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2011年10月

山の神と生命の樹?生命の樹 その5

日本には、山の神崇拝、あるいは、山の神信仰とよばれる山岳に対する信仰や崇拝の歴史があります。

 奥さんのことを、山の神という人もいるけど。

家の中で存在感が大きく怒ると怖いというところや、山の神が女とされることから、そういう俗語が出たようですね。

山の神は山神とも呼ばれるけど、実際の神の名称は地域により異なります。

また、その性格や祀り方は、山に住む山民と、麓に住む農民とで異なります。

農民の間では、春になると山の神が、山から降りてきて田の神となり、秋には再び山に戻るという信仰があります。

猟師・木樵・炭焼きなどの山民にとっての山の神は、自分たちの仕事の場である山を守護する神で、常にその山にいるとされます。

ただ、どういう名称や祀り方でもでも、山の神という位置付けそのものは変わりません。

 でも、具体的な祀り方は違うでしょ。

農民の山の神は、山と麓の往復という形で、1つの神に山の神と田の神という2つの霊格を見ていることになりますよね。

一方、猟師・木樵・炭焼きなどの山民にとっての山の神は、農民の田の神のような去来の観念はありません。

面白いのは、山民の山の神は一年に12人の子を産むとされるなど、非常に生殖能力の強い神とされるのです。

 神社に祭られる場合、いろいろな名前になっていますね。

浅間(せんげん)神社であったり、御嶽(みたけ)神社であったり、または、勧請された山の名を取った神社であったりします。

ただいえるのは、山の神を崇拝しているけれど、山そのものは信仰や崇拝の対象ではないのです。

注目したいのは、山の神崇拝の神社の中に三峰(みつみね)神社という名前があることです。

 三つの峰というけど、峰が三つの山って、ありそうで意外とないかも。

 ただねえ、山を描くとたいてい、峰を三つにしてしまうのでは。

 峰一つだと、富士山や、何々富士と呼ばれる山に見えるし、二つでもどこか特定の山を指していると思われる。

 その点三つなら、沢山の峰を省いて描いているように見えるでしょ。

山一般を指したいから、三峰というのも解釈の一つではありますね。

ここで気になるのは、時代を遡るほど三神をまつる神社は増えることです。

しかも、中心の神と脇を固める神の三神の構図で祀られるようです。

この三神の構図を図にすると、山の字に似た形になるのです。

そこで、山の字はもともと三神を表した文字だったと見る人たちもいます。

 嶽(たけ)という字も、生命の樹を表していたとか。

さあ、どうでしょ。

少なくとも山の字は、生命の樹の至高の三角を表すと見ているようです。

 そして、三神を代表して臨まれたヤハウエ=イエスも山に縁がありますね。

しかも山の神に、12人の子どもでしょ。

アブラハムの息子、イシュマエルもイスラエルも、12人の息子を生んでいる。

これ、偶然と思いますか。

 日本の山岳信仰には、生命の樹をどう見るかが、示唆されているような…。

山も生命の樹も、どちらも上りますね。

 だけど、山は上ると下るでしょ。

山を歩いたこと、ありますか。

私は、片手で数えるくらいしかないですけどね。

それも、ハイキングコース程度だから、あまり大きな事言えないけど。

それでも、覚えているのは、頂に着くまで何度も上り下りがあるのですよ。

生命の樹も、一つ上れば終わりではなく、無数に上って神の境地を目指すわけです。

仮に、無限に続く峰を上ると考えてみてください。

いつかは、神のいる天空の彼方に届くと思いませんか。

実際には、そんな山はないけど。

 生命の樹は、上る一方じゃないですか。

それならなんで、生命の樹の他に、知識の樹があると思いますか。

知識の樹は、生命の樹の鏡面対象の死の樹と同じと見られています。

生命の樹を上る一方なら、いつ、知識の樹にいく時間を取ります。

生命の樹は、上下に無限の繋がりがあると言いながら、一つを描けば済む場合が多いです。

しかも生命の樹には、下に知識の樹や死の樹を描かず、根が描かれることもあるのですよ。

 つまり、知識の樹や、死の樹は省いて良い。

生命の樹は陽、知識の樹や死の樹は陰、ここに謎を解く鍵がありそうですね。

右が陽なら左が陰、上が陽なら下が陰、あと、省きますけど。

ならば、正が陽なら負が陰でも、良い訳でしょ。

 上がりが陽なら下りが陰。

つまり、生命の樹は上れば知恵の樹となるが、下れば知識の樹となるとみたらどうでしょう。

唯物弁証法では、上りを総合で下りを分析と見ました。

ならば、こう見ても良いはずです。

上りの総合過程を知恵の樹としての生命の樹とみる。

下りの分析過程を知識の樹としての生命の樹とみる。

分析過程は、解剖学的な考察となるから死んだ姿しか見ないので、死の樹に対応します。

総合過程は、組み立てていくから動く姿が見えるので、生命の樹に対応します。

つまり、知恵の樹も知識の樹も、生命の樹を上るか下るかの差でしかないわけです。

 そういえば、生命の樹は、いったん下まで下りるところから始まりますね。

受肉による誕生が、王国と訳されるマルクトですよ。

あとは、9つのセフィロトの間を上り下りすればいい。

だから、9つのセフィロトだけ描かれる生命の樹があるのでしょう。

 マルクトは、山に上る最初の入り口に相当する。

いったん山に上ってしまえば、あとは山の中を移動して、頂上を目指すだけでしょ。

実際の山では、最後は麓まで下りないといけないけど。

 一度始めた人の多くは、また、山に行きますねえ。

 その人にとっての麓はすでにマルクトではなく、上から9個めのセフィロトになってるのでしょうかね。

そういえば、上から9つ目のセフィロトは基礎と訳されるイェソドですね。

 生命の樹の上る行為は、山に上る行為に、なぞらえることができる。

 日本人は中東から、生命の樹信仰とともに山岳信仰を持ってきたのですかね。

だから、御神木崇拝もあるのだったりして。

ちなみに、生命の樹のセフィロトは次の通り。

なお、セフィロトは複数形で、単数形はセフィラと言います。

1番目のセフィラの、王冠と訳されるケテル

2番目のセフィラの、知恵と訳されるコクマー

3番目のセフィラの、理解と訳されるビナー

4番目のセフィラの、慈悲と訳されるケセド

5番目のセフィラの、峻厳と訳されるゲブラー

6番目のセフィラの、美と訳されるティファレト

7番目のセフィラの、勝利と訳されるネツァク

8番目のセフィラの、栄光と訳されるホド

9番目のセフィラの、基礎と訳されるイェソド

10番目のセフィラの、王国と訳されるマルクト。

そして3番目と4番目の間の隠された11番目であるセフィラの、知識と訳されるダアト。

至高の三角とは、ケテル、コクマー、ビナーからなる三角のこと。

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暗黒物質の謎はやはりプラズマでこそ解ける?

wired japan2011年10月26日付に、この記事がありました。

研究結果:暗黒物質の謎がさらに深まる

仮説上の物質である暗黒物質。

本当に存在するのかしないのか、天文学者の頭を悩ませ続けているが、最近の研究結果で従来の仮定が崩れ去ろうとしている。

ここにきて天文学者たちは、『暗黒物質』として知られる未見の物質に関し、新たな問題に頭を悩ませている。

2つの矮小銀河 – ろ座矮小銀河 と ちょうこくしつ座矮小銀河 – の観察により、暗黒物質が銀河の中心で高密度になっているのではなく、なだらかに広がっていることが分かったが、これが宇宙論模型と矛盾しているのである。

人間や星の元となる一般物質よりもずっと高い割合の暗黒物質が宇宙を構成していることは、研究者たちの間で知られている。

つまり、暗黒物質の分布によって、宇宙の構造は決まるのだ。

そして暗黒物質の大きな塊に引き寄せられ固定されることにより銀河は形作られる。

ろ座矮小銀河やちょうこくしつ座矮小銀河といった矮小銀河はその99パーセントが暗黒物質で構成されており、1パーセントのみが一般物質でできている。

暗黒物質を直接目で見ることはできないものの、星が各銀河系中心の周りを回転するのを観察することで、研究者たちは暗黒物質の影響を読み取り、分布状況を割り出すことができる。

模擬実験では「暗黒物質の濃度は銀河系中心近くで急激に上昇する」という結果が示唆されていたが、最近の観測において暗黒物質は全体にわたり比較的均一に分布していることが判明した。

だが、もし中心に『塊』が存在しないのだとしたら、一体どうやって矮小銀河は固定されているのだろう?

