、赤ちゃんで産むとなれば、恐竜を爬虫類に分類し続けるのは、相当無理があります。

 赤ちゃんで産む鳥、聞いたことない。

 恐竜と鳥の比較で、収まる話じゃないよね。

以前、この記事に注目しました。

ニワトリの指に恐竜の名残 鳥類・獣脚類説を裏付け
http://www.47news.jp/CN/201102/CN2011021001000591.html

 ニワトリの翼に存在する3本の指の骨は、ヒトの場合の親指と人さし指、中指に相当し、祖先とされる恐竜の獣脚類の前脚と同じ形態だとする研究成果を、田村宏治東北大教授(発生生物学)らのチームがまとめ、11日付の米科学誌サイエンスに発表した。

 従来、鳥類の指は人さし指と中指、薬指の3本と考えられており、獣脚類から進化したとする説では説明がつかない矛盾点として残っている。

 今回の発見は、この矛盾を解消する成果。

チームは「鳥類の恐竜起源説の正しさを支持する決定打ともいえる」と強調。

田村教授は「150年間の論争に終止符を打つ」としている。

 鳥類は四肢動物に属し、翼が前脚に相当、指の骨が3本ある。

一方、獣脚類は前脚に5本の指があったが、進化の過程で薬指と小指が退化。

3本の指となったことが化石から分かっていた。

 チームは、卵の中でニワトリの指が形成される過程を、3本のうち最も外側の指に着目して詳しく調べた。

指のもととなる軟骨が、初期には薬指の位置にあるが、発達とともに次第にずれ、どの指になるかが決定する段階では中指の位置に移動することを発見した。

 さらにこの指は、マウスの中指の作られ方と一致することも判明。

3本は中指と、人さし指、親指と判断した。

 約150年前に見つかり最古の鳥とされる始祖鳥の場合も、恐竜と指が似ていることから、現存する鳥類と指の形態が異なるのかどうか議論が続いていた。

2011/02/11 04:02   【共同通信】

こういう内容です。

この記事の、「さらにこの指は、マウスの中指の作られ方と一致することも判明。」の一文は、多くのメディアは無視しました。

 これ、無視したらまずいって、話題にしましたね。

 マウスは、哺乳類でしょ。

こんなに早く、予想が当たるとは。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

太陽は本当にガス天体か。その1

かつては天王星、海王星もガス天体に含めていたが、現在では別の巨大氷惑星として天王星型惑星に分けられています。

また、木星についても、大気の下方は1000℃以上でガスは液化していると見られるようになってきました。

木星の表面と中心核の中間領域では、高熱1万℃と高圧で水素は液体金属になっていると考えられています。

つまり、惑星では大きさの割に重量の測定値が小さいためにガス天体と見られてきた天体は、もはやガスの塊とは言えなくなっているのです。

 さらに、大きさで恒星か惑星か、簡単に判断が付くと言っていた話も、昔話になりつつあるのでしょ。

大きさで、恒星か惑星か決められないならどうなります。

 木星のような中身の恒星が見つからない保証は、全くないと言い切れない。

じゃあ、太陽で考えてみましょう。

現に私たちの太陽系の中心の恒星である太陽も、核融合にしてはニュートリノが少なすぎるのです。

そこで、最新の仮説はこれまでの宇宙論は見直しが迫られる可能性があると触れるところまできています。

太陽研究で、天文学者を悩ませるのはニュートリノの発生数だけではありません。

太陽から、分子の形で水が見つかっているのです。

1995年、キット・ピーク国立天文台は、太陽表面全体に水分子を観測しています。

 それ、太陽の大気中でしょ。

そうとばかりもいえません。

イギリスのロンドン大学では、オルグ・ポリアンスキー教授たちが太陽黒点で大量の水分子を検出しているのです。

最先端の精密装置が、それを可能にしました。

太陽が核融合だとしたらどうしてこうなるのか、説明が難しいのが温度の問題です。

太陽表面は6000℃、その外の彩層は1万℃、さらに外のコロナは200万℃。

 太陽が核融合なら、分布が逆なはず。

収縮しつつある原始星の中心温度が約250万 Kを超えると、初めて核融合が起こるといいます。

中心の温度が約1,000万Kを超えると、水素核融合を起こして恒星となるとされてきました。

ちなみに太陽の中心は、1,500万Kと見られています。

Kは、ケルビンと読み絶対温度の単位で、摂氏の値に273.15を足すと得られます。

言い換えれば、ケルビンの値から273.15を引くと摂氏の値になるわけです。

太陽の半径は約70万kmであり、地球の約110倍に相当します。

 いくら宇宙空間で冷めると言っても、表面と中心の温度差大き過ぎますね。

だけど、太陽の表面は水分子で覆われています。

 そういえば、太陽の表面は沸騰したスープみたいに見えますね。

太陽表面は、気化熱によって冷却されているとしたら、どうでしょう。

 でも、大気は外に行くほど高温ですよ。

太陽表面は、無数の磁気がループを作っています。

電子レンジの要領で、加熱されているのかも知れませんよ。

 そうだ、水蒸気も、100℃で蒸発した直後より、ちょっと上の方が高温でしたよね。

つまり、蒸気による熱のやり取りで説明できるでしょ。

 そうでしたね。

 じゃあ、太陽の大気は、蛍光灯と同じ理屈で光っている。

ありえるでしょ。

太陽の磁気は、地球の大気にもオーロラを作るのですよ。

当然、自分の大気を明るく光らせるだけの能力はあるでしょうね。

 そうなると、太陽はガス天体ではありえない。

太陽の磁気も、かなり大きいでしょ。

 大きな磁気で、無重力体験装置が可能だったでしょ。

それなら、強力な磁気に包まれた太陽は天然の無重力体験装置に入っているのも同じでしょ。

 太陽がガス天体に見えていたのも、磁気の仕業。

太陽が、水の星でも良い訳ですよ。

太陽は、核融合でなくても、光るわけです。

 あとは、紫外線、可視光線、赤外線、電波だけでなく、ガンマ線、X線も、核融合でなくても出るかどうかでしょ。

ガンマ線、X線もプラズマでも出るのです。

プラズマを閉じ込めて、核融合を安定して起こさせる段階が、ものすごく困難なわけですよ。

 あ、そうでしたね。

他の恒星でも、太陽で見たのと同じことが起きていた場合には、宇宙はもっと重いはずでしょ。

暗黒物質の質量と見られている一部は、星の質量の見直しで差し引けるかも知れないですよ。

ほんの一部でしょうけどね。

追記。

木星に、1994年7月、シューメーカー・レビー第9彗星が21個の大小さまざまな核に分裂して衝突しました。

世界の天文学者は、何が観測できるか懸命になりました。

そしてイギリスの赤外線天文台は、スペクトル分析の結果、大量の水を確認したのです。

大きさで恒星か惑星か決まらないなら、大量の水が確認できる恒星があってもおかしくないです。

太陽にも水分子が、大量に見つかっているなら、太陽の中身もガス天体とは言い難い木星に似ている可能性は大きいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

秦氏と日田氏と肥田氏?

