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2012年1月

武蔵国分寺は蚕が作ったか。

中央線国分寺駅のすぐそばに、殿ヶ谷戸庭園があります。

その中に、一基の馬頭観音碑があります。

碑の傍らに説明文が、掲げられています。

馬頭観音の碑

・建立年代 文政七年(一八二四)七月二十三日

・施主 国分寺村 本田氏

・石材 福島県産 八目石(やめいし)

・市内に現存する馬頭観音十一基の一つ。

当時の国分寺村は、戸数六十六、男一五七人女一四九人、馬が二十二頭という状況でした。

これは、江戸幕府が同程度の村に期待した馬の飼育頭数十五頭を大きく超えています。

馬は農耕の大切な担い手でしたが、その他にも農耕の合間に江戸へ薪炭野菜などを運ぶ賃稼ぎにも馬は欠かせないものでした。

国分寺村が府中宿への助郷(すけごう)として馬の供給をしていたことも、この村に馬が多かった理由のひとつでしょう。

そうした国分寺村の路傍にこの石碑はひっそりと建っていました。

説明には、こうありました。

希望とはあっても検地の結果を踏まえている以上、幕府によって課せられた飼育頭数のノルマといえるのではないでしょうか。

 言い換えれば、普通はこれで十分と、幕府が言っていると同じですね。

それを、幕府に頼まれてもいないのに余分な馬をわざわざ飼育していると見るべきでしょうか。

それとも、国分寺村はこれくらい飼育できると見られていたのでしょうか。

経緯は、不明です。

だが、国分寺と言えば最大の国分寺が建立された土地でもあります。

他と同じ程度の負担力しか、国分寺をはじめとする武蔵の国になかったなら、相当過大な負担になったでしょう。

ところが、見事建造されたばかりか、分倍河原の合戦で国分寺が焼けた跡、多少移転して再興された国分寺薬師堂の敷地も相当な広さなのです。

背景には、武蔵の国に相当な国力があった可能性を見た方が良いでしょう。

 武蔵の国は、今の東京都と埼玉県の大半が入るのでしょ。

埼玉県のHPの“生産振興課/埼玉県の養蚕・絹文化の継承について” http://www.pref.saitama.lg.jp/page/909-20091214-442.html というページには蚕糸関係歴史資料という記事があります。

そのなかの埼玉県の養蚕の歴史時代から、一部抜粋して紹介しましょう。

(和暦)西暦        主なできごと

弥生        紀元前後   大陸から養蚕機織の技術が日本に伝来
      崇神天皇の御代    知々夫彦命が国造として秩父に来任、養蚕と機織りを教示
         3世紀末    魏志倭人伝に栽桑・養蚕・製糸・機織の記述

古墳      6世紀頃      朝廷が東国の各地に屯倉を設置   
                              賀美郡(現児玉町)に養蚕機織の部である長幡部を設置

飛鳥(大化)    645   大化の改新

奈良       8世紀頃    武蔵の国では、租庸調のうち調を絹で納める
                             遣唐使などの大陸との交易に絹織物を交換材として利用

平安(寿永)    1182    源頼朝が武蔵国円浄坊に桑田五町を寄進(吾妻鑑)

鎌倉       13世紀    幕府が「桑代」と称して養蚕に課税(御成敗式目)

