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チェコ。

1993年に、チェコスロバキアがチェコとスロバキアに分離しました。

今回は、チェコの方を取り上げてみたいと思います。

 スロバキアも、気になりますけど。

そのうち、取り上げましょ。

チェコの正式名称は、チェコ語でČeská republika(チェスカー・レプブリカ)で、チェコ共和国と訳されます。

通称は Česko(チェスコ)、または Čechy(チェヒ)です。

チェコは、地域的には中欧に属するが、第二次大戦後ソ連圏に組み込まれていた時期には政治的に東欧に分類されていました。

 ソ連崩壊後、再び中欧の国として分類されるようになったわけですよね。

まず、大まかに歴史を振り返ってみます。

中世以降は、チェコ民族の形成を振り返るのが目的なので省かせてもらいます。

古代には、チェコの地にケルト人が居住し独自の文化を形成しました。

チェコは、主に古来はケルト系先住民ボイイ人の名によりボヘミアと呼ばれた西部の広大な盆地とモラヴィアの丘陵とからなります。

西スラヴ系のチェック人(Czechs)が定着し、7世紀にはフランクの商人サモがモラヴィアを中心に国家であるサモ国を建設しました。

サモの死後まもなく滅びたが、その基礎は次のモラヴィア王国に受け継がれ、これがマジャル人の進出で衰退すると、ボヘミアには10世紀頃に王国を建てたという流れがチェコ史の初期の展開となります。

 ケルトは、日本とヨーロッパを繋ぐ民族として何度も話題にしてきましたね。

ケルト人は、中央アジアの草原から馬と戦車や馬車など車輪付きの乗り物を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族です。

ケルト人はおそらく青銅器時代に中部ヨーロッパに広がり、その後期から鉄器時代初期にかけて、ハルシュタット文化を発展させました。

 ハルシュタット文化は、紀元前1200年から紀元前500年ですよね。

ハルシュタット文化という名称は、オーストリアのザルツブルク州の南東の湖岸の村ザルツカンマーグートにある標式遺跡が出土したハルシュタットに由来します。

標式遺跡は標準遺跡とも呼ばれ、考古学上の、遺構、遺物又はその一連となる関連性の集合として定義される特定の型式、形式、様式、あるいは、年代、文化期、文化層の命名、簡単に言えば時期区分名命名の契機を与えた遺跡、あるいはその基準となる遺構、遺物が検出された遺跡自身のことをいいます。

例えば、弥生文化とは、1884年(明治17年)に東京府本郷向ヶ岡弥生町、現在の東京都文京区弥生の貝塚で発見された土器が発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来します。

この、弥生文化の名の由来となった東京の遺跡は弥生文化の標識遺跡と言えます。

ハルシュタット文化は、中央ヨーロッパにおいて紀元前12世紀以降青銅器時代後期の骨壺文化から発展し、紀元前8世紀から紀元前6世紀鉄器時代初期にかけて主流となった文化です。

後に中央ヨーロッパのほとんどは、ラ・テーヌ文化に移行しました。

ラ・テーヌ文化はヨーロッパの鉄器時代の文化で、スイスのヌーシャテル湖北岸にあるラ・テーヌの考古遺跡で1857年 Hansli Kopp が多数の貴重な遺物を発掘したことから名付けられました。

当時欧州の文明の中心地であったギリシャやエトルリアからの圧倒的な影響の下、ハルシュタット鉄器文明は紀元前500年から紀元前200年ラ・テーヌ鉄器文明に発展します。

ケルトの社会は鋭利な鉄製武器を身に付け、馬に引かれた戦車に乗った戦士階級に支配され、欧州各地に分立しました。

古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていたが、「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」なのだとも考えられます。

ブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォル、コーンウォルから移住したブルターニュのブルトン人などにその民族と言語が現存しています。

現在のケルトという言葉は言語・文化の区分を示すための近現代になってから作られた用語であり、古代~中世において右図で表されている地域の住民が、「ケルト人」として一体的な民族意識を持っていたとは考えられていません。