肥田氏は、代々武家として鎌倉、室町幕府を支えました。

後には、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、北条氏康、徳川家康の家臣として仕えました。

江戸時代には旗本幕閣として徳川幕府中枢を支えました。

徳川尾張藩の家老、徳川水戸藩の家老、高松藩の家老を輩出しました。

また幕末から明治にかけても活躍し新政府の下で文明開化に貢献しました。

発祥により大きく土岐肥田氏・豆州肥田氏・遠江肥田氏などがあります。

また飛騨氏、飛田氏、比田氏、樋田氏、氷田氏、木田氏、貴田氏も同族の可能性があります。

家紋は「土岐桔梗」「桔梗」「片喰」「三つ柏」「丸に剣花菱」「丸に太九枚笹」などがあります。

『見聞諸家紋』では「三つ盛酢漿草」が載っています。

なお、九州の日田(ひた)氏は豊後大蔵氏であり、肥田氏とは別族というのが通説になっています。

 肥田氏の土地は、時代を遡れば秦氏が顔を出しますね。

そこで、肥田氏は元は秦氏であったという議論を何度となく立ててきました。

 日田氏は、肥田氏とは別族ではないと。

そこを、見てみようというわけです。

豊後大蔵氏とは、豊後国慈眼山周辺を拠点に大分県日田市を支配していた地方の土豪です。

平安時代後期、11世紀終わりから1432年(永享4年)まで、400年弱の間、鬼蔵永弘とも呼ばれた大蔵永弘の代の承和2年(835年)から16代永包の代の嘉吉4年(1444年)までの590年余りの間の日田地方を支配しました。

豊後大蔵氏の本姓は東漢姓大蔵氏流の庶家とされ、古代に九州の日田地方を支配していたといわれる日下部氏に代わって日田郡司になったとされます。

その後、日田での地位を確立していった大蔵氏は、中央の貴族に従属して、勢力を確固なものとしていきました。

また、大蔵氏は、大原八幡宮や永興寺(ようこうじ)、岳林寺(がくりんじ)を造営し華やかな文化を形成していったが文安元年(1444年)、身内の家督争いによって滅亡し大友氏より養子を迎えて大友氏系で日田氏を再興しました。

その大友日田氏も、享禄3年(1530年)に滅亡しました。

 大分県と言えば、九州東部に位置すると言われるけど、全体から見ると北部にありますね。

 九州北部と言えば、古代には秦氏の王国があったと指摘されるでしょ。

 秦(はた)から日田(ひた)は、容易に転化するでしょ。

それに、八幡宮は秦氏縁の神社ですよ。

秦氏は、神道にも仏教にも関わってきました。

 大蔵氏が、秦氏の一族であることは、間違えない。

九州の日田氏は大蔵氏だというけど、むしろ、秦氏の土地が日田(ひた)と呼ばれるようになり、そこにいた秦氏の一族が大蔵氏となったと見る方が自然に思えますね。

 大蔵永弘は、通称が鬼蔵永弘だったというのは、なぜでしょうね。

 何か大事な記録や文物を保管していたから、大蔵とも鬼蔵とも、呼ばれていたのかしら。

祭祀に、深く関わっていたから大蔵とも鬼蔵とも呼ばれていた、可能性はありそうですね。

 あとは、肥田氏との繋がりですね。

肥田氏の古来からいた土地は、大抵、秦氏がいたとされますよ。

 肥田氏を辿ったら、諏訪大祓まで登場しましたからね。

 日田氏がもし、肥田氏の流れなら祭祀に関係したかも。

大原八幡宮や永興寺、岳林寺を造営し、文化とも関係が大きい訳ですから。

時代を遡ると、文化は祭り事から派生したものが増えますからね。

 大蔵と呼ばれたから、相当財を成し、金に飽かせて寺社を神仏に寄進したり大判振る舞いで文化を栄えさせたと、想像されがちな気もしますよ。

 身内の家督争いによって滅亡、一族が反目しあうなんて資産家の相続争いではありがちでしょ。

まあ、権益を巡る争いはあったでしょうね。

養子を送り込んだ大友氏も、大分で大きな勢力を持っていました。

大友氏は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、現在の大分県にあたる九州の豊後国を本拠とした一族です。

 豊後・筑前・筑後など北九州を支配した守護職・守護大名でしたね。

 戦国時代には豊後の戦国大名に成長するが、豊臣政権期に改易された。

大友氏も、大蔵氏の持っていた権益を一族に取り込む意図もあって養子を送ったという見方もできます。

だが、大友氏には、元を辿ると中原氏や、藤原氏秀郷流、清和源氏などが候補に挙がります。

 肥田宿禰は、清和源氏土岐氏や藤原氏の流れとみていいのかもしれないと見ましたね。

 肥田宿禰は、肥田氏の祖先ですよね。

清和源氏自体も、諏訪氏の祖先を遡れば出てきたでしょ。

中原氏は、日本の古代から近世までの貴族だが、安寧天皇の第三皇子である磯城津彦命が源流と言われています。

天皇家と藤原氏や秦氏の姻戚関係が深いことを思えば、大友氏は藤原系の一族と言えるでしょう。

仮に、大蔵氏が日田(ひた)にいた秦氏であったとしたら、どうでしょう。

藤原氏には、秦氏の一族という指摘があります。

 大友氏が大蔵氏に養子を送って再興を図った裏には、秦一族の持っていた権益を守ろうという目論みもあった。

そう見ても、面白いでしょ。

大蔵氏が、元を辿れば秦氏であったなら、経済に強く大いに権益を手にして財をなしたから大蔵というようになったかも知れないですよ。

秦氏は、経済活動で有名な一族ですからね。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

スロバキア。

北西にチェコ、北にポーランド、東にウクライナ、南にハンガリー、南西にオーストリアと隣接するスロバキア共和国、通称スロバキアは、中央ヨーロッパの共和制国家です。

首都はブラチスラヴァ。

国土の1/3を森林に覆われた緑多きこの国は、かつてはハンガリー王国の一部であり、その伝統は、ハンガリーをはじめ、スラブ、オーストリア、ドイツ、そして1993に分割されたチェコの影響を受けてきました。

古代にはサモ王国・モラヴィア王国として独立を保った期間もありました。

だが、この地のスラブ人は1000年間少数民族としてハンガリー王国の支配下にあったのです。

ハンガリーにとっても歴史的に重要な地域であり、多くのハンガリー人の出身地、ハンガリー貴族の発祥地でもあります。

 元来スラブ系でしょ。

ハンガリー文化に同化した者も、多いですよ。

スラヴ人は、中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団です。

ウクライナ人・ベラルーシ人・ロシア人は東スラヴ人、スロバキア人・チェコ人・ポーランド人は西スラヴ人、クロアチア人・セルビア人・ブルガリア人など南スラヴ人に分けられます。

言語の共通性を、何よりのアイデンティティとしています。

スラヴ語の「スラヴ・スロボ」は、言語とか言葉を意味するスラブ語のслово(スローヴォ)から来ています。

スラヴ人の多くは、コーカソイド人種の特徴を持っています。

 アイヌも、コーカソイド人種と見られたことがありましたね。

 いまでは、モンゴロイドに分類されるけど。

こういうことも、日本にロシア人と勘違いされる顔の人がいる理由になっているのでしょうね。

 スラブ人が多い東欧は、日本人に似た人が案外いるということになりますね。

原住地はカルパチア山脈周辺と推定され、その後ヨーロッパ各地へと移住する過程で、6、7世紀頃まで言語としての一体性を持っていました。

 カルパチア山脈は、カルパティア山脈とも発音され、中央ヨーロッパ・東ヨーロッパの山脈でしょ。

次第に東スラヴ人、西スラヴ人そして南スラヴ人といったゆるやかなまとまりから、さらに各地のスラヴ民族を多数派とする集団へと分化していった歴史を持ちます。

「スラヴ」がギリシア語に入ったときに「奴隷」の意味となり、英語のスレイヴの語源になっていったのは、他の民族もそうであるが、スラヴ人も戦争などで捕らえられると奴隷として扱われたためでしょう。