同じく他の小銀河観察でも暗黒物質濃度の高い中核部が発見されなかったため、困った天文学者たちは『暗黒物質』という謎の存在に対する新たな見解を模索し始めている。

例えば、暗黒物質は今現在推定されているよりも一般物質と相互作用している可能性があり、実は一般物質が暗黒物質をかき混ぜて散乱させているのかもしれない。

あるいは、暗黒物質は予想より動きが早く、銀河系中心で固まりにくいのかもしれない。

いずれにせよ、暗黒物質に関する謎と問題はよりいっそう増え、天文学者たちはさらに頭を悩ませることになるだろう。

TEXT BY Adam Mann
TRANSLATION BY GMOスピード翻訳/内田麻帆子

暗黒物質が銀河の中心で高密度になっているのではなく、なだらかに広がっていることが分かったといっています。

 宇宙に一様に分布していると言えば、宇宙マイクロ波背景放射がそうですね。

CMBやCMBRと略される宇宙マイクロ波背景放射(cosmic microwave background radiation)は、天球上の全方向からほぼ等方的に観測され、スペクトルは2.725Kの黒体放射に極めてよく一致しているといいます。

宇宙マイクロ波背景放射は、宇宙背景放射(cosmic background radiation、略称CBR)、マイクロ波背景放射(microwave background radiation、略称MBR) とも言います。

また、黒体放射温度から3K背景放射、3K放射と、宇宙マイクロ波背景輻射、宇宙背景輻射などと言うこともあります。

輻射は、放射の同義語です。

温度は場所ごとに異なっている、すなわちわずかに非等方性があるが、約数十分角から数度のスケールで見られる約10-5程度の非等方性です。

非等方性がわずかにあると言っても、ある方向でのスペクトルは、黒体放射にほとんど一致するといって良いほど似ているのです。

この非常に小さな変動は、ザックス・ヴォルフェ効果の結果とされています。

ザックス・ヴォルフェ効果は、2人のアメリカ人宇宙物理学者 Rainer Kurt Sachs と Arthur Michael Wolfe にちなんで命名された、宇宙論的効果です。

これは宇宙マイクロ波背景放射の光子が、重力赤方偏移を受けて生じていると解釈されています。

 そして、電磁波の式と重力波の式は同じ形式で書けるわけでしょ。

暗黒物質(ダークマター)については、物質に質量を与えると見られているヒッグス粒子と同じではないかという研究もあります。

 質量を与える、言い換えれば、質量の大きさを表面化させるとみれば、ヒッグス粒子は重力の粒子となりますね。

ところが、プラズマ宇宙論は暗黒物質も暗黒エネルギー(ダークエネルギー)も、想定しません。

裏を返せば、プラズマには、暗黒物質や暗黒エネルギーに相当する性質があることになるでしょう。

 宇宙には、全物質の99.9999999999・・・%を占めるプラズマがあるでしょ。

最近の観測において暗黒物質は全体にわたり比較的均一に分布していることが判明したと言い、しかも暗黒エネルギーと合わせれば宇宙の質量の大半とされる以上、プラズマとどこが違うのでしょう。

 しかも、暗黒エネルギーは重力と同じ大きさで反対向きとされた宇宙定数と結び付けて議論されるようになっていますね。

もうずばり、言いきって良いでしょう。

暗黒エネルギーとは、アインシュタインが導入した宇宙定数そのものだと。

 電磁波に引力と斥力があるように、重力にも引力と斥力がある。

電磁波の式と重力波の式は同じ形式であるなら、当然、導かれる答えですよ。

 宇宙マイクロ波背景放射の光子が、重力赤方偏移を受けている。

 しかも、青方偏移の光も見つかっているわけでしょ。

暗黒エネルギーを宇宙定数に結びつけるなら、青方偏移も暗黒エネルギーの仕業と見ても良いでしょ。

そして、暗黒エネルギー=宇宙定数=引力と大きさが同じで反対向きの力=斥力とおけば、重力青方偏移とみても矛盾しないはずです。

 ビックバンと膨張宇宙論は、ますます行き詰る。

プラズマ宇宙論でないと、宇宙は説明できないという方向にますます進みそうですね。

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自己組織化はこれからの科学のキーワードか。

2011年12月号の日経サイエンスに、「生命に内在する秩序へのプログラムを探る」と題した記事が載っています。

今回取り上げられているのは、理化学研究所発生・再生科学総合研究センターのグループディレクター笹井芳樹の研究です。

ES細胞から脊椎動物の目の元となる眼杯を作り出した中心メンバーに、取材したわけです。

キーワードは、自己組織化。

「同じ細胞が一定数以上集まると自然に自然はシンメトリーが破れ、眼杯ができてきます。生命にはこうした自己組織化のプログラムができているのです」。

笹井らの網膜は、まだ実際に光を感じるまでには至っていないが、その一歩手前まで迫っているという。

実現すれば、中途視覚障害の3大原因のひとつ、網膜色素変性の移植治療に応用できる可能性が開ける。

笹井らは2000年、ES細胞に何らかの細胞に分化せよとの信号を与えないでおくと、自然に神経に分化することを発見した。

2008年、笹井らは開発した手法を用いて、ヒトのES細胞から、発生初期の胎児の細胞によく似た4層の細胞を作ることに成功した。

ES細胞が大脳皮質に分化すると、細胞どうしがネットワークを作り、集団として振る舞いだして、細胞は一斉にパッ、パッと発火し始める。

だが、成人と同じ6層を構築するには、細胞に酸素と栄養を供給する血管が必要になる。

血管を構築するのは、まだ難しいので大脳皮質より薄くて血管もない網膜細胞を新たなターゲットに定め、今回の成果につながったのだ。

発生には必ずしも、異なる細胞間の複雑な相互作用が必要なわけではない。

細胞それ自体に、まったく一様な状態から自然と秩序が立ち現われ、高度な機能を獲得していく「自己組織化」のプログラムが内在しているのだ。

自己組織化は雪の結晶のような無生物にも見られる。

だが、生物における自己組織化は、時間発展していくうちに個々の要素がダイナミックに変わっていくのに対し、無生物には個々の要素の変化がない。

笹井は、生命が持つ自己組織化のプログラムを引き出すことで必要な組織や臓器を作り出す、新たな再生医療を開こうとしている。

細胞にダメージを与えたり、余計なものが入り込む心配がないので、効果も安全性も高いはずだ。

こういう内容です。

自己組織化は、最新宇宙論でも取り上げられるテーマになってきています。

笹井の研究で注目したいのは、ES細胞に何らかの細胞に分化せよとの信号を与えないでおくと、自然に神経に分化するという点です。

粘菌は、あたかも、思考しているかのように周囲の状態に合わせて自らを変化させていきます。

 もちろん、粘菌に神経細胞などはないですね。

だが、粘菌自体があたかも神経のように振る舞っているとしたら、どうでしょう。

 遺伝子だけで生きているウィルスを思えば、神経もどきの生物がいてもおかしくはない。

粘菌の体内で、活発にパルスが飛び交い、情報処理をしているとしても不思議はないでしょう。

近年、科学者の中にもプラズマ生命体の可能性を本気て語る者が現れています。

実際、プラズマの振舞には生命をほうふつとさせるものがあるといいます。

 宇宙は、プラズマが存在する全物質の99.9999999999・・・%を占めているでしょ。

その宇宙にも自己組織化がある以上、プラズマ生命とはいかないまでも、何らかの未知な情報ネットワークが存在するのかもしれないという気分になります。

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両界曼荼羅と生命の樹?生命の樹 その4

曼荼羅は、梵語つまりサンスクリットのमण्डल maṇḍalaの音に漢字をあてたもので、曼陀羅と表記することもあります。

曼荼羅はその形態、用途などによってさまざまな分類があります。

密教では、曼荼羅をその外観から次の4種に分けています。

大曼荼羅は、大日如来をはじめとする諸仏の像を絵画として表現します。

一般的に「曼荼羅」と言ったときにイメージするものが大曼荼羅です。

三昧耶曼荼羅(さまやまんだら、あるいは、さんまやまんだら)は、 諸仏の姿を直接描く代わりに、各尊の悟りを表す象徴物が記されます。

諸仏の代わりに、煩悩を打ち砕く武器である金剛杵、蓮華、剣、鈴などの器物が描かれています。

法曼荼羅は、諸仏の姿を直接描く代わりに、1つの仏を梵字ともサンスクリット文字ともよばれる1つの文字で象徴的に表したものです。

仏を表す文字を仏教では種子あるいは種字(しゅじ)と言うことから、「種子曼荼羅」とも言います。

羯磨曼荼羅(かつままんだら)とは、曼荼羅を平面的な絵画やシンボルではなく、立体的な彫刻として表したものです。

羯磨曼荼羅の羯磨とは、サンスクリット語で「働き、作用」という意味です。

マンダラという語は、英語ではヒンドゥー教やその他の宗教のコスモロジー(宇宙観)も含め、かなり広義に解釈されているが、日本語では通常、仏教の世界観を表現した絵画等のことを指します。

今回は、曼荼羅を世界という程度の意味で使いたいと思います。

 漢字自体には、意味はないですよね。

当然でしょ。

मण्डलには形容詞で「丸い」という意味があり、円は完全・円満などの意味があることから、これが語源とされ、中国では円満具足とも言われる事があるそうです。

古代インドに起源をもち、中央アジア、中国、朝鮮半島、日本へと伝わりました。

曼荼羅は、仏教特に密教において聖域、仏の悟りの境地、世界観などを仏像、シンボル、文字、神々などを用いて視覚的・象徴的に表したものです。

21世紀に至っても、チベット、日本などでは盛んに制作されています。

インドでは諸神を招く時、土壇上に円形または方形の魔方陣、マンダラを色砂で描いて秘術を行います。

色砂で土壇上に描くため、古い物は残っていないが、チベット仏教などでは今でも修行の一環として儀式、祭礼を行う時に描かれます。

もちろん、チベット仏教の曼荼羅には、色砂で創られる砂曼荼羅以外にも諸仏、六道輪廻、他など多くの種類があります。

曼荼羅の内容から区分すると、密教系では、根本となる両部曼荼羅とも呼ばれる両界曼荼羅の他に別尊曼荼羅があります。

両界曼荼羅は、金剛界曼荼羅と大悲胎蔵生曼荼羅という2種類の曼荼羅から成ります。

金剛界曼荼羅は金剛頂経、大悲胎蔵生曼荼羅は大日経という、密教の根本経典に基づいて造形されたものです。

2つの曼荼羅とも、密教の根本尊である大日如来を中心に、多くの尊像を一定の秩序のもとに配置し、密教の世界観を象徴的に表したものです。

別尊曼荼羅は、大日如来以外の尊像が中心になった曼荼羅で、国家鎮護、病気平癒など、特定の目的のための修法の本尊として用いられるものです。

修法の目的は通常、増益(ぞうやく)、息災、敬愛(けいあい、きょうあい)、調伏の4種に分けられます。

増益は長寿、健康など、良いことが続くことを祈るもの、息災は、病気、天災などの災いを除きしずめるように祈るもの、敬愛は、夫婦和合などを祈るもの、調伏は怨敵撃退などを祈るものです。

