« 2011年10月 | トップページ | 2011年12月 »

2011年11月

あえて科学者に苦言をいいます。科学者の常識とは?その3

科学者に辛口な意見をしばしば言いたくなるのは、修理など何らかの技術のいる仕事に携わってきた経験があるからです。

ひところ、絵を描いていたこともあります。

絵の方は趣味でしたけどね。

 じゃあ、直してばかりいたわけね。

 特に絵は…。

そうそう、絵はデッサンが狂うと…。

何言わせるのですか。

 でも、デッサンが狂うと犬を描いても馬に見えたりして。

そこまで、下手じゃないですよ。

修理と絵、どちらも観察をちゃんとできることが必要です。

 それと、技術ね。

科学者の言っていることややっていることは、技術の仕事をした目から見れば、呆れてしまうことが多いことに嫌というほど気づかされます。

再現に絶対必要と言われた条件を無視したり、この現象はこれを意味していると頭から決めつけたり。

 でも、新しい経験は、まず、従来の経験に照らして似たものを探すのではないですか。

確かに、似たものは探します。

けれど、それは解釈の参考にするために探すのですよ。

解釈とは、本質や原因を知るために、行う行為なのです。

 本質を知ることは、容易ではないでしょう。

だからまず、原因を突きとめるところから、始めるのです。

 デッサンが狂っていたら、狂っているところを描きなおす。

 犬を描いて馬に見えたら、全部描き直さないといけないけど。

そこまで下手じゃないですよ。

 バラとカーネーションの描きわけは、苦労するけど…。

バラには最近、いろいろありますから…。

 ほら、そうやってごまかす。

今回は、そういう話題ではないですから。

現象には必ず原因があり、現象の再現には条件の追及と確認、そして特定が欠かせません。

技術では、原因はたんに解釈のために知るのではなく、対策を講じたり、新しいことをするために知るのです。

原因があるのは、誤差と言えども例外ではありません。

まして似通った誤差や、なにかしらの傾向のある誤差が出たら、原因の特定は流れを辿れば見つけやすいとさえ言えます。

 ばらつきのある誤差は、原因を突きとめるのは簡単ではないでしょ。

ばらつきがある場合は、複数の原因が考えられるので、突きとめるのは簡単ではありません。

予想できる場合を、丹念に探す必要があります。

時間に余裕があれば、徹底的に調べるが、そうでない場合は、影響を減らすほうを考える必要が出る場合もあります。

実験に誤差は付き物だから多少の誤差は無視するという発想では、技術の世界では生きていけません。

 細かいことにとらわれていると、全体的傾向を見落として、法則に気づかないという事もあるでしょ。

 科学は、近似的な法則を見つけ、研究を重ねて修正を重ねながら、より実態に即した法則に修正するのでは。

 そこで、多少の誤差には目をつぶる習慣があるのかも。

無視できるのは、狭い範囲でばらつきのある誤差ですよ。

目盛の見方で、どうしても多少の誤差は出ます。

デジタルでは、一見はっきりと数値が出るように見えるけど、ある大きさの刻みがあって端数切捨てや四捨五入をしているのです。

もちろんデジタルでも、その刻みの間隔を可能な限り狭めようとはしていますけどね。

 デジタルでも、誤差は出る。

当たり前でしょ。

どうやったら誤差を小さくできるか考え、どうしてもなくならないとき、あるいは時間に余裕がない時、支障が出ない範囲で影響を減らす手立てを考えるのです。

どういう条件下でどういう現象が起きたかを確かめ、原因を突きとめるのです。

そして、原因を突きとめたら解決の作業、故障であれば修理に取り掛かります。

ちゃんと現象に対処できたか、故障個所を修繕できたかは、原因をきちんと把握できたかにかかっているのです。

 狙った結果が出るためには、それなりの技術や手際の良さがいりますけどね。

当然でしょ。

でも、技術は理屈はどうあれ、形にさえなれば良いとも言えます。

どういう原理や法則があるか、調べるのは科学の仕事ですよ。

ただ、原理や法則を調べる科学と言えども、どういう条件下でどういう現象が起きたのかくらい、素直に見て欲しいですね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

トルコ

トルコと通称されるトルコ共和国は、アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる共和国です。

首都は、アナトリア中央部のアンカラです。

領有しているのは、西アジアの小アジアと呼ばれるアナトリア半島と東ヨーロッパのバルカン半島東端の東トラキア地方です。

北は黒海、南は地中海に面し、西でブルガリア、ギリシャと、東でグルジア、アルメニア、イラン、イラク、シリアと接します。

国土の95% はアナトリア半島にあるため、日本の公式見解としては中東の国として分類されています。

しかし現代では経済的・政治的にもヨーロッパの一員として参加し、コペンハーゲン基準ではヨーロッパに分類されています。

トルコ政府の公式見解では、自国をヨーロッパの国としています。

サッカー協会やオリンピック委員会などでは、ヨーロッパの統一団体に属しています。

また、NATO、欧州評議会、西欧同盟、南東欧協力プロセス、南東欧協力イニシアティヴ、欧州安全保障協力機構など諸々のヨーロッパの地域機関に加盟しています。

 トルコは、欧州安全保障協力機構の前身である、全欧安全保障協力会議の原加盟国の一つですよね。

ヘルシンキ宣言にも署名し、現在欧州連合(EU)へ加盟申請中です。

 宗教がイスラムなので、EU加盟はトルコの片思いになりそうだけど。

成り行きを注目しましょ。

トルコ語による正式国名は、 Türkiye Cumhuriyeti(テュルキエ・ジュムフリイェティ)、通称 Türkiye(テュルキエ)です。

公式の英語表記は、Republic of Turkeyで、Turkeyと通称されます。

Turkey(ターキー)は、七面鳥を意味する単語と全く同じ綴りおよび発音だが、文章の場合、国名の頭文字は大文字、七面鳥は文頭に来ない限り小文字のため区別されます。

 七面鳥が文頭にきたら、文脈で区別…。

当然でしょ。

英語など諸外国語では、トルコ共和国の前身であるオスマン帝国の時代から、Turkey, Turquie など、「トルコ人(Turk, Turc)の国」を意味する名で呼んでました。

でも、トルコ共和国の前身で、元来多民族国家であったオスマン帝国の側では「オスマン国家」、「オスマン家の王朝」などの名称が国名として用いられており、自己をトルコ人の国家と認識することはなかったといいます。

トルコ語で「トルコ人」を意味する Türk にアラビア語起源の抽象名詞化語尾 -iye を付した Türkiye は近代になってヨーロッパから「トルコ人の国」概念を逆輸入して考案された名詞だそうです。

第一次世界大戦後、国土が列強に分割され、ほぼアナトリア半島のみに縮小したオスマン帝国に代わって新しい政権を打ち立てた人々は、初めて Türkiye を国名としました。

かつてのオスマン国家は、他称においても自称においても「トルコ人の国」であるトルコ共和国となったのです。

Türk(テュルク)は、語源は明らかではないといいます。

 Türk(テュルク)、巻き舌音でr音が出たと見たら、シァ、シャ、スカ、スキ、ニァ、ニャ、などと元の音が似ていたかも。

 まさか、巻き舌音で破裂音化して頭のt音が出たので、実はアスカだったとか…。

 太陽神ラーの国で、ラーシァだったのが、南米でナスカとなり、日本でアスカとなり、ユーラシアの北方でロシアに転化したとか…。

想像するのは、自由ですよ。

アジアの語源自体が、太陽神ラーの国を指すラーシァの転化だった、なんて説も立ってしまうでしょう。

 フェニキア語で日の出の方角を意味するアスが、アジアの語源と言われるけど。

ちなみにフェニキア語で日没の方角を意味するエレブはヨーロッパの語源ですね。

 巻き舌で発音されるrは、子音が消えて母音のaが残り、アスは、アスアと転化しアジアと濁った…。

かつてエジプトにいた失われた十支族は、シルクロードに沿うようにしてアジア各地に散っているわけだから。

 そういえば、古代イスラエルでは聖書にアダムとイブの名前がある。

 イブには、エバと呼ぶ場合もあるけど。

アダムはラーダムで太陽神ラーの国、イブは陰に音が通じ日没を指すのだったりして。

それで、アダム=東、イブ=西となり、フェニキア語の東を指すアサと西を指すエレブになったのでしょうかね。

フェニキア人も、レバノン辺りからでた民族と見られていますからね。

 エジプトにいた失われた十支族は、シルクロードに沿うようにしてアジア各地に散っているわけだから…。

 アジアが太陽神ラーの世界に見えていても、不思議はないということでしょうかねえ。

アナトリアへの移住以前、Türk(テュルク)は中央アジアで暮らしていたトルコ人が、モンゴル高原を中心とする遊牧帝国、突厥を築いた6世紀ころにはすでに使われていた民族名だそうですけどね。

日本語名のトルコは、ポルトガル語で「トルコの」を意味する形容詞turcoに、漢字表記の土耳古は、この音を中国語で音訳した「Tǔ'ěrgǔ」に由来します。

面白いことにトルコ語と日本語に、共通語彙が複数あると指摘する人はいますね。

 一番有名なのが、イイ=(いい、良い)だとか。

外にもテペ(てっぺん、天辺)、ス(すい、水)、ヤク(焼く)などが、あげられると言いますよ。

あとトルコ語の母音は8個なんだけど、奈良時代の日本語も母音が8個で似てるそうですね。

 アジアの最西端と最東端で、ここまでの共通性があるのは決して偶然じゃないので、トルコ人は日本に親近感を持つのですかね。

語彙の異同は後代の文化圏によって異なるので、むしろ基本文法の異同に着目すべきでしょうけどね。

 トルコ語と日本語の文法の共通点は、感動的でさえあると言う人もいるようですね。

特に助詞、助動詞の用法などに、多くの類似が指摘できるという声もありますね。

日本語とトルコ語は、全品詞の並び方がほぼ一致してるらしいです。

 トルコ語と日本語の語順は、ほぼ同じなのですか。

 日本人がトルコ語を話す時は、日本の単語をそのままトルコ語の単語に置き換えていけば、一応ちゃんとした文になる。

そうらしいですよ。

ナラ=Nara=納刺という単語があるそうです。

ナラは、原トルコ語で『国』『邑』を意味するそうです。

 日本の奈良も、それが転訛した地名なのかその名残らしいと見る人もいますね。

最後に動詞が来るという特徴は、トルコ語、中央アジア諸語、モンゴル語、満州語、朝鮮語、日本語のウラル・アルタイラインは全部そうだという指摘もあります。

 ウラル・アルタイラインと十支族の足取り、重なって見えるのが面白いですね。

インドの印欧語族も、最後に動詞が来る順というから、歴史と照らしあわせると興味深いですよ。

現在のトルコ共和国では一般に、突厥の建国を以って「トルコの建国」と考えています。

歴史的にも、セルジューク朝のころから、イラクやペルシャと呼ばれた時代からイランの影響が強かったのです。

 イランとインドも、歴史を遡ると繋がりますね。

ペルシャは古代日本に深く関わる国だし、インドにも日本語の語源の一つとされる地域があります。

 現代の日本人の顔にも、ペルシャ系やインド系と現地人から見ても思われてしまう場合があるでしょ。

 どこかトルコ人が連想できる顔の日本人も、時折見かけるし。

古代から、ヒッタイト・フリュギア・リディア・東ローマ帝国などさまざまな民族・文明が栄えた地ですよ。

 トルコの国土の大半を占めるアジア側の小アジアと呼ばれるアナトリア半島と、トルコ最大の都市であるヨーロッパ側のイスタンブルは、古い歴史を持つのでしたね。

アナトリアは世界的にも歴史の古い土地で、紀元前18世紀にはインド・ヨーロッパ語族のヒッタイト王国が建国されました。

鉄器を最初に使用したというヒッタイトは紀元前14世紀には全盛期を迎えるが、紀元前1200年頃には海の民によって滅ぼされます。

紀元前9世紀にはフリュギア王国、紀元前7世紀にはリュディア王国がこの地に建国されました。

当時のエーゲ海沿岸地方は、ギリシア人によってミケーネ文明が開かれ、「トロイア戦争」で有名なイリオスは紀元前1200年頃までには繁栄していました。

 紀元前7世紀の地中海各地への植民が行われたマグナ・グレキアの時代には各地に植民都市が建設され、ボスポラス海峡に建設されたビザンティウムもその一つですよね。

アナトリア地域は紀元前6世紀にはアケメネス朝ペルシアの支配を受け、紀元前4世紀のダレイオス2世の頃に、マケドニア王国のアレクサンドロス大王に征服されます。

アレクサンドロス大王死後はセレウコス朝シリア、ペルガモン王国などの支配を経て、紀元前2世紀にはローマの属州となりました。

現在のイスタンブルとなるコンスタンティノポリスの名は、330年にローマ帝国の首都となったときビザンティウムが改名された時のものです。

コンスタンティノポリスは、395年にはローマ帝国が東西に分裂すると東ローマ帝国の首都として前代未聞の繁栄を見せます。

6世紀のユスティニアヌス1世の頃に、東ローマ帝国はローマ帝国の版図の大半を回復することに成功します。

その後、サーサーン朝との抗争やユスティニアヌス時代の征服戦争などによる財政破綻などから急激に衰退しますけどね。

7世紀初頭の皇帝ヘラクレイオスはサーサーン朝ペルシャに勝利したものの、勃興してきたイスラム帝国やスラヴ人の侵攻を受けて版図は急激に縮小し、守勢に転じることになります。