         14世紀  絹の需要が拡大し、絹座(鎌倉七座の一座)が興る

その後の記述にも、武蔵の国でいかに絹産業が盛んだったかを物語る内容がいくつもあります。

幕末から明治にかけて外貨を稼いだ養蚕の舞台もまた、武蔵の国でありました。

 絹と言えば、シルクロードを生み出した交易品目でもあるでしょ。

最大の国分寺や、同規模の村より多かった国分寺村の馬の飼育数の背景には、武蔵の国の養蚕が生み出した富があったのかも知れません。

 関東と言えば、秦氏の一大拠点だったでしょ。

 本田氏、ひょっとして秦氏の一族ですかね。

 転化のようにも、みえるけど。

字は違っても国分寺には本多八幡神社という神社があります。

山城国の石清水八幡宮から勧請されています。

 山城の国と言えば、ここも秦氏の一大拠点だったですね。

さらに、古代で機織りといえば秦氏ですよ。

おそらく秦氏の織機が詰まって機織りとなったと思われます。

飛ぶ鳥の明日香が詰まって飛鳥(あすか)となったのと、同様の経緯なのでしょう。

秦氏は余りの大勢力になったので区別のために苗字を分けたら、やがて経緯が忘れられてしまったのかもしれませんね。

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光の過去は変えられるのか。

日本経済新聞電子版にこの記事がありました。

光子の過去を変える!? 量子力学の不思議な実験
日経サイエンス
2012/1/21 7:00
http://www.nikkei.com/tech/trend/article/g=96958A9C93819595E0E2E2E2818DE0E2E2E3E0E2E3E0E2E2E2E2E2E2;p=9694E3E7E3E0E0E2E2EBE0E2E3E2
 先日ハイゼンベルクの不確定性原理を破る測定で注目を集めた量子力学。

現代物理学の根幹である量子力学が語るミクロな世界は、常識を超えた不思議な現象にあふれている。

とりわけ奇妙なのが、今の現象を測定すると、過去が変化するかのような現象だ。

通常のヤングの実験(上)、スリットに観測装置をおいたヤングの実験(中)、光子から観測の記憶を消去したヤングの実験(下)。谷村省吾氏より提供

 壁に開けた2つのスリットに光を当てると、背後のスクリーンに光の縞(しま)模様が映る。2つのスリットを通った光の波が重なって強め合ったり弱め合ったりするためで、光が波であることを示す「ヤングの実験」として、よく教科書に載っている。

 一方で、光は1個2個と数えられる「光子」という粒でできていることが知られている。

ヤングの実験で光を極限まで弱めると、光子が1個ずつ2つのスリットに当たるようになる。

この光子をスクリーン上で検出してその場所に点を打ち、これを何度も繰り返すと、やはり光の点は縞模様を描く。

 粒である光子の1個1個が干渉を起こすというのも変な話だが、現在では、光子は観測されていない時には空間に広がる波として伝わって干渉を起こし、観測すると粒となって現れると考えられている。

 ではスリットで光子を観測し、光子がどちらを通ったかわかるようにしたらどうなるだろう。

2つのスリットにそれぞれ偏光板を置き、右を通った光子と左を通った光子が異なる偏光を持つようにする。

光子に目印がつき、どちらを通ったかわかるようにすると、干渉縞は消えてしまう。光子はスリットのところで観測されて粒となり、スリットの一方しか通れなくなるからだ。

と、これまで説明されてきた。

 ところが光子の行く手にもう1つ偏光板を置いてすべての光子の偏光をそろえ、どちらを通ってきたかわからなくすると、再び干渉縞が現れる。

光子は再び波になったのだろうか? 

だがスリットはもう通ってしまった後だ。

光子が第2の偏光板に当たったとたん、スリットに戻って干渉をやり直すというのだろうか。

 さらに高度で奇妙な実験も行われている。

まず互いに連動する光子のペアをたくさん作り、一方の光子を適当に飛ばしてスクリーンに当てた上で、他方の光子の経路を気まぐれに調べたり調べなかったりする。

スクリーン上の光子のうち、相手の光子がたまたま調べられなかったものだけを取り出してスクリーンを感光させると、そこには干渉縞ができている。

逆に相手の経路が調べられた光子だけを取り出すと、干渉縞は見えない。

相手のどれを調べるかは後から決めたのに、そのことが先に飛んできた光子の過去を書き換える。

 光子の運命はいつ決まるのか。

名古屋大学の谷村省吾教授は、光子が観測器に飛び込んだ時ではなく、それよりずっと後、「人間がいるマクロな世界で結果が確認された時」だと見ている。

それまでは光子の過去は変更可能だという。

(詳細は25日発売の日経サイエンス3月号に掲載)

