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秦氏と日田氏と肥田氏?

肥田氏は、代々武家として鎌倉、室町幕府を支えました。

後には、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、北条氏康、徳川家康の家臣として仕えました。

江戸時代には旗本幕閣として徳川幕府中枢を支えました。

徳川尾張藩の家老、徳川水戸藩の家老、高松藩の家老を輩出しました。

また幕末から明治にかけても活躍し新政府の下で文明開化に貢献しました。

発祥により大きく土岐肥田氏・豆州肥田氏・遠江肥田氏などがあります。

また飛騨氏、飛田氏、比田氏、樋田氏、氷田氏、木田氏、貴田氏も同族の可能性があります。

家紋は「土岐桔梗」「桔梗」「片喰」「三つ柏」「丸に剣花菱」「丸に太九枚笹」などがあります。

『見聞諸家紋』では「三つ盛酢漿草」が載っています。

なお、九州の日田(ひた)氏は豊後大蔵氏であり、肥田氏とは別族というのが通説になっています。

 肥田氏の土地は、時代を遡れば秦氏が顔を出しますね。

そこで、肥田氏は元は秦氏であったという議論を何度となく立ててきました。

 日田氏は、肥田氏とは別族ではないと。

そこを、見てみようというわけです。

豊後大蔵氏とは、豊後国慈眼山周辺を拠点に大分県日田市を支配していた地方の土豪です。

平安時代後期、11世紀終わりから1432年(永享4年)まで、400年弱の間、鬼蔵永弘とも呼ばれた大蔵永弘の代の承和2年(835年)から16代永包の代の嘉吉4年(1444年)までの590年余りの間の日田地方を支配しました。

豊後大蔵氏の本姓は東漢姓大蔵氏流の庶家とされ、古代に九州の日田地方を支配していたといわれる日下部氏に代わって日田郡司になったとされます。

その後、日田での地位を確立していった大蔵氏は、中央の貴族に従属して、勢力を確固なものとしていきました。

また、大蔵氏は、大原八幡宮や永興寺(ようこうじ)、岳林寺(がくりんじ)を造営し華やかな文化を形成していったが文安元年(1444年)、身内の家督争いによって滅亡し大友氏より養子を迎えて大友氏系で日田氏を再興しました。

その大友日田氏も、享禄3年(1530年)に滅亡しました。

 大分県と言えば、九州東部に位置すると言われるけど、全体から見ると北部にありますね。

 九州北部と言えば、古代には秦氏の王国があったと指摘されるでしょ。

 秦(はた)から日田(ひた)は、容易に転化するでしょ。

それに、八幡宮は秦氏縁の神社ですよ。

秦氏は、神道にも仏教にも関わってきました。

 大蔵氏が、秦氏の一族であることは、間違えない。

九州の日田氏は大蔵氏だというけど、むしろ、秦氏の土地が日田(ひた)と呼ばれるようになり、そこにいた秦氏の一族が大蔵氏となったと見る方が自然に思えますね。

 大蔵永弘は、通称が鬼蔵永弘だったというのは、なぜでしょうね。

 何か大事な記録や文物を保管していたから、大蔵とも鬼蔵とも、呼ばれていたのかしら。

祭祀に、深く関わっていたから大蔵とも鬼蔵とも呼ばれていた、可能性はありそうですね。

 あとは、肥田氏との繋がりですね。

肥田氏の古来からいた土地は、大抵、秦氏がいたとされますよ。

 肥田氏を辿ったら、諏訪大祓まで登場しましたからね。

 日田氏がもし、肥田氏の流れなら祭祀に関係したかも。

大原八幡宮や永興寺、岳林寺を造営し、文化とも関係が大きい訳ですから。

時代を遡ると、文化は祭り事から派生したものが増えますからね。

 大蔵と呼ばれたから、相当財を成し、金に飽かせて寺社を神仏に寄進したり大判振る舞いで文化を栄えさせたと、想像されがちな気もしますよ。

 身内の家督争いによって滅亡、一族が反目しあうなんて資産家の相続争いではありがちでしょ。

まあ、権益を巡る争いはあったでしょうね。

養子を送り込んだ大友氏も、大分で大きな勢力を持っていました。

大友氏は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、現在の大分県にあたる九州の豊後国を本拠とした一族です。