 現代のトルコ建国とされる突厥の登場は、アナトリアで、東ローマ帝国がイスラーム帝国と覇権を争っているころでしたね。

東方のアルタイ山脈の麓では突厥が柔然を滅ぼし、中央アジアに大帝国を築いたが東西に分裂し滅亡しました。

柔然(じゅうぜん)は、5世紀から6世紀にかけてモンゴル高原を支配した遊牧国家です。

『魏書』・『北史』・『南史』などでは蠕蠕(ぜんぜん)、『宋書』・『南斉書』・『梁書』などでは苪苪(ぜいぜい)、『周書』・『隋書』などでは茹茹(じょじょ)、『晋書』では蝚蠕と表記されます。

突厥は、その柔然の領土を中心に帝国を築いたのです。

突厥は、6世紀に中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家です。

もともとはジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んでいた部族で、柔然の隷属の下でアルタイ山脈の南麓へ移住させられ鍛鉄奴隷として鉄工に従事していました。

 トルファンは、現在でも石油、天然ガス、塩、石炭(煤)、芒硝、鉄、銅、アスベスト(石棉)などの鉱物資源が豊富ですね。

 アルタイ山脈も、金・銀・鉄・石炭・銅などの重要な鉱物資源の埋蔵で古くから知られている。

 突厥は、鉄の技術をどこで手に入れたのでしょうね。

遊牧民と金属加工技術は、スキタイもそうだけど、繋がりは深いですね。

552年に柔然から独立すると、部族連合である突厥帝国と呼ばれることもある突厥可汗国を建て、中央ユーラシアの覇者となったが、582年には内紛によって東西に分裂しました。

7世紀にイスラムの捕虜となったトュルク族はイスラム圏で遊牧生活を営むとともに、マムルークとして浸透していきました。

その中のオグズ族のセルジュークが、部族を糾合します。

一方で、西欧諸国やローマ・カトリック教会とも対立を深めます。

それまでの地中海周辺全体を支配する大帝国から、当時ギリシア人が多数を占めていた現在のギリシャ・トルコ周辺を中心とする国家へと変貌し、公用語もラテン語からギリシア語へと改められました。

この時代、現在のトルコに当たる小アジアは対イスラムの前線として、そして穀倉地帯として重要な役割を果たしていたのです。

9世紀から10世紀になると、東ローマ帝国は国力を回復させて再攻勢に出るようになり、11世紀初頭にはバルカン半島全土や北シリア、南イタリア、アルメニアなどを支配する大帝国として復活します。

しかし、11世紀半ば頃になると再び国力が衰え、東からテュルク民族の侵攻を受けるようになるのです。

 11世紀に、トルコ系のイスラム王朝、セルジューク朝の一派がアナトリアに立てたルーム・セルジューク朝の支配下だったでしょ。

1038年には、ホラサーンの支配を確立しセルジューク朝を樹立しました。

1055年にはトゥグリル・ベクがバグダッドに入城し、アッバース朝のカリフからスルタンの地位を授かりました。

セルジューク朝はスンナ派の庇護者としての正当性を得ると、西アジアのイスラーム圏の主導的立場となったのです。

1071年マンジケルトの戦いでセルジューク朝が東ローマ帝国を破ると、アナトリアに進出し、ルーム・セルジューク朝が誕生します。

ルーム・セルジューク朝の支配のもとでアナトリアのトルコ化、イスラム化が進行しました。

 1243年にはモンゴル族がイル・ハン国を樹立したのをうけて、セルジューク朝はアナトリアに中心を移したのでしたね。

首都をタブリースに置いたイルハン朝は、現在のイランを中心に、アムダリヤ川からイラク、アナトリア東部までを支配したモンゴル帝国を構成する地方政権です。

1256年あるいは1258年から1335年あるいは1353年まで、あったと見られています。

ムスリム、つまりイスラム教徒のトルコ人が流入するようになり、土着の諸民族とが対立・混交しつつ次第に定着していったのです。

 彼らが打ち立てた群小トルコ系君侯国のひとつから発展したオスマン朝は、15世紀にビザンツ帝国を滅ぼしてイスタンブルを都としたのでしょ。

セルジューク朝が滅ぶとアナトリアは、いくつかの君公国に分かれていました。

1299年にオスマンが開いたオスマン朝は順調に勢力を拡大し、3代スルタンのムラト1世はアドリアノポリスを占領し、ブルサから遷都したのです。

その後コソボの戦いでセルビア、ブルガリア、ルーマニアを支配下に置いた時期もありました。

さらにニコポリスの戦いでは、オスマン朝は神聖ローマ皇帝ジギスムント率いる十字軍を破っています。

バヤズィト1世は初めてコンスタンティノポリスの包囲を敢行したが、1402年アンカラの戦いで、東方からの征服者ティムールに敗れます。

オスマン朝は崩壊の危機に見舞われたが、その後メフメト2世の頃には国力を回復します。

コンスタンティノポリスを包囲1453年にこれを陥落させ、東ローマ帝国を滅亡させました。

さらに1517年にはエジプトのマムルーク朝を滅ぼし、イスラム教スンニ派世界の主導的地位を獲得したのです。

スレイマン1世の頃には1526年のモハーチの戦いでハンガリー王国を滅ぼし、征服しました。

1529年には第一次ウィーン包囲を敢行し、神聖ローマ帝国に肉薄しました。

1522年にはプレヴェザの海戦でキリスト教国連合を破り、地中海を「オスマンの海」としたのです。

 スレイマン1世の頃はオスマン帝国の絶頂期で、法制の整備、イェニチェリの改革や教育政策の充実、学芸の振興などが進んだのでしょ。

東はアゼルバイジャンから西はモロッコまで、北はウクライナから南はイエメンまで支配する大帝国を打ち立てたのです。

19世紀になると、衰退を示し始めたオスマン帝国の各地では、ナショナリズムが勃興して諸民族が次々と独立してゆきました。

スレイマン1世の死後、1571年にはレパントの海戦でスペイン艦隊に敗れ、オスマン朝はキリスト教勢力に初めて敗北を喫します。

レパントの海戦でスペイン艦隊に敗れたことをもって、オスマン帝国の衰退といわれるが、実際は地中海の制海権を維持していました。

しかし1683年の第二次ウィーン包囲の失敗後にはスレイマン1世以来の制度の変質が顕在化し、衰退に向かったのです。

18世紀初頭には西欧諸国との間で、良好な関係が形成されます。

チューリップ時代と呼ばれる平和な時代が到来したが、やがて、ハプスブルク君主国やロシア帝国などの中東欧諸国との戦争で弱体化を余儀なくされます。

18世紀後半には露土戦争の結果、クリミア半島をエカテリーナ2世のロシア帝国に割譲しました。

このような帝国の衰えに対し、セリム3世のように改革を実行しようとするスルタンも現れました。

改革の動きもイェニチェリの介入で失敗し、政局は混乱しました。

それでも、19世紀のはじめにはタンジマートと呼ばれる改革が実行され、さらに1876年にはオスマン帝国憲法が制定されるなど近代化が試みられます。

ところが、アブデュル・ハミト2世が専制君主制を復活させ反動化してしまいます。

この中で、バルカン半島の諸民族の独立運動とそれに対する列強の介入やロシアの南下政策などで領土は縮小します。

産業革命にも西欧の後塵を拝し、対外債務の増大や国民経済の窮乏化など国力は疲弊して行ったのです。

危機感を募らせた青年将校たちが統一と進歩委員会を結成し、「青年トルコ人革命」として知られる「憲法復活」などをスローガンに革命を起こしました。

この革命によって「汎トルコ主義」による近代化が推進されることになります。

「統一と進歩委員会」のエンヴェル・パシャは、ドイツ帝国と提携しロシアに対抗します。

第一次世界大戦では中央同盟側に参戦し、敗戦。オスマン帝国は崩壊することになるのです。

帝国は、第一次世界大戦の敗北により完全に解体されていきます。

帝国解体のとき、戦勝国の占領を嫌ったトルコ人たちはアンカラに抵抗政権を樹立したムスタファ・ケマル・アタテュルクのもとに結集して戦い、現在のトルコ共和国の領土を勝ち取りました。

1923年、アンカラ政権は共和制を宣言すると、翌1924年にオスマン王家のカリフをイスタンブルから追放して、西洋化による近代化を目指すイスラム世界初の世俗主義国家トルコ共和国を建国したのです。

 中華料理、フランス料理、トルコ料理は、世界三大料理と言われますね。

 いずれも、宮廷料理の伝統がある。

トルコ料理は、中央アジアにひろがるトルコ民族の伝統料理の要素と、ギリシャ、グルジア、シリア地方の料理の要素とが混じり合って独特の発展を遂げました。

中央アジアからアナトリア半島へ移動した歴史や、14世紀から20世紀の初めまではオスマン帝国として地中海周辺を支配していた歴史を反映した要素もあると言います。

現在のトルコを含め、バルカン半島、ギリシア、レバノン、イスラエル、エジプト、チュニジアなど地中海東部地域の国々は、おおむね共通した料理をもっています。

それでもトルコ料理の影響は、歴史を反映して、ギリシャ料理、レバノン料理、ブルガリア料理、ルーマニア料理などに顕著です。

トルコ料理の影響は、周辺のアラビア半島などのオスマン帝国が支配した地域にとどまりません。

モロッコ料理など北アフリカやロシアの料理、近年ではトルコ系移民の多いイギリス、ドイツにまで及んでいるといいます。

特徴として、中央アジアの食文化である羊を中心とした肉料理があります。

また、ヨーグルトやナッツ類を料理に使うこと、黒海、地中海などの海産物を利用すること、地中海周辺で取れるオリーブオイルを使用すること、アラビア周辺からひろがった小麦粉とアジアの主食である米の両方を使うなど、東西の食文化を融合させた多彩な素材、味、調理法を持つことも挙げられます。

もっとも、トルコの国内でも地域ごとに異なる特徴をもつ郷土料理もあるといいます。

北部黒海沿岸地域ではトウモロコシやアンチョビをよく使い、南東部ではトウガラシの風味が強いケバブ類を発展させており、西部では、特産のオリーブオイルの風味を活かした料理が多く、中央部の中央アナトリア地方では、パスタ料理が名高いそうです。

 トルコ料理も、日本人の好みに合うという話題は結構ありますね。

味の好みは、近いのかも知れないですね。

 地中海料理、全体として日本人好みの味なのでしょうかね。

少なくともこれまで見た地域は、日本人の好みに合うようですね。

トルコ料理を象徴するものに、メゼと呼ばれる前菜があります。

メゼの文化は、東地中海一帯に広く見られます。

ヨーグルトやチーズを使ったものから、オリーブオイルで作られた冷菜のメゼなど、いろいろあるけれど、素材のおいしさを生かしたものが多いと言います。

 素材のおいしさを生かす、日本料理に近いものがありますね。

非常に美味だそうで、特に魚料理レストランや居酒屋のメゼは種類の多さに定評があるそうですよ。

食事の作法としては、かつては手を使って料理を食べていたが、スープやプディングを口に運ぶためのスプーンは古くから存在したといいます。

 インドもそうだけど、ロシアも西欧化を取り入れるまで手で食べていたでしょ。

現在では西洋式のテーブルマナーの普及にともない、ナイフやフォークが使われるそうですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