この時期、捕虜はどの国でも奴隷であり、戦利品に過ぎなかったのです。

さらに、ギリシアの文化を受け継いだローマ帝国のラテン語から西欧諸言語に広まったと考えられています。

現在もスラヴ人の名前にアレクサンドル(アレクサンダー)とかローマ人をさすロマンといったものがあるが、東ローマ帝国と現在のウクライナであるキエフ・ルーシとの戦争における奴隷のなごりではとも考えられます。

 でも、スラブ、アラブ、音が似てますね。

 アッラーは、聖書の神であるヤハウエやイエスと同じ神とされるでしょ。

実際はアッラーは、聖書でいう御父だと思うけど、ヤハウエやイエスと同一視しても大まかな議論には影響しませんからね。

そして、言葉は神とともにあった、言葉は神であったと聖書にあります。

 スローヴォが、アッラーの転化と見れば言語や言葉をさすようになっても、おかしくありませんね。

さらに、聖書の民は自らを神の僕(しもべ)の意味で、しばしば聖隷と呼びますよ。

 スラブが奴隷を指す言葉の語源となった背景には、このあたりの事情もありそうですね。

スラブ人の民族発祥に関する言い伝えであるスラブ叙事詩には、どこか聖書を連想できる部分があるのですよ。

 でも、スラブとユダヤの同祖論はあまり聞いたことないですよ。

タタールの軛(くびき)と呼ばれる、モンゴルの支配があった時代が長かったからかも。

 でも、それはルーシの話でしょ。

他のスラブ人も、周辺民族から多くの影響を受けて別々の民族へと、分化していきましたからね。

ユーゴスラビアも、ユーゴスラブ人を纏めようとしたけど、結局民族国家に分かれてしまったでしょ。

 そういえば、白人的なユダヤ人であるアシュケナージは東欧圏に多くなかったですか。

そうですね。

アシュケナージは、アシュケナジーやアシュケナジムとも呼ばれ、ディアスポラのユダヤ人のうち、おもに東ヨーロッパなどに定住した人々やその子孫の呼称の単数形です。

同地からイスラエルに移住したユダヤ人とその子孫の集団も、同様に呼ばれます。

 ロシアや東欧には、アシュケナージを苗字に持つ人は多いですよね。

スロバキアは、第一次世界大戦後オーストリア・ハンガリー帝国からチェコと合併するかたちで独立しました。

その後幾らかの変遷を経て、1993年1月1日にチェコスロバキアから分離独立し現在に至ります。

ケルト人が先住民であるが、1世紀ごろゲルマン人が、この地を支配していました。

5~6世紀ごろにスラブ人が移住して来、9世紀には、大モラヴィア帝国を創り上げました。

9世紀に現在のスロバキア、モラヴィア、ボヘミア、シレジア地方にモラヴィア王国が成立しました。

モラヴィア王国は、9世紀から10世紀初頭にかけて栄えたスラヴ人の王国で、大モラヴィア王国などとも表記されます。

スロバキアでは、モラヴィア王国がスロバキア人による王国であると主張する者もいます。

けれど、歴史学的には証明できる事実ではないのです。

 確かなのは、スラブ人の王国ということだけですか。

どうも、そのようですね。

この地域のスラブ人が現在のように簡単にチェコ人、スロバキア人などと言うように分類できない面がありましたからね。

10世紀になるとマジャル人の侵入を受け、ハンガリー王国が成立しました。

 ハンガリー王国は、かつて現在のハンガリー共和国を中心とする地域を統治した王国でしょ。

ハンガリー王国は000年頃、イシュトヴァーン1世の即位によって成立しました。

当然、今ではほかの国の領土になった地域もあり、スロバキア全土は北部ハンガリーと呼ばれ、ハンガリーの一地域として扱われるようになります。

ただし、ハンガリーに比べてスラヴ人の多い地域でしたけどね。

ちなみに、ハンガリー王国は最盛期には、スロバキアのほか、クロアチア共和国のクロアチア地方やスラヴォニア地方、セルビア共和国のヴォイヴォディナ、ルーマニアのトランシルヴァニア、オーストリア共和国のブルゲンラント州も領域でした。

更にオスマン帝国がハンガリーに侵入するとプラチスラヴァ(ポジョニー)にハンガリー王国の首都が移され、ハンガリーにとっても北部ハンガリーは重要な地域と見なされるようになりました。

この首都移転は北部ハンガリーの人口バランスを狂わせるもので、増加したマジャル人に対して北部ハンガリーのスラヴ人の反感は高まったのです。

19世紀の中ごろに周辺のスラヴ人が民族主義の流れからクロアチアのスラヴ人からクロアチア人、ボヘミアのスラヴ人からボヘミア人と呼び名を変えて行くようになりました。

北部ハンガリーでは自らの地域・北部ハンガリー地域のスラブ語に転化したスロバキアと名づけ、自らをスロバキア人、自分達が話す言語をスロバキア語であると主張するようになりました。

またこの頃、勢力の大きいマジャル人に対して、チェコ人(チェック人)とスロバキア人の連合が主張され始めるようになりました。

オーストリア・ハンガリー二重帝国体制下においてはチェコ、スロバキアは共に連邦国家構想を支持していたが第一次世界大戦の終了と共にオーストリア・ハンガリー帝国は崩壊。

1918年、独立運動の指導者トマーシュ・マサリクは、チェコスロバキアは民族自決の対象となる単一のチェコスロバキア人国家として独立を宣言しました。

チェコの社会学者・哲学者・政治家であったトマーシュ・マサリクは、チェコスロヴァキア共和国の初代大統領を、1918年から1935年まで務めました。

 トマーシュ・マサリクは、1850年3月7日チェコ共和国の領土となっているモラヴィアのホドニーンに生まれ、1937年9月14日に没したのでしょ。

オーストリア・ハンガリー帝国崩壊の後、更にハンガリーに侵入して北部ハンガリーのほとんどの地域をハンガリーから収奪し、これが現在のスロバキア国家の基本的な領土となっています。

しかしこの行動は、ハンガリー等で領土回復運動が高まるきっかけとなったのです。

 スロバキアの伝統料理は、肉系統を主体としたものでポテトが付け合せで出てくると聞きました。

 歴史的にハンガリーとの関係が強いせいか、ハンガリー料理に似ているそうですね。

ハンガリー料理によく似ていているのが南部で、パプリカを使ったグヤーシュというスープがポピュラーだそうですよ。

 スロバキアの料理は、地方によって特色があるのですね。

オーストリアに近い西部では、シュニッツェル、ソーセージ、サワークラウトがよく食べられているそうです。

 シュニッツェルはカツレツ、サワークラウトは酢漬けキャベツですよね。

 スロバキアには、スープ料理の種類がたくさんあるようですね。

もっとも有名なのは、カプストニカ(Kapustnica)という燻製の豚肉ソーセージ、キャベツ、きのこの入った温かいスープでしょう。

カプストニカは、じゃがいもを主原料にしたハルシュキというお団子や、羊のチーズのお団子と一緒に食されているといいます。

川魚のマスやコイも人気で、クリスマスに肉食を禁じているカトリック教徒が多いため、特にクリスマス・シーズンには、マスやコイの料理が食卓を飾ることが多いらしいです。

 チェコと同様、スロバキアで人気の飲み物といえば、ビールでしょ。

Golden PheasantやTopvar、Corgonといったブランドがあり、輸出もされていますね。

ほかには、ボロヴィッカ(Borovicka)というドライジンに似たジュニパーで風味づけしたブランデーや、スリヴォヴィカ(Slivovica)というプラムのブランデー、また東南部ではワインも造られていて、これも海外に輸出されています。