なんだ、日経サイエンスの宣伝記事か、などと言わないでください。

この実験は、量子力学以前から議論されてきた、光は波か粒子かという問題を再度提起してきたと言えます。

 でも、古典力学は光を波としてきたのでしょ。

それが、光電効果などで粒子の側面を見せ始めたので、量子力学が生まれてきたのです。

 さらに、波か粒子かの問題は電子なども巻き込んでいくのでしたね。

だが、果たして光は波になったり光になったりを繰り返しているのでしょうか。

 光は、一貫して波であると、言いたいの。

光は、古典力学が明らかにしたように、基本的には波だと思います。

古典力学の時代は、光の粒子性を明らかに出来るだけの実験が出来なかっただけでしょうね。

 光はパルス状の波動だが、古典力学の実験精度では測定出来なかった。

火花は出せても、きれいなパルスまでは無理だったでしょうね。

光の粒子性は、光は本質的にパルスとして生成することに由来しているのでしょうね。

しかし、量子には局所性と非局所性という難問があります。

 局所性が前面に出る実験では粒子性が、非局所性が前面に出る実験では波動性が、現象する。

量子は、おそらく疎密波のような形なのでしょうね。

実際は、疎密波と横波を合わせた姿であろうと、想像できます。

相手の経路が調べられた光子だけを取り出すと、干渉縞は見えないという結果も、このように解釈できるかも知れません、

一方の経路は調べられた時点で波動から粒子に転化した、つまり運動エネルギーが位置エネルギーに転化したということでしょうね。

 局所性=粒子性=位置エネルギー

 非局所性=波動性=運動エネルギー

 そういうことですね。

一方の状態が決まると、他方の状態も決まる。

最新の量子力学が見出した事態が、今回の実験でも現象したという事でしょうね。

 スピンの上向きか下向きか決まる代わりに、干渉縞ができるかどうかということになっただけ。

そういうことでは、ないでしょうか。

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稲荷の鳥居はなぜ赤いか想像してみた。

稲荷といえば、赤い鳥居に白い狐が一般的ですね。

 稲荷は、山城国稲荷山(伊奈利山)の西麓、すなわち現在の京都市伏見区にある伏見稲荷大社に鎮座する神で秦氏の氏神ですよね。

 そして、主な祭神は宇迦之御魂神。

宇迦之御魂神は、別名「御饌津神」(みけつのかみ)と言い、一方で、狐の古名を「けつ」と言うので、御饌津神を「三狐神」と解して、狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まったと伝えられるのでしたね。

でも、こういうことがわかっても、どうしてこの色かは、謎でしょ。

 そうですね。

白についていえば、陰陽では西や陰に配される色ですよ。

生と死でいえば、死に配される霊、つまり神などの魂に関する色です。

つまり、白い狐は魂の世界の生き物という事です。

 聖なる生き物は、白とされる場合が多いですよね。

狐は、かつて食肉目と呼ばれた哺乳綱ネコ目イヌ科の動物です。

狭義には、キツネ属 Vulpes の総称で、広義には、キツネ族のオオミミギツネ属、ハイイロギツネ属、さらにイヌ族のカニクイキツネ属、フォークランドキツネ属、クルペオギツネ属まで含める場合もあります。