仏眼曼荼羅、一字金輪曼荼羅、尊勝曼荼羅、法華曼荼羅、宝楼閣曼荼羅、仁王経曼荼羅などがあります。

密教以外では、浄土曼荼羅、垂迹曼荼羅、宮曼荼羅などがあります。

浄土曼荼羅は、観無量寿経などの経典に説く阿弥陀浄土のイメージを具体的に表現したものです。

浄土曼荼羅の類の作品を中国では浄土変相図と称するのに対し、日本では曼荼羅と称しています。

浄土曼荼羅の浄土つまり清らかな国土とは、それぞれの仏が住している聖域、理想的な国土のことです。

弥勒仏の浄土、薬師如来の浄土などがあるが、単に「浄土」と言った場合は、阿弥陀如来の西方極楽浄土を指すことが多いです。

日本の浄土曼荼羅には図柄、内容などから大きく分けて智光曼荼羅、当麻曼荼羅、清海曼荼羅の3種があり、これらを浄土三曼荼羅と称しています。

垂迹曼荼羅は、特定の神社の祭神を本地仏または垂迹神として曼荼羅風に表現したものです。

日本の神道の神々は、仏教の諸仏が「仮に姿を変えて現れたもの」だとする思想があり、本地垂迹説といいます。

本地垂迹説では、神の本体である仏のことを「本地仏」と言い、本地仏が神の姿で現れたものを「垂迹神」といいます。

垂迹曼荼羅にも多くの種類があり、本地仏のみを表現したもの、垂迹神のみを表現したもの、両者がともに登場するものなどがあります。

代表的なものに和歌山県の熊野三山に伝わる熊野曼荼羅、奈良の春日大社に伝わる春日曼荼羅、比叡山の鎮守の日吉大社に伝わる日吉山王曼荼羅などがあります。

宮曼荼羅とは、 本地仏や垂迹神を描かず、神社境内の風景を俯瞰的に描いた作品のうち曼荼羅と呼ばれているものです。

宮曼荼羅は神社の境内を聖域、浄土として表したものと考えられます。

この他、仏教系、神道系を問わず、「曼荼羅」と称される絵画作品には多くの種類がある。

法華曼荼羅とも呼ばれる文字曼荼羅は、日蓮の発案したもので、絵画ではなく題目や諸尊を漢字で書き表していて、中央の題字から長く延びた線が引かれる特徴から髭曼荼羅とも呼ばれます。

日蓮宗及び法華宗、霊友会系法華経団体系の本尊としています。

今回は、もっとも知られている両界曼荼羅を考えてみます。

両界曼荼羅は、密教の中心となる仏である大日如来の説く真理や悟りの境地を、視覚的に表現した曼荼羅です。

大日如来を中心とした数々の仏を一定の秩序にしたがって配置したものであり、個々の「仏」の像を絵画で表したもののほか、1つの仏を1文字のサンスクリットを表記するための文字のひとつである梵字で象徴的に表したものもあります。

胎蔵曼荼羅として知られる大悲胎蔵生曼荼羅は大日経、金剛界曼荼羅は金剛頂経という密教経典をもとに描かれています。

大日経は7世紀の中頃、インドで成立したものと言われ、インド出身の僧・善無畏(ぜんむい)が弟子の一行(いちぎょう)とともに8世紀前半の725年(開元13年)前後に漢訳したものです。

金剛頂経は7世紀末から8世紀始めにかけてインドで成立したもので、大日経が訳されたのと同じ頃に、インド出身の僧・金剛智(こんごうち)と弟子の不空(ふくう)によって漢訳されています。

なお、金剛頂経は、十八会(じゅうはちえ)、つまり、大日如来が18のさまざまな機会に説いた説法を集大成した膨大なものであるが、金剛智と不空が訳したのは、そのうちの初会(しょえ)のみで真実摂経(しんじつしょうぎょう)とも言います。

大日経と金剛頂経は同じ大日如来を主尊としながらも系統の違う経典であり、違う時期にインドの別々の地方で別個に成立し、中国へも別々に伝わりました。

これら2つの経の教えを統合し、両界曼荼羅という形にまとめたのは、空海の師である唐僧・恵果であると推定されています。

恵果は、密教の奥義は言葉では伝えることがかなわぬとして、宮廷絵師李真に命じて両界曼荼羅を描かせ、空海に与えました。

空海は唐での留学を終えて806年(大同元年)帰国した際、それらの曼荼羅を持ち帰っています。

胎蔵曼荼羅は、上から、外金剛部院、文殊院、釈迦院、中台八葉院、持明院、虚空蔵院、蘇悉地院からなり、向かって右に除蓋障院と金剛手院、向かって左に地蔵院と蓮華部院が配されるという構成になっています。

 胎蔵曼荼羅を見て直感的に感じるのは、3×3の構図ですね。

この、3×3の構図は、金剛界曼荼羅ではもっとはっきりします。

日本で一般的に用いられる金剛界曼荼羅は、成身会(じょうじんえ)、三昧耶会(さまやえ)、微細会(みさいえ)、供養会、四印会、一印会、理趣会、降三世会(ごうざんぜえ)、降三世三昧耶会の九会(くえ)から成るからです。

両界曼荼羅は、向かって右に胎蔵曼荼羅、向かって左に金剛界曼荼羅の順で配されます。

 インドでは、神々をたいてい前向きに描いて左が上位でしょ。

 金剛界曼荼羅の方が、胎蔵界曼荼羅より、上位なのかしら。

少なくとも、胎蔵界曼荼羅から金剛界曼荼羅という順で見ることは意識されていますね。

 胎蔵界曼荼羅も金剛界曼荼羅も3×3の構図だけど、胎蔵界曼荼羅だけ見ていても、この構図に気づきにくいですね。

 どう見て良いか、迷ってしまう。

つまり、迷いの胎蔵界曼荼羅に対し、悟りの金剛界曼荼羅と見たいわけですね。

金剛界曼荼羅は、本当にすっきりしていますか。

 下の六つの世界は、無限入れ子を連想します。

 中に入ったら、迷いそうですね。

金剛界曼荼羅の九会は、ひとつの曼荼羅の9つのブロックと考えるよりも、9つの曼荼羅の集合体と考えるべきものと見られています。

つまり、一つ一つが悟りを求めて胎蔵界曼荼羅を出た後の世界とも考えられるのです。

そのうち、下の六つが無限入れ子の構図であるばかりか、上三つとの間に通路のようなものが見えるでしょ。

 六つの迷いの世界を抜けて、つまり悟りを得て、上三つの世界に来いと…。

恐らく下の六つは、六道輪廻(りくどうりんね)でしょうね。

 六道輪廻(ろくどうりんね)と、言った方が今の私たちにはすぐわかるけど。

どちらの読みでもいいですよ。

ここでは六道輪廻(りくどうりんね)で通すけど。

 悟りを求めて、迷いの胎蔵界曼荼羅を出ても六道輪廻の迷いに入ってしまう…。

天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道が、六道とされます。

このうち、地獄から畜生までを三悪趣、あるいは、三悪道、三悪、三途と呼び、これに対し修羅から天上までを三善趣と呼称する場合があります。

また地獄から修羅までを、四悪趣と称することもあります。

六道から修羅を除いて五趣とか五道と称すこともあります。

初期仏教では、地獄・餓鬼・畜生・人間・天上を五趣とし、修羅はなかったので、五趣の方が六道より古い概念とされます。

当初、修羅あるいは阿修羅が、天部に含まれていたもので、大乗仏教になってから天部から修羅が派生して六道となったからで、これらを一括して五趣六道といいます。

天道は、天人が住まう世界です。

天人は人間よりも優れた存在とされ、寿命は非常に長く、また苦しみも人間道に比べてほとんどないとされます。

また、空を飛ぶことができ享楽のうちに生涯を過ごすといわれるが、煩悩から解き放たれていません。

天人が死を迎えるときは5つの変化が現れ、これを天人五衰、あるいは単に五衰と称し、体が垢に塗れて悪臭を放ち、脇から汗が出て自分の居場所を好まなくなり、頭の上の花が萎みます。