スロバキア料理は、日本人にも美味しいものが多いようだけど、ソーセージはものによっては好みにあまり合わないのがあるらしいです。

食べたことないので、どのソーセージが美味しくてどれがそうでもないか、知らないですけどね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

チェコ。

1993年に、チェコスロバキアがチェコとスロバキアに分離しました。

今回は、チェコの方を取り上げてみたいと思います。

 スロバキアも、気になりますけど。

そのうち、取り上げましょ。

チェコの正式名称は、チェコ語でČeská republika(チェスカー・レプブリカ)で、チェコ共和国と訳されます。

通称は Česko(チェスコ)、または Čechy(チェヒ)です。

チェコは、地域的には中欧に属するが、第二次大戦後ソ連圏に組み込まれていた時期には政治的に東欧に分類されていました。

 ソ連崩壊後、再び中欧の国として分類されるようになったわけですよね。

まず、大まかに歴史を振り返ってみます。

中世以降は、チェコ民族の形成を振り返るのが目的なので省かせてもらいます。

古代には、チェコの地にケルト人が居住し独自の文化を形成しました。

チェコは、主に古来はケルト系先住民ボイイ人の名によりボヘミアと呼ばれた西部の広大な盆地とモラヴィアの丘陵とからなります。

西スラヴ系のチェック人(Czechs)が定着し、7世紀にはフランクの商人サモがモラヴィアを中心に国家であるサモ国を建設しました。

サモの死後まもなく滅びたが、その基礎は次のモラヴィア王国に受け継がれ、これがマジャル人の進出で衰退すると、ボヘミアには10世紀頃に王国を建てたという流れがチェコ史の初期の展開となります。

 ケルトは、日本とヨーロッパを繋ぐ民族として何度も話題にしてきましたね。

ケルト人は、中央アジアの草原から馬と戦車や馬車など車輪付きの乗り物を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族です。

ケルト人はおそらく青銅器時代に中部ヨーロッパに広がり、その後期から鉄器時代初期にかけて、ハルシュタット文化を発展させました。

 ハルシュタット文化は、紀元前1200年から紀元前500年ですよね。

ハルシュタット文化という名称は、オーストリアのザルツブルク州の南東の湖岸の村ザルツカンマーグートにある標式遺跡が出土したハルシュタットに由来します。

標式遺跡は標準遺跡とも呼ばれ、考古学上の、遺構、遺物又はその一連となる関連性の集合として定義される特定の型式、形式、様式、あるいは、年代、文化期、文化層の命名、簡単に言えば時期区分名命名の契機を与えた遺跡、あるいはその基準となる遺構、遺物が検出された遺跡自身のことをいいます。

例えば、弥生文化とは、1884年(明治17年)に東京府本郷向ヶ岡弥生町、現在の東京都文京区弥生の貝塚で発見された土器が発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来します。

この、弥生文化の名の由来となった東京の遺跡は弥生文化の標識遺跡と言えます。

ハルシュタット文化は、中央ヨーロッパにおいて紀元前12世紀以降青銅器時代後期の骨壺文化から発展し、紀元前8世紀から紀元前6世紀鉄器時代初期にかけて主流となった文化です。

後に中央ヨーロッパのほとんどは、ラ・テーヌ文化に移行しました。

ラ・テーヌ文化はヨーロッパの鉄器時代の文化で、スイスのヌーシャテル湖北岸にあるラ・テーヌの考古遺跡で1857年 Hansli Kopp が多数の貴重な遺物を発掘したことから名付けられました。

当時欧州の文明の中心地であったギリシャやエトルリアからの圧倒的な影響の下、ハルシュタット鉄器文明は紀元前500年から紀元前200年ラ・テーヌ鉄器文明に発展します。

ケルトの社会は鋭利な鉄製武器を身に付け、馬に引かれた戦車に乗った戦士階級に支配され、欧州各地に分立しました。

古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていたが、「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」なのだとも考えられます。

ブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォル、コーンウォルから移住したブルターニュのブルトン人などにその民族と言語が現存しています。

現在のケルトという言葉は言語・文化の区分を示すための近現代になってから作られた用語であり、古代~中世において右図で表されている地域の住民が、「ケルト人」として一体的な民族意識を持っていたとは考えられていません。

そのため歴史学などでは「ケルト人(Celts)」という言葉は使わず、「ケルト系(Celtic)」という言葉を便宜的に使っています。

彼らは南欧の文明社会としきりに交易を行い、その武力によって傭兵として雇われることもあり、ギリシャ・ローマの文献に記録が残されています。

紀元前400年頃にはマケドニアの金貨に影響されて、各地でケルト金貨を製造するようになりました。

また、ケルト人の一部はバルカン半島へ進出し、マケドニア、テッサリアなどを征服しました。

 マケドニア、ロマ音楽の影響を受けた国や地域を取り上げた時出てきた名前ですね。

ロマ音楽も、日本の民族歌謡との類似が大きいですね。

チェコ音楽の形成は、チェコ史を反映して複雑な経過をたどっているので、特徴の比較は簡単にはいかないようです。

チェコは、その地理的位置付けから周辺の国や民族から翻弄されてきました。

政治的には東ローマ帝国、神聖ローマ帝国、ハンガリー、オスマン帝国、ポーランドといった大国が鎬を削りました。

民族的にはゲルマン系集団、スラヴ系集団、マジャル人に代表される東方由来の遊牧民などが興亡を繰り広げました。

宗教的には正教会、カトリック、フス教徒を含むプロテスタントといったキリスト教諸会派が勢力を争いました。

このため、その音楽にも多様性が生まれ、アントニン・ドヴォルザーク、レオシュ・ヤナーチェクといったユニークな作曲家を生んだのです。

ただ、どんなに周辺の影響を受けようと、チェコの民族性を音楽も反映しているはずなので、なんらかの特徴は見えると思えます。

チェコは、ボヘミアとモラヴィアの2つの地域に大別されます。

ボヘミアとモラヴィアでは、その民俗音楽に大きな特徴があると言われます。

チェコの指揮者・作曲家のヤロスラフ・フォーゲルは、その違いを次のように述べているそうです。 

ボヘミアとモラヴィア西部は、音階は全音階的な長短調、フレーズは相称的な構造、拍節は厳格で規則正しい拍節構造とリズムパターン、起源は舞踊。

モラヴィア東部と南部およびスロヴァキアは、音階は長短調以外でギリシア旋法や教会旋法に近い、フレーズは非相称的な構造、拍節は不規則な長さのフレーズ構造、起源は歌謡。

ギリシャ人は彼らをガラティア人と呼んだ。紀元前3世紀に入ると、さらにダーダネルス海峡を経由して小アジアへ侵入し、現在のアンカラ付近を中心に小アジア各地を席巻しました。

