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宇陀と辰砂と秦氏?

奈良県宇陀市は、万葉集の歌に『大和の宇陀の真赤土のさ丹著かば そこもか人の 吾を言なさむ』と呼ばれたほどの真赤土の産地でした。

真赤土とは辰砂のことで、辰砂から水銀が取れます。

 日本では古来「丹(に)」と呼ばれた、水銀の重要な鉱石鉱物ですよね。

ちなみに、辰砂の別名には、賢者の石、赤色硫化水銀、丹砂、朱砂、水銀朱などがあります。

宇陀は、奈良時代の辰砂の主要産地でした。

宇陀地方の辰砂採取は4~5世紀にまで遡れ、丹生氏が採取していました。

丹生氏が採取していた頃は、露天での採取だったようです。

丹生氏は、元を辿ると日前国懸神宮神職家であった紀国造家にまで遡るようですね。

奈良の丹生氏は、丹生都比売神社や丹生川上神社の社家の祖となる小牟久から分かれたようです。

 水銀産地である宇多に神社を構えるあたり、殖産を盛んに行っていた秦氏の流れでしょうかね。

水銀の坑道採掘は6世紀後半に秦氏によってはじめられ、この宇陀の地は秦氏の管轄下におかれたとされています。

坑道採掘をしていなかったから、秦氏の一族ではないと見られているかもしれないですね。

 辰砂は、硫化水銀の一種ですよ。

 水銀を安全に取り扱うのは、ある程度の知識がないと難しいです。

 丹生氏というのは、丹の生産を管理する氏という意味でしょ。

さまざまな説があっても、大きく見れば秦氏の一族である可能性はありそうですね。

ちなみに、宇陀の水銀採取は平安初期にはおわり、その後は伊勢の水銀に代わっていきました。

 でも、何時頃から宇陀という地名だったのでしょうね。

それは、気になりますね。

同じ読みで宇多と書くと、大阪の地名になりますね。

 泉大津市宇多ですね。

泉大津市は、大阪府泉北地域に位置する市ですね。

 そのあたりも、古くから秦氏のいた地域でしょ。

市名は和泉国の国府の外港、つまり国津であったことに由来します。

和泉木綿の集散地となった江戸時代に真田紐をはじめとした繊維産業が興ると、これを地盤に明治以降毛布の製造が始まり、毛布のまちとして発展しました。

国内産毛布においては、現在も9割超のシェアを占めます。

港湾も昭和初期に近代化され、堺泉北臨海工業地帯の一角を占めます。

近年は物流拠点としての性格も強めてきているし、港湾や中心駅の再開発が進み、人口は増加傾向にあります。

ウダという音から言って、秦(ハタ)の転化した地名とみるのが自然でしょうね。

 遡れば、当時の日本語はワ行母音と言っても良い二重母音でしたからね。

 そして、秦(ハタ)氏はもともと秦(ハダ)氏と読まれていた。

 欠落しやすいH音が抜ければ、簡単にウダやウタに変わりますね。

 秦氏と言えば、最大の特徴は、殖産豪族にありますからね。

香川県綾歌郡宇多津町も、周辺はやはり古代から秦氏の地域ですね。

 石川県に、地名ではないけど金沢市に宇多須(ウタス)神社というのがありますね。

 宇多須(ウタス)も、秦氏から転化した音でしょうね。

秦氏には、いくつかの支流や分家があるけど、その中に石川家というのがあります。

そして、石川郡は石川県の他に福島県や大阪府にもあります。

 福島県や大阪府、秦氏の地域ですね。

 石川県の石川郡も、秦氏の一族である石川家に由来していそうですね。

 石川県の石川郡は、かつて加賀郡から分かれたでしょ。

 加賀は、秦氏の一族である賀茂から転化した音とみえますよ。

もし、奈良の宇陀(ウダ)が秦(ハタ)の転化としたら、こういう展開を考えても良いかもしれないですね。

4~5世紀から辰砂採取をこの地で行っていた秦氏の一族が、古来「丹(に)」と呼ばれた辰砂に因んで丹生氏と呼ばれるようになった。

6世紀後半に水銀の坑道採掘が始まったのは、より多くの産出が求められるようになったからで、土木に長けた別の秦氏一族が乗り込んできた。

しかし、辰砂の扱いに慣れていた丹生氏は、その後も辰砂に関わり続けたのでしょうね。

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コメント

なかなか興味のある話しですね。私は秦一族の末裔、秦 嘉伸と言います。宇陀の‘う’は‘太秦’の旧字‘宇豆勝’の頭文字から来ているかも知れませんね。宇陀の‘だ’は仰る通り‘多’である‘た’がなまった‘だ’を漢字にしている可能性があります。秦氏の支族に‘多氏’が居ます。又、宇陀の八咫鴉神社の在る‘榛原’という地名も完全に秦氏から取った地名ですね。
私は‘歴史の陰に秦氏あり’というタイトルでブログを開設しております。

投稿: 金鷹 | 2011年10月10日 (月) 16時41分

秦一族の末裔の方に面白いと言っていただき、嬉しいです。

投稿: cova | 2011年10月10日 (月) 17時14分

面白いですね。我が家のご先祖も名前が波陀という苗字だったそうです。昔、昔、寺子屋みたいな学校?のようなものを作り、教えていたそうです。しかし、あまりに優秀なので京都に呼ばれ、地元に残った分家の波陀がどういう理由かはわからないけれど、石川という苗字になったそうです。どんな遺伝子かわかりませんが、日本人ですから茶色の目ですが、長生きをし、80歳近くになると、茶色の目がだんだん薄くなりシルバーブルーの目の色になります。それと、赤腹の大きなムカデに刺されても、チクッと痛みはあるものの全く腫れません。それと、先祖代々お酒は、飲みません。昔、海に突き出た断崖絶壁に8軒住んでたようです。どういう縁か仲哀天皇が宇佐神宮から京都に上られる際、大嵐にあわれ、陸に上がられ寄られたので大きな神社が建ち、菅原道真さんが、大宰府に御下りになる際、大嵐にあわれ、陸に上がられ寄られたので天神様が建っています。〇口県宇〇市です。ご先祖様は、東から来たと聞いています。

投稿: ルーツ | 2016年7月 7日 (木) 23時47分

ルーツさん、興味ひかれる話、ありがとうございます。

石川と言えば、聖書には石から水を出すくだりがありますね。

秦氏に原始キリスト教徒説があることを思うと、面白いですね。

長生きをし、80歳近くになると、茶色の目がだんだん薄くなりシルバーブルーの目の色になるとは、それこそ、ルーツを探ると何か見つかりそうですね。

縄文にルーツを遡るアイヌとよく似た人骨は、アメリカのケネウィックでフランスとスペインの様式の矢じりとともに見つかっています。

私はケネウィック人として知られるこの人骨は、フランスのクロマニヨンで見つかったことからその名があるクロマニヨン人と関係がありそうとみています。

モルモン書にはアメリカ大陸にわたったイスラエルの民の物語が記されています。

あなたのルーツを探っていくと、結構思いがけない話が出てきそうですね。

ご先祖様は東、つまりアメリカ大陸でしょう。

モルモン書には実は、船出して消息を絶った人々の話もあるのです。

モルモン書の歴史書としての信憑性を探っている私としては、あなたの話に新たな手掛かりが得られた気がします。

ありがとうございます。

投稿: cova | 2016年7月12日 (火) 10時39分

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