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山の神と生命の樹?生命の樹 その5

日本には、山の神崇拝、あるいは、山の神信仰とよばれる山岳に対する信仰や崇拝の歴史があります。

 奥さんのことを、山の神という人もいるけど。

家の中で存在感が大きく怒ると怖いというところや、山の神が女とされることから、そういう俗語が出たようですね。

山の神は山神とも呼ばれるけど、実際の神の名称は地域により異なります。

また、その性格や祀り方は、山に住む山民と、麓に住む農民とで異なります。

農民の間では、春になると山の神が、山から降りてきて田の神となり、秋には再び山に戻るという信仰があります。

猟師・木樵・炭焼きなどの山民にとっての山の神は、自分たちの仕事の場である山を守護する神で、常にその山にいるとされます。

ただ、どういう名称や祀り方でもでも、山の神という位置付けそのものは変わりません。

 でも、具体的な祀り方は違うでしょ。

農民の山の神は、山と麓の往復という形で、1つの神に山の神と田の神という2つの霊格を見ていることになりますよね。

一方、猟師・木樵・炭焼きなどの山民にとっての山の神は、農民の田の神のような去来の観念はありません。

面白いのは、山民の山の神は一年に12人の子を産むとされるなど、非常に生殖能力の強い神とされるのです。

 神社に祭られる場合、いろいろな名前になっていますね。

浅間(せんげん)神社であったり、御嶽(みたけ)神社であったり、または、勧請された山の名を取った神社であったりします。

ただいえるのは、山の神を崇拝しているけれど、山そのものは信仰や崇拝の対象ではないのです。

注目したいのは、山の神崇拝の神社の中に三峰(みつみね)神社という名前があることです。

 三つの峰というけど、峰が三つの山って、ありそうで意外とないかも。

 ただねえ、山を描くとたいてい、峰を三つにしてしまうのでは。

 峰一つだと、富士山や、何々富士と呼ばれる山に見えるし、二つでもどこか特定の山を指していると思われる。

 その点三つなら、沢山の峰を省いて描いているように見えるでしょ。

山一般を指したいから、三峰というのも解釈の一つではありますね。

ここで気になるのは、時代を遡るほど三神をまつる神社は増えることです。

しかも、中心の神と脇を固める神の三神の構図で祀られるようです。

この三神の構図を図にすると、山の字に似た形になるのです。

そこで、山の字はもともと三神を表した文字だったと見る人たちもいます。

 嶽(たけ)という字も、生命の樹を表していたとか。

さあ、どうでしょ。

少なくとも山の字は、生命の樹の至高の三角を表すと見ているようです。

 そして、三神を代表して臨まれたヤハウエ=イエスも山に縁がありますね。

しかも山の神に、12人の子どもでしょ。

アブラハムの息子、イシュマエルもイスラエルも、12人の息子を生んでいる。

これ、偶然と思いますか。

 日本の山岳信仰には、生命の樹をどう見るかが、示唆されているような…。

山も生命の樹も、どちらも上りますね。

 だけど、山は上ると下るでしょ。

山を歩いたこと、ありますか。

私は、片手で数えるくらいしかないですけどね。

それも、ハイキングコース程度だから、あまり大きな事言えないけど。

それでも、覚えているのは、頂に着くまで何度も上り下りがあるのですよ。

生命の樹も、一つ上れば終わりではなく、無数に上って神の境地を目指すわけです。

仮に、無限に続く峰を上ると考えてみてください。

いつかは、神のいる天空の彼方に届くと思いませんか。

実際には、そんな山はないけど。

 生命の樹は、上る一方じゃないですか。

それならなんで、生命の樹の他に、知識の樹があると思いますか。

知識の樹は、生命の樹の鏡面対象の死の樹と同じと見られています。

生命の樹を上る一方なら、いつ、知識の樹にいく時間を取ります。

生命の樹は、上下に無限の繋がりがあると言いながら、一つを描けば済む場合が多いです。

しかも生命の樹には、下に知識の樹や死の樹を描かず、根が描かれることもあるのですよ。

 つまり、知識の樹や、死の樹は省いて良い。

生命の樹は陽、知識の樹や死の樹は陰、ここに謎を解く鍵がありそうですね。

右が陽なら左が陰、上が陽なら下が陰、あと、省きますけど。

ならば、正が陽なら負が陰でも、良い訳でしょ。

 上がりが陽なら下りが陰。

つまり、生命の樹は上れば知恵の樹となるが、下れば知識の樹となるとみたらどうでしょう。

唯物弁証法では、上りを総合で下りを分析と見ました。

ならば、こう見ても良いはずです。

上りの総合過程を知恵の樹としての生命の樹とみる。

下りの分析過程を知識の樹としての生命の樹とみる。

分析過程は、解剖学的な考察となるから死んだ姿しか見ないので、死の樹に対応します。

総合過程は、組み立てていくから動く姿が見えるので、生命の樹に対応します。

つまり、知恵の樹も知識の樹も、生命の樹を上るか下るかの差でしかないわけです。

 そういえば、生命の樹は、いったん下まで下りるところから始まりますね。

受肉による誕生が、王国と訳されるマルクトですよ。

あとは、9つのセフィロトの間を上り下りすればいい。

だから、9つのセフィロトだけ描かれる生命の樹があるのでしょう。

 マルクトは、山に上る最初の入り口に相当する。

いったん山に上ってしまえば、あとは山の中を移動して、頂上を目指すだけでしょ。

実際の山では、最後は麓まで下りないといけないけど。

 一度始めた人の多くは、また、山に行きますねえ。

 その人にとっての麓はすでにマルクトではなく、上から9個めのセフィロトになってるのでしょうかね。

そういえば、上から9つ目のセフィロトは基礎と訳されるイェソドですね。

 生命の樹の上る行為は、山に上る行為に、なぞらえることができる。

 日本人は中東から、生命の樹信仰とともに山岳信仰を持ってきたのですかね。

だから、御神木崇拝もあるのだったりして。

ちなみに、生命の樹のセフィロトは次の通り。

なお、セフィロトは複数形で、単数形はセフィラと言います。

1番目のセフィラの、王冠と訳されるケテル

2番目のセフィラの、知恵と訳されるコクマー

3番目のセフィラの、理解と訳されるビナー

4番目のセフィラの、慈悲と訳されるケセド

5番目のセフィラの、峻厳と訳されるゲブラー

6番目のセフィラの、美と訳されるティファレト

7番目のセフィラの、勝利と訳されるネツァク

8番目のセフィラの、栄光と訳されるホド

9番目のセフィラの、基礎と訳されるイェソド

10番目のセフィラの、王国と訳されるマルクト。

そして3番目と4番目の間の隠された11番目であるセフィラの、知識と訳されるダアト。

至高の三角とは、ケテル、コクマー、ビナーからなる三角のこと。

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