 しかし、もとはケルトの地だったので、全体を貫くチェコらしさは何かあるでしょうね。

聞き比べてみると、面白いことがわかるでしょうね。

 ロマ音楽の拍子で、リズムやテンポが取れるかしら。

ロマ音楽のリズムの特徴は、強弱の入れ子になってることでしたね。

 前半が強く、後半が弱く、その前半と後半にも、それぞれ強弱があるでしょ。

 強さの順で言うと、強い順に4・2・3・1って感じでしたね。

実際に手拍子を打った方が、わかりやすいですね。

 Ton!ta!ton!ta Ton!ta!ton!ta (大文字小文字に強弱を対応させて手拍子)

どこまで、それが言えるか興味ありますね。

やがて紀元前1世紀頃に入ると、各地のケルト人は他民族の支配下に入るようになります。

ゲルマン人の圧迫を受けたケルト人は、西のフランスやスペインに移動し、紀元前1世紀にはローマのガイウス・ユリウス・カエサルらによって征服されます。

カエサルの『ガリア戦記』はガリア(ゴール)のケルト社会に関する貴重な文献です。

やがて500年にわたってローマ帝国の支配を受けたガリアのケルト人、フランス語ではゴール人は、被支配層として俗ラテン語を話すようになり、ローマ文化に従い、中世にはゲルマン系のフランク人に吸収されフランス人に変質していきます。

その後、チェコの地にはゲルマン人が定住したが、6世紀までにはスラヴ人が定住し、これが現在のチェコ人の直接の祖先となります。

 ゲルマンも、日本やイギリスとストーンサークルで繋がるのでしたね。

 日本人にはゲルマンの血が入っているという人もいるくらい、ゲルマンの末裔と言われるドイツ人も日本人と気質の類似がしばしば言われますね。

 スラブ人は、調べてみないとわからないけど、ロシアには日本人とよく似た人がいると指摘する人もいますね。

7世紀にフランク人サモの建設した王国がここを支配。

つづいてアバール人が支配者となりました。

 アバールは、アヴァールと発音する人もいますね。

綴りがAvarsですからね。

アバールとは、 5~9世紀に中央アジアおよび中央・東ヨーロッパで活躍した遊牧民族です。

支配者は遊牧国家の君主号であるカガン(khagan)と称し可汗の字が当てられるので、その国家はアヴァール可汗国とも呼ばれ、ルーシの史料ではオーブル人(Obrs)とも呼ばれます。

フンが姿を消してから約1世紀の後、フンと同じく現在のハンガリーの地を本拠に一大遊牧国家を築いたのがアバールです。

フンほどの強大さはなく、またアッティラほど傑出した指導者がいたわけでもなく、さらに周辺民族による記録が少なかったためにアヴァールの歴史はよく知られていません。

しかし、アヴァールが東ローマ帝国およびフランク王国と接触し、スラヴ諸民族の形成に大きな影響を与えたことは注目すべき事です。

 遊牧民というと、スキタイが有名ですね。

 そして、スキタイは行方不明となったイスラエル十支族が行動を共にしたという説があるでしょ。

 ロシア人に日本人と似た顔の人がいるのと、なんか関連あるのかしら。

どうなのでしょうね。

9世紀前半に漸く、スラヴ人は大モラヴィア王国を建設しました。

大モラヴィア王国はブルガリア帝国を通じて東ローマ帝国と交易を行い、ビザンツ文化を摂取しました。

907年にマジャル人が侵入し、大モラヴィア王国が崩壊すると、王国の東部スロバキアはハンガリーの支配をうけることになりました。

西部のボヘミア、モラヴィア地方ではプシェミスル家が西スラブ人の王国であるチェヒ国を建設しました。

10世紀にはボヘミア王国が建国され、ヴァーツラフ1世が国王に即位しました。

その後オタカル1世の時にボヘミア王の称号と世襲が承認され、13世紀末には神聖ローマ帝国選帝侯の地位を獲得しました。

10世紀後半からカトリックが普及し、11世紀にはドイツ人の植民が行われ、ドイツ化が進みます。

14世紀にプシェミスル家が断絶すると、ドイツ人のルクセンブルク家による支配が布かれました。

ルクセンブルク王朝ではカレル1世が神聖ローマ皇帝に即位し、ボヘミア王国は全盛期を迎えました。

首都プラハは中央ヨーロッパの学芸の主要都市の一つとなり、1348年にはプラハ大学が設立されました。

この時期のチェコは、民族的にはドイツ人の支配を受ける植民地でありながら、地域としてはドイツを支配するという王都でもあるという状況にありました。

15世紀にはヤン・フスがプラハ・カレル大学ー現在のカレル大学―学長になると、イングランドのジョン・ウィクリフの影響を受け、教会改革を実施、教会の世俗権力を否定し、ドイツ人を追放したため、フスとプラハ市はカトリック教会から破門されました。

さらにコンスタンツ公会議でフスが「異端」と見なされ火あぶりにされると、ボヘミアではフス戦争と呼ばれる大規模な反乱がおきました。

その後、ハンガリー王国、ポーランド王国の支配を受け、16世紀前半にはハプスブルク家の支配を受けることになりました。

チェコ人は政治、宗教面で抑圧されたため、1618年のボヘミアの反乱をきっかけに三十年戦争が勃発しました。

この戦争によってボヘミアのプロテスタント貴族は解体され、農民は農奴となり、完全な属領に転落しました。

18世紀後半には啓蒙専制主義による、寛容な政策と農奴制廃止によって自由主義、民族主義の気運がチェコでも高まりました。

1848年にはパラツキーがプラハでスラヴ人会議を開催し、汎スラヴ主義が提唱されました。

1867年のアウスグライヒ(和協)によるオーストリア・ハンガリー帝国の成立はチェコ人を満足させるものではなく、チェコ人をロシア主導の汎スラヴ主義に接近させることになりました。

19世紀後半には炭田の多いボヘミアではその豊富な石炭を使いドイツ系資本家からの資本によって起こされた産業革命による工業が著しく発展し、中央ヨーロッパ有数の工業地帯となりました。

 かつて一緒の国を作っていたスロバキアも、自動車産業に見られるように技術は高いですね。

 もっぱら、外資の工場が進出して作っているので、あまり目立ってないけど。

チェコ料理も、一般に日本人好みの味と言われますね。

素朴で、シンプルな料理は、味付けもマイルドで、イタリアやフランスの料理のように、洗練はされていませんが。

 比べてみると、案外日本と似ている国なようですね。

チェコは、昔の火山の名残で温泉も結構あり、温泉文化も息づいていますよ。

お互いをもっと知っていけば、親近感が湧いてくる国の一つではないでしょうか。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

宇宙の氷。

今回は、宇宙で見つかる氷の例を取り上げましょう。

宇宙には、氷は珍しくないのです。

朝日新聞サイエンスニュース2011年8月2日14時33分に、これがありました。

オリオン座星雲に酸素分子 星誕生の熱で氷溶け発生か
http://www.asahi.com/science/update/0802/TKY201108020102.html

