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弁証法論理と形式論理学はどういう関係か。

弁証法論理学には、客観的世界の法則という側面と認識によって得られた法則の知識を言う側面があります。

 それを言ったら、形式論理学にも客観的世界の法則という側面と認識によって得られた法則の知識という側面があるのでは。

当然あります。

 だったら、論理学には客観的世界の法則という側面と認識によって得られた法則の知識という側面があると、言えば良いでしょ。

形式論理学では、論理の立て方の方が、より大きく注目されてきたからです。

例えば、三段論法がそれです。

 「大前提」「小前提」「結論」の、三段ね。

よく挙げられるのは、「全ての人間は死ぬ。ソクラテスは人間だ。従って、ソクラテスは死ぬ」ですね。

基本的なパターンは、4つあります。

A = 全称肯定判断 ≪全ての人間は生物である≫

「すべての人間は生物である。ソクラテスは人間だ。従って、ソクラテスは生物である」

E = 全称否定判断 ≪全ての人間は不死ではない≫

「全ての人間は不死ではない。ソクラテスは人間だ。従って、ソクラテスは不死ではない」

I = 特称肯定判断 ≪ある人間は学生である≫

「ある人間は学生である。ソクラテスは人間だ。従って、ソクラテスは学生である」

O = 特称否定判断 ≪ある人間は学生ではない≫

「ある人間は学生ではない。ソクラテスは人間だ。従って、ソクラテスは学生ではない」

ここで気を付けないといけないのは、形式論理学は前提が真であるか偽であるかを、論理学それ自体が問わないのです。

大と小、二つの前提が真なら結論も真。

大と小、二つの前提が偽なら結論も偽。

 つまり、前提が全体として真なら結論も真、前提が全体として偽なら結論も偽、でしょ。

そうですね。

しかし、形式論理学は結論を正しく導く議論の立て方や、説得力のある議論の立て方として発展してきた、論理学と言えます。

そして、形式論理学の最たるものが数式であり、天文学や物理学、経済学などが発展するにつれて、数式が世界の動きを表す法則の記述法として発展してきました。

 しかし、形式論理それ自体は、客観的世界の法則として認識されてきたとは言えない。

そういうことですね。

だからマルクスは、従来の哲学は世界を解釈してきたに過ぎない、大切なのは世界を変革することだと、言いきったわけです。

 弁証法論理学は、認識論と論理学を一体として捉えたわけね。

弁証法論理学には、客観的世界の法則という側面と認識によって得られた法則の知識を言う側面があります。

それは、弁証法哲学の認識論の一番の根底に反映論があることと関係しています。

形式論理学には、帰納法と演繹法があります。

どちらも前提が正しければ結論も正しいが、どちらの論法を取るべきかの判断基準は必ずしもはっきりしていなかったといえます。

強いて言えば、一般論を導く帰納法と具体論を導く演繹法、という使い分けがあるくらいです。

弁証法論理学は、帰納法と演繹法の位置付けをはっきりさせました。

問題を掘り下げ一般法則を導く下降過程が帰納法で、一般法則を展開して問題を再構成する上昇過程が演繹法です。

 役割を明確にしたことで、帰納法と演繹法の使い分けもやりやすくなるわけね。

物理学でいえば、基本的粒子探しが下降過程の帰納法、基本的粒子からの現実世界の再構成が上昇過程の演繹法となります。

 化学でいえば、反応をしている元素や分子探しが下降過程の帰納法、元素や分子を反応させ化合物を生成するのが上昇過程の演繹法。

 数学でいえば、公式探しが下降過程の帰納法、公式の展開が上昇過程の演繹法。

 料理でいえば、素材探しやレシピ作りが下降過程の帰納法、実際の味作りが上昇過程の演繹法。

じっくり、探してくださいな。

先に話し進めたいですから。

弁証法哲学の反映論が、下降過程が帰納法で、上昇過程が演繹法という役割分担があることを、明らかにしたといえます。

そして弁証法論理学には、世界の階層性があります。

フラクタルは、最新数学理論に世界の階層性が反映されたものです。

 帰納法の結論同士で、さらに帰納法をするようなことね。

原理的には無限に可能だけど、現実的にはどこかで底のような状況に突き当たるけどです。

 科学でいえば、分子、原子、電子と原子核、さらに原子核は陽子と中性子、みたいなことね。

 陽子と中性子は、さらにクォークへ。

 そして今のところクォークで止まっている。

弁証法論理学の矛盾とは、相補関係が本質的にもつ動的な釣り合いのことです。

 陰陽道でいえば陽と陰ね。

 陽も陰も、原理的にさらにその下の陽と陰に無限に分解できる。

 陰陽には相生と相克がある。

弁証法でいえば、対立物の統一と闘争ですね。

もちろん、現実的には底に見える状況は出てくるです。

 だが、底と思えば、それから先に進めない。

 まだ先があると思えば、無限に掘り下げは可能。

もちろん、理論上は、ですよ。

今までの釣り合いが限界に達したら、新たな釣り合いに移行するのです。

 陰極まりて陽、陽極まりて陰ね。

量から質、質から量の転換ですね。

そして、質に注目すると、否定の否定、となります。

形式論理学では、否定の否定は肯定となります。

しかし、これでは質の側面しか見ていないわけです。

量的には、大きな変化が起こり得るわけですよ。

 天候によって、豊作もあれば不作もある。

ただし、比較されるものは質的に同じでないといけないのです。

 組み立てられる議論や事実の間に、矛盾があってはいけない。

弁証法論理学とは、形式論理学に変化という視点を持ち込んだものであって、矛盾を持ち込んではいけないのです。

 矛盾とは変化の原動力であって、論理自体は整合性がないといけない。

 それが、弁証法ね。

弁証法論理学は形式論理学に変化を持ち込み、非可逆的過程の考察が可能となるわけです。

 特殊論理学=形式論理学。

 一般論理学=弁証法論理学。

 そういうことでしたね。

そうですね。

 変化を時間経過と置き換えても、良い訳ね。

ええ。

そして、こうなります。

時間=因果関係

時間の非可逆性についての議論が袋小路にはまるのは、形式論理学でばかり考え、弁証法を無視しているからでしょうね。

 言ってみれば特殊相対性理論ばかり扱って、一般相対性理論を無視するようなもの。

似たようなことでしょうね。

時間を含まない三次元を形式論理学の世界とみれば、時間を含む四次元は弁証法論理学の世界となります。

 時間を含まない四次元は、形式論理学の世界。

ええ、時間を含むかどうかが、形式論理学か弁証法論理学かの境目といえるかも。

 そして、ミクロの世界には零点振動がある。

零点振動とは、絶対零度でも決して止まることのない振動です。

 この零点振動が、マクロの世界のf分の1ゆらぎに繋がるのでしょうね。

万物は、常にゆらぎ、つまり運動や変化のなかにあるのです。

そして、この科学が明らかにした事実の中にこそ、弁証法論理学の真理性の基礎があると言って良いでしょうね

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コメント

アンリ・ルフェーブルは弁証法を論理学の一つとして見ているようですが、ヘーゲルもそう見ているのでしょうか?

投稿: アリストヘレス | 2018年5月12日 (土) 12時38分

ヘーゲルも、マルクスやエンゲルスとは方向性こそ違いますが、弁証法哲学を展開しております。

投稿: cova | 2018年5月14日 (月) 19時47分

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