人間道は、人間が住む世界です。

四苦八苦に悩まされる苦しみの大きい世界であるが、苦しみが続くばかりではなく楽しみもあるとされ、仏になりうるという救いもあります。

修羅道は、阿修羅の住まう世界です。

修羅は終始戦い、争うとされ、苦しみや怒りが絶えないが地獄のような場所ではなく、苦しみは自らに帰結するところが大きい世界です。

畜生道は、牛馬など畜生の世界です。

ほとんど本能ばかりで生きており、使役されなされるがままという点からは自力で仏の教えを得ることの出来ない状態で救いの少ない世界とされます。

餓鬼道は、餓鬼の世界です。

餓鬼は腹が膨れた姿の鬼で、食べ物を口に入れようとすると火となってしまい餓えと渇きに悩まされます。

他人を慮らなかったために餓鬼になった例があり、旧暦7月15日の施餓鬼はこの餓鬼を救うために行われます。

地獄道は、罪を償わせるための世界です。

六道、また十界の最下層で、一般的に、大いなる罪悪を犯した者が死後に生まれる世界とされます。

これら六道は、すべて迷いの世界なのです。

 厄介なのは、他の六つより天道ですね。

天道は、苦しみも人間道に比べてほとんどないとされるので、悟ったと勘違いする人は多いでしょうね。

だが、煩悩から解き放たれていないことを忘れてしまうと、躓いてしまうでしょうね。

 この六道を抜けると、悟りの四印会、一印会、理趣会にはいるわけですか。

そうなるでしょうね。

でも、その話に入る前に、もう一度胎蔵界曼荼羅を見てください。

 後光のようなものに包まれた三角が見えますね。

その中に万字があります。

万字は、太陽を表し、この場合は多分大日如来の象徴でしょうね。

 三角の上にも万字が見えます。

 三角は、人を表すのでしたね。

 円は天、方は地、という円天方地の思想と合わせて、円天角人方地で世界を表す。

この構図、何か連想しませんか。

 我々に似せて人を作ろう。

 それとか、御父と聖霊と御子。

それじゃ、聖書でしょ。

仏性は万人にあるという、大乗仏教の基本ですよ。

人は皆、己の仏性に気づき導かれて、悟りの道を進むことができる。

それが、両界曼荼羅の示すところではないでしょうか。

 でも、九会という事は…。

十は一段上に上がれということでしょうね。

 一段上で、再び胎蔵界曼荼羅から金剛界曼荼羅への悟りを目指せ…。

 それが仏への道だと。

おそらく、そうでしょう。

 3×3の構図で、無限に登って限りない悟りの道を進め。

 生命の樹も、そうですよ。

 一番下のマルクトを除く九つのセフィロトを登れ。

 だが、一つの生命の樹で御父に昇りつめても、また、次の生命の樹を始めから昇って、これを無限に繰り返す…。

悟りを開き仏陀となった釈尊も、中東出身部族の釈迦族の尊者である可能性はありますよ。

生命の樹の思想を思い起こしながら、悟りを目指したのかも知れないですね。

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仏性を考えてみた。

仏教には、絶対という考えはないと、言います。

 だって、どんな存在にも仏性(ぶっしょう)があると言っているのが、仏教でしょ。

覚性とも訳される仏性とは、仏の性質・本性のことで、主に涅槃経で説かれる大乗仏教独特の教理です。

法華経では、「仏に成る種」という意味で仏種(ぶっしゅ)、勝鬘経では、如来蔵(にょらいぞう)などと、さまざまな表現がされます。

仏性を開発し自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされていますね。

この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏と呼び、仏法修行の究極の目的とされています。

 どんな存在にも仏性があるというのは、絶対じゃないのかしら。

すべての衆生が仏性を持つかどうかについての見解は、宗派により異なるようですよ。

仏教は、南伝仏教とも呼ばれる上座部仏教と北伝仏教とも呼ばれる大乗仏教という二つの分類があります。

AD100年ごろには枝末分裂が起こり、両派あわせて20前後の部派仏教が成立しました。

上座部仏教と大乗仏教というのは、釈迦の滅後、根本分裂による分類です。

この当時の部派仏教では、誰でもが悟れるのか、あるいは一部の人しか悟れないのか、などという様々な議論が起こりました。

上座部仏教では、この娑婆世界とか穢土とか言われる穢れた世界に生まれて苦しみを受けるのは煩悩によるものであると捉えます。

そこで、出家して厳しい戒律を保つことによって煩悩を断ち切り阿羅漢(あらはん)になることを目的とされます。

阿羅漢は、仏教において、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のことです。

サンスクリット語"arhat"の主格 "arhan" の音写語で、略称して羅漢(らかん)ともいいます。

ついでに言うと、"arhat"の主格 "arhan"は、「価値ある」「立派な」などの意味を持つ語根"arh-"の派生語です。

  "arhan" の漢訳は、応供(おうぐ)でしたね。

阿羅漢はもとは、釈迦の尊称の一つでした。

 そうそう、仏性の話でしょ。

煩悩を断尽すると、自然と身から火が出て消滅し二度と生じないとされます。

大乗仏教では、阿羅漢を小乗とみなして、その上の尊格に仏を立てました。

また大乗仏教の教理では、誰もが救われることを主眼に置きました。

そこで、出家はもちろん在家でも救われると考えられ、誰もが仏になれる可能性がある、つまり仏性があるという考えが生まれたのです。

 では、上座部仏教では、そもそも仏性という考えがないのでしょうか。

そうとばかりも、言いきれないでしょうね。

上座部の教えにも、誰もが仏になれる可能性がある、という考えがなければ出家を多くの人に勧めたりはしないはずでは。

 上座部も大乗も、仏教には仏性の思想がある。

そう見たからこそ、全ての人を等しく救いたいという大乗仏教が出てきたのでしょうね。

 なんだか、イエスのこの言葉みたい。

 悔い改めて福音を信ぜよ、神の国はあなた方のうちにある。

 悔い改めて福音を信ぜよ、神の国は近づいた。

ユダヤ選民思想のユダヤ教から、誰もが救われると説くキリスト教への展開に似ているのは事実ですね。

 上座部仏教とユダヤ教、大乗仏教とキリスト教…確かに似てる。

初期大乗仏教の経典である法華経では、それ以前の経典では成仏できないとされていた部類の衆生にも二乗成仏・女人成仏・悪人成仏などが説かれました。

またその後成立した大般涅槃経では、さらに進んで一切の衆生に仏性が等しく存在することが説かれました。

誰にでも仏性を認める一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)は、大般涅槃経を特徴づけるキーワードとも言えます。

さらに時代を下ると、後期大乗経典であり解深密経などでは、衆生には明らかに機根の差があり誰もが成仏できるわけではなく、法華経が一乗を説くのは能力のない衆生が意欲をなくすのを防ぐための方便である、と説いたのです。

 解深密経など、法相宗が拠り所とした経典ですね。

仏性は誰にでもある、これは仏教の共通認識と言って良いでしょう。

問題は、仏性が誰にでもあるなら、なぜに救われるものと、そうでないものが出るのか、ここを巡って論争を繰り返してきたのが仏教史の一つの側面と言えるでしょう。

 仏性を巡って、上座部と大乗に分かれ、さらに大乗のなかでも解釈の差で分裂した。

残念ながら、そういうことでしょう。

 キリスト教や、イスラム教も、いろんな流れに分裂してる。

 根本の教えがなにか、見失っているということでしょうね。

 イエスは、神を見失うなと諭されたのに…。

仏陀やイエスの思考の追体験は、容易ではないですからね。

 知恵と知識の段階が、違いすぎる…。

だからこそ、人々の目線や視線まで下りて、多くの例えを残してくださっているのでしょうけどね。

 例えと言えば、方便は、そうでしょ。

天台宗の智顗は、五時八教の教相判釈において、解深密経は法華経や涅槃経以前に説かれた方等部の経典で権大乗、つまり仮に説かれた方便(ほうべん)の教えであり、法華経に導く手前の教えとしました。

方便はもともと、こういう意味でした。

仏教で、悟りへ近づく方法、あるいは悟りに近づかせる方法のこと。

ところが、相手に応じて導きの教えを説いていったために、さまざまな意味が派生してしまいました。

導く・説明するための手法のことの意味で、仏教以外の物事についても使われるようになったのです。

真実でないが有益な説明のこと、という解釈まで出てしまいました。

「嘘も方便」という慣用句は、真実でないが有益な説明の意味で使用されています。

さらに転じて、「御方便なものだ」のように都合のよいさまを悪く言う場合にも用いられる場合まで出てしまいました。

方便は、詭弁とほぼ同じ意味で、用いられることもあるが、これは誤解からくる誤用です。

 本質を分かりやすくするために、相手に分かりやすい例えを選んで説明しているのでしょ。

 真実でないが有益な説明というのは、明らかな誤解。

 そういえば、イエスも例えをたくさん使ってますよね。

仏教とキリスト教の比較では、しばしば、指摘されますね。

天台宗では、一切悉有仏性として、衆生即ち人間に限らず、山川草木や生類すべてに仏性があるとする考えも後世に生まれました

三一権実諍論として知られる、法相宗の徳一と天台宗の最澄の議論では、華厳宗では天台宗側の意見を汲んで、涅槃経に説かれる仏の正法を誹謗し懺悔せず否定し罪を犯す人である一闡提(いちせんだい、いっせんだい)の成仏説などを以って、法相宗の一乗仏性方便説を否定しました。

 奈良仏教は全体として、成仏には人によって、差別するのに対して、平安仏教は、女人を除いて全ての人間が成仏出来ると解き、鎌倉仏教になると、女人も成仏できるというように、変化してきたといえますね。

すべての人間と言いながら、真言宗でも女人結界ということがありましたからね。

因みに、日本での時代的区分は、法相宗は、奈良仏教に属し、天台宗、真言宗は、平安期、浄土宗、禅宗、日蓮宗は鎌倉期になります。

 仏性をどう解釈していいかわからないので、解釈が二転三転してきた。

そういうことでしょう。

 全ての存在に仏性がある。

 これがすべての仏教の基本だが、仏性の現れ方を巡って、さまざまな宗派が生まれてしまった。

女人も含めて、あらゆる存在は仏性がある。

 山川草木や生類すべてに仏性がある、だから、それらの命を戴いても、仏性を失われもしないし、損なわれもしない。

あらゆる存在の仏性は、御仏に由来するのだから、たとえさまざまの命を戴いても、仏性を失われもしないし、損なわれもしない、もちろん、薄まるとこもないというわけでしょうね。

どうやって、その仏性を引き出し、導いていくのか、方法論で差が出たというべきでしょう。

 人を見て法を説く、つまり、相手の理解力に応じて法を説く、御仏は段階的にそれをなさってきた。

 そういう見方も、できますね。

解釈も、認識も、時とともに深まり、発展していきます。

時に、逆行や後退もあるけれど、長い目で見ればそうなります。

 以前は重要性に気づいていたことで、後になると見落としてしまうことは、確かにありますね。

過去の解釈は間違っていた、その一言で、引き継いで発展させるべき事柄まで、捨ててしまいがちです。

 仏典は膨大であり、しかも、相互に矛盾も見られるから、解釈に混乱が出てきたのでしょう。

仏性は、縁によって引き出され形作られてきたし、縁によって引きだれて形作られていくようです。

 そこで、どうやって、その仏性を引き出し、導いていくのか、相手によって、場合によって、臨機応変に変えていく必要がある。

そこで、方便となるのでしょう。

方法や便法で、方便というわけでしょう。

 一見似たように見える事でも違う答えが出るし、一見違うように見える事でも似た答えが出る。

 思いに素直に答えたイエスとノーもあれば、思いに反して答えたイエスとノーもある、そういうことですね。

 限りなくノーに近いイエスと素直に応えたノー、限りなくイエスに近いノーと素直に応えたイエス、そういう時って意外とありますよね。

 誘われた時なんか、特に…。

仏性を巡る混乱も、このあたりに大元がありそうですね。

仏典は、目の前の課題と向き合って語られ展開された、問題解決と議論の書であった、ここを忘れてはいけないでしょう。

 どういう場面で語られ、議論されたかを無視して、出された答えだけを追うなら、仏典の解釈は歪んでしまう。

一つ一つの言葉を無視しては、いけないでしょう。

一つ一つの言葉に込められた想いを無視しては、もっと、いけないでしょう。

御仏がなぜ、この場面でこの判断を降されたか、追体験しながら仏典を学ばないといけないでしょうね。

 御仏の想いの上に、自分の想いを置いて、それを絶対視してしまったがために、宗派が分立したのでしょう。

先入観を持ってはいけないが、導きとなる羅針盤となるものは、持たないといけないでしょう。

そうでないと、膨大な仏典の大海原のような言葉に飲み込まれ、遭難してしまうでしょうね。

一度、先入観を捨てて、宗派を超えた仏典研究がなされたほうが良いでしょうね。

宗派の優劣を競うのではなく、謙虚に仏典と向き合い、御仏の想うところを分かちあって欲しいと願いますね。

 これは、全ての宗教と宗派に求めたいことですね。

宗派の優劣を競うのではなく、謙虚に教典と向き合い、神仏の想うところを分かちあって欲しいと願いますね。

難しいことですけどね。

追記。

ありとあらゆる存在に仏性を見る立場は、最新科学の指し示すところとどこか似ています。

例えば、地球を一つの生命体と見なすガイア理論。

それから、生命の起源をミクロの段階にまで求める研究もあります。

全ての存在に仏性を見る議論は、はるか昔にそういう展開を先取りしていたと言えるかも知れません。

ここまで触れると、とんでもない方向に脱線しそうなので、今回は省きました。

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斉一性は普遍的か?

私の元に、こんな意見が来ました。

 「生命の最初の化石証拠は、35億年前のオーストラリアの地層から得られたものである。これは、繊維状細胞である。」

 この事実を、どう説明しますか?

 4000年では、ちと、桁からして、合わないように思われるのですが。。。

 くれぐれも、地質学の誤りのせいにはしないで下さいね。

 現在の地質学は、アイソトープの恩恵で、かなり正確なものになっています。

こういう内容です。

ちなみに4000年は、聖書にある天地創造の7日のうち4日が生命に関する記述であることによります。

神にとって1000年は1日のようで1日は1000年のようだ、という聖書の記述から4日を4000年と換算しました。

アイソトープとは放射性同位元素と呼ばれ、放射線を出しながら壊れて別の元素になる性質があります。

アイソトープが最初の半分に減るまでの期間を、半減期と言います。

アイソトープの半減期は、環境に左右されません。

 もちろん、崩壊後の元素と合わせれば、元素の総量は同じでしょ。

アイソトープと崩壊後の元素の量をみれば、半減期が判断出来る可能性があります。

つまり、半減期を調べれば何年前かわかるというのが、この議論の根拠になっています。

 でも、同じ地域でも放射線量が違うという事で、問題になっているでしょ。

 出発点には、同じ時点のアイソトープの量は同じと見るのが、分析法の前提なのでは。

原発事故のようなことは、地質学の対象とする時代にはなかったと見ているのです。

自然の条件下では、誤差の範囲のアイソトープ量の差しかないと、言いたいのでしょう。

 その35億年前という数値は、激変がなかったことを前提にした数値でしょ。

 恐竜絶滅などの原因となった激変を考慮に入れれば、全く違う結果だって出るはずです。

琥珀に閉じ込められた古代の空気を調べたら、恐竜の時代は酸素の濃度が濃かったという結果が出ています。

酸素の濃度が濃かったので、恐竜などは巨大化出来たという研究もあります。

 恐竜の時代と現代とでは、大気中のアイソトープの濃度が違うと見る方が自然ですね。

アイソトープの正確性を担保する斉一性自体、怪しいというのが最新科学の指し示すところなのです。

なお、斉一とは、こういう意味です。

物事がどれも一様であること、あるいは、整いそろっていること。

または、物事がどれも一様であるさま、あるいは、整いそろっているさま。

それに、恐竜絶滅には、諸説出ているが一つに絞り切れていません。

 一長一短あるから、どれか一つに絞れない。

言い換えれば、複合的な事態が起きた証左と言えるでしょう。

 隕石が、洪水や地震、さらには噴火まで地球規模で引き起こしたとか。

生き残っている生物の説明が、どの説でも困難なのです。

 想定外という言葉は、この事態にふさわしいですね。

説明の一筋縄でいかないこと自体が、想像を超えた激変を物語っているとしたら、斉一性を絶対的と考えない方が合理的な解釈と思えるのではないでしょうか。

法則の斉一性と、歴史の斉一性は、別なのですよ。

 考えてみれば、価値観だって、時代で変わる。

 これって、自然の中に斉一性がないことの反映だったりして。

ありえますね。

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シリア

シリア・アラブ共和国、通称シリアは、中東・西アジアの共和制国家です。

首都はダマスカスですよね。

北にトルコ、東にイラク、南にヨルダン、西にレバノン、南西にイスラエルと国境を接し、北西は東地中海に面します。

この地域は、世界で最も古い歴史を持つ土地と言われます。

 紀元前1万年頃に氷河期が終わり、地球が温暖化が始まった紀元前8000年頃にはこの地域では麦による農耕が始められたとされますね。

紀元前6000年ごろには「肥沃な三日月地帯」の一部として灌漑農業が発展し、紀元前3000年ころには農耕に富を基盤とした文明の萌芽があったといいますね。

古代オリエント時代においてもメソポタミア、アッシリア、バビロニア、さらにギリシア・ローマ、ビザンチン帝国と支配者がめまぐるしく変わります。

イスラム世界に入ってからも、支配者は、ウマイヤ朝、アッバース朝、セルジューク朝、などの各王朝からモンゴル人のイル汗国、オスマン帝国と変わりました。

近代には列強の争いの舞台となるなど、人類史の縮図といっていい地域です。

「シリア」という言葉は、歴史的シリア、大シリア、ローマ帝国のシリア属州など、周辺のレバノンやパレスチナを含めた地域を指すこともあります。

 「リア」や「リヤ」のつく国や地域って、日本との関係が見える地域が多いですね。

 シリアも、そうですか。

「シリア」の語源は不明だが、アッシリアの転訛とする説、ティルスの転訛とする説などがあります。

それで、気にはなっていたけど、ちょっと後回しにしていました。

 だったら、なんで取り上げる気になったの。

気になるからだけど、それだけじゃ、だめですか。

「シア」や「シヤ」、「リア」や「リヤ」とくると、もとは、「シマ」だったと見たくなります。

 「シリア」は「シア」の転化であり、本をただせば「シマ」だった。

縄張りとか、勢力圏の意味の「シマ」から、「シア」、さらに「シリア」と見ても面白いでしょ。

パレスチナなどは、日ユ同祖論の出るイスラエルの地でもありますよ。

紀元前3千年紀にはエブラ、キシュ、アブツァラリク、マリなど血縁によって結ばれたセム語都市文明圏が成立しました。

 じゃあ、シリアはセム語語族の「シマ」、つまり一大勢力圏だった。

可能性は見ても良いでしょ。

 セム語族と言えば、モンゴロイドに分類されるでしょ。

 日本人もモンゴロイドに分類されるから、古代シリア人と同じセム語族。

シリア料理などアラビア料理は、日本ではあまり食べることのないけど、日本人の舌によく合うそうですよ。

おいしくて洗練された中東料理の代表といえば、レバノン料理です。

シリアもかつてはレバノンと同じ国だっただけに、ほぼ同じ流れを汲んでいるといえます。

シリアの典型的な食材は、ライ麦パンやブルガーという挽き割り小麦、お米、肉、野菜、豆、だそうです。

シリアの食事には、メゼとも呼ばれるマッザという野菜や豆をメインにした前菜も欠かせません。

 メゼとも呼ばれるマッザ、混ざるの語源だったりしてね。

用法と語感は似てるけど、どうなのでしょうね。

 料理の傾向は、エジプトとも似てるかしら。

シリアは、かつてエジプトとメソポタミア、地中海地域を結ぶ交通の要所として栄えたから、似ているのも当然とも言えますけどね。

メゼの定番は、ホンモスあるいはフムスというひよこ豆のペーストや、ババガヌーシュというナスのペースト、などだそうです。

胡瓜を刻んで入れたヨーグルトなんて、もろきゅうを連想できるメゼもあると言います。

 ひよこ豆は、エジプトでも出ますね。

 胡瓜と言えば、ユダヤ人は胡瓜が大好きでしょ。

 お皿のような帽子のキッパを被って、胡瓜が好物なので河童の正体だという話も出た。

ブルガー小麦は、キベ(Kibbeh)という、ブルガー小麦とラムのひき肉を混ぜて油で揚げた料理などに使うそうです。

 キベって揚げるところは違うけど、なんとなく、つみれみたい。

 キベが西に渡ってハンバーグの祖先になり、東に渡ってつみれになったとか。

これだけで、一つの話になりそうなので、先に進みたいですけど。

ほかにポピュラーなのは、さまざまなペストリーや、つぶした豆を揚げた料理であるファラフェルですね。

ファラフェルは、ヒヨコマメまたはソラマメから作ったコロッケのような中東の食べ物です。

それから、タブーリというパセリのサラダ、チキンやラムのシチュー、回し焼肉のシャワルマ―ようするにドネルケバブ―などもあげられるそうです。

シリア人は甘いものが大好きなので、ダマスカスやアレッポでは、甘いお菓子が多いそうですよ。

さまざまな種類のバクラヴァという焼き菓子のような、甘いペーストリーですって。。

 日本の甘党が多い地域、元を辿るとシリア人のいたことろだったりして…。

どうなんでしょ。

もしそうなら、面白いですけどね。

 刻んだ胡瓜をヨーグルトで食べるのが好き、ヨーグルトを味噌に変えると、もろきゅうでしょ。

 日本人のもろきゅう好きは、シリア起源なのかしら。

シリアから、ユダヤ人経由で、日本ですか。

 ありえるでしょ。

日本には、古代中東の遺伝子が多いうえに、日ユ同祖論がありますからねえ。

エブラは、アレッポの南西55kmに位置するシリア北部にある古代の都市国家の遺跡です。

エブラは紀元前3千年紀後半、および紀元前1800年から紀元前1650年と紀元前2千年紀前半の二つの時期の重要な都市国家でした。

遺跡のある場所は、現在テル・マルディーフ(Tell Mardikh)と呼ばれ、紀元前2250年頃に遡る楔形文字の書かれた粘土板が15,000枚と大量に発見されたことで有名です。

これらはスメル語、およびここで初めて発見されたセム語派の言語・エブラ語で書かれています。

 スメルも、日本に渡来説がありますね。

 スメラミコトの語源という議論も立てられている。

エブラは大麦、オリーブや織物の生産が行われ、「マリムーク」という指導者のもと、メソポタミアからパレスチナ、エジプトまで交易が営まれていました。

エブラは、紀元前2250年ごろにアッカドに滅ぼされます。

またマリは、宗教的中心地として紀元前1900年頃栄えました。

マリ(Mari)は現在のシリア領内の(テル・ハリリ Tell Hariri)で、ユーフラテス川中流の右岸(西岸)にあった古代スメルおよびアムル人の都市国家です。

現在のシリアの町アブ・カマル(Abu Kamal)の北西11km、デリゾールの南東120kmに位置します。

紀元前5千年紀には住居があったとみられるが、都市として繁栄したのは紀元前2900年頃から紀元前1759年にかけてのことで、その後ハンムラビによって破壊されました。

ついでに言うと、キシュ(Kish)は、ケシュ(Kesh)とは別の都市です。

ケシュは、まだ場所の特定はできていないが、ニンフルサグを守護女神とした古代シュメールの都市とされます。

キシュ(Kish)は、バビロン遺跡の東に位置する古代メソポタミアの都市、またはそこに起こった国家国家で、現代名はテル・アル・ウハイミル。

20世紀初頭の発掘によって宮殿跡やジッグラト、墓、書記学校の跡が発見されています。

古代メソポタミア時代の初期において、特殊な意味合いをもった土地です。

 そうそう、シリア史でしたね。

紀元前1850 アッシリア王のシャムシ・アダド1世がヤスマフ・アダドをマリ王にし間接支配を布きました。

そして紀元前1759年には、バビロニアのハンムラビに滅ぼされました。

その後紀元前15世紀にミタンニ王国が成立。紀元前13世紀にはアッシリアがミタンニ王国を滅ぼしました。

一方、海岸部ではフェニキア人の植民が展開されました。

 フェニキアといえば、マン島の猫を日本やインドからもたらしたのでしたね。

琉球大学名誉教授の木村政昭は、琉球にフェニキア人が一大勢力を持っていたと見ていますよ。

 木村政昭といえば、海洋地質学者で地震学者の理学博士ですね。

海の民によりヒッタイトが滅亡すると、アラム人の小国が乱立します。

 ヒッタイトも、古代イスラエルを語るうえで欠かせない存在ですね。

ヒッタイトも、日本人のルーツという議論がありますよね。

さらに、アラム人の言葉であるアラム語はヘブル語とも関係が深いです。

 イエスが話していたのも、アラム語でしたね。

イエスは、西方アラム語の方言を話したそうですよ。

西方アラム語は、かつてアラビアのナバテア人、パルミラ人、パレスチナのキリスト教徒やアラム人ユダヤ教徒によって話されました。

現在はシリアのマアルーラ (Ma'aloula) 村など三つの村で話される現代西方アラム語を除いてまったく消滅しているといいます。

東方アラム語もあって、シリア語やマンダ語、現代アラム語などを含みます。

これらのいくつかは、シリア・イラク・イラン・トルコ・グルジア・アルメニアのいくつかの村で話されています。

アラム語を話すユダヤ教徒の一部と、現代のイスラエルが移住したロサンゼルスでは毎年、アラム語の母語話者のコンベンションがあります。

キリスト教の聖書のアラム語版はシリア語の方言であり、主の祈り(Lord's Prayer)の上で記事を見つけることができるそうです。

アラム人は、紀元前11世紀頃までに、ユーフラテス川上流に定住したひとびとです。

その拠点としては、ティル・バルシップ、現在のゼンジルリであるサマル、アルパド、ビト・アディニなどが挙げられます。

その後、シリアに進出して新たな都市国家を形成したアラム人は、ラクダを用いてシリア砂漠などを舞台に隊商貿易を行いました。

アラム人勢力は、当初はハマ、その後はダマスカスを中心としたのです。

その後、アラム人勢力は、さらに交易網を拡大し、古代オリエント世界に商業語としてのアラム語を定着させました。

また、シリア沿岸部のフェニキア人が用いていたフェニキア文字からアラム文字が作られ、その後の西アジア・南アジア・中央アジアの様々な文字に影響を与えたのです。

 その後のシリアに話を戻してくださいな。

シリアでは、アッシリアがティグラト・ピレセル3世などの優秀な指導者によって勢力を増し、紀元前735年アッシリアが統一。

紀元前732年には北に位置する騎馬民族スキタイに押されて南下したキンメリア人の侵攻を受けました。

その後、アッシリア最後の偉大な王とされるアッシュールバニパルが即位。

アッシュールバニパル王の在位は、紀元前668年から紀元前627年頃だそうです。

アッシュールバニパルは、ニネヴェ図書館と呼ばれる図書館を建造して数万点に及ぶ粘土板を保管しました。

 これらの粘土板は、今のメソポタミア史を研究する上で絶大な影響力を持つのでしたね。

だが彼の死後、急速に衰退したアッシリアは紀元前612年に新バビロニアとメディアの攻撃を受けて滅亡します。

そして新バビロニア、メディア、リディア、エジプトなどの強国が乱立します。

アケメネス朝ペルシアのキュロス2世がメソポタミア地域の統一、続くカンビュセス2世がエジプトを制圧し、ついにメソポタミア全域の支配に成功しました。

アケメネス朝ペルシアの支配は長く続いたが、アレクサンドロス大王の征服を受けると、急速にギリシア化が進みます。

 ギリシャも、神話や和裁はさみ、外反母趾になりやすい足指、秋田美人などで注目しましたね。

紀元前321年にはアレクサンドロス帝国は分裂し、紀元前301年にセレウコス朝シリアが建国されました。

セレウコス朝シリアはインドからイランをへてトルコにいたる広大な領土を持っていました。

 インドやイランも、日本人と似た顔が見つかる国々ですよね。

インド人やイラン人から、同胞に間違えないと断言されて困りまくる日本人もいるようですね。

 インドは、タミル語と日本語を比較して語源説が出ている。

 イランはペルシャの時代から、日本に関わりが深い。

平家はペルシャ人ではないか、などという説も出ているでしょ。

シリアの勢力圏は、紀元前200年ころから、パルティア、バクトリアの侵食を受け縮小します。

さらにポエニ戦争にかかわったことから古代ローマと交戦状態となり、衰退し紀元前64年にローマに併合されました。

ローマの支配下では、パルミラなど諸都市が大いに栄えました。

 ローマ帝国影響下にあった国や地域は、日本と比べると興味深い話が出るけど…。

 シリアも、古代日本を知るうえで顧みた方が良さそう。

気になるでしょ。

 ところで、シリアは、セム語族のどの集団の「シマ」だったのかと。

気になるでしょ。

わたしも、気になる。

アラム語を話していた人々だったのでしょうけどね。

追記

最近の研究では、外反母趾になりやすい足の傾向は、エジプトタイプだとされるようになってきました。

足指は、三つのタイプに分類されるといいます。

エジプト型と、ギリシャタイプと、スクエアタイプの三つです。

エジプト型は、親指が一番長く、小指にむけて短くなる形です。

日本人の6割から7割が、このエジプト型タイプと言われています。

親指が長い他に、足幅が広めな形です。

親指が側面から圧迫されやすいため、外反母趾になりやすいタイプの足の形です。

ギリシャ型は、親指より第2指が長い足の形です。

日本では、エジプト型に次いで多いです。

足先の細い靴を履いても、爪先に負担をかけることが少なく、外反母趾になりにくいタイプの足の形です。

ただし、指が曲がりやすく、ハンマートゥになりやすい足でもあります。

ハンマートゥとは足の指が曲がったまま、戻らなくなっている状態です。

スクエア型は、5本の指の長さに差がない足の形です。

日本人では珍しい足です。

幅の狭い靴を履くことで、指にタコやウオノメができやすいタイプの足の形です。

ただ、ギリシャ神話の神々は、エジプトとのかかわりが指摘されており、この二つの文明を荷った民の間の関係はどうであったか興味深いものがあります。

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和むと英語?英語VS日本語 その3

古語の「ねぐ」は「和ませる」という意味があり、神を和ませて加護を願うというところから「禰宜」となったといいます。

労ぐや犒ぐと書くと、「神の心を慰めて、加護を願う」と言う意味の方が「いたわる」「慰める」「ねぎらう」という意味より大きいです。

また、祈ぐと書くと、文字通り「祈願する。いのる。」の意味になります。

 そういえば、古語の「なぐ」は「しずまる」という意味があり、共通の語源が想像できる。

ええ。

もとは濁音なしで使われることも多かったので、清音でも比べると面白いですよ。

清音とは、撥音と促音を除き濁音符・半濁音符を付けない音節のことです。

「なく」は、上代語で打消しの助動詞「ず」のク語法で、「ないこと」を指します。

 英語の“NEG”と助動詞の「なく」は、用法が似て居そうですね。

「なく」は、「泣く・鳴く・啼く」などと記すとこう意味になります。

悲しみ・苦しみ・喜びや痛さなどをおさえることができず、声をあげたり、涙を出したりする。

身にしみて、つらい思いをする。苦労を経験する。

無理や損を知りつつ承知する。権利をあきらめたり、しかたなく身をひいたりする。

実際の内容と隔たりが大きく、それと名乗るのがはばかられる思いがする。

染色や加工のとき染料が隣の色や白地の部分に浸出する。

とくに、「鳴く・啼く」と書くと、「鳥・虫・獣などが声を出す」意味になります。

こういう、英語の“NEG”が付く言葉との類似が見えない例も多いので、あまり注目されないようですね。

ただ、「なぐ」はちょっと気になりますね。

「なぐ」は、「凪ぐ」と書くと「風がやんで波が静かになる。風波がおさまる」となります。

「なぐ」は、「和ぐ」と書くと、「気持ちが穏やかになる。なごむ」となります。

これは言い換えれば、荒れた状態の否定形というわけですからね。

「にく」は、「肉」と書くと、「主に筋肉から成る、動物の皮膚の下にあって骨に付着している柔らかい部分」です。

「にく」は、「褥」と書くと「毛の敷物。しとね」です。

「にく」は、「辱」と書くと「相手から好意を受けることをへりくだっていう語」だったのが、「体面を傷つけ、くじけた気持ちにさせる。はずかしめ。はじ。」に転化したようです。

「にぐ」は、「逃げる」の文語形の「逃ぐ」しか見当たませんね。

「にく」「にぐ」は、相手の視線や視野から外れる行為や、相手の視線や視野から外れた状態を指すのでしょうね。

「ぬく」は、「温」と書くと、「人をののしっていう語。まぬけ。のろま」となります。

「ぬく」は、「抜く」と書くと、こういう意味が出てきます。

中にはいっているもの、はまっているもの、刺さっているものを引っ張って取る。

中に満ちていたり含まれていたりするものを外へ出す。

中にはいっている金品をこっそり盗み取る。

多くのものの中から必要なものを選び取る。全体から一部分を取り出す。

今まであったもの、付いていたものを除き去る。不要のものとして取り除く。

手順などを省く。また、それなしで済ませる。省略する。

前にいる者や上位の者に追いつき、さらにその先に出たり、その上位になったりする。

新聞報道やテレビ報道などで、他社に先駆けて特ダネを報道する。すっぱ抜く。

力などが他よりすぐれている。基準よりも上である。

型にはめて、ある形として取り出す。また、ある部分だけ残して他の部分を染める。

攻め落とす。

和服の着方で、抜き衣紋にする。

囲碁で、相手の死んだ石を取る。

「抜く」は「貫く」と似た意味でも使われ、、突き通して向こう側へ出るようにする。一方から他方へ通じさせる。つらぬく。

「抜く」は動詞の連用形に付くと、そのことを最後までする。しとおす。また、すっかり…する。しきる。

「ぬぐ」は、「脱ぐ」と使うと、「身につけていたものを取り去る」となり、「裸になる」という場合も指すようになりました。

「ぬぐ」は、「ぬぐう(拭う)」となると、「ふいてきれいにする」となり、「汚点などを除き去る。また、消し去る」という場合も指すようになりました。

 「ねぐ」は、すでに触れましたね。

「ねく」はないので、「のく」にいきましょう。

「のく」は、「退く」くらいしかないですね。

こういう意味です。

今までいた場所から離れる。今までの場所をあけて他へ移る。どく。

ある場所から離れている。へだたっている。

地位・職務から離れる。引退する。

組織や仲間から抜ける。脱退する。

今までの関係を離れる。縁が切れる。

「のぐ」は、ないですね。

こうやってみると、ナ行音に「く」や「ぐ」がつくと似たような意味が並ぶでしょ。

 何者かを視野や視界から、外したり隠したりしていることが多いですね。

 あるいは、何者かが視野や視界から、外れたり隠れたりしている。

隠れるのは、影や闇の中でしょ。

英語の“NE”は否定の接頭辞です。

英語の“NEG”は、否定の接頭辞の“NE”の変形と言えるかも知れません。

例えば“Negative”は、否定の接頭辞の“NE”と可能の接尾辞“TIVE”からなる言葉で、“G”は発音の都合上現れたのでしょう。

 ナ行音に「く」や「ぐ」がつく言葉は、元を辿れば否定の接頭辞“NE”と活用の語尾の“KU”や“GU”が付いて生まれた。

そう見るのが、自然ではないでしょうか。

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暗黒エネルギーと宇宙定数とUFOは磁気で繋がる?