しかし一般的に「fox」は北半球に広く生息しているキツネ属のアカギツネのことを指します。

古来日本で「狐」といえばアカギツネの亜種であるホンドギツネのことを指したが、明治以降キタキツネも含むようになりました。

食性は肉食に近い雑食性だが、普段は、鳥、ウサギ、齧歯類などの小動物や昆虫を食べます。

雑食性となるのは、餌が少ないときで、人間の生活圏で残飯や鶏を食べたりすることがあります。

つまり、食料に困らない状況では、狐は肉食獣として振る舞うわけです。

 人里は、人の食料や財産を狙うネズミが多いですよね。

 そこで、ネズミさえ取ってくれれば青大将のような蛇でも喜んだのでしょ。

人里は、狐にとってネズミが多いから食べ物に困らないし、雑食とは言っても残飯は狙っても農作物は漁らないから、鶏とか襲われない限り益獣として歓迎されたでしょうね。

 日本じゃ、養蚕家はネズミ除けに猫が欲しくてもなかなか手に入らないから、猫石と呼んで石を置いたり、猫絵を飾ったりしたくらいですから。

 日本の自然界にいる狐は、警戒心が強いから懐いて家に住んでくれないけど、人里に来てネズミを食べてくれるだけでもありがたかったでしょうね。

それで狐を、神様が遣わしてくださった存在と見たというのは、有り得ますね。

 神は魂の世界の存在で、白は魂の色だから、白い狐なのでしょうかね。

時代を下ると産業神化していく稲荷だが、時代を遡っていくと農耕神として祀られていたせいか意外と水関係の場所に祠が見つかります。

それも、しばしば弁才天がすぐ傍らだったりします。

そして、時として火除けの神として祀られるのです。

もしかすると、稲荷には水神の側面があるのかも知れないですね。

 そういえば、作物を守ってくれる狐を象徴とした稲荷は農耕神という性格から、産業一般の神へと展開したのでしたね。

 でも、火除けの神として祀られることもあった稲荷の鳥居が、火を連想する赤い鳥居というのは、なんだか皮肉。

「日照りに不作なし」と稲作は言われます。

実際、雨がシトシトと降り、日照りの正反対の冷夏こそ、お米は不作になってしまうのというのです。

稲は、元が南方生まれだから、日差しを欲しがるのですよ。

稲は水の管理さえできれば、多少暑い日が続いても平気だし、かえって喜ぶわけです。

 水神とされる弁才天が傍らに祀られることがあるのも、水に困りたくないからでしょうね。

それと、陰陽では、火に配当される赤は地にも配当されます。

地に配当される赤を上に持ってくれば、天と水に配当される黒は下に来るでしょ。

つまり、水に困らない呪術として、わざと鳥居を赤くしている可能性がありますよ。

 それで、稲荷は水を操る神と見られ、水神としての側面を持つから、水に関連する場所に祀られる場合がある。

 さらに、陰陽では水克火とされるから、火除けの神としても祀られる。

そうかもしれません。

それと、狐の対極には、よく、狸が配されます。

 狐も狸も、化けるとされますね。

狐は上を向いたまま化けるけど、狸は一旦宙返りして化けますね。

おそらく、狐はよく昼間に見かけるが、狸はもっぱら夜に見かけることと関係あるのかも知れないですよ。

 狐はネズミは獲るけど作物は盗らないので益獣として重宝されるが、狸はネズミも獲るけど作物も盗るので害獣扱いという点も、関係ありそうですね。

狐を陽とすれば狸は陰となるので、狸封じの呪術も兼ねて狐が稲荷に配されている点もありそうですね。

さらに、里の獣と書いて狸だけれども、かつて狸とされた生物の大半は実は猫だったという研究もあります。

猫はミャオと鳴く生き物であり、ネズミは獲るが作物は盗らず害獣の狸とは別とわかったので、中国語でミャオと読む苗の字を当てたのでしょうね。

 猫の字は、前足を揃え腰を落として座っていることが多い猫の姿も連想できますね。

だが、狸と書かれた生き物の大半が実は猫だったとなると、猫は里の獣の総称とされた生き物だったことになります。

 確かに、正面や後ろからシルエットを見たら、狐も狸も猫も、遠目には似てますね。

 さらには、テンやイタチも、シルエットは見様によっては猫そっくり。