そのため歴史学などでは「ケルト人(Celts)」という言葉は使わず、「ケルト系(Celtic)」という言葉を便宜的に使っています。

彼らは南欧の文明社会としきりに交易を行い、その武力によって傭兵として雇われることもあり、ギリシャ・ローマの文献に記録が残されています。

紀元前400年頃にはマケドニアの金貨に影響されて、各地でケルト金貨を製造するようになりました。

また、ケルト人の一部はバルカン半島へ進出し、マケドニア、テッサリアなどを征服しました。

 マケドニア、ロマ音楽の影響を受けた国や地域を取り上げた時出てきた名前ですね。

ロマ音楽も、日本の民族歌謡との類似が大きいですね。

チェコ音楽の形成は、チェコ史を反映して複雑な経過をたどっているので、特徴の比較は簡単にはいかないようです。

チェコは、その地理的位置付けから周辺の国や民族から翻弄されてきました。

政治的には東ローマ帝国、神聖ローマ帝国、ハンガリー、オスマン帝国、ポーランドといった大国が鎬を削りました。

民族的にはゲルマン系集団、スラヴ系集団、マジャル人に代表される東方由来の遊牧民などが興亡を繰り広げました。

宗教的には正教会、カトリック、フス教徒を含むプロテスタントといったキリスト教諸会派が勢力を争いました。

このため、その音楽にも多様性が生まれ、アントニン・ドヴォルザーク、レオシュ・ヤナーチェクといったユニークな作曲家を生んだのです。

ただ、どんなに周辺の影響を受けようと、チェコの民族性を音楽も反映しているはずなので、なんらかの特徴は見えると思えます。

チェコは、ボヘミアとモラヴィアの2つの地域に大別されます。

ボヘミアとモラヴィアでは、その民俗音楽に大きな特徴があると言われます。

チェコの指揮者・作曲家のヤロスラフ・フォーゲルは、その違いを次のように述べているそうです。 

ボヘミアとモラヴィア西部は、音階は全音階的な長短調、フレーズは相称的な構造、拍節は厳格で規則正しい拍節構造とリズムパターン、起源は舞踊。

モラヴィア東部と南部およびスロヴァキアは、音階は長短調以外でギリシア旋法や教会旋法に近い、フレーズは非相称的な構造、拍節は不規則な長さのフレーズ構造、起源は歌謡。

ギリシャ人は彼らをガラティア人と呼んだ。紀元前3世紀に入ると、さらにダーダネルス海峡を経由して小アジアへ侵入し、現在のアンカラ付近を中心に小アジア各地を席巻しました。

 しかし、もとはケルトの地だったので、全体を貫くチェコらしさは何かあるでしょうね。

聞き比べてみると、面白いことがわかるでしょうね。

 ロマ音楽の拍子で、リズムやテンポが取れるかしら。

ロマ音楽のリズムの特徴は、強弱の入れ子になってることでしたね。

 前半が強く、後半が弱く、その前半と後半にも、それぞれ強弱があるでしょ。

 強さの順で言うと、強い順に4・2・3・1って感じでしたね。

実際に手拍子を打った方が、わかりやすいですね。

 Ton!ta!ton!ta Ton!ta!ton!ta (大文字小文字に強弱を対応させて手拍子)

どこまで、それが言えるか興味ありますね。

やがて紀元前1世紀頃に入ると、各地のケルト人は他民族の支配下に入るようになります。

ゲルマン人の圧迫を受けたケルト人は、西のフランスやスペインに移動し、紀元前1世紀にはローマのガイウス・ユリウス・カエサルらによって征服されます。

カエサルの『ガリア戦記』はガリア(ゴール)のケルト社会に関する貴重な文献です。

やがて500年にわたってローマ帝国の支配を受けたガリアのケルト人、フランス語ではゴール人は、被支配層として俗ラテン語を話すようになり、ローマ文化に従い、中世にはゲルマン系のフランク人に吸収されフランス人に変質していきます。

その後、チェコの地にはゲルマン人が定住したが、6世紀までにはスラヴ人が定住し、これが現在のチェコ人の直接の祖先となります。

 ゲルマンも、日本やイギリスとストーンサークルで繋がるのでしたね。

 日本人にはゲルマンの血が入っているという人もいるくらい、ゲルマンの末裔と言われるドイツ人も日本人と気質の類似がしばしば言われますね。

 スラブ人は、調べてみないとわからないけど、ロシアには日本人とよく似た人がいると指摘する人もいますね。

7世紀にフランク人サモの建設した王国がここを支配。

つづいてアバール人が支配者となりました。

 アバールは、アヴァールと発音する人もいますね。

綴りがAvarsですからね。

アバールとは、 5~9世紀に中央アジアおよび中央・東ヨーロッパで活躍した遊牧民族です。

支配者は遊牧国家の君主号であるカガン(khagan)と称し可汗の字が当てられるので、その国家はアヴァール可汗国とも呼ばれ、ルーシの史料ではオーブル人(Obrs)とも呼ばれます。