酸素分子が確認されたオリオン座の大星雲=ESA、NASA提供

 オリオン座の大星雲のなかで、呼吸に必要な酸素分子が見つかったと米航空宇宙局(NASA)と欧州宇宙機関(ESA)が1日、発表した。

酸素原子は見つかっていたが、2個の酸素原子が結びついた分子の確認は初めてという。

 ESAの「ハーシェル宇宙望遠鏡」がガス状の星雲のなかで酸素分子に特徴的な波長の電磁波を捉えた。

周辺の水素分子約100万個に対して1個の割合しかなく、研究グループでは「ふだん氷の粒子に閉じ込められている酸素が、新しい星の誕生の熱で氷が解けて出てきたのではないか」と推測している。

 オリオン座の大星雲は地球から約1500光年の距離にある。

ガス状の中心部では新しい星が次々と生まれ、高温の光を放っていると考えられている。(ワシントン=行方史郎)

ちょっと前には、こんな記事もありました。

土星の“氷の月”、ヘレネ
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=2011062101&expand&source=gnews

National Geographic News
June 21, 2011

 NASAの土星探査機カッシーニが6月18日に撮影した土星の衛星ヘレネ。

 カッシーニはヘレネにフライバイ(接近通過)を試み、最接近時にはヘレネの上空6968キロを飛行した。

画像は、2010年3月に続く2回目の接近時に撮影された無補正データ。

長径36キロ、短径30キロのヘレネは、1980年に地上からの観測で発見された。

 これまでにカッシーニは、同じ土星の衛星ミマスやレア、エンケラドスなどに接近して観測したほか、いくつもの衛星を発見している。

Image courtesy NASA/JPL-Caltech/Space Science Institute

土星の衛星で氷と言えば、こんな話もありました。

氷と水のジェット、エンケラドス
            
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=2010120303&expand#title

National Geographic News
December 3, 2010

 土星の衛星エンケラドス(上)から噴出する氷と水のジェットが土星の明るい輪郭にかかりそうにも見えるが、エンケラドスの軌道は実際には土星大気の最上部から約18万キロ離れている。

NASAの土星探査機カッシーニが撮影し11月30日に公開された。

 2005年に発見されたこの氷の間欠泉はエンケラドスの南半球にある裂け目から噴き出しており、地下にある液体の水の層がその源泉であると考えられている。

Image courtesy NASA

もっと驚きで捉えられた宇宙の氷は、水星に見つかったものでしょう。

表面の平均温度は 452 K(179 ℃)と、太陽からの高温に晒されながら、水星には氷の存在が確認されているのです。

水星の浴びている太陽光は地球の太陽定数の4.59-10.61倍に相当し、エネルギー総計では 3,566 W/m2 となるといいます。

ちなみに公転軌道は、太陽を焦点のひとつとする大きな楕円軌道を描いています。

近日点が約0.31 AU(46 ×106 km)で、遠日点が約0.47 AU(70 ×106 km)といいます。

温度変化は、90-100 Kから700 Kにおよびます。

水星は公転と自転が共鳴しているため、近日点において特定の2箇所が南中を迎え最高温度の700Kに達します。

この場所は「熱極」と呼ばれ、カロリス盆地とその正反対側が当たります。

遠日点では500K程度になり、日陰部の最低温度は平均110Kほどです。

極に近く深いクレーターの中には太陽光が当たらない永久影となる部分があり、温度が102K以下に保たれているとみられています。

温度が102K以下というのは1992年、ゴールドストーン深宇宙通信複合施設の70m電波望遠鏡と超大型干渉電波望遠鏡群(VLA)が、水の氷による強いレーダー反射を観測して確認されたそうです。

天文学者は、水の氷が存在する可能性が最も高いと考えているそうです。

この氷の量は、10×1014-10×1015kg程度と推定されています。

なお、地球の南極に存在する氷は4 ×1018kg、火星の南極には10×1016kg程度の水の氷があると言われます。

水星極地の氷はレゴリスが、覆うことで昇華から防がれていると考えられるそうです。

レゴリスとは、固体の岩石の表面を覆う軟らかい堆積層の総称です。

水星の氷の起源は不明だが、彗星の衝突もしくは水星内部からの放出で生まれたという説が有力です。

 でも、彗星の衝突より、水星内部からの放出の方が可能性高くないですか。

地球の衛星である月にも、氷はありますからね。

 だけど、月のクレーターは大きさの割に浅いでしょ。

クレーターが浅いのは、月内部の水のせいと言いたいですか。

確かに、氷が見つかっているのは月の場合もクレーター内部ですからね。

そのため、彗星の衝突もしくは水星内部からの放出という両論が出るのでしょう。

 水星は地球型でしょ。

もし、月も地球と似た内部だったとしたら、どっちも地下水が染み出て凍った可能性はありますね。

月の氷は、彗星起源としては多過ぎるように見えます。

水星の場合は、太陽に近いせいで高温なので彗星起源が疑われる程度なのかも。

最低6億トン?月の北極に水の氷を発見
【2010年3月3日 NASA Feature/NASA Mini-RF】
http://www.astroarts.co.jp/news/2010/03/03lunar_ice/index-j.shtml

インド宇宙研究機関(ISRO)の無人月探査衛星「チャンドラヤーン1号」の観測データから、月の北極にある40以上の小さなクレーターに水の氷が発見された。

氷の厚さは数m程度で、氷の総量は少なくとも6億トンはあると計算されている。

月の北極の地図。緑の丸が、水の氷の存在が示されたクレーター。
クリックで拡大(提供:NASA)

2008年10月に打ち上げられたチャンドラヤーン1号は、2009年8月に通信が途絶え、予定より早くミッションを終了した。

しかし1年足らずの間に集められたデータは膨大で、現在分析が進められている。

チャンドラヤーン1号に搭載されていた11の機器のうち、撮像レーダー「Mini-SAR」は、南北の極にある永久影を観測した。

永久影は、常に太陽光があたることがなく極低温で、水の氷を含めた揮発性の物質が存在しているのではないかと考えられてきた。

今回、Mini-SARの観測データから作成された地図を調べたところ、北極にある40個以上の小さなクレーターの内部に、水の氷のものに似た、ある特徴的な情報が見られた。

NASAの宇宙運用ミッション局で月探査用レーダー装置「Mini-RF」計画の主任をつとめるJason Crusan氏は、「分析結果から、これは水の氷を強く示唆するものであると結論付けました」と話している。

水の氷が存在すると判断されたクレーターの大きさは直径2kmから15kmほど。氷は比較的純度が高く、厚みは数m程度とみられている。

気になる氷の全体量は、個々の氷の厚みにもよるが少なくとも6億トンほどと計算されている。

Mini-SARの観測は地下約1.5mまでに限られているため、氷の量が少なく見積もられている可能性もあるようだ。

今回の発見について、米・月惑星研究所でMini-SARを担当する主任研究員Paul Spudis氏は、「新たな発見で、これまで以上に月が興味深く魅力的な探査対象になりました」と語っている。

※NASAのMini-RF計画:月面に水の氷を探すことを目的としてレーダー装置を月に送る計画。

Mini-SARは、同計画で月へ送られた装置のうちの1つ。

もう1つは、NASAの月探査機ルナー・リコナサンス・オービター(LRO)に搭載された月探査用レーダー装置「Mini-RF」。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

釈尊も日本人も中東系?