同じ地球上でも場所によって重力の大きさ、つまり重力値は異なっています。

測定点の標高が、場所ごとに異なっている。

周囲の地形の影響が場所により異なっている。

地球が完全な球形ではなく、回転楕円体のような形状をしている。

自転による遠心力が緯度により異なっている。

地球の内部構造が一様ではない。

ところが、重力は大きさが違っても、加速度は同じなのです。

おもしろいことに、光にも加速度が考えられるのです。

光子の圧力を、光圧といいます。

光子加速とは、光圧により物体が加速されることです。

光源が強ければ、光圧も強くなります。

 太陽系で一番強い光源が、太陽でしょ。

太陽の光圧、略して太陽光圧で、宇宙空間を飛ぼうという研究があります。

 太陽の光圧、略して太陽光圧、そのまんまでしょ。

 太陽光圧で光子加速されて、宇宙を旅する。

 まるで、ヨットでしょ。

宇宙航空研究開発機構(JAXA)のプレスリリースにこうあります。

今回の議論に関係あるところだけ、紹介しましょう。

なお、「IKAROS」とは小型ソーラー電力セイル実証機です。

セイルとは、もちろん、帆のことです。

 「IKAROS」とは、宇宙ヨット。

まあ、そんなところです。

小型ソーラー電力セイル実証機「IKAROS(イカロス)」の
光子加速確認について

平成22年7月9日

宇宙航空研究開発機構

http://www.jaxa.jp/press/2010/07/20100709_ikaros_j.html

 宇宙航空研究開発機構(JAXA)は、平成22年5月21日(日本標準時、以下同様)に種子島宇宙センターから打ち上げられたIKAROSの運用において、セイル展開後に実施した精密軌道決定により光子加速(※1)を確認しましたので、お知らせいたします。

太陽光圧による推力は1.12mN(※2)であり、想定通りの値です。

 これによりIKAROSは、惑星間航行において、光子による史上最大の加速度を発揮した実証機となりました。

(※1)光子加速とは、太陽の光子の圧力(太陽光圧)により物体が加速されること。

(※2)N(ニュートン)は1キログラムの質量を持つ物体に1メートル毎秒毎秒の加速度を生じさせる力を表す(探査機の推進力を表す)単位。

 1.12mNは、地球上で0.114gの物体にかかる重力にほぼ等しい。

後は、興味があったら自分で読んでください。

太陽光圧による推力は1.12mNと、言っているでしょ。

 光が、押した力ですよね。

 重力は、引く力、引力でしょ。

アインシュタインは、重力は質量が時空を歪めて引き出してくる力と見ているでしょ。

さらには、宇宙が安定するためには引力と大きさが同じで向きが反対の力が必要だとして、宇宙定数を導入した。

ところが、ハッブル定数が見つかり、膨張宇宙論が解釈として登場したので、宇宙定数を捨てるわけです。

赤方偏移も、見つかったし。

 だが、ハッブル定数は重力加速度の仕業とみれば、膨張宇宙論は崩壊する。

実際、宇宙で観測された光の偏移には重力加速度の仕業と判断されたものがあるのでしたね。

おまけに、赤方偏移を膨張の証拠とみるなら、収縮の証拠とみないと辻褄の合わない青方偏移も宇宙にはあるのですよ。

 青方偏移を収縮の証拠とみないためには、重力加速度の仕業と判断しないとまずい。

すでに、赤方偏移に重力加速度の仕業と判断されたものがあるから、青方偏移まで重力加速度の仕業と判断したら、膨張宇宙論は崩壊するでしょ。

さらに、宇宙定数には再評価の動きがあります。

標準ビッグバン宇宙モデルの初期条件を説明する宇宙のインフレーションモデルは、宇宙の初期に時空が指数関数的な膨張を遂げた、とするモデルです。

その原理は、宇宙項の存在に相当する真空のエネルギーの存在であるとみられているのです。

 宇宙定数は、アインシュタインの重力場方程式の中に現れる宇宙項の係数でしたね。

自然科学および数学における係数とは、積によって表された式における定数因子のことです。

膨張宇宙論とは、遠方の超新星の観測結果および宇宙背景放射、つまり宇宙マイクロ波背景放射の観測結果などから、我々の宇宙は現在、加速的に膨張しているとみるの理論です。

なんと、加速膨張を説明するメカニズムとして、宇宙項の存在が支持されています。

宇宙定数の源の有力な候補としては真空のエネルギーなどが挙げられています。

宇宙定数を仮定する大きさは、自然単位系で評価してナイーブには1の程度になるのです。

観測的には、10 − 120〈10のマイナス120乗と読む〉以下であることが分かっています。

 マイナス120乗以下って、ずいぶん小さいですね。

このギャップを埋めるメカニズムは、現代宇宙論の未解決問題のひとつになっています。

最近では、宇宙の加速膨張を担うものとして、宇宙項の可能性を含め、暗黒エネルギーとも呼ばれるダークエネルギーと総称することが普通になっているのです。

 もし、膨張宇宙論が崩壊すれば、ギャップを埋める議論も不要になる。

10 − 120以下が宇宙定数の大きさとしたら、どうでしょ。

宇宙を満たす引力も、同じくらいの大きさでないと釣り合いませんよね。

 引力と大きさが同じで向きが反対の力が、宇宙定数だから。

重力は、質量が時空を歪めて引き出してくる力です。

宇宙定数の源の有力な候補としては真空のエネルギーなどが挙げられるから、質量が時空を歪めて引き出してくる力であっても良いでしょ。

 やはり、宇宙定数は斥力としての重力。

そうみるのは、自然でしょ。

ニュートンのリンゴは、地球が引いたのではなく、地球が押しのけて歪めた時空が押したとみても、アインシュタインの重力理論と矛盾しません。

 押されて進む、まるで、ソーラー電力セイルね。

そこで、重力を操れば推力を得られる可能性があるとして、UFOの推進力は反重力という議論も出るわけです。

 反重力で飛ぶUFO、宇宙を膨張させるダークエネルギーみたいですね。

ダークエネルギーと宇宙定数を結びつける議論があるでしょ。

宇宙定数は、重力と大きさが同じで向きが反対と、アインシュタインは位置付けたでしょ。

ならば、宇宙定数が反重力の正体であっても良い。

 そういえば、磁気で重力を制御する研究もありますね。

磁気で重力を弱めたり強めたりできるというのが、最新研究の展開ですよ。

宇宙定数が、斥力としての重力であり反重力としたら、宇宙定数と暗黒エネルギーのギャップを埋めるのは磁気の力となるでしょうね。

 宇宙定数と暗黒エネルギーのギャップを埋める磁気の力は、宇宙を埋め尽くす量のプラズマの力かしら。

重力波と電磁波は、同じ形式の式で書けると言います。

反重力である宇宙定数が、宇宙を満たすプラズマの仕業で、膨張宇宙論の暗黒エネルギーに見えていたのかも知れないですよ。

 磁気で重力を弱めたり強めたりできるなら、斥力である重力=反重力としての宇宙定数も磁気で大きくなって良い。

プラズマは、宇宙に存在する全物質の99.9999999999・・・%を占めているわけですからね。

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本気で技術立国を想うならどうすべきだったか考えてみた。

以前、ピストル型のプラズマ発生装置がテレビなどのメディアにで​たことがありました。

 いつだか、覚えてないの。

相当、前ですからね。

だが後日談は一向にないのですよ。

あまりに小型ゆえ、悪用されたら大変な装置なので実用化が見送ら​れた可能性はもちろんあります。

だが、気になるのは軍事関連技術を扱う秘密特許の存在なのです。

これに抵触したが故に、製造できない可能性は否定できないのです。

 悪用したら危ない、言い換えれば十分に兵器になり得る。

軍事用技術の開発には、膨大な資金と最高の技術や能力が結集しています。

一企業はもちろん、どんな巨大な企業集団をもってしても、敵わない程の金額と頭脳が投入されているのです。

 そういえば、今でこそ民間企業でもある程度のロケットは飛ばせるけど、開発は巨費を投じたし危険も大きかったから国家プロジェクトでしたね。

そう考えたら、ピストル型のプラズマ発生装置は、すでに秘密特許であってもおかしくないのです。

民生用の技術者でさえ、その気になれば作れたという事は、軍事技術としてはすでに先を行っている可能性があるのです。

 超能力でさえ軍事目的で研究されていたなんて話も、出てくるくらいだから…。

真偽のほどは不明だけど、アメリカと旧ソ連の冷戦時代には相手が研究しそうと思えば、オカルトまがいな研究だってあり得たのです。

現代人の多くはオカルトを非科学とあざ笑うが、現代科学を切り開いた偉人の多くは、熱心なオカルト研究者だったことを忘れてはならないのですよ。

 そういえば、ニュートンもオカルティストだった…。

ニュートンの錬金術師としての側面は、近年注目を集めていますよ。

そうでなくても軍事は秘密の塊なのに、旧ソ連はとことん秘密主義だったから、なおさらです。

 たとえ今の常識に外れていても、ちょっとでも、できそうだ、ありそうだと思えたら、研究してしまう。

技術や攻撃で先を越されたら、お手上げだからです。

だとしたら、技術立国などと言っていても、本当の最先端技術は、とっくにアメリカとロシアに軍事技術として開発されていると見た方がいいのです。

そのいい例が、掃除ロボットなのです。

類似品は、最新技術があれば出来ます。

だが、投入されている技術の水準が桁外れなのです。

出し惜しみされなかった資金を用いて、極限の事態を想定し、最高の頭脳で開発された制御技術と、高い信頼性のある加工技術が、用いられているのです。

 軍需で儲け、さらに、民需で儲け、その資金を再び開発に投入する。

 しかも、売れれば売れるほど、量産されるからコストも下がるとしたら…。

さらに言えば、アメリカでものすごく高性能な手術ロボットができています。

かなり高度な手術が可能になるのです。

しかも、アメリカでは当たり前な機械になっています。

実はこれ、前線にいる戦士の遠隔手術が目的で開発されたものですよ。

日本は発想を変えないと、置いていかれると危機感を持つべきでしょう。

日本も、産学共同研究を、もっと活発にやる必要があったのです。

基礎研究も含めてです。

応用研究は、一見すると即戦力だけど後れを取ったらすべてが無駄です。

基礎研究は、どんなに小さな発見でも裾野は広いから、いち早く応用できた方が勝ちます。

技術立国を言うなら基礎研究をもっと大事にし、先入観にとらわれず機敏に応用に回すべきだったのです。

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