フンが姿を消してから約1世紀の後、フンと同じく現在のハンガリーの地を本拠に一大遊牧国家を築いたのがアバールです。

フンほどの強大さはなく、またアッティラほど傑出した指導者がいたわけでもなく、さらに周辺民族による記録が少なかったためにアヴァールの歴史はよく知られていません。

しかし、アヴァールが東ローマ帝国およびフランク王国と接触し、スラヴ諸民族の形成に大きな影響を与えたことは注目すべき事です。

 遊牧民というと、スキタイが有名ですね。

 そして、スキタイは行方不明となったイスラエル十支族が行動を共にしたという説があるでしょ。

 ロシア人に日本人と似た顔の人がいるのと、なんか関連あるのかしら。

どうなのでしょうね。

9世紀前半に漸く、スラヴ人は大モラヴィア王国を建設しました。

大モラヴィア王国はブルガリア帝国を通じて東ローマ帝国と交易を行い、ビザンツ文化を摂取しました。

907年にマジャル人が侵入し、大モラヴィア王国が崩壊すると、王国の東部スロバキアはハンガリーの支配をうけることになりました。

西部のボヘミア、モラヴィア地方ではプシェミスル家が西スラブ人の王国であるチェヒ国を建設しました。

10世紀にはボヘミア王国が建国され、ヴァーツラフ1世が国王に即位しました。

その後オタカル1世の時にボヘミア王の称号と世襲が承認され、13世紀末には神聖ローマ帝国選帝侯の地位を獲得しました。

10世紀後半からカトリックが普及し、11世紀にはドイツ人の植民が行われ、ドイツ化が進みます。

14世紀にプシェミスル家が断絶すると、ドイツ人のルクセンブルク家による支配が布かれました。

ルクセンブルク王朝ではカレル1世が神聖ローマ皇帝に即位し、ボヘミア王国は全盛期を迎えました。

首都プラハは中央ヨーロッパの学芸の主要都市の一つとなり、1348年にはプラハ大学が設立されました。

この時期のチェコは、民族的にはドイツ人の支配を受ける植民地でありながら、地域としてはドイツを支配するという王都でもあるという状況にありました。

15世紀にはヤン・フスがプラハ・カレル大学ー現在のカレル大学―学長になると、イングランドのジョン・ウィクリフの影響を受け、教会改革を実施、教会の世俗権力を否定し、ドイツ人を追放したため、フスとプラハ市はカトリック教会から破門されました。

さらにコンスタンツ公会議でフスが「異端」と見なされ火あぶりにされると、ボヘミアではフス戦争と呼ばれる大規模な反乱がおきました。

その後、ハンガリー王国、ポーランド王国の支配を受け、16世紀前半にはハプスブルク家の支配を受けることになりました。

チェコ人は政治、宗教面で抑圧されたため、1618年のボヘミアの反乱をきっかけに三十年戦争が勃発しました。

この戦争によってボヘミアのプロテスタント貴族は解体され、農民は農奴となり、完全な属領に転落しました。

18世紀後半には啓蒙専制主義による、寛容な政策と農奴制廃止によって自由主義、民族主義の気運がチェコでも高まりました。

1848年にはパラツキーがプラハでスラヴ人会議を開催し、汎スラヴ主義が提唱されました。

1867年のアウスグライヒ(和協)によるオーストリア・ハンガリー帝国の成立はチェコ人を満足させるものではなく、チェコ人をロシア主導の汎スラヴ主義に接近させることになりました。

19世紀後半には炭田の多いボヘミアではその豊富な石炭を使いドイツ系資本家からの資本によって起こされた産業革命による工業が著しく発展し、中央ヨーロッパ有数の工業地帯となりました。

 かつて一緒の国を作っていたスロバキアも、自動車産業に見られるように技術は高いですね。

 もっぱら、外資の工場が進出して作っているので、あまり目立ってないけど。

チェコ料理も、一般に日本人好みの味と言われますね。

素朴で、シンプルな料理は、味付けもマイルドで、イタリアやフランスの料理のように、洗練はされていませんが。

 比べてみると、案外日本と似ている国なようですね。

チェコは、昔の火山の名残で温泉も結構あり、温泉文化も息づいていますよ。

お互いをもっと知っていけば、親近感が湧いてくる国の一つではないでしょうか。

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コメント

ブログ村から飛んで来ました。そして、どこで仕入れたのかさえ忘れてしまった知識が甦り、非常に懐かしい思いに駆られました。チェコ料理と目にして、何も思い浮かばないあたりやはり、少し遠い国なんだな、と思ってしまいました。とても面白いブログですね。また訪問したいと思います。

投稿: Medeski | 2011年8月 5日 (金) 05時41分

どうぞ、気楽に読んでくださいね。

投稿: cova | 2011年8月 5日 (金) 06時43分

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