ネパールは通称で、正式名称はネパール連邦民主共和国です。

 2008年に王制廃止した、南アジアの共和制国家よね。

東、西、南の三方をインドに、北方を中国チベット自治区に接する西北から東南方向に細長い内陸国です。

国土は、チベット語でサガルマータと呼ばれる世界最高地点エベレストを含むヒマラヤ山脈および中央部丘陵地帯と、南部のタライ平原から成ります。

 ネパールは、ヒマラヤ登山の玄関口としての役割を果たしているでしょ。

そうですね。

ネパールの古い歴史については、「バンシャバリ」といわれる王朝王統譜が5種類伝えられます。

「ゴーパーラ王朝」「マヒシャパーラー王朝」「キラータ王朝」があったとされるが、信憑性は低いといえます。

紀元前6世紀には、現在ネパール領のカピラヴァストゥ共和国の統治者の子として釈迦、つまり仏陀がルンビニで生誕し、北インドに教えを広めたのです。

インド領説もあるカピラヴァストゥ共和国は、紀元前4世紀から6世紀ごろに存在した国家です。

 これらの地域は、当時はインド文化圏に含まれていたので、カピラヴァストゥ共和国にインド領だったという説も出るのでしょうね。

紀元前3世紀には、インドのアショーカ王が釈迦の生誕地である南ネパールに巡礼を行い、仏塔を建立したのです。

4世紀には、インド・アーリヤ語派の王族によるネパーラー王国リッチャヴィ王朝が成立しました。

チベットと文化的、経済的、政治的の密接な交流があり、宗教・商業上の中心地として繁栄しました。

9世紀には、デーヴァ朝が興ります

13世紀以降には、マッラ朝が統治し、ネワール文化が栄えます。

1450年ごろには、マッラ朝、バクタプルからカトマンズ王国独立。

1619年までにマッラ朝、パタン王国、カトマンズ王国から独立、三王国並立時代となります。

ネパール史を振り返るのは今回の目的ではないので、この辺で本筋に入りたいです。

ネパール南部に位置するルパンヒデ郡にあるルンビニーの聖園は、ブッダ生誕の地として知られています

仏陀生誕の地とされるヒマラヤ山脈南麓にあるルンビニーは、仏教四大聖地の一つです。

仏教四大聖地は、ゴータマ・ブッダの生涯の重要な事跡に関わるとされます。

涅槃経によれば入滅、つまり死の直前に自ら指定したといえます。

仏教四大聖地は、この4カ所です。

生誕所であるルンビニー。

成道、つまり悟りの地である、ブッダガヤ。

初転法輪と呼ばれる初説法の地である、サールナート。

涅槃、すなわち入滅の地である、クシーナガラ。

さらに4カ所を加えて、八大聖地ということもあります

加わるのは、この4ヶ所です。

布教の地である、ラージギール。

教団本部の地である、サヘート・マヘート。

昇天の地である、サンカーシャ。

最後の旅の地である、ヴァイシャリ。

実は、このネパールは、日本との類似も案外あるというのです。

日本語は擬態語が多いけど、ネパール語もいろいろあるそうです。

 擬音語も含めて。

そのようですね。

擬音を交えて話すのは他の言語でも見られるけれど、擬態語を多用する言語はそれほどないです。

首都カトマンズは、アジア各地から西洋まで色んな文化が混ざっていたり、宗教も仏教やヒンズー教が混在していたりと、雰囲気はどことなく日本のどこかの街のようだと言います

 ネパールの宗教は、かつて国教とされていたヒンドゥー教、仏教、アニミズム等とその習合が混在するのでしたね。

 日本は、ヒンズー教の代わりにキリスト教だったりするけどね。

 もちろん、民族宗教の神道もある。

 ネパールと日本、同じアジアの国だから顔が似ているというのもあるでしょうね。

カトマンズは交易の町だから、いろいろあっても当然というかも知れないですよ。

けれど、他のキリスト教圏やイスラム教圏の交易の町は、文物や人は各地から来ていても、文化や宗教は共存はしていても混ざり合っているというほどではないでしょ。

 そういえば、ネパールはブータンと日本を比べた時、話題に上りましたね。

ブータンも、日本との繋がりが深い可能性がある国ですよね。

ブータンの大半はチベット系、そして、チベットは日本とともに古代中東の遺伝子が残っています

 そのチベットとネパールは、関係が深いのでしたね。

チベット系の内訳は、こんなふうですね。

チベット仏教のドゥク派を信仰しゾンカ語を主要言語とし、西部に居住するチベット系のガロップ族と呼ばれる人々。

チベット仏教の主にニンマ派を信仰しシャチョップカ語とも呼ばれるツァンラ語を母語とし、東部に居住するアッサム地方を出自とする以前はシャーチョップ族と呼ばれ今ではツァンラと名乗る人々。

ヒンドゥー教徒でネパール語を話し、南部に居住するローツァンパと呼ばれる少数だがイスラム教徒も含むネパール系住民。

 民族とカーストが、複雑に関係し合っているのでしょ。

そして、ネパールはインド・アーリア系の民族と、チベット・ミャンマー系民族からなる多民族・多言語国家です。

 人種学者のハンス・ギュンターのアーリアン学説では、「アイヌ人はアーリア人であり、日本人はアイヌ人の子孫である。だから日本人はアーリア人である」という議論が立てられていたでしょ。

この議論はナチスに利用されたので、今ではあまり、触れたがる人がいないですけど。

 アーリアン学説自体は、近年になって言語学を初めとする各分野から科学的な反証が行われ、その信憑性を大きく失いつつあるともされるですけど。

明確にアーリアン学説を疑似科学であると厳しく批判する学者が大勢を占めた今日では、半ば棄却された仮説と言えるそうです。

今では、「アーリア人」はインドに移住してきたインド・アーリア人、イランに移住してきたイラン・アーリア人およびそれらの祖先のみを指す場合が多いです。

 でも、インド人にインド人と間違えられる日本人がいたり、インドのタミル語に日本語の起源という説が立っているでしょ。

現在のイランを中心に栄えたペルシャ的な容貌の、日本人もいます。

 つまり、ネパール人の中のインド・アーリア系の民族は、日本人の親戚筋かも知れない。

文化的にも似ているから、可能性はあります。

ネパールの中心、カトマンズ盆地には旧石器時代から人が住んでいたことが明らかになっています

ドゥマカールの遺跡で発見された木具を放射性同位元素で測定した結果、紀元前2万7400年ごろのものと推定されたといえます。

また、タライなど旧インド文化圏の各地でも旧石器時代の遺物が発見されています

伝説では、カトマンズ盆地は太古の昔湖で、スワヤンブー寺院を参詣しに来たマンジュシュリ(文殊菩薩)が湖を囲む山を剣で切り開き、湖水を流しだし人が住めるようにしたといわれます。

