中野長者として伝わる鈴木九郎とキリスト教?
正式名称を、阿谷山正覚寺世尊院という世尊院は、東京都杉並区阿佐谷北にある真言宗豊山派の寺院です。
本尊は、不動明王立像です。
1973年に傍を走る中杉通り建設のため現在地に移築されたけど、現在の本堂は1935年のものです。
現在では中杉通りを挟んで東側に本堂が、西側に墓地、観音堂などがあります。
観音堂に納められている木造聖観世音菩薩立像は、室町時代の作といわれ杉並区指定有形文化財です。
世尊院は、現在は中野坂上移転した宝仙寺の子寺として、室町時代の1429年頃に創建されたと言われています。
ちなみに、世尊院が子寺として創建されたのは地元の村民のためというから、いかに地域に根差していたかわかります。
明治時代から大正時代には、かつての杉並村の役場が当寺院の境内に置かれたこともありました。
宝仙寺は、東京都中野区中央二丁目にある真言宗豊山派の寺院でしょ。
著名人の葬儀や告別式も、多く執り行われることでも有名な寺院ですね。
宝仙寺は、1429年頃まで阿佐ヶ谷にあったのですか。
中野区でも屈指の広大な寺院で、千年近くの歴史を誇る古刹ですけどね。
寺領は青梅街道付近から現在の阿佐ヶ谷駅付近にまで及んだといいますよ。
明王山宝仙寺は後三年の役の時、護持していた不動明王像を安置するために寛治年間に源義家によって現在の杉並区・阿佐ヶ谷にて開かれました。
源義家は、平安時代後期の武将で、河内源氏の源頼信の孫ですよね。
後に武家政権鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府の足利尊氏などの祖先に当たります。
宝仙寺は、同じ杉並区の大宮八幡宮の別当寺でした。
そういえば、源義家は八幡太郎の通称でも知られますね。
八幡宮は、源氏縁の神社ですよね。
秦氏縁の神社でもありますけどね。
そこで、源氏は秦氏の流れという議論を立てましたね。
宝仙寺の名の由来は、源義家が寺を創建しているときに稲荷明神が現れ、『この珠は、希世の珍、宝中の仙である。これを以て鎮となさば則ち武運長久、法灯永く明らかならん。』と言い義家に珠を与えて去っていったことに由来すると言います。
本尊は、鎌倉時代には秘仏になりました。
現在の地に移転した後の宝仙寺には、戦前は当時の中野町役場も置かれていました。
節分の僧兵行列も、趣き深いと言いますね。
現在の位置に移転したのは、先にも触れたように室町時代の1429年です。
宝仙寺は、江戸時代には、優れた僧を出し、歴代の将軍から厚い保護を受け発展しました。
当寺院の僧侶が、将軍の御前論議に参加することもありました。
また、将軍家が鷹狩りに出た際の休憩所としても利用されました。
明治期以降、境内には現在の中野区南部にあたる中野町の役場が置かれていました。
戦災を被ったものの、戦後再建され、三重塔や本堂を見ることができます。
宝仙寺は、中野長者として知られる鈴木九郎と関わりがありそうですね。
鈴木九郎は、室町時代に当たる建徳2年(1371年)頃から永享12年(1440年)の商人で僧侶でもありました。
現在の東京都中野区の中野坂上から新宿区西部の西新宿付近の開拓や商売で成功したところから、中野長者と呼ばれました。
じゃあ、宝仙寺の移転にも鈴木九郎が関わっていた。
おそろく、そうでしょう。
少なくとも、鈴木九郎の一族が関わっていたかも。
鈴木九郎は、代々、紀州藤代で熊野三山の祠官を務める鈴木氏の末裔でした。
熊野三山の祠官を務める鈴木氏の末裔が、宝仙寺の移転にかかわっていたかもしれない。
宝仙寺の寺の名は、源義家の故事にちなむ。
確か、稲荷の語源にはINRIがなまったという説があるでしょ。
INRIとは、“IESVS NAZARENVS REX IVDÆORVM”の略ですよね。
もちろんINRIとは、古典ラテン語で、“イエス ナザレの人 ユダヤの王”という意味ですね。
稲荷の語源がINRIなら、合祀によって赤くない場合もあるけど、稲荷の鳥居が赤い理由はイエスの血と関係あるのかしら。
油揚げは、イエスの肉とか。
黙示録に出る、血染めの衣のイエスだったりして。
黙示録の連想、あまり、考えたくないけど。
同感ですね。
源義経は、虎の巻を授かっているけど、トーラの巻が語源という説があるでしょ。
稲荷がINRIなら、源氏はキリスト教徒だと言ってるのと同じでしょ。
熊野ついては、日本先住民であるアイヌのイオマンテに由来する可能性を考えましたね。
そのアイヌの習俗には、古代イスラエルに似ているという指摘がありますね。
さらに、熊野本宮大社はキリスト教の教会を連想できるという議論もした。
熊野本宮大社がキリスト教の教会なら、日本中の神社はキリスト教の教会となってしまうという展開になりましたね。
鈴木九郎は、応永年間に現在の東京都中野区にあたる武蔵国多摩郡中野邑に来たとされています。
武士の出自であるが、武士として生計を立てることはできず、馬の売買や当時荒地だった中野付近の開拓で生計を立てようとしました。
神職の家系から出た武士は、意外と居そうですね。
調べてみたら、面白いことがわかりそうですね。
塚原卜伝と鹿島の神剣とか、ありますからね。
米田城主であった肥田氏の本当の姓は諏訪氏であり、諏訪大明神に仕える家柄だったとか。
聖書に神にも、軍神としての側面があるし。
偶然ではなさそう。
神に戦勝祈願という事だけ見れば、ありがちだと言われそうですけどね。
それにしては、話が合い過ぎ…。
鈴木九郎の商売は成功し、財を築き上げて、近郷の誰よりも財を成し人々から中野長者と呼ばれるようになりました。
信仰心の厚かった鈴木九郎は、自身の故郷である紀州の熊野十二所権現を祀った神社を自身の開拓地に建立しました。
それが、付近一帯が十二社(じゅうにそう)とも呼ばれている、現在西新宿にある熊野神社です。
もっとも、新宿の熊野神社の創建には別の説もあります。
現在十二社と呼ばれるこの地域の開拓に当たった渡辺與兵衛が、天文・永禄年間(1532年から1569年)の熊野の乱を逃れて紀州から辿り着き、熊野権現を祀ったというものです。
いずれにしても、紀州からの勧請に違いないですけどね。
それだけ、古いわけですね。
鈴木九郎の先祖は、源義経に従ったため奥州平泉から東国に敗走し、九郎の代に現在の中野坂上から西新宿一帯に住むようになったというから、渡辺與兵衛説は鈴木九郎の名を隠す意図があった可能性はありそうですね。
鈴木九郎は自身の産土神である熊野三山より若一王子宮の祠を立て、中野長者と呼ばれるようになると、応永10年(1403年)には熊野三山の十二所権現すべてを勧請したといいますから。
鈴木九郎は、一人娘の小笹を18歳の若さで失って大いに悲しみ、彼の残りの人生を仏門に生きることを決意します。
娘を失った永享10年(1438年)、名を「正蓮」と改め、得度し自身の邸宅を寺院としました。
それが、現在の成願寺で、鈴木九郎の墓所もこの寺にあります。
義経に従った経歴をもつ鈴木九郎に、よく宝仙寺の移転ができましたね。
熊野三山の祠官という血筋が、可能にしたかもしれないですね。
詳しいことは、よくわからないけど。
そういえば、関東は源氏が勢力下においていた。
落ち着けたのが九郎の代とは、鈴木一族も苦労したのでしょうね。
宝仙寺がかつてあった杉並区は、いまも、大宮八幡宮以外にも多くの八幡宮があります。
天沼八幡宮、荻窪八幡宮、井草八幡宮、下高井戸八幡宮です。
源氏ゆかりの八幡宮が、そんなにありますか。
関東は秦氏の勢力が大きかったでしょ。
そして八幡は、秦氏縁の神社だから、不思議ではないです。
そうでしたね。
いっぽうで、杉並には鈴木九郎の影響とも思える熊野神社もあります。
天沼熊野神社、和泉熊野神社です。
鈴木九郎より後でしょ。
そのため、これら杉並の熊野神社創建の経緯に鈴木九郎の名は、もちろんありません。
中野長者と呼ばれた鈴木九郎の土地は現在の中野坂上から西新宿一帯というけど、鈴木九郎の一族は杉並にまで影響を持っていた可能性はありますね。
都内にはいくつも熊野神社があるし、熊野三山から途中にも熊野神社があるから、熊野神社に身を寄せながら関東まで来たと見ても面白いでしょうね。
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