 豊後・筑前・筑後など北九州を支配した守護職・守護大名でしたね。

 戦国時代には豊後の戦国大名に成長するが、豊臣政権期に改易された。

大友氏も、大蔵氏の持っていた権益を一族に取り込む意図もあって養子を送ったという見方もできます。

だが、大友氏には、元を辿ると中原氏や、藤原氏秀郷流、清和源氏などが候補に挙がります。

 肥田宿禰は、清和源氏土岐氏や藤原氏の流れとみていいのかもしれないと見ましたね。

 肥田宿禰は、肥田氏の祖先ですよね。

清和源氏自体も、諏訪氏の祖先を遡れば出てきたでしょ。

中原氏は、日本の古代から近世までの貴族だが、安寧天皇の第三皇子である磯城津彦命が源流と言われています。

天皇家と藤原氏や秦氏の姻戚関係が深いことを思えば、大友氏は藤原系の一族と言えるでしょう。

仮に、大蔵氏が日田(ひた)にいた秦氏であったとしたら、どうでしょう。

藤原氏には、秦氏の一族という指摘があります。

 大友氏が大蔵氏に養子を送って再興を図った裏には、秦一族の持っていた権益を守ろうという目論みもあった。

そう見ても、面白いでしょ。

大蔵氏が、元を辿れば秦氏であったなら、経済に強く大いに権益を手にして財をなしたから大蔵というようになったかも知れないですよ。

秦氏は、経済活動で有名な一族ですからね。

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コメント

面白い記事をありがとうございます。
自分の御先祖様が豊後大蔵氏です。
しかし家紋がはっきりせず色々調べていたらこの記事にたどり着きました。

父親の実家の先祖の墓の家紋は「丸に剣花菱」です!どこかで日田氏と肥田氏は繋がりあったとものと確信しております。ツイッターの方もフォローさせていただきました。もし他にも色々お話を聞けたらよろしくお願いします。

投稿: 大蔵 | 2012年7月24日 (火) 22時38分

父方の実家の祖先が豊後大蔵と、解釈してよろしいですか。

もしそうなら、「丸に剣花菱」で肥田氏との繋がりが見えることになりますね。

興味深いお話、ありがとうございます。

投稿: cova | 2012年7月25日 (水) 10時51分

凄い内容ありがとうございます。
私は日田と秦氏の謎を今年から勉強しています。例えば中国の文献に筑紫に東に秦王国あり、そして10余国へて海岸に達する。であれば、飯塚か日田にしか考えられない。以下のように彦山の神が日田の藤原=鷹であればみえてくると思うのです。 

英彦山と日田と田川に残る「鷹」伝承の謎

                地名と鷹

 日田の地名の呼ばれ方は、『続日本紀』―日向(ひむか・ひなた・ひこ?) 『旧事紀』―比多(ひた) 『和名抄』― 日高(ひだか) 『豊西記』―日鷹(ひだか) 『東鏡』―肥多(ひた) 『豊後国風土記』―久津媛(ひさつひめ)が訛り日田(ひた)。
 という色々な呼ばれ方をしているのがわかる。

 『豊後国志』に記述されている鷹伝説を紹介する。「遙か昔、山々に囲まれた日田盆地はとても大きな湖でした。そこへ東から大鷹が飛んで来て、湖の上を飛びまわり北に向かい去ると、突然と地震で鳴り動いて、昼間であるのに夜のように暗くなり、西の崖が崩れ裂け、水が抜けて涸渇すると、平野となって、3つの丘が向かい合うように立ち、水の痕はただ1帯の川として残りました」という日田の創世神話が残されている。
 また同じ内容が豊西記にも記述されているが、豊後国志には、日田から鷹が飛び去った事が書かれている。その内容は「鷹が日田から鷹羽郡に飛び去って行った」という。その鷹羽郡は今の筑豊の田川の事である。

 田川は、古来は「鷹羽郡」と読まれていて、田川に行くと、鷹の名が付く、公共施設や地域名や企業名が目立つように鷹羽=田川なのである。
 そう考えると、日鷹=日田というのも、田には「鷹」の意味が含まれるという早々もできよう。