また「ネ」(ne) という名の牟尼つまり、聖者が、最初にこの地を「統治」(pal) したので、「ネパール」(nepal)の名が付けられたという伝説もあります

その他、ネパールの起源に関する伝説は数多く存在します。

 「ネ」(ne) という名の牟尼つまり聖者ですか。

 神道の祭司は禰宜だけれど、「祈(ね)ぐ」の連用形が語源と見られているでしょ。

字から解釈すると、禰は「汝に示す」、宜は「捧げる場所」と見えます。

つまり禰宜は、捧げ物を掌り神の言葉を取り次ぐ者と、解釈できそうですね。

 そうなると、禰(ね)こそが、禰宜という言葉の中心ね。

 「ネ」(ne) という名の牟尼つまり聖者というより、「ネ」(ne) と呼ばれた牟尼つまり聖者と解釈する方が、良さそうですね。

「ネ」(ne) と呼ばれた牟尼つまり聖者、すなわち捧げ物を掌り神の言葉を取り次ぐ者である禰宜、有り得ます。

「統治」(pal)、「統治」(shiru)を転化と見れば、こうかも。

「禰」(ne) と呼ばれた捧げ物を掌り神の言葉を取り次ぐ者が、「統治」(pal)したから「ネパール」(nepal)。

 チベットと日本は、古代中東の遺伝子が多く残り、チベットとネパールは古来関係が深い。

 つまり、ネパールと日本も古来関係が深い。

 でも、ここまで深いのか…。

これで、もし、釈尊が出た釈迦族が、この延長線に乗れば、釈尊は日本人の親戚筋となるかも。

 釈迦(シャカ)には、釈迦(サカ)という読みもありますね。

クルマサキという名前のとき、クメルサキの転化であり、クメールつまりカンボジアから来たサカ族という解釈をしましたね。

このサカ族がシャカ族であり、シャク尊の出身した一族であると裏が取れれば、面白いですね。

 そういえば、飛鳥昭雄と三神たけるは、釈尊は日本人の親戚筋と指摘しているよね。

 チベット・ミャンマー系民族、チベットは中東の遺伝子が多いけど、もし、釈迦族がこの流れに乗れば、中東系となりますね。

アーリアも中東に遡るから、釈尊はどうみても中東系ですね。

釈尊も日本人も中東系、これだけは確かと言えそうですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

暗黒物質とヒッグス粒子と重力?

読売新聞の2010年1月4日付に、この記事が載っていたそうです。

謎の2粒子、正体は同じ!?阪大教授が新理論

 ノーベル賞を受賞した南部陽一郎博士の理論からその存在が予測されたヒッグス粒子が、宇宙を満たす謎の暗黒物質(ダークマター)と同じものであるという新理論を、大阪大の細谷裕教授がまとめた。

 “二つの粒子”は、物理学の最重要テーマで、世界中で発見を競っている。

暗黒物質は安定していて壊れないが、ヒッグスは 現在の「標準理論」ではすぐに壊れるとされており、新理論はこれまでの定説を覆す。

証明されれば宇宙は私たちの感覚を 超えて5次元以上あることになり、宇宙観を大きく変える。

 ヒッグスは、質量の起源とされ、普段は姿を現さないが、他の粒子の動きを妨げることで、質量が生まれるとされる。

一方、 衛星の観測などから宇宙は、光を出さず安定した暗黒物質で満ちていると予想されている。

細谷教授は、宇宙が時間と空間の 4次元ではなく、5次元以上であると考え、様々な粒子が力を及ぼしあう理論を考えた。

その結果「ヒッグスは崩壊せず、電荷を 持たない安定した存在」となった。

 欧州にある世界最大の加速器(LHC)では最大の課題としてヒッグスの検出実験が行われる。

ヒッグスが不安定なら、崩壊時に 観測が可能だが、細谷理論のように安定だと観測できない。

ただ、新たな実験手法で検証は可能という。

 一方、暗黒物質候補も09年末、「発見の可能性」が報告されたが、細谷理論と矛盾しないという。

 細谷教授は昨年8月に欧州の物理学誌に新理論を発表。

秋に来日した南部博士にも説明した。南部博士は「今まで誰も気づかなかった見方で、十分あり得る」と評価したという。

 小林富雄・東京大教授(素粒子実験)の話「美しく素晴らしいアイデア。数年で新理論を検証できる可能性がある」

 ◆標準理論 

物質や力の成り立ちを説明する理論。

宇宙の四つの力のうち重力を除いた電磁気力や弱い力、強い力を説明する。

物質になぜ重さがあるのかを説明する南部博士の理論などが基礎になっている。

ここでいう宇宙が時間と空間の4次元ではなく、5次元以上であると考えるとは、より広くより大きな視野や視点で物事を見たり考えたりするくらいに思えば良いでしょう。

問題は、科学者が5次元や6次元を、より高い視点やより広い視野と気づかずに、現実に存在する空間と思い込んでいることです。

 赤ちゃんの視点や視野が空間の2次元+時間の1次元、見守る親は空間の3次元+時間の1次元、育児にアドバイスする人の視点や視野は空間の4次元+時間の1次元ってことかしら。

まあ、そんなところです。

細谷裕教授の理論は、ヒッグス粒子にとって諸刃の剣といえます。

暗黒物質や暗黒エネルギーは、プラズマ宇宙論では不用とされているのです。

プラズマ宇宙論が勝利したら、ヒッグス粒子が宇宙を満たす謎の暗黒物質と同じものとした場合、どうなるかを考えてみましょう。

 ヒッグス粒子は暗黒物質もろとも、否定される可能性がある。

その通りです。

 けれど、プラズマ宇宙論の人達もヒッグス粒子の存在は疑っていないでしょ。

ところが、暗黒物質と同じとなるとヒッグス粒子も一緒に否定せざるを得ない。

ヒッグス粒子は現在の「標準理論」の指摘通りすぐに壊れるなら、安定していて壊れない暗黒物質とは別物となりますけどね。

 つまり、細谷裕教授の理論は間違えであれば、何の問題もない。

ところが、ここに落とし穴があるのです。

ヒッグス粒子が、宇宙を満たす謎の暗黒物質と同じものというのは正しいというところまでは同じとします。

もしも、暗黒物質もまた不安定であるがゆえに、不安定なヒッグス粒子と同じだとしたらどうでしょう。

 だけど、暗黒物質は安定していると、見られているから…。

この矛盾を解決するには、どうしますか。

 ヒッグス粒子の物質に与える質量の総量は、常に一定ということになりますね。

 そうすれば、安定している暗黒物質と矛盾しないでしょ。

質量は実際には重量として測定されているはずでしょ。

 ヒッグス粒子の物質に与える重量の総量は、常に一定ということになりますね。

そして、重量とはある大きさの重力下で測定された質量の値のことです。

 ヒッグス粒子が物質に与えているのは、重量である。

もっといえば、物質の持つ質量の大きさを重量として表面化させているのがヒッグス粒子という事になるでしょ。

 言い換えれば、ヒッグス粒子は重力として働いている存在である。

整理しましょう。

ヒッグス粒子=重力=暗黒物質

こういう構図が、見えてきました。

 重力は、エネルギーですよね。

そしてエネルギーには、保存則があります。

暗黒物質が一定な理由は、エネルギー保存則によるのではないでしょうか。

 そしてプラズマ宇宙論では、暗黒物質も暗黒エネルギーも、想定しない。

プラズマは、宇宙に存在する全物質の99.9999999999・・・%を占めているそうです。

 プラズマ宇宙論で暗黒物質も暗黒エネルギーも想定しないのは、それがプラズマの持つ質量でありエネルギーだから。

ヒッグス粒子が不安定なのは、プラズマの波動性が原因だとしたらどうでしょう。

ヒッグス粒子が不安定にもかかわらずエネルギーは一定なのは、プラズマのエネルギーが一定であることに依るかもしれないですよ。

そして、ヒッグス粒子が重力だとしたら、プラズマのエネルギーが重力の正体という展開になりそうですね。

 プラズマには引力も斥力もある。

だったら、重力にも引力と斥力があるとなりませんか。

そして、重力の持つ斥力こそ、宇宙を支える暗黒エネルギーでは、ないでしょうか。

 暗黒エネルギー=斥力としての重力=アインシュタインの宇宙定数

 そういうことかしら。

そうかも。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »