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古墳と壺?

埼玉古墳群に行ってみました。

埼玉古墳群は、 直径105メートル、高さ18.9メートルの円墳である丸墓山古墳を除いて、みな前方後円墳です。

       主軸長   後円部径  後円部高さ  前方部幅 前方部高さ

稲荷山古墳  120m     62m    11.7m     74m     10.7m

二子山古墳  138m     70m    13.0m      90m     14.9m

鉄砲山古墳  109m     55m    9.0m     69m     10.1m

将軍山古墳   90m     39m    不明     68m      8.2m

中の山古墳    79m     42m    5.1m     44m       5.4m

瓦塚古墳     73m    36.5m    5.1m     47m       4.9m

奥の山古墳  66m     34m    5.6m     40m       6.0m

愛宕山古墳  53m     30m    3.4m     30m       3.3m

この数値は、埼玉県立さきたま史跡の博物館のHPhttp://www.sakitama-muse.spec.ed.jp/index.php?page_id=157 によるものです。

 後円部と前方部って、幅も高さも、ほぼ同じなのですね。

これは、どちらも一番幅の広いところを比べてますからね。

埼玉古墳群の大型古墳で登ることができるのは、日本最大規模の円墳である丸墓山古墳と、埼玉県第2位の規模の大型前方後円墳である稲荷山古墳だけです。

どちらも、登ってみました。

円墳である丸墓山古墳に丸さを感じるのは、当然過ぎます。

問題は稲荷山古墳です。

 前方部というけれど、上から見ると台形ですね。

それは、上から見るからですよ。

もっとも、真横から見ても、台形っぽくみえますけど。

 じゃあ、箱型なのでしょ。

後円部の上を歩いた感じでは、むしろ円錐に近く見えましたね。

歩きやすいように、幾分平らに均してあるけれども。

 球に円錐を差し込んだような形なのですか。

そうですね。

大雑把にいうと、壺を半分地中に埋めた形に近いです。

もっとも、実際は裾が広がっているし、大きいので全体を見渡すのが大変だから、少々分かりずらいですけどね。

 前方後円墳というより、壺型墳という方が実体にあっているわけですね。

ほとんどの分類は、上から見た形でやっているのでしょうね。

古墳の形を、おさらいしてみましょう。

 円墳

 方墳

 前方後円墳

 帆立貝形古墳

 前方後方墳

 上円下方墳

 双方中円墳

 双方中方墳

 八角墳

面白いことにほとんどが、丸と四角です。

例外は、八角墳だけど、実質的には円と見なしても良いでしょうね。

帆立貝形古墳とは、前方後円墳より前方部分の小さいもので、全体の雰囲気が帆立の貝殻に似ているところからついた名前です。

 前方後円墳については、飛鳥昭雄と三神たけるもマナの壺を模しているという説を立てていますよね。

実物を見ても、前方後円墳が壺を模していると言って良いと思えます。

 前方後円墳が壺を模しているというなら、他の古墳はどうなのかという、疑問がでますね。

おそらく、基本的にはすべての古墳は壺を模している可能性はあるでしょうね。

祭祀用に使われる壺には、実に様々な形があります。

だとしたら、古墳の多彩な形も壺の多彩さを反映しているのかも知れません。

 祭祀用の壺には、供え物が入っているのでは。

当然、そうでしょうね。

 墳墓を、供え物の壺に見立てたと…。

故人がいかに神の御心に叶う人物であったかと、民衆に示す象徴として壺の形を用いたとみたら、どうでしょう。

 古墳に葬られているのは、ほとんどが指導者か、それに準ずる人々だったのではなかったでしょうか。

 神の御心に叶う人物にして指導者、聖書には何人も登場しますよね。

神の御心に叶う人物にして指導者、確かに有名な聖典である聖書には記されていますね。

 日本の先住民であるアイヌには、生活文物に古代イスラエルに似ているとの指摘もあるでしょ。

遺伝子的にも、古代中東の遺伝子が残るのは、中東を除けば日本とチベットと指摘されますね。

 そうなると、全ての古墳はマナの壺を象徴しているという見方もできませんか。

中東からの波状的な移住によって日本人の基本的部分は形成されていると見た方が、旧約聖書を連想できる風習が日本に多いことと連続性を持ちながら断続性もあることを合わせて説明が付くのは間違えないです。

ただし、646年の大化の薄葬礼の頃を境に、前方後円墳から方墳や八角墳、上円下方などに移っていくわけです。

天皇陵は今も、上円下方墳だそうです。

 方、八角、上円下方、陰陽が連想できますね。

方は大地、八角は八卦、上円下方は円天方地を、想定している可能性はありますね。

 中国を意識して、形を変えていったと見る人もいますね。

中国文化圏では陰陽は大きな影響を持った哲学ですからね。

陰陽には易学があり、易経研究家の中には聖書は易経で書かれていると主張する人があります。

また、聖書を正しく理解するにはカッバーラを知る必要があると古くから言われるが、陰陽こそカッバーラだと見る人もいます。

 飛鳥昭雄や三神たけるなどですね。

彼らから言わせれば、古墳は祭祀の壺からカッバーラの教義の象徴に形を変えただけだと、なるのかも知れませんね。

 古墳、特に天皇のものは昔も今も、聖書の世界…。

まだまだ、謎は多いかも知れないけれど、今回はこの辺までとしておきましょう。

薄葬礼以前の古墳は、基本的にマナの壺を象徴していると見るのは、古代イスラエル人の波状的な移住によって日本人の基本的部分が形成されたと証明できるまで待った方が良いでしょうね。

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コメント

全ての古墳はマナの壺を象徴しているのでしょうね。マナの壺を敵から隠す為に、いろいろな形のレプリカがあったのではないでしょうか。秘密を隠す為、味方にも本物の壺の形は知らせなかったと思います。                    

投稿: ペプシコーラ | 2011年12月26日 (月) 00時00分

日本人は時が来るまで正体が隠されている真正イスラエルという見方からすれば、わざとさまざまな形の中に紛れ込ませたマナの壺という解釈も可能でしょうね。

投稿: cova | 2011年12月26日 (月) 08時15分

過去記事にコメント失礼します。
マナの壺を最近知りまして読ませて頂きました
戦後GHQ が探し回っていたとか・・

私なりにシュメール文明の粘土板に神代文字やマニフトに酷似で日本語の形態にそっくりなことからもっと謎は深いと感じていますよ。

パソなのたけなかさんが埼玉の土地を買い漁っておられるとか・・古墳がらみでない事を
ふと願ってしまいました。

駄文失礼しました。

投稿: カナン | 2017年10月28日 (土) 01時48分

スメルと古代日本の関係は私も気になっています。

渡来説もありますしね。

投稿: cova | 2017年10月31日 (火) 12時40分

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