鷹は英彦山で、英彦山を創建した日田の藤原恒雄 

英彦山を創建したのが伝説の藤原恒雄(藤山恒雄・藤山町に住んでいた)である。英彦山は、継体天皇25年(531年)、北魏の僧・善正(ぜんしょう)が英彦山山中で修行中に猟師・藤原恒雄(のちの忍辱〈にんにく〉)に会い、殺生の罪を説いた。しかしそれでも恒雄は猟を続け、1頭の白鹿を射た。その時、3羽の鷹が出現して白鹿に檜の葉に浸した水を与えると、白鹿は生き返った。それを見た恒雄は、この白鹿は神の化身なのだと悟り、善正の弟子となって当社を建立したという。
そして意外や意外。九州を統治していたのが磐井であり、継体天皇が物部麁鹿火を磐井を殺すために差し向けたのが磐井の乱527年だ。
磐井は豊の国の奥に逃げ込んだとされるが、磐井と藤原恒雄との関連は無関係なのであろうか?
恒雄とは檀君神話に登場するものか?。檀君(だんくん)とは、13世紀末に書かれた『三国遺事』に初めて登場する、伝説上の古朝鮮の王。『三国遺事』によると、天神桓因の子桓雄と熊との間に生まれたと伝えられる。『三国遺事』の原注によると、檀君とは「檀国の君主」の意味であって個人名ではなく、個人名は王倹という。
恒雄の名も朝鮮の檀君神話の桓雄に由来するのではないかという指摘もある。(中野幡能「英彦山と九州の修験道」や大和岩雄氏は「秦氏の研究」の中に(以下参照)
記紀神話では、天忍穂耳命でなく、その子のニニギが天降っているが、ニニギにするわけにいかないから、オシホミミにしたのである。桓雄は太白山に天降っているから、桓雄をオシホミミに変えたのであり、この伝承の根は、朝鮮の始祖降臨の檀君神話にある。朝鮮の始祖降臨神話の主人公が、彦山伝承では語られていたが (但し、「藤原恒雄」と日本人化してはいたが)、それが、記・紀神話の主人公に変えられて、天忍穂耳命(天照大神の子ども=あめのおしほみみ)となり、香春神社の祭神の忍骨命となったのである。『彦山流記』 は、彦山に降臨した「王子晋」 の分身を「天童」というと書くように、王子晋も御子忍穂耳(忍骨)も、同じイメージである。彦山の「彦」は「日子」 で、日の御子の意である。対馬の天童伝説では、天童を日の御子とみている。

英彦山(高住神社=鷹住神社)を創建した藤原恒雄の神が香春で奉られるという想像もしない展開へ進む。

また、森春樹(1771年日田生まれ)は、造領記の中で、豊国法師は忍辱(にんにく)こと藤原恒雄と記述を残している。
 中央の記録に彼らは「豊国法師」と呼ばれる行者であった。五八七年に用明天皇の病気平癒祈願のために、豊前から豊国法師と称する一行が宮中に召されている。彼らの正体は謎に包まれているが、それより百年ほど前に雄略天皇が御不慮であったさいに宮中に召された「豊国奇巫」の後身ではないかと推測されている。

鷹とは宇佐でも八幡大神が鷹の姿で現れた、金の鷹が現れた、鷹居社など宇佐も鷹伝承が多いもの事実。

筑豊と豊前と日田は英彦山という「鷹」というキーワードでつながる歴史がある。

投稿: sasaki | 2016年5月12日 (木) 22時10分

sasakiさん、あなたの方もよく調べられていますね。

興味ひかれる話ありがとうございます。

日田と田川に残る「鷹」伝承でふと思ったのは、秦氏の一族に祭祀系の賀茂氏がいます。

賀茂は鴨に通じますから、鳥繋がりが見えてきて面白いですね。

投稿: cova | 2016年5月14日 (土) 22時24分

 日田地名の起こりの久津媛(ひさつひめ)の摂社(今は無いけど、神社絵図)があって。それが鴨神社なのです。

投稿: sasaki | 2017年7月17日 (月) 23時38分

鴨神社とくれば、秦氏の祭祀担当支族賀茂氏の流れそのものではないですか。

やはり、日田氏も秦氏の一族であり肥田氏の仲間である可能性が濃厚になりました。

貴重な情報ありがとうございます。

投稿: cova | 2017年7月25日 (火) 08時47分

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