生命の樹と鏡。生命の樹 その6

ユダヤ教神秘主義と呼ばれるカッバーラには、鏡像反転と言う考えがあるようです。

ここでいう鏡像反転とは、属性を逆にすることです。

 鏡像反転って、鏡に移して真逆にしたのを見るんですよね。

 陰を陽に、プラスをマイナスに、火を水に、天を地に、男を女に、などなど…。

天岩戸でウズメは鏡を天照に示すけれど、天照の正体は男神であることを暗示しています。

 天照国照彦…。

そうかも。

逆に男神であるにもかかわらず女神であるのは、イエスが今、姿を表しておられない陰の状態を連想できますね。

 キリスト教は死刑の道具である十字架を、シンボルにしていますね。

シンボルに掲げる教会は多いですね。

 十字架を鏡像反転するとイエスになるので、それはカッバーラ的に正しい訳ですね。

 十字架は死の樹として陰に対応し、イエスは生命の樹として陽に対応するのでしょ。

イエスは、贖いのために十字架で犠牲になってくださったとされています。

だが、イエスの贖罪の死は御父への忠誠の証という側面もあるようです。

アブラハムとイサクへの神の試しは、十字架のイエスの予型となっています。

 御父は、イサクを犠牲として奉げよとアブラハムに命じた以上、自らも御子に犠牲となることを求めたということ。

それもあるでしょうね。

イサクに儀礼的な死を体験させることで、イサクの子孫を聖別する意図もあったかもしれません。

 そうなると、イエスの贖罪の死に感謝し、イエスによってもたらされた救いを受けれるものは聖別されるという事でしょうか。

ただし、イエスの教えに正しく従ったかどうか、神に採点されて及第点をとる必要はあるのでしょうね。

 だから、最後の審判がある。

おそらく、そうでしょう。

イサクの代わりに仔羊が奉げられるが、この身代わりの仔羊こそ、やがてイエスの象徴の大事な一つとなります。

もっとも、贖罪の死を受け入れることはイエスにとって、人としての修業の締め括りでもあったでしょうね。

人々の苦難や苦悩をいくつも目の当たりにしたイエスの修業のなかで、不条理と死の体験が締め括りとなったのでしょう。

かつてヤハウエとして、天界から見ていただけの地上をイエスは身を持って体験なさったわけでしょう。

言い換えれば、地上で人として得た知識の集大成が十字架の死でもあったのでしょう。

 十字架を死の樹に対応させる限りにおいて、ですね。

死を体験して、人の一生についての一通りの知識をイエスが得られたことの象徴としての、十字架というわけかもしれません。

言い換えれば、知識の樹の象徴としての十字架となるのでしょうね。

そして、知識を生かしていく象徴としてのイエスは、知恵の樹としての生命の樹の象徴となるのでしょう。

 十字架を死の樹と言うなら、以前、死の樹を知恵の樹と言ったはずでは。

 それに、一般にも死の樹は知恵の樹とされています。

知っています。

混乱を避けるため、死の樹を善悪を知る知恵の樹として扱ってきたし、問題が生じない限りは、今後もそうするでしょう。

いま、あえて死の樹を知識の樹というのは、生命の樹との役割分担で相対的なことです。

 入れ子構造。

そういうことです。

生命の樹だけで、死の樹も含めたすべてを表すことがありますからね。

 生命の樹の鏡面対象が死の樹だから、生命の樹だけで間に合う。

そういうことでしょうね。

そうであれば、生命の樹が知恵の樹でないといけないでしょ。

 死の樹の知恵は、過去のものだから、それは知識に転化する。

料理のレシピは、新しく考案された時は知恵の塊かも知れないけど、教わる人にとっては知識でしょ。

 アダムとイブが手に入れたのは、神の知恵についての情報、つまり知識だった。

そういう事でしょうね。

それに対し、今現在を生きている私たちは知識を活用して、あるいは、応用して、知恵として使いこなさないといけません。

 分析と総合でいえば、分解に当たる分析が死の樹、組み立てに当たる総合が生命の樹。

 分析して知識を得、総合して知恵を得る、

だからあえて、生命の樹を知恵の樹、死の樹を知識の樹として扱い、今回の議論を展開するわけです。

人類の歴史は、知識として授かった神の知恵をいかにして使いこなすか悪戦苦闘してきた歴史でもあるでしょうね。

 十字架にイエスが貼り付けになっているシンボルも存在しますね。

 貼り付けされているので、これは陰陽の合わせ鏡であり、陰陽の結合も象徴しているのでしょ。

 阿吽なども陰陽の合わせ鏡となっているけど、陰陽の結合にはなっていない。

 また、ケルト十字も陰即ち死の十字架に対し、○が陽即ち生のイエスに対応し、完全な陰陽の結合となってますね。

四角だけでなく、十字もまた四方を指す意味では地の象徴になりますからね。

丸はもちろん天を表し、地を表す十字と対応して陰陽になりますね。

なお、地を陽、天を陰とするのが一般的ですよ。

もちろん、陰陽合一や、陰極まりて陽と陽極まりて陰から、天を陽、地を陰とおいて考える場合もあります。

 上を陽、下を陰とみれば、でも良いのでは。

それでは、地を陽、天を陰と見るのと合わないでしょ。

 陰に陽、陽に陰を配し、陰陽合一として太極となすように配してあると言っても良いでしょ。

よく、理解してますね。

カッバーラの鏡像反転とは、属性を逆にすることです。

 知恵の樹である死の樹は、鏡像反転すると知識の樹でもある。

 だから死の樹の鏡像反転としての生命の樹は、知恵の樹でもある。

知恵と知識は常に照らしあいながら、真理を示します。

鏡面反転は、この照らし合わせの象徴でもあります。

 エデンの園の中央には生命の樹と善悪を知る樹と、聖書にありますね。

善悪を知る樹を、善悪を知る知恵の樹と記す場合は、善悪を知るとは知恵のことだろうからと後から付け足した可能性はありますね。

そして、善悪を知る樹の実を食べたアダムとイブは死ぬ運命となるのですね。

つまり善悪を知る樹は死の樹なので、生命の樹と死の樹、知恵の樹と知識の樹、と言う風に対になります。

 知識は過去、知恵は未来でもあり、方向性でも鏡面対象と言えるでしょう。

そうですね。

善悪を知る樹の実を食べるとは、神の与えてくれる知識を手に入れたことに相当するでしょう。

 知識には、知恵という意味や側面もあると、辞書を引くと出てくるけど。

だが、神の知識を手に入れても、神のごとくに使いこなせないと本当の意味で神の境地には近づけないのではないでしょうか。

だから論語にも、こうあります。

学んで思わざるは即ちくらし思うて学ばざればあやうし

学んでも理解が不十分ならものが正しく見えず、理解が正しくできても知識が不十分なら判断を誤る、という事です。

良く知る者はよく理解するとは限らず、よく理解するものは良く知るとは限りません。

 神の知識を得ることは、学びの段階に過ぎない。

 十分に理解するためには、正しく解釈できないといけないが、それには十分な思索も必要…。

それも、ちゃんとした指導と援助を受ける方が良いでしょう。

 謙虚に祈れば、教えてもらえる。

聖書にはこうあります。

求めよ、さらば与えられん。

尋ねよ、さらば見出さん。

門を叩け、さらば開かれん。

さらに、神は気前の良いお方ともあります。

本気で知りたいと祈れば、気づかせてくださるでしょうね。

生命の樹を上るとは、神から授けられる知識を使いこなせるような知恵を学び取っていくことでもあるのでしょう。

創世記の3章4節から3章6節と3章22節からから3章24節には、こうあります。

へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。

主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の樹からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。

そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。

神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の樹の道を守らせられた。

聖書には、彼は手を伸べ、命の樹からも取って食べ、永久に生きるかも知れない、とあります。

そこで、命の樹、つまり生命の樹は永久の命を得られる樹であり、善悪を知る樹は知恵の樹でもあると、見なす人も出てきます。

 命の樹、つまり生命の樹は永久の命を得られる樹なのは、確かでしょ。

ええ、その通りです。

また、善悪を知る樹は知恵の樹でもあるのは、ある意味正しいでしょう。

 全く理解しないで、覚えることはできないから。

 覚えてないことを、知っているとは言えないですね。

だが、知るのであって、知ったことを的確に理解し、判断することは別です。

 名前や顔を知っていても、どんな人か、までは分かっていないようなこと…。

科学者は何かを理解しようとするとき、まず、データを集めます。

データとは、物事の推論の基礎となる事実や、参考となる資料・情報のことです。

少量のデータでは見えないことも、膨大な量を集めれば見えてくることがあるのは事実です。

けれど、それはまだ仮説の段階です。

仮説を用いて予測を立て、その予測を実証できる実験やあらたな観測や観察を行います。

それを繰り返して、一歩一歩真理に近づくのです。

仮に神の段階に達しえるだけの、質と量のデータを手に入れたとしても、それが何を意味するか理解し、正しい予測が立てられないなら、知恵が神の領域に達したとはとても言えません。

 最上位である熾天使(してんし)であったとされるルシフィルの転落は、神に匹敵する知識を得ながら使いこなす知恵が神の域に達していないのに勘違いしていたことによる。

そうかもしれません。

神の領域に達するに必要な理解力を手に入れるには、生命の樹を、間違えることなく上っていく必要があるのでしょう。

 本質や、裏面まで、きちんと理解できるように。

 それで神は生命の樹を、容易に近づけないよう守られたのですね。

理解する能力が知恵であり、それで生命の樹は知恵の樹でもあるのです。

もちろん、永久の命を得られる樹でもあるけど。

 それであえて、善悪を知る樹=死の樹=知識の樹、永久の命を得る命の樹=生命の樹=知恵の樹と、議論を単純化している。

議論は単純化したほうが、わかりやすいでしょ。

 本当はもっと、込み入ってるけどね。

知ったことを整理して知識が得られるが、その知ったことを整理していく能力が知恵なのです。

そのため、知識と知恵は混同されやすいのです。

知識には知る行為と、得られた情報の意味の双方が入っています。

つまり、知識とは研究でいえば情報収集能力に当たると言えます。

それに対し知恵は情報分析能力に相当します。

なお、総合は分析と表裏一体と言えるので、今回は分析にまとめました。

 物理でいえば、知識が実験物理、知恵が理論物理というところでしょ。

しかし、知恵は情報の整理や分析の能力だけに限定されません。

知恵のもっとも大きな役割が、情報活用能力です。

まとめると知恵とは、情報の整理・分析・活用の三つの能力の総称と言えるでしょう。

一方の知識は、収集・蓄積・継承となるでしょうね。

 そうなると、知識と知恵を纏めると。

収集(知識)・整理(知恵)・蓄積(知識)・分析(知恵)・継承(知識)・活用(知恵)という順でしょうね。

この過程を果てしなく繰り返して、知識も知恵も限りなく神の境地に近づいてゆくことになります。

この循環こそ、無限に続くとされる生命の樹として表されていることかもしれません。

 なるほど、知恵の樹である生命の樹と知識の樹である死の樹を、行ったり来たりしてますね。

 下降と上昇を繰り返している…。

これが、生命の樹と死の樹の鏡面対象と呼んでいることの理由の、少なくとも一つかも知れないですね。

 だから、生命の樹と死の樹を照らし合わせてみろと、言うわけでしょうか。

そうかも。

鏡で反転させることで、何が相対する位置にくるかわかるわけです。

 相対する事柄の間に生じる、相生と相克、統一と対立の関係にある事柄もまた知ることができる。

 相対する事柄の内容がわかれば、解決すべき点もまた見えてくる。

そして生命の樹を上るとは、知識を深めつつ、情報の整理・分析・活用の三つの能力を神の領域を目指して高めていくことでもあるのでしょうね。

 そうなれば、知識の収集・蓄積・継承の三つの能力も神の領域を目指して高めていくことが可能になる。

 理解を深めれば深めるほど、知識を高めれば高めるほど、知恵も知識も永久に生きた人と同じ水準に限りなく近づいていく。

そういう事かも知れないですね。

カッバーラは象徴体系であって、知恵や知識その物自体は、形がないですからね。

 わかりやすさのために、樹の実として表現している。

そういう事でしょうね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

光には本当に質量がないか。

科学者は、光は質量がゼロである、と主張します。

光の速度は、真空中で299,792,458m/s、大雑把にいうと30万キロメートル毎秒です。

そして、基本的に光速度はどこでも同じとされます。

真空中という、但し書きはつきますけどね。

 つまり、光は常に等速度であって、加速も減速もしていない。

アインシュタインは、重力と加速度は区別できないと、指摘したでしょ。

 じゃあ、光は無重力の中を進んでいるのと、同じってこと。

そうなるでしょうね。

 無重力下では、秤に載せる形はできても、実際は並べたのと同じなのでその方法では重さを量れない。

そうなるでしょうね。

そこで、無重力下で重さをはかるには、加速度を与えるしか方法がないのです。

加速度と加える力を揃えれば、比較できる数値が得られます。

地上で重さを比較できるのは、地上ではほとんどどこでも同じ大きさの加速度として重力が振る舞うからです。

質量に加速度を加えれば、動きやすさ、あるいは、動きにくさ、という形で質量は調べられます。

 止めやすさ、止めにくさ、という形でも、質量は調べられるよね。

質量の大きさは、重量の値という形で測定できるわけです。

 秤による重量の測定は、重力による加速を止めるのにどれだけの大きさの力が必要かを調べているわけよね。

そうなるでしょうね。

光電効果は、光の質量測定を電子の動かしやすさとして行っていると見ることができるわけです。

 光の波長が短いほど、電子は動きやすい。

 波長の短さがある限界を超えると、電子は飛ばされてしまう。

 光電効果は、電子が光の質量による衝撃を受け止めきれずに飛び出す現象を利用して、光のエネルギーを電気に変えている。

そう見るのは、自然でしょ。

光には、圧力があります。

光、つまり、電磁放射を受ける物体の表面に働く圧力は、放射圧(radiationpressure)と呼ばれます。

輻射圧や光圧とも呼ばれます。

放射圧の大きさは、放射が物体に吸収される場合には入射するエネルギー流束密度を光速で割った値となります。

 エネルギー流束密度とは、単位時間に単位面積を通過するエネルギーでしたね。

放射が完全反射される場合には、エネルギー流束密度は2倍の値になります。

例えば、地球の位置での太陽光のエネルギー流束密度は1,370W/m2なので、その放射圧は太陽光が吸収される場合には4.6μPa(マイクロパスカル)となります。

Pa(パスカル)は国際単位系(SI)の圧力や応力の単位で、その名前は、圧力に関する「パスカルの原理」に名を残すブレーズ・パスカルに因みます。

μPa(マイクロパスカル)は、圧力や応力の単位Paの1000分の1の大きさという事です。

1871年にジェームズ・クラーク・マクスウェルによって、物体の表面に電磁波が当たると入射面に圧力が働くという事実は、理論的に導かれたのです。

1900年のピョートル・ニコラエヴィッチ・レベデフに次いで、1901年にはエルンスト・フォックス・ニコルスとゴードン・フェリー・ハルによって実験的に証明されたのです。

放射圧は非常に弱いが、反射性の金属でできた羽根を微妙な釣り合いの状態に置いて放射を当てると検出することができるです。

この原理を利用するのが、ニコルス放射計です。

 ニコルス放射計は、夏目漱石の『三四郎』に登場する光の放射圧を測定する実験装置よね。

放射圧は、波長が短いほど大きくなります。

これを、放射圧は放射のエネルギー密度と同じ次元を持つというです。

 ここでいうエネルギー密度とは、単位時間に単位面積を通過するエネルギーという意味で、エネルギー流束密度という事かしら。

そう見て良いでしょうね。

波長は短いほど、エネルギー流束密度は大きくなると言って良いですね。

 放射や輻射を語る場合、黒体というのをよく聞きますね。

完全放射体とも呼ばれる黒体(blackbody)とは、外部から入射する光、つまり電磁波による熱放射などを、あらゆる波長に渡って完全に吸収し、また放出できる物体のことです。

完全な意味での黒体である完全黒体は、現実には存在しないとされます。

でも、ブラックホールなど近似的にそうみなせる物質、物体はあります。

現在、工業的に作り出された最も黒体に近い物質は、紫外線(UV-C)から可視光線、遠赤外線(F-IR)までの広い波長域で99%の光、つまり電磁波を吸収するカーボンナノチューブ黒体です。

カーボンナノチューブ黒体が吸収できる範囲は、波長でいうと、200nm(ナノメートル)から200µm(マイクロメートル)の間になります。

nm(ナノメートル)は1億分の1メートル、µm(マイクロメートル)は1000ナノメートルです。

 1000ナノメートルは、いいかえると0.001ミリメートル、確かに幅広いですよね。

 これでも、完全な意味での黒体ではない…。

物体が黒体放射にさらされていて放射と物体表面が熱平衡状態にある場合、その放射のエネルギー密度はシュテファン=ボルツマンの法則より、σT4/3cに等しくなります。

この式の、σ(シグマ)はシュテファン=ボルツマン定数、cは光速、Tは空間の絶対温度です。

シュテファン=ボルツマン定数は比例定数なので、絶対温度の4倍に比例するよと言っているくらいに思ってください。

エネルギー密度の1/3は、国際単位系では6.305×10-17T4J/(m3K4)となります。

一様・等方な放射で満たされた空間の中に置かれた物体の表面に働く放射圧の大きさは、その空間の単位体積当たりの全放射エネルギーの1/3に等しくなります。

これは電磁気学・量子力学・熱力学のどの場合でも、放射自身の性質に関係なく示すことができます。

これが、圧力の単位であるパスカルで表した黒体放射の放射圧の大きさとなります。

太陽系内の惑星間空間では、放射のエネルギー流束の圧倒的大部分は太陽に由来します。

このように放射が一方向からのみ当たる場合、放射圧の大きさは等方放射の場合の3倍。

 3倍、縦横高さの3次元ということかしら。

そう見て良いでしょうね。

放射圧の大きさは放射が一方向からのみ当たる場合、σT4/cとなります。

これに加えて物体が放射を完全反射する場合にはさらに2倍。

すなわち、2σT4/cとなります。

例として、温度が沸点が絶対温度Tで373.15Kの水が放射する黒体放射の放射圧は約3μPaです。

 放射圧と言えば、ソーラーセイルが計画されているね。

宇宙機の推進機構の一種として提案されているソーラーセイルは、太陽からの放射圧を動力として用います。

2005年に惑星協会によって打ち上げられたコスモス1は、ソーラーセイルを搭載していたのです。

打ち上げは失敗に終わっています。

2010年にJAXAで打ち上げたIKAROSは、世界初のソーラーセイル実証機となったのです。

惑星間空間内のある場所での放射温度が沸騰する水の温度に等しい場合、その場所を飛ぶソーラーセイルに働く放射圧は約22μPaに過ぎないです。

しかしこのように微小な圧力であっても、気体イオンや電子などの粒子にとっては十分大きい訳です。

気体イオンや電子などの粒子に影響を与えるには十分な大きさなので、放射圧は太陽風に含まれる電子流や彗星物質の理論などで重要な役割を占めています。

恒星内部は、非常に温度が高いと見られています。

現在の恒星モデルによると、太陽の中心温度は約1,500万Kで、超巨星の中心核では約10億Kを超えるとされています。

放射圧の強さは温度の4乗に比例して増加するため、このような高温の環境では放射圧は非常に重要です。

太陽では放射圧は気体の圧力に比べてまだかなり小さいが、大質量星では放射圧が星の圧力の大部分を担っています。

止めやすさ、あるいは、止めにくさ、という形でも、等速直線運動であれば質量の大きさは調べられるはずですね。

 加速度と重力は、区別できないからですよね。

重力は、大きさに無関係に等加速度です。

 そして、電磁波と重力波が同じ形式の式でしたね。

ならば、重力も波長に無関係に等速度と言って良いはずでしょ。

 そういえば、電磁波は波長に無関係に等速度ですよね。

光は、波長によってエネルギー流束密度が変わるのですよね。

だったら、重力もこういえるはずです。

重力は、波長によってエネルギー流束密度が変わる。

質量が小さければ受け止められるが、質量が大きければ受け止めきれずに飛ばされる。

波長が長ければ受け止められるが、波長が短ければ受け止めきれずに飛ばされる。

つまり、こういう関係が見えるのでしょ。

波長が長い=質量が小さい。

波長が短い=質量が大きい。

ここから導かれる答えは、光、すなわち電磁波は波長の大きさで質量が変化するということではないですか。

E=mC²

この式はこう変更できます。

m=E/C²

この式は、光のエネルギーでエネルギー量を割ると質量が得られるという意味です。

しかし、こうも言えるのです。

E/C²=m

エネルギーは大きさに見合った質量をもつ。

そして、実際に電磁波では波長の大小は質量の大小として振る舞ったのです。

プラズマは、宇宙に存在する全物質の99.9999999999・・・%を占めています。

宇宙全体を、暗黒エネルギー(ダークエネルギー)を約70%、暗黒物質(ダークマター)を含めた物質を約30%、にした場合にうまくいくとされています。

だったら、暗黒エネルギーをプラズマのエネルギーと置き換えたらどうでしょ。

暗黒物質(ダークマター)を含めた物質は、プラズマの波長のエネルギーの質量を含めた物質量と見ても良いと、なるのでしょ。

 なるほど、プラズマ宇宙論はダークマターもダークエネルギーも想定しないわけですからね。

でしょ。

追記

光の質量については、この記事でも考察しています。

マイケルソン=モーリーの実験を、見直してみると?

| | コメント (11) | トラックバック (0)

nationの語源を想像してみた。

nationとは、しばしばこれらの意味で使われる言葉です。

国や国家。

なお、国民つまりpeopleの意味で使われる場合は、集合的に単数形で複数扱いとなる。

民族や、種族。

ただし、言語・宗教を同じくするが1つの国家にまとまっているとは限らない。

ところで、nationの語源をどう見ますか。

 tionは「接尾語」のひとつであって、動詞を名詞にするものですよね。

 そこで、tionが最後についているものはすべて名詞です。

 意味としては、「状態・動作・関係・結果」の意味の名詞を作るものだと説明されています。

そうなると、naは動詞なはずですよね。

 ところが、naという動詞はないですね。

naを、否定を意味するnoと語源を同じと見たらどうなるでしょう。

 否定している状態を、nationと呼ぶ。

 ほかの誰でもないとか…。

このnaを、夜を表すnightと比べてみたらどうでしょう。

 暗いnightに対して明るいlight。

 閉じる感じの音のnightと、開く感じの音のlight。

 nの音には、閉じる感じがあるので、しばしば、否定を意味する言葉に使われますね。

共に夜を過ごす者たちということが、もともとのnationの意味だとしたらどうでしょう。

 そういえば、定住人口、あるいは居住人口とほぼ同じ意味で夜間人口と言いますね。

 ある地域に常住する人口が夜間人口、つまり日常的にある地域で寝ている人の人口ですね。

民族や、種族の意味でnationという場合、言語や宗教を同じくする人達という事ですよね。

共に夜を過ごす人たちが、最低限、言語を同じくしないと秩序は保てないでしょ。

 そして古代になればなるほど、宗教は種族や民族の単位で信仰されましたね。

神の移動は、信者の移動であり、それはしばしば民族の移動を意味したようですね。

国は、時代を遡れば遡るほど、種族を単位とするようになるでしょ。

 大きな国家もあったが、大抵は種族連合であったり、複数の種族を纏める権限を委ねられた王がいたりした。

そして、大きな古代国家はある種族や民族が、自分の移動の安全を確保するために他の種族や民族の国家を従属させたわけですよね。

 結果として、従属させられた人々にとっても、移動の安全が保障されてある程度の利益になったけれど。

たとえ、言葉や宗教の自由を保障されても、異民族支配には変わりないでしょ。

 そこで、中心的な民族の力が弱まると、すぐに主導権争いになってバラバラになってしまう。

とはいっても、その過程で言葉や宗教を同じくする人々の集団は次第に大きくなっていくわけですね。

生産手段の発展とともに、古代から中世に向かい、さらに大きくなった生産力を背景に王権も力を増していくことになります。

 ただし、皮肉なことに、中世の帝国って、古代より範囲が小さくないですか。

古代は生産力が比較的小さい分、帝国を広げないと多くの富が集まらないという側面もあったのでしょうね。

中世は生産力が増した分、近場で集めても多くの富を手に入れられるようになった分、帝国をそれほど広げないでも良くなったのかも。

 もっとも、資本主義が成立した近代ともなると、発展した生産力の産物の販売先と必要な原材料を求めて再び帝国は巨大化していくけど。

生産力の増した分人口も増えるから国自体も、古代より面積が大きくなるのは確かでしょうね。

 そして、国家が大きくなり、生産力の増大は次第に量産品も増やすことになる。

 量産品の増加は、自分たちの好みが似ていることを人々に自覚させることになり、民族意識は高まっていく。

 民族の伝統的意匠はあったけれど、量産化はさらにその特徴の共有を意識させることになっていったでしょうね。

さらに、産業革命は飛躍的的に生産力を増やし、市場はさらに拡大するとともに、中世以上に日常化したでしょうね。

 民族は時代とともに確立していったが、民族国家は近代とともに生まれたと言われる理由もこのあたりにありそうですね。

 nationと似た意味で使われるのが、stateですよね。

ただし、stateには、国という以外の意味合いも強いですね。

単数形でつかって、状態やありさま、ようすとか様相のほか、事態、事情、形勢、さらには情勢や様相を表す場合もある。

時には、精神状態を指すことさえある。

社会上の地位や身分、位置、階層、階級なども表し、特に高位の人を表す用法もある。

高い身分とか富者にふさわしい威厳や威儀のほか、豪奢やもったいぶり、さらには荘厳を意味したりする。

特に主権を有する国家や国、時にはchurch(教会勢力)に対する国家を指したり、中央政府を意味したりする。

そうかと思えば、米国・オーストラリアなどの州や、州当局、州政府の意味に用いたりもする。

アメリカ人などは、USAの略称としてstateを使ったりする。

ほかにも、現段階の状況とか、作業などの進行状態、スポーツの得点やスコアを指したりもする。

そして、形容詞として用いる場合もある。

ちなみにstateの語源は、ラテン語で立っている状態を表すstatusだそうです。

つまり、立っている状態から、留まっている状態を指すようになり、さらに、留まっている場所へと意味が拡大されたのでしょう。

 そうなると、nation stateとは、民族の留まる場所となり、自他ともに承認されないと成立しないことになりますね。

 イスラエルはパレスチナ国家の樹立を引き延ばそうとしているけれど、入植を進めていることと合わせると、イスラエルに帰化するか、ここから出ていくかどちらかにしろと言いたいのでしょうか。

あまり考えたくないけど、彼らの行動はそう見えますね。

平和を手に入れたいなら、共存の道こそ模索して欲しいですね。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

もっと、素直に報告見なさいって。科学者の常識とは?その2

ニュートリノの超光速移動の可能性を、3年以上にわたり1万5000回実施して見つけたとする実験に、衛星による位置測定の精度に様々な議論を言う人がいます。

なかには、有名大学の研究者までが名を連ねてます。

たとえばこれは、コーネル大学です。

Cornell University
http://arxiv.org/abs/1110.2685

Time-of-flight between a Source and a Detector observed from a Satellite
Ronald A.J. van Elburg

(Submitted on 12 Oct 2011 (v1), last revised 17 Oct 2011 (this version, v3))
Michelson and Morley showed that an interference pattern is reference-frame independent.

However, the distance between a particle's production and detection site is reference-frame dependent due to Lorentz contraction and detector movement.

For the OPERA experiment detector movement in the satellite reference frame leads to corrections which can account for most of the $\pm 60$ ns discrepancy between expected and observed time of flight.

ここでは、ローレンツ収縮などの相対理論的事情を考慮していないのではないかという疑問が述べられています。

 だが、当人たちがこの種の疑問を抱かずにこの実験を3年も続けたのでしょうか。

 現象にすぎないとして説明できないのを、ごまかしていないでしょうか。

 批判が事実なら、もっとばらつきが出るか、高い頻度で差が出て、これほどの回数調べずとも報告にあったのと似た結果がでるのではないでしょうか。

ニュートリノの超光速移動の可能性を確かめるのに、3年以上にわたり1万5000回の実験が必要だったのは、再現性に乏しかったからと反論されたら批判している人はどう言い返すつもりでしょうね。

 言い換えれば偶然性に結果が左右されたと、言える。

にもかかわらず、似通った数値しかでなかったなら、有意の差の可能性を疑うのはごく自然な判断でしょう。

繰り返して言うが、多くの研究者はこの報告結果を文字通り、ニュートリノが超光速移動をした結果であると、受け取ってしまっているのですよ。

我々は、地上から東から昇り西に沈むように見える太陽と月を、何世紀にもわたってみてきました。

もしも、おかしな向きに天空を移動する星が観測されていなかったら、太陽中心説や地動説に気づくのははるかに遅れていたでしょう。

 実際は、周転円などを考えないと地球中心説や天動説は説明不能に陥ったわけですよね。

太陽中心説や地動説に軸足を移して、はじめてすっきりと天体の動きは説明できたわけです。

現代の私たちも、現象に惑わされて地球中心説や天動説と同じ水準の勘違いに陥っていないと自信を持って言えるでしょうか。

素粒子研究のこれまでの知見は、言ってみれば、量子研究に現代版の周転円を生み出していないと言えるでしょうか。

これまで、多くの成功例を齎してきた立ち位置から軸足を移すのは、確かに決意がいるでしょう。

 観測結果が何を語りかけているのか、もっと素直に見た方が良いと思いますね。

ニュートリノが光より60ナノ秒(1億分の6秒)速く進むようにみえる測定値がでたと言って、他の数値は言っていないのですよ。

そして、この数値にばらつきや間違えはないか、再現性があるか、確かめるために3年以上にわたり1万5000回も実験をしているのですよ。

3年以上にわたり1万5000回も実験しないと再現性のないという事実、そして、60ナノ秒(1億分の6秒)という差が測定にかかる事実を、報告に対する疑問と批判を言う人はどう説明するのでしょう。

この疑問に納得のいく実験結果否定派からの説明を聞かない限り、この報告結果を間違えだったと私は言い切ることはできません。

ニュートリノが超高速で移動するわけないと言いたいのは、私も同じです。

だが、こういう報告が出た以上、超高速で移動するわけがないのに、どうしてこういう結果が出るのか、なぜ、真正面から解釈や説明をしようと、報告結果を批判する人たちは試みないのでしょう。

追記

asahi.com2011年11月18日19時23分
http://www.asahi.com/science/update/1118/TKY201111180425.html

「光より速い」ニュートリノ、再実験でも超光速

 素粒子のニュートリノが光より速いという実験結果を9月に発表した国際共同研究グループOPERAが17日、精度を高めた再度の実験でも、同じ結果が得られたと発表した。

 実験は、スイス・ジュネーブ郊外にある欧州合同原子核研究機関(CERN)の加速器から人工的に作りだしたニュートリノを打ち出し、約730キロ離れたイタリアの研究所の検出器に到達するまでの時間と距離を測定している。

 10月下旬から11月上旬にニュートリノが発生する時間をより厳密に測定したところ、同じ結果が得られたという。
ただ、場所や距離の測定に全地球測位システム(GPS)を利用している点は前回と変わらない。
このGPSの精度を疑問視する指摘もあることから、研究グループでは「実験方法に関する疑問の一つは排除できたが、最終的な結論に達したわけではない」としている。(ワシントン=行方史郎)

追記2

実験結果に依拠して異論は唱えているけど、これも、なぜ報告された現象が起きたかについての検討を避けている点では同じです。

さらにいえば、再現して報告された現象の原因を調べる気が本当にあるのって感じです。

Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111121-00000669-reu-int

「光速超えるニュートリノ」に異論、伊チームが論文発表

ロイター 11月21日(月)14時14分配信
写真
写真はグランサッソ研究所。提供写真(2011年 ロイター)

 11月19日、イタリアのグランサッソ国立研究所の研究チームは、ニュートリノが光より速く移動することを示す観測結果が得られたとしていた国際実験チームの報告に異議を唱える論文を発表した。

 [ジュネーブ 20日 ロイター] イタリアのグランサッソ国立研究所の研究チームは19日、素粒子の一種であるニュートリノが光より速く移動することを示す観測結果が得られたとしていた国際実験チームの報告に異議を唱える論文を発表した。

 イタリア国立核物理学研究所(INFN)や名古屋大や神戸大なども参加する国際実験チーム(OPERA)は9月、スイスのジュネーブ郊外にある欧州合同原子核研究所(CERN)から発射したニュートリノが、約730キロ離れたグランサッソ国立研究所の検出器に到達するまでの時間と距離を測定した結果、ニュートリノが光より60ナノ秒(1億分の6秒)速く進むことを観測したと発表。
先週には、再実験でもそれを確認したとしていた。

 これに対し、グランサッソで同様の研究を行う別の実験チーム(ICARUS)は、「OPERAの実験結果における超光速の説明に反証する」内容を確認したする論文をウェブサイトで発表。
2人の米著名物理学者が最近発表した研究内容に基づき、CERNから発射されたニュートリノは、ほんのわずかでも光速を上回るスピードで進んだとすれば到着時点でエネルギーのほとんどを失っているはずだが、ICARUSの測定では、光速で移動する素粒子とエネルギースペクトルが完全に一致したとしている。

 アインシュタインが1905年に発表した特殊相対性理論では、質量を持つものは光よりも速く移動できないとされた。
OPERAの観測結果はこれに矛盾するもので、宇宙の成り立ちをめぐる定説を覆し、タイムマシンや異次元の存在も可能になるとして注目を浴びていた。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

ニュートリノの超光速は波動の悪戯か。

一つの報告が、科学に衝撃を与えています。

超光速を、光以外の物質で観測したというのです。

その報道の一つを挙げましょう。

超光速、本当か 「光より速いニュートリノ」専門家慎重

朝日新聞デジタル2011年9月26日03時00分
http://digital.asahi.com/articles/TKY201109230528.html

イタリア・グランサッソの地下にあるOPERAの検出器=研究グループ提供

ニュートリノが飛ぶ速さを測る実験方法

フランスにあるCERN(欧州合同原子核研究機関)の施設から発射したニュートリノビームを、730㎞先にあるイタリアのグランサッソで受ける。

原子時計が設置された二地点の位置は、GPS衛星で確認されている。

そして、打ち出されたニュートリノが地中を移動した距離と時間差を精密に計算して速度を計算する。

 光より速いニュートリノの発見が事実ならば、特殊相対性理論の前提を否定する「世紀の大発見」になる。
だが、多くの専門家は「ひとつの実験結果だけでは信じられない」と慎重な見方を示している。

 研究グループに参加する名古屋大教養教育院の小松雅宏准教授(素粒子物理学)は「研究グループで厳密に分析を重ね、内部でやれることはやり尽くしたうえ出した結論だ」と話す。

 今回の発見について、欧米メディアも速報した。
「確認されれば、革命的な発見」「衝撃的。我々にとっては、大問題になる」「物理学者は新たな理論を構築する必要に迫られるだろう」と世界中の物理学者らの驚きの大きさを紹介。
だが、いずれも「もし、本当なら」との条件つきだ。

 神戸大の松田卓也名誉教授(宇宙物理学)も「事実ならば、画期的な発見。ただ、素直には信じられない」と話す。

 アインシュタインの理論では、光速を超える物体は「虚数の質量」を持つことになり、その上では時計が未来から過去へと普通とは逆に進む。
結果から原因が生まれることになり、「不可能」とされる未来から過去へ旅するタイムマシンの基礎となる。

 ただし、懐疑的な見方も多い。長島順清・大阪大名誉教授(素粒子物理学・高エネルギー物理学)は「過去100年にわたって何の矛盾もなく、あらゆる分野で証明されてきた定説が、たった一つの実験で否定されても誰も信用しない」。
これまでも相対性理論に反する「光速を超えたのではないか」との報告はあった。しかし、よく調べるといずれもそうではなかった。長島さんは「別の実験法で複数の機関が追試することが必要」と指摘する。

 今回の実験については、研究チーム内でも正否への意見が分かれ、論文に名前を連ねることを辞退したメンバーがいる。
丹羽公雄名古屋大名誉教授もその一人。
「実験そのものの精度は確かだが、ニュートリノの速度を決めるのに必要な飛行距離と飛行時間の基準を全地球測位システム(GPS)に頼っている。GPSの精度が、このような精密測定実験に堪えうるのか検証が必要」と話した。(鍛治信太郎、松尾一郎)

■科学者たちは公開討論を

 現代物理学の根幹を揺さぶるような実験結果が出た。
物質が光より速く飛んだというのである。
科学界には懐疑論が根強いが、素粒子探究の世界拠点の一つが発信した公式発表なので議論が広がるのは必至だ。

 20世紀に確立した物理学の2本柱は、相対論と量子論だ。
アインシュタインが1905年にまとめた特殊相対性理論は、光速を超えるものはないことを土台に組み立てられている。

 これは「原因があって結果がある」という日常の常識(因果律)を支えるおきてであり、それを破るという想定でタイムマシンSFの着想が生まれたりしている。

 今回は、ニュートリノという素粒子が、わずかながら、このおきてを破ったというのだ。
実験チームが、データの精度に自信を示しながら「拙速に結論を出したり物理的な解釈を試みたりするには潜在的な影響が大きすぎる」として、意味づけに踏み込まないのも、そうした事情があろう。

 物理学者たちの間には疑問の声が多い。

 著書「宇宙は何でできているのか」で有名な村山斉・東大数物連携宇宙研究機構長(素粒子論)は、その根拠にノーベル賞受賞者の小柴昌俊さんら日米チームが1987年に見つけた超新星ニュートリノの例を挙げる。
16万光年離れた天体の爆発で出た光とニュートリノがほぼ同時期に地球に届いたが、今回の速さならニュートリノの方が数年早く飛来する理屈になるという。「見落とした実験誤差があるように思う。本当なら、超新星ニュートリノとの違いをエネルギーの差などで説明する複雑な理論をつくらなくてはならない」

 この研究が注目を集める背景には、近年の物理学が常識を超えた世界像を描きつつあることもある。
その一つが、私たちが実感する4次元時空の陰に、縮こまって見えない余分な次元(余剰次元)があるのではないかという理論だ。

 今回も、一つの可能性として、おきて破りのニュートリノが余剰次元という近道を通り抜けたのではないか、という見方が出ているようだ。
だが、佐藤勝彦・自然科学研究機構長(宇宙論)は「余剰次元にはみ出るのは、あるとしても重力を伝える粒子くらいだろう」とみる。

 前向きにとらえてもよいと思うのは、疑問沸騰の結果を実験チームがあえて解釈を控えつつ世に問うたことだ。
科学実験には、いつも想定外の落とし穴がつきものだ。
その実験の吟味も含めて、科学者たちの公開討論をみてみたい。(編集委員・尾関章)

だが、これらの議論はすべてニュートリノが超光速で移動したという前提でなされています。

 観測されたのは、ニュートリノが超光速で移動したように見える測定結果ですね。

あたかも超光速で移動したように見えることと、実際に超光速で移動したことは、分けて考えるべきだと思います。

現象として超光速で移動したように見えているに過ぎないと、説明できたなら特殊相対性理論の光速を超えるものはないという前提は守られたことになるでしょう。

ここで注目したいのは、量子は粒子であるとともに波動であるという性質です。

そして、物質の場には局所性と非局所性の相反する二つの性質があると見られています。

だとしたら、こう言えないでしょうか。

粒子性=局所性

波動性=非局所性

今回の結果は、波動性=非局所性の仕業であると。

 誤差の範囲か、意味のある時間差か、注意深く調べた結果というぐらい、わずかな差ということでしょう。

こういう声も出るくらいですからね。

「実験そのものの精度は確かだが、ニュートリノの速度を決めるのに必要な飛行距離と飛行時間の基準を全地球測位システム(GPS)に頼っている。GPSの精度が、このような精密測定実験に堪えうるのか検証が必要」

今回の実験については、研究チーム内でも正否への意見が分かれ、論文に名前を連ねることを辞退したメンバーがいるということが、どれだけ微妙な差だったかを雄弁に物語っています。

これは、波動性による非局所性の悪戯を検出したと言えないでしょうか。

波動による非局所性が今回の悪戯の仕掛け人である可能性を解く鍵は、波長にあると見たらどうでしょう。

波自体はどこまでも広がるので非局所的だけれど、観測装置にちょっかいを出せるだけのエネルギーがある波長の範囲は局所的でしょ。

 この、物理的な力を及ぼせるエネルギーを持った波長の範囲が、量子や周囲を取り巻く局所場として、認識されている。

おそらくそうでしょう。

 だから、エネルギーの広がりだけに注目すると非局所となる。

波動としての量子の波形のどこが装置に当たるかで、観測装置が反応するかしないかが、別れるのではないでしょうか。

 波形の山と谷では、ポテンシャルエネルギーが異なる。

今回は、たまたま波形の山が装置に当たったので、超光速かも知れないと騒がれたのでしょうね。

測定の精度が上がってきたことによって、今回の騒ぎの発端となった報告がでることとなったのでしょう。

これまでの類似な測定も精査してみれば、類似の事例ではないかと疑える差は見つかっていく可能性があるかも知れません。

追記。

今回は波長に注目したけれど、振幅もまた視野に入れる必要はあるかも知れません。

追記2。

光速超えるニュートリノを日欧チームが観測、「時間旅行も可能」

asahi.com2011年9月24日

http://www.asahi.com/international/reuters/RTR201109240031.html

 [ジュネーブ 23日 ロイター] 名古屋大や神戸大なども参加する日本や欧州の国際研究チームは23日、素粒子の一種であるニュートリノが光より速く移動することを示す観測結果が得られたと発表した。

 この結果が正しければ、宇宙の成り立ちをめぐる定説を覆すことになり、タイムマシンや異次元の存在も可能になるという。

 欧州合同原子核研究所(CERN)によると、ジュネーブ近郊のCERNから発射したニュートリノを730キロ離れたイタリアの研究所でとらえる実験を3年以上にわたり1万5000回実施。
その結果、ニュートリノが光より60ナノ秒(1億分の6秒)速く進むことを観測したという。

 アインシュタインが1905年に発表した特殊相対性理論では、質量を持つものは光よりも速く移動できないとされたが、今回の結果は同説と矛盾することになる。

 英マンチェスター大で素粒子物理学を研究するジェフ・フォーショウ教授は、観測結果が確認されれば、過去への時間旅行が理論上可能ということになると指摘した。

 研究チームでは、今回発表された観測結果が、独立した研究チームによって今後検証される必要があるとしている。

追記3

ニュートリノの実験で、光速で移動する素粒子とエネルギースペクトルが完全に一致したと指摘している点が非常に興味深いです。

それだけに、超光速にみえる観測結果が出る場合があるのかまで、踏み込んでくれなかったのは残念です。

超光速に対する反論は、ほかにも当然出ています。

Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111121-00000669-reu-int

「光速超えるニュートリノ」に異論、伊チームが論文発表

ロイター 11月21日(月)14時14分配信
写真
写真はグランサッソ研究所。提供写真(2011年 ロイター)

 11月19日、イタリアのグランサッソ国立研究所の研究チームは、ニュートリノが光より速く移動することを示す観測結果が得られたとしていた国際実験チームの報告に異議を唱える論文を発表した。

 [ジュネーブ 20日 ロイター] イタリアのグランサッソ国立研究所の研究チームは19日、素粒子の一種であるニュートリノが光より速く移動することを示す観測結果が得られたとしていた国際実験チームの報告に異議を唱える論文を発表した。

 イタリア国立核物理学研究所(INFN)や名古屋大や神戸大なども参加する国際実験チーム(OPERA)は9月、スイスのジュネーブ郊外にある欧州合同原子核研究所(CERN)から発射したニュートリノが、約730キロ離れたグランサッソ国立研究所の検出器に到達するまでの時間と距離を測定した結果、ニュートリノが光より60ナノ秒(1億分の6秒)速く進むことを観測したと発表。
先週には、再実験でもそれを確認したとしていた。

 これに対し、グランサッソで同様の研究を行う別の実験チーム(ICARUS)は、「OPERAの実験結果における超光速の説明に反証する」内容を確認したする論文をウェブサイトで発表。
2人の米著名物理学者が最近発表した研究内容に基づき、CERNから発射されたニュートリノは、ほんのわずかでも光速を上回るスピードで進んだとすれば到着時点でエネルギーのほとんどを失っているはずだが、ICARUSの測定では、光速で移動する素粒子とエネルギースペクトルが完全に一致したとしている。

 アインシュタインが1905年に発表した特殊相対性理論では、質量を持つものは光よりも速く移動できないとされた。
OPERAの観測結果はこれに矛盾するもので、宇宙の成り立ちをめぐる定説を覆し、タイムマシンや異次元の存在も可能になるとして注目を浴びていた。

asahi.com
http://www.asahi.com/science/update/1225/TKY201112250171.html

「超光速ニュートリノ」に新たな反論 米ワシントン大

 米ワシントン大(ミズーリ州)の研究チームは23日、「光より速いニュートリノはできにくい」とする理論計算の結果を発表した。
9月に発表された直後から、世界的に論争を呼んでいる「超光速ニュートリノ」に対する新たな反論として注目される。

 「超光速」を観測した国際研究チームOPERA(オペラ)の実験では、超光速ニュートリノは高速の陽子を標的にぶつけてできる「パイ中間子」と呼ばれる粒子からできることになっている。
しかしチームの計算ではこの反応は起きにくく、南極でのニュートリノ観測でも裏付けられるという。

 「超光速」を巡っては、別のノーベル賞物理学者らも11月、反論となる論文を発表している。

ニュートリノ、検証実験で光速超えず 当初結果にまた疑問符
2012.03.17 Sat posted at: 14:42 JST
cnn.co.jp
http://www.cnn.co.jp/fringe/30005947.html

e=mc²

アインシュタインの有名な公式。eはエネルギーを、mは質量を、cは光速度を意味する

(CNN) スイスにある欧州合同原子核研究機関(CERN)の国際共同研究グループOPERAが昨年9月、素粒子ニュートリノが光より速く飛んだとする実験結果を公表し科学界に衝撃を与えた問題で、イタリアのグランサッソ研究所は16日、CERNとの間の検証実験でニュートリノは光速を超えなかったと発表した。

CERNは先月、時間計測に使った光ファイバーケーブルに緩みがあったなどの欠陥が見付かったとも発表しており、光速を超えたとする当初の実験結果は間違いだったとの見方がさらに強まりそうだ。

CERNによると、9月の実験結果の「最終的な検証」のためグランサッソ研究所で今年5月、計4回の実験を実施する。

OPERAは昨年9月、1万5000個以上のニュートリノを使い、ジュネーブ郊外にあるCERNと約730キロ離れたグランサッソ研究所の間の地中で粒子加速器を用いて実験。

ニュートリノの飛距離と時間などを10億分の1秒単位まで厳密に計算し、光より速かったと発表していた。

昨年11月には再実験を行い、同一の結果が得られたともしていた。9月の実験結果を受け、科学界で疑問が出たことなどを踏まえたもので、実験装置を徹底的に点検したほか、速度測定に工夫を加えるなどしていた。

これらの実験結果が事実なら、光より速いものはないとするアインシュタインの相対性理論を覆す大発見で、現代物理学の根底を揺るがす可能性が指摘されていた。

ただ、OPERAは実験結果の正しさの最終証明には中立的立場の科学者の異なった装置による立証が必要と指摘し、他の研究所などに同様の実験を促している。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

中野長者として伝わる鈴木九郎とキリスト教?

正式名称を、阿谷山正覚寺世尊院という世尊院は、東京都杉並区阿佐谷北にある真言宗豊山派の寺院です。

本尊は、不動明王立像です。

1973年に傍を走る中杉通り建設のため現在地に移築されたけど、現在の本堂は1935年のものです。

現在では中杉通りを挟んで東側に本堂が、西側に墓地、観音堂などがあります。

観音堂に納められている木造聖観世音菩薩立像は、室町時代の作といわれ杉並区指定有形文化財です。

世尊院は、現在は中野坂上移転した宝仙寺の子寺として、室町時代の1429年頃に創建されたと言われています。

ちなみに、世尊院が子寺として創建されたのは地元の村民のためというから、いかに地域に根差していたかわかります。

明治時代から大正時代には、かつての杉並村の役場が当寺院の境内に置かれたこともありました。

 宝仙寺は、東京都中野区中央二丁目にある真言宗豊山派の寺院でしょ。

 著名人の葬儀や告別式も、多く執り行われることでも有名な寺院ですね。

 宝仙寺は、1429年頃まで阿佐ヶ谷にあったのですか。

中野区でも屈指の広大な寺院で、千年近くの歴史を誇る古刹ですけどね。

寺領は青梅街道付近から現在の阿佐ヶ谷駅付近にまで及んだといいますよ。

明王山宝仙寺は後三年の役の時、護持していた不動明王像を安置するために寛治年間に源義家によって現在の杉並区・阿佐ヶ谷にて開かれました。

 源義家は、平安時代後期の武将で、河内源氏の源頼信の孫ですよね。

後に武家政権鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府の足利尊氏などの祖先に当たります。

宝仙寺は、同じ杉並区の大宮八幡宮の別当寺でした。

 そういえば、源義家は八幡太郎の通称でも知られますね。

 八幡宮は、源氏縁の神社ですよね。

秦氏縁の神社でもありますけどね。

 そこで、源氏は秦氏の流れという議論を立てましたね。

宝仙寺の名の由来は、源義家が寺を創建しているときに稲荷明神が現れ、『この珠は、希世の珍、宝中の仙である。これを以て鎮となさば則ち武運長久、法灯永く明らかならん。』と言い義家に珠を与えて去っていったことに由来すると言います。

本尊は、鎌倉時代には秘仏になりました。

現在の地に移転した後の宝仙寺には、戦前は当時の中野町役場も置かれていました。

 節分の僧兵行列も、趣き深いと言いますね。

現在の位置に移転したのは、先にも触れたように室町時代の1429年です。

宝仙寺は、江戸時代には、優れた僧を出し、歴代の将軍から厚い保護を受け発展しました。

当寺院の僧侶が、将軍の御前論議に参加することもありました。

また、将軍家が鷹狩りに出た際の休憩所としても利用されました。

明治期以降、境内には現在の中野区南部にあたる中野町の役場が置かれていました。

戦災を被ったものの、戦後再建され、三重塔や本堂を見ることができます。

 宝仙寺は、中野長者として知られる鈴木九郎と関わりがありそうですね。

鈴木九郎は、室町時代に当たる建徳2年(1371年)頃から永享12年(1440年)の商人で僧侶でもありました。

現在の東京都中野区の中野坂上から新宿区西部の西新宿付近の開拓や商売で成功したところから、中野長者と呼ばれました。

 じゃあ、宝仙寺の移転にも鈴木九郎が関わっていた。

おそろく、そうでしょう。

少なくとも、鈴木九郎の一族が関わっていたかも。

鈴木九郎は、代々、紀州藤代で熊野三山の祠官を務める鈴木氏の末裔でした。

 熊野三山の祠官を務める鈴木氏の末裔が、宝仙寺の移転にかかわっていたかもしれない。

 宝仙寺の寺の名は、源義家の故事にちなむ。

 確か、稲荷の語源にはINRIがなまったという説があるでしょ。

INRIとは、“IESVS NAZARENVS REX IVDÆORVM”の略ですよね。

もちろんINRIとは、古典ラテン語で、“イエス ナザレの人 ユダヤの王”という意味ですね。

 稲荷の語源がINRIなら、合祀によって赤くない場合もあるけど、稲荷の鳥居が赤い理由はイエスの血と関係あるのかしら。

 油揚げは、イエスの肉とか。

黙示録に出る、血染めの衣のイエスだったりして。

 黙示録の連想、あまり、考えたくないけど。

同感ですね。

 源義経は、虎の巻を授かっているけど、トーラの巻が語源という説があるでしょ。

 稲荷がINRIなら、源氏はキリスト教徒だと言ってるのと同じでしょ。

熊野ついては、日本先住民であるアイヌのイオマンテに由来する可能性を考えましたね。

そのアイヌの習俗には、古代イスラエルに似ているという指摘がありますね。

 さらに、熊野本宮大社はキリスト教の教会を連想できるという議論もした。

熊野本宮大社がキリスト教の教会なら、日本中の神社はキリスト教の教会となってしまうという展開になりましたね。

鈴木九郎は、応永年間に現在の東京都中野区にあたる武蔵国多摩郡中野邑に来たとされています。

武士の出自であるが、武士として生計を立てることはできず、馬の売買や当時荒地だった中野付近の開拓で生計を立てようとしました。

 神職の家系から出た武士は、意外と居そうですね。

調べてみたら、面白いことがわかりそうですね。

 塚原卜伝と鹿島の神剣とか、ありますからね。

米田城主であった肥田氏の本当の姓は諏訪氏であり、諏訪大明神に仕える家柄だったとか。

 聖書に神にも、軍神としての側面があるし。

 偶然ではなさそう。

神に戦勝祈願という事だけ見れば、ありがちだと言われそうですけどね。

 それにしては、話が合い過ぎ…。

鈴木九郎の商売は成功し、財を築き上げて、近郷の誰よりも財を成し人々から中野長者と呼ばれるようになりました。

信仰心の厚かった鈴木九郎は、自身の故郷である紀州の熊野十二所権現を祀った神社を自身の開拓地に建立しました。

それが、付近一帯が十二社(じゅうにそう)とも呼ばれている、現在西新宿にある熊野神社です。

もっとも、新宿の熊野神社の創建には別の説もあります。

現在十二社と呼ばれるこの地域の開拓に当たった渡辺與兵衛が、天文・永禄年間(1532年から1569年)の熊野の乱を逃れて紀州から辿り着き、熊野権現を祀ったというものです。

いずれにしても、紀州からの勧請に違いないですけどね。

 それだけ、古いわけですね。

鈴木九郎の先祖は、源義経に従ったため奥州平泉から東国に敗走し、九郎の代に現在の中野坂上から西新宿一帯に住むようになったというから、渡辺與兵衛説は鈴木九郎の名を隠す意図があった可能性はありそうですね。

鈴木九郎は自身の産土神である熊野三山より若一王子宮の祠を立て、中野長者と呼ばれるようになると、応永10年(1403年)には熊野三山の十二所権現すべてを勧請したといいますから。

鈴木九郎は、一人娘の小笹を18歳の若さで失って大いに悲しみ、彼の残りの人生を仏門に生きることを決意します。

娘を失った永享10年(1438年)、名を「正蓮」と改め、得度し自身の邸宅を寺院としました。

それが、現在の成願寺で、鈴木九郎の墓所もこの寺にあります。

 義経に従った経歴をもつ鈴木九郎に、よく宝仙寺の移転ができましたね。

熊野三山の祠官という血筋が、可能にしたかもしれないですね。

詳しいことは、よくわからないけど。

 そういえば、関東は源氏が勢力下においていた。

 落ち着けたのが九郎の代とは、鈴木一族も苦労したのでしょうね。

宝仙寺がかつてあった杉並区は、いまも、大宮八幡宮以外にも多くの八幡宮があります。

天沼八幡宮、荻窪八幡宮、井草八幡宮、下高井戸八幡宮です。

 源氏ゆかりの八幡宮が、そんなにありますか。

関東は秦氏の勢力が大きかったでしょ。

そして八幡は、秦氏縁の神社だから、不思議ではないです。

 そうでしたね。

いっぽうで、杉並には鈴木九郎の影響とも思える熊野神社もあります。

天沼熊野神社、和泉熊野神社です。

 鈴木九郎より後でしょ。

そのため、これら杉並の熊野神社創建の経緯に鈴木九郎の名は、もちろんありません。

 中野長者と呼ばれた鈴木九郎の土地は現在の中野坂上から西新宿一帯というけど、鈴木九郎の一族は杉並にまで影響を持っていた可能性はありますね。

都内にはいくつも熊野神社があるし、熊野三山から途中にも熊野神社があるから、熊野神社に身を寄せながら関東まで来たと見ても面白いでしょうね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

深曽木の儀を視点を変えてみた。

着袴(ちゃっこ)の儀と深曽木(ふかそぎ)の儀は健やかな成長を願う古来から皇室伝統の儀式で、一般の七五三に当たります。

 深曽木の儀は、主に男児の儀式ですよね。

着袴の儀に続いて行われる深曽木の儀では、子は髪の毛を鋏で切り揃えられた後、足元の青色の二個の小石を踏んで日置盤と呼ばれる碁盤より南に向かって飛び降ります。

日置盤は、罫線が通常の碁盤のように19×19路ではなく、21×21路で、升目でいうと20×20の400マスになっているといいます。

暦における八節である春分・秋分・夏至・冬至・立春・立夏・立秋・立冬に当たる位置が盤上に記されているほか、陰陽道にいう九星、すなわち一白・二黒・三碧・四緑・五黄・六白・七赤・八白・九紫を表す碁石が置かれていました。

日置盤は高天原を表わすと、以前触れたけれど、古伝によると青色の二個の小石は高天原から眺めた地球と月とを意味するものだそうです。

また、古伝によると青色の小石を踏んで飛び降りられるのは、葦原の中津国の支配者として降臨される事を象徴したものであるといいます。

そこで今回は深曽木の儀について、さらに考えてみたいと思います。

ちなみに、深曽木の儀については、深曽木(みそぎ)の儀と呼ぶこともあるそうです。

日本碁院のHP「楽しい囲碁入門教室」http://www.nihonkiin.or.jp/lesson/index.htmには、囲碁の始まりについての記事の中のこういう記述があります。

囲碁の起源

囲碁のはじまりは、四千年ぐらい前、中国と言われています。

中国ではなくインドやチベット発祥の異説もありますが、はっきりしたことは分かっていません。

当初囲碁は、古代中国の皇帝(=尭帝・舜帝)が、囲碁を創って子どものしつけのため、教えたという伝説や、また碁盤は宇宙、碁石は星のかわりで、カレンダー、占いに使ったという話があります。

中国の古い書物(=論語・孟子など)には囲碁のことが書かれ、また紀元前770~前221年ころ春秋・戦国時代には、囲碁は戦略、政治、人生のシミュレーションゲームとして広まったようです。

この記述には、碁盤は宇宙、碁石は星のかわりとあります。

 青色の二個の小石は、東に配される青い色である九星の三碧ではないか、考えたでしょ。

深曽木の儀では、童形服を着て、右手に桧扇、左手に小松と山橘を持つけれど、それに先立つ着袴の儀で男子は滝の意匠をあしらった和服である落滝津の御服の上に白絹の袴を着付けます。

この着袴の儀での衣装で、滝の意匠をあしらった落滝津の御服を水と解釈して五行の北と天に、白絹の袴を五行の西に、それぞれ配されると見ました。

ここに飛び降りる方角を合わせれば、東西南北が揃います。

 この東西南北は、高天原の方位とともに、降臨された葦原の中津国の方位でもあるのでしょ。

おそらく、そうでしょう。

 日置盤を含む碁盤は宇宙の象徴でもあったというならば、高天原も地上ではなく宇宙にあったと考えていたことになりますね。

天皇家の祖神として、太陽神が崇められるので、高天原は太陽を想定しているように見えますね。

 ところが、本地である大日如来の垂迹として天皇家の祖神の太陽神は位置付けられるわけでしょ。

 そうなると、大日如来を大いなる太陽の如くに来られるお方と見れば、天皇家の祖神の太陽神も大いなる太陽の如くに来られるお方となるでしょ。

これは、古代エジプトの地上における太陽神ラーとされるファラオとそっくりですよね。

 神々は三神構造であり動物神を含む八百万の神を崇める、これも、古代エジプトと日本はそっくり。

 ついでにいうと、エジプトと日本は味の好みまで似ている。

 食は生活の基本でしょ。

 宗教と味の好みが似ているうえに、着袴の儀と深曽木の儀に対しても古代エジプトと日本の関係を裏付けるような解釈が可能になる。

 面白いですね。

地の神は天の神から権能を与えられて王として君臨する、この構図は、聖書における御父と御子の構図にそっくりなのです。

 コーランのアッラーは、厳密に言えば御父エロヒムだけど、御子は御父から全権を与えられて君臨するのです。

そこで、アッラーを御子であるイエスと混同しても実質的に差し支えないことになるので、アッラーをイエスと見なした議論も可能になります。

さらに、古代エジプトの太陽神ラーをアッラーとおけば、ラーをイエスの正体と見ることも、もちろんできるでしょうね。

 フェラオは、地上における太陽神という位置づけですよね。

 天皇は、太陽神の子孫という位置づけですよね。

そして、深曽木の儀では、左手に小松と山橘を持ちます。

この枝を神の声と見なして、預言者となる儀式としての側面がありはしないかと、議論しました。

 古代エジプトは、フェラオが地上における太陽神という位置づけであるにもかかわらず、儀式を掌る祭司がいたでしょ。

 日本も、天皇が太陽神の子孫という位置づけであるにもかかわらず、儀式を掌る祭司がいるでしょ。

 だとしたら、ファラオも預言者という側面もあったのでしょうか。

ファラオは預言者であったという視点からの調査は、これまでされていないから見落とされているのかも知れないです。

少なくとも、ファラオは預言者であったと見る研究はいままでのところでは、知らないですね。

今後の展開でどうなるか、わからないですけど。

 着袴の儀で、女子は濃色(こきいろ)と呼ばれる濃い赤紫色の小袖と同色の袴を、それぞれ着用しますよね。

さらに女児は、衵扇(あこめおうぎ)を手にし、さらに袿(うちき、うちぎ)を着用しますね。

 男児は深曽木の儀では、童形服を着て、右手に桧扇、左手に小松と山橘を持つでしょ。

 扇は、奥義に通じると、しばしば言われます。

 奥義の伝授の儀式が、着袴の儀と深曽木の儀なのでしょうかね。

民俗学者の吉野裕子は、扇は陰陽の象徴と解釈していますね。

 閉じて陽、開いて陰、合わせて陰陽と見るのでしたね。

閉じている状態は陰の極みとしての陽、開いている状態は陽の極みとしての陰、と解釈が可能ですね。

 開くために閉じるから陽、閉じるために開くから陰、と考えても良いでしょうね。

つまり、陰陽とは常に物事を動的な関係のなかで捉える世界観ですよね。

そして、陰陽は神道の哲学的、思想的背景とされています。

着袴の儀と深曽木の儀を、奥義の伝授の儀式と見ても良いかも知れないですね。

 飛鳥昭雄と三神たけるは、陰陽はカッバーラと言っていますよね。

それでは、着袴の儀と深曽木の儀を、カッバーラの伝授の儀式と解釈するのと変わらないでしょ。

日本の民俗に、旧約聖書時代のイスラエルに似たところが多いのは事実だし、キリスト教を連想できる部分も少なくないけど。

 キリスト教は、旧約聖書の救世主来臨預言を根拠にしているから、旧約聖書をきちんと解釈すれば日本の民俗にキリスト教的な要素はあってもおかしくはない。

天孫一族には、失われた十支族説が絶えないから、そういう解釈が出てもおかしくないですけど。

天皇は、日本を正しい聖書理解に導いた正統な預言者であると言っているのと、大差ないでしょ。

 本地垂迹から、大日如来をイエスと置くと天皇は正当な神の後継者になると気づいて、ザビエルは真っ青になったのではないかと、考えたことありましたね。

 正当な神の預言者となると気づいたザビエルは、頭の中が真っ白になったと見ても良かったかも。

 教皇は、正当な神の預言者として指導的な地位についているわけではないから。

天皇は神の預言者という、展開にまたしてもなったのは事実ですけどねえ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

着袴の儀の意味を考えてみた。

健やかな成長を願う儀式である着袴(ちゃっこ)の儀と深曽木(ふかそぎ)の儀は、一般の七五三に当たる儀式で、健康と成長を祈る古来から皇室伝統の儀式です。

着袴の儀は、子が数え5歳の時に、賜剣(しけん)儀の際に贈られた袴を着用する儀式です。

賜剣の儀は、皇室に子供が生まれた際に、天皇から子供の健やかな成長を願い子を守る目的の守り刀を授かる儀式です。

小刀は白木の鞘で赤い布に包まれ桐箱に入れられ、宮中で天皇の意思を受けた勅使と呼ばれる使者に託され、勅使が代行として子の元に赴き、子の枕元に供えます。

着袴の儀は、性別に関係なく行われます。

男子は滝の意匠をあしらった和服である落滝津の御服の上に白絹の袴、女子は濃色(こきいろ)と呼ばれる濃い赤紫色の小袖と同色の袴を、それぞれ着用します。

女児は、衵扇(あこめおうぎ)を手にし、さらに袿(うちき、うちぎ)を着用します。

袙扇とは、桧扇(ひおうぎ)と基本的に同じものだが女性の用いる物の場合、こう呼びます。

 桧扇は、檜扇と記されることがありますね。

今では、檜扇の方が一般的でしょうね。

袿は、公家装束を構成する着物の一つです。

袿は、主に女性の衣だが、男性が中着として着用する場合もあります。

一枚の上着を指す場合と、何枚も重ねて着用した場合を指す場合とがあると言います。

一枚の上着の場合は小袿(こうちぎ)と表着(うわぎ)と打衣(うちぎぬ)を着付けます。

着付けの順は打衣、表着、小袿となり、一番表に小袿が来ることになります。

小袿を何枚も重ねて着用した場合を、重ね袿(袿姿)といいます。

下には肌小袖・単・緋袴(ひのはかま)を着て、帯で結ぶことなく普通の袿を何枚も重ねて羽織ります。

羽織る袿の枚数には、特に制限がないが、平安時代以降は五枚が一般的となったそうです。

それに対し、深曽木の儀は、主に男児の儀式です。

深曽木の儀では、童形服を着て、右手に桧扇、左手に小松と山橘を持ち、青石の小石が二個置かれた日置盤と呼ばれる碁盤の上に立ちます。

髪の毛を鋏で切り揃えられた後、足元の小石を踏んで日置盤より掛け声とともに南へ向かって飛び降ります。

一般の七五三に当たる儀式で、健康と成長を祈る古来から皇室伝統の儀式です。

皇室では、代々同じ物が使われます。

日置盤は、普通の碁盤ではありません。

罫線が通常の碁盤と同じ19×19路ではなく、21×21路なのです。

升目でいうと、20×20の400マスとなります。

暦における八節つまり春分・秋分・夏至・冬至・立春・立夏・立秋・立冬に当たる位置が盤上に記されているほか、陰陽道にいう九星である一白・二黒・三碧・四緑・五黄・六白・七赤・八白・九紫を表す碁石が置かれていました。

 深曽木の儀で使われるのは青い小石というから、青い色である三碧のことでしょうか。

そうかも知れません。

九星では、青は方角でいえば東に当たります。

滝の意匠をあしらった落滝津を水と見れば、五行では北に当たります。

袴の白は、五行では西に当たります。

飛び降りる方向は南で、五行でももちろん、南に当たります。

 東西南北が、揃いますね。

そして、中央の人は五行では土(ど)に当たり、色でいうと黄が配されます。

 五行のすべてが、揃うわけですね。

五行では、北は天に、南は地に、それぞれ配されます。

日置盤は高天原を象徴し、飛び降りる南は地上を象徴するのでしょう。

 深曽木の儀は、天孫降臨を追体験する意味合いがあるのでしょうか。

男児、女児問わず、天孫降臨を追体験する必要は同じでしょ。

 そういえば、そうですね。

東と南は陽に、西と北は陰に、配されます。

 青い小石二個を踏むのは、陽である東を陰である天に配するためでしょうか。

偶数は陰に配され、奇数は陽に配されます。

陰に配される二個の青い石を踏むことで、子もまた陰の世界の存在となるのでしょう。

天の象徴としての日置盤から、地の象徴としての南に降りるとは、陰から陽に転ずる儀式であり、生まれ直しを意味するのかも知れません。

数えの五歳というのも、陰の四歳から陽の五歳という節目だけではなく、四は死に通じ、魂の世界から人の世界へと移行する儀式とみることも可能でしょう。

女児は着袴の儀で、女子は濃色(こきいろ)と呼ばれる濃い赤紫色の小袖と同色の袴を、それぞれ着用します。

赤は、五行では陽である南に配され地の象徴です。

陽に配される男児に対し、女児は陰に配されます。

濃い赤紫色の小袖と同色の袴を着用するとは、魂の陰の世界から名実ともに人となる陽の世界に生まれ直すということなのでしょう。

女児の儀式で男児の深曽木の儀に当たる段階が、衵扇(あこめおうぎ)を手にし、さらに袿(うちき、うちぎ)を着用することでしょう。

女児に日置盤を降りる儀式がないのは、女児は初めから陰に配されるので、わざわざ陰に配し直す儀式をする必要がないからでしょう。

 男児と女児、いずれにしても着袴の儀を行うのは、天孫降臨を追体験するため。

それも、あるでしょうね。

魂すなわち神の世界から、現世である地上に降りるための象徴的儀式でもあるのでしょう。

男児に深曽木の儀がいるのは、男児は陽であるため、いったん陰に配しなおす必要があるからでしょう。

 深曽木の儀で、左手に小松と山橘を持つのは、なぜでしょうね。

樹は陰陽では息と同じとされます。

息は声でもあるので、高天原から何らかの声を託されていることの象徴かも知れないですね。

 神から声を託される、それって、声を預かる者という事でしょ。

皇室の男児には、神々の声を地に下ろす者という役割があるので、神道の最高祭祀に位置付けられるのでしょうね。

神々の声を地に下ろす者という意味では、預言者とみても良いでしょうね。

 深曽木の儀には、預言者に任じられる儀式という意味もある。

深曽木の儀には、陽である男児をいったん陰に配しなおすだけでなく、預言者に任じられる儀式という側面もあるのは確かでしょうね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

地層を疑ってみた。

現代の進化論は、これまでに、少なくとも、7回の大量絶滅があったことと見ていると言います。

放射性同位元素年代測定法でおもに使われる元素は、ウラン、カリウム、炭素の3つです。

 7回の環境激変があったと、みているわけでしょ。

 半減期は変化しなくても、度重なる絶滅を招いた環境激変によって、地表近くのウラン、カリウム、炭素の量は果たして激変しなかったと言えますか。

 地球上のウラン、カリウム、炭素の総量が変化しないことと、地表近くの総量が変化しないことを混同していませんか。

 恐竜の時代、今より酸素濃度は高かったと言います。

 酸素量が変化する激変でも、ウラン、カリウム、炭素の地表近くの総量は変化しなかったのですか。

放射性同位元素年代測定法において重要なのは、サンプル中の放射性同位元素の比率とされています。

地表近くの総量ではないので、サンプルの量は、結果に影響を与えません。

例えば、ウランの場合、サンプルのU238とPb207の比率から、年代を算出します。

放射線を出しながらU238はPb207に変わっていくので、その比率を見るわけです。

そのさい、基準となるのが半減期です。

U238の半分がPb207に変わるまでの期間が半減期で、半分になるのに要する期間は量に関係ないのです。

したがって、たとえ激変によって地表近くのウランの総量が変化したとしても、この年代測定法は有効です。

また、年代測定を行う場合、採取されるサンプルは一般に地層から取られます。

その地層の年代を調べるので、当たり前と言えば当たり前だが、地層は、沈殿後、外部からの撹拌を受けていないと見て良いでしょう。

断層や褶曲があっても、それは撹拌とは言いません。

激変の影響を受けていないと見て良いから、ある地層からサンプルを取って放射性同位元素年代測定法を用いれば、その地層の年代について、正確な値を計ることができます。

 しかし、それは地層が徐々に重なったという前提でしょ。

 その地層ですが、長い時間という割には、広範囲にわたってウエハースのようにきれいに重なり過ぎていませんか。

 湾曲や断層を見ても、きれいに重なった地層が曲がったりずれたりしている範囲があまりに広い。 

 例外は噴火や大規模な崩落や川の跡など、くらいのものではないでしょうか。

 細かく言えばまだいろいろあるでしょうが。

 こういう積もり方は、水中でいっきに大量の土砂が積もらないと、普通はあり得ないはずでしょ。

 しかも、このきれいな堆積はある地層を境に途絶える。

 46億年前の先カンブリア以前は、地球誕生の年代とおっしゃるかもしれないけど、地層のあまりにきれいな堆積がその時代まで続くというのは、どうしてと説明しますか。

確かに、水中でないと基本的には地層はできません。

だが、グランドキャニオンの砂の層は隆起していた時代にできたと見られています。

その砂の表面が均されて見えるのは、風のせいもあるだろうしその後の水没も原因なのではないでしょうか。

グランドキャニオンは繰り返された隆起と沈降の産物と、解釈されています。

 グランドキャニオンのコロラド川の流れが作り出した大峡谷は、全長446km、深さ1.6kmです。

 かつて海の底だったというけれど、相当量の土砂が短期間に堆積しないと、こうはならないでしょ。

 この土砂、どこからきたのでしょう。

 想像を絶する大洪水でなければ、これだけの土砂、沈まないでしょ。

隆起も沈降も、気の遠くなるような間隔をあけていたと解釈しているのでしょうね。

 地層は水中で出来るというなら、いたるところで見つかるのは、なぜですか。

 長期にできたなら、あまりに境界面がきれいなのは、なぜですか。

 まるで、土の質を分類したかのように、地層ができているのはなぜですか。

 そもそも、時代ごとに積もる土の質が劇的に変わるのですか。

 長期にできたなら、季節を反映して、年輪のような地層があっても良いのではないですか。

 時代ごとに、積もる土の質は劇的に変わるのですか。

 だから、短期間に分厚い地層ができたと見る方が自然なのです。

堆積物がつもって、地層ができるわけですね。

堆積物とは、礫(れき)・砂・泥・粘土、生物の死がい、海にとけていたもの、火山噴出物などを指します。

礫(れき)とは、粒の直径2mm以上の石ころです。
砂とは、粒の直径0.06~2mmの石の破片です。
泥・粘土とは、粒の直径0.06mm以下の破片です。

地層は、いろいろな堆積物が下から順番に層状につもってできていきます。

普通、地層は水平にできていきます。

 表面をならすように、堆積していくのですね。

ええ、そうです。

その時代での生物の化石・火山灰がふくまれる層もあり、特徴があるのでかぎ層と呼ばれます。

ただし、大地に大きな力が加わったりして地層がゆがんだり逆転したりすることも多いです。

地層の大部分は、海でつくられます。

おもに川で運搬されてきた、礫(れき)・砂・泥・粘土が河口付近から沿岸で堆積してできます。

岩石の破片を水に入れてよくかき混ぜ、静かに放置すると粒の大きいものから先に沈んでいきます。

これと似たようなことが、海底で起こります。

 だとすれば、地層はただ一度の堆積で今見てる姿の大半ができたことになりませんか。

確かに、時代によって堆積する土砂の種類が変化したというなら、納得できる説明が必要ですね。

 少なくとも炭素については、アカンバロ恐竜土偶の真贋騒ぎでは紀元前1640年、4530年、1100年とあまりのばらつきのひどさに使い物にならなかったそうですね。

 1980年5月18日に起きた噴火によって出来た大きな馬蹄形の噴火口の辺りで採取されたサンプル、はポタシウムーアルゴン年代算出法で35万年から280万年とでたそうですね。

 グランドキャニオンの北縁の、ほんの何千年か前に噴火して出来たものがルビジウムーストロンチウム等時法によって、10億3400万年前と算出されたそうですね。

サンプルが、非常に新しいということでしょう。

新しい、ということは、年代測定に不利に働くということでしょうね。

なぜなら、減衰の速度が速いからでしょう。

そのため、どうしても精度が下がるのではないでしょうか。

 ならば、仮想の研究者を数千年前に派遣して調査させたなら、彼らも同じ問題に直面するはずですよね。

グランドキャニオンの北縁の、ほんの何千年か前に噴火して出来た場所ですか。

 具体的にというなら、そこを例にとりましょうか。

 半減期とは、統計学的に見てこういう傾向があるということでしょ。

個々の放射性元素がいつ崩壊するか、わからないので、個別には、相当のばらつきが出るが、統計をとれば半減期という結果が見えるわけですね。

 このばらつきから本質的に誤差が出るとしたら、我らの仮想研究隊も今日の我々と同様な問題に直面するとみるのは自然ではないですか。

数千年なら、半減期としては誤差のうちだから10億3400万年前の前後の数値は出てもおかしくないでしょうね。

だが、生命の最初の化石証拠は繊維状細胞で、35億年前のオーストラリアの地層から得られたものとされていますよ。

 炭素の測定値のばらつきは、紀元前1640年、4530年、1100年と何倍もの差が出ています。

 10億3400万年前と35億年前、ばらつきの範囲内では。

千年や万年ならいざしらず、10億年単位ではねえ。

 個々の放射性元素がいつ崩壊するか、わからないので、個別には、相当のばらつきが出るわけでしょ。

そうですね。

 それなら、10億年単位のばらつきがないと言えますか。

存在は見つければ証明できるけど、ないことの証明は非常に困難です。

全てを調べつくして、はじめて、言えることです。

 10億年単位のばらつきの可能性は、否定しない。

可能性は、先ほどの言ったように否定はしません。

 ならば、聖書の言う4000年から5000年位前のノアの洪水で出来た化石が、放射性同位元素年代測定法で35億年前という数値を出しても、おかしくはない。

言えるのは、可能性があるということだけですよ。

 7回というけど、ノアの洪水1回分の見間違えだったりして。

地層の大半が、ノアの洪水で出来たと判断できたときはそうなるでしょうけど。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年10月 | トップページ | 2011年12月 »