 イタチの仲間であるフェレットが珍しかったころ、変わった猫ですねと、言われることが良くあったそうですね。

 兎も、猫と印象がダブルと聞いたこともあります。

猫には、神と悪魔の二つの側面をよく指摘されます。

そして、救いの神と裁きの悪魔は、ともに神の眷属なのです。

さらにいえば、救いの神であるはずのイエスは、一方で最後の審判では裁きの神として再臨します。

陽の狐を救いの神とし、陰の狸を裁きの悪魔として対を考えたなら、猫は一身でその両者を兼ねる存在です。

 二股の尾を持つとされる猫又は、猫の持つ神と悪魔の二面性の象徴の妖怪と、以前、見ましたね。

 稲荷(INARI)の読みがINRIに通じるところから、両者を混同して論じる議論が見られるが、稲荷の狐までイエスに重なって見えてしまう…。

INRIとは、“IESVS NAZARENVS REX IVDÆORVM”の略です。

INRIとは、古典ラテン語で、“イエス ナザレの人 ユダヤの王”という意味です。

そして、稲荷は秦氏の氏神と見られています。

その秦氏には、ユダヤ人キリスト教徒説があるのは、やはり偶然で片づけられそうもないですね。

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白馬の節会

白馬節会(あおうまのせちえ)は、古来の年中行事の一つです。

節会(せちえ)とは、日本の宮廷で節日(祝の日)などに天皇のもとに群臣を集めて行われた公式行事で、饗宴を伴います。

奈良時代以前(律令制下)から続いた節会は、次の通りです。

元日節会(正月一日)

白馬節会(正月七日)

踏歌節会(正月十六日)

上巳節会(三月三日)

端午節会(五月五日)

相撲節会(七月七日、のち七月下旬)

重陽節会(九月九日)

豊明節会(十一月新嘗祭翌日の辰の日)

釈奠

盂蘭盆

平安時代には、元日、白馬、踏歌、端午、豊明が五節会として、特に重んじられました。

江戸時代には、人日(一月七日)、上巳、端午、七夕、重陽を幕府が式日として定め、五節句として重視しました。

 白馬節会は、人日の行事でもあったのですね。

白馬節会は、中世日本の宮廷年中行事の一つでもあったが、天皇家では明治維新時に廃絶されました。

1月7日、天皇が豊楽院(後に紫宸殿)に出御して邪気を祓うとされる白馬を庭にひき出し、群臣らと宴をさせます。

本来は読みのとおり青馬節会でした。

青馬(あおうま)は、あおごまとも呼ばれます。

 あおごまとは、青駒とも書いたのですかね。

どうでしょう、馬に詳しい人に聞いてみたいですね。

青馬とは純白でも黒でも栗色でもない、灰色がかった毛並みの馬を言ったもののようです。

他にも、濃い青みを帯びた黒馬、淡青色や淡灰色の馬、ではないかという声もあります。

また、文字通り青毛の馬という説もあります。

青は春の色であり、馬は大陸の考え方では陽獣でした。

春のはじめである正月に青い馬を見ると一年の邪気を祓い除くという、大陸の伝説から起こったものと考えられています。

醍醐天皇の頃になると白馬が行事に使用されるようになり、読み方のみそのまま受け継がれたため「白馬(あおうま)」となったとされます。

 醍醐天皇の頃といえば、平安中期ですね。

醍醐天皇は、どちらかといえば平安前期の天皇とされますけどね。

平安前期といっても、最後の方なので平安中期といっても、間違えではないでしょうね。

平安中期は国風文化の盛んになったころであり、それまでの中国文化の影響が薄れて、日本独自の白色に対する神聖感から白馬を用いるようになったとも言われています。

 そういえば、白蛇、白狐は、神社と結びつきがありますね。

 あれば面白いけど、なぜか、白猫や白狸は神社との結びつきはない。

 白狸は、いるとは聞くけど目撃例は少ないようですね。

白狸は一定の割合で生まれるらしいけど、自然では生きていくのは厳しいのかもしれないですね。

 白狸、ネットで動画や画像を見かけたことあるけど、可愛いですよね。

 普通の狸も、可愛いけど。

生き物としての猫と神社の結びつきはないけど、基本的には神職はみな禰子の子孫で、しかも装束はたいてい白だから、白いねこが神社にいると言えば、言えなくもないですけどね。

 猫はヨーロッパでは魔物の仲間扱いだったから、白猫でさえタロットでは登場しても神聖視されてないし。

2012年現在では、白馬節会は、京都市北区にある上賀茂神社や大阪府大阪市にある住吉大社などの神社で、神事として行われています。

 平安京については、ヘブル語に訳すとエルサレムになるというでしょ。

 平城京についても、今では奈良の都というけど、当時はナラに寧楽の字も当てていたようですね。

「おをによし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり」ですね。

 寧楽京もまた、エルサレムの意味となるとネットで見ましたよ。

寧楽と書いて、本来は「ねいらく」と読みます。

寧楽とは安楽の意で、平和の都を意味してこの字が当てられたと考えられていますからね。

寧楽と書いて、「なら」とも読んだのは、当時の発音は丸唇音の傾向が強かったからかも、しれないですね。

平安時代は、天皇家の継承問題が一段落ついて、ようやっと落ち着いた桓武天皇以降のことですね。

その後、天皇家の継承問題は持明院統と大覚寺統に始まる南北朝まで、収まっていました。

ちなみに、後深草上皇系は持明院統、亀山上皇系は大覚寺統と呼ばれるのは、それぞれが政務を行った場所の名前によります。

後に持明院統が北朝、大覚寺統が南朝となり、二つの朝廷が並立した南北朝時代へと繋がっていきました。

 いままた、皇室の継承問題は男系が途絶えたらどうするかという形で、持ち上がっていますね。

事態の推移を、見守りたいですね。

平安自体中期の頃から、白馬節会で馬が青馬から白馬になったのは、国風化の一環くらいにしか思われていません。

だが、陰陽で見ると、白は西と陰と死に配当され、青は東と陽と生に配当されるのです。

白馬節会で、白馬を「あおうま」とあえて呼ぶのは死と再生の象徴として用いているからでしょう。

 四季でいえば、春と夏は陽と生に配当され、秋と冬は陰と死に配当される。

つまり、春の始まりとは生の始まりとともに死の終わりでもある冬の終わりなのですよ。

死と再生は、脱皮にもたとえられます。

古い年を脱ぎ捨て、新しい年に生まれ変わるとともに、一年の邪気を祓い除くというわけです。

中国では、新生の象徴として二重の意味で陽とされる青馬を用いたのでしょう。

けれど、二重の陽は陽の極みとなって、陰に転化してしまうと、日本では解釈したのでしょう。

さらに、陽の馬が陰の白であることで、陰陽太極の象徴ともなるので余計に縁起が良いと見なした可能性はあると思いますよ。

 死と復活と言えば、イエスを連想してしまいますね。

またも、日ユ同祖論に持っていきたいのですか。

 だって、平城京も平安京も、エルサレムと訳せる。

 その平城京で、死と復活の行事ですよ。

 イエスは旧約で予言された救世主でしょ。

状況証拠としては、確かに揃いますけどねえ。

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SPEEDIは誰のためのシステムか?

NHKは2012年1月17日次のようなニュースを流しました。

時が来れば閲覧できなくなるので、記録としてとっておきます。

国民に知らせないでおきながら、アメリカにはすぐ知らせるって、いったいどこの国の組織のつもりなのでしょう。

SPEEDI情報 米軍に提供
1月17日 0時7分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120117/k10015315481000.html

東京電力福島第一原子力発電所の事故原因を究明する国会の「事故調査委員会」は、初めての本格的な質疑を行い、参考人として招致された文部省の担当者が、放射性物質の拡散を予測する「SPEEDI」と呼ばれるシステムによる予測データを、事故の直後に、アメリカ軍に提供していたことを明らかにしました。

国会の事故調査委員会は、16日、政府の事故調査・検証委員会の畑村委員長や東京電力の事故調査委員会の委員長を務める山崎副社長らを参考人として招致し、公開で初めての本格的な質疑を行いました。

この中で、文部科学省科学技術・学術政策局の渡辺次長は、放射性物質の拡散を予測する「SPEEDI」と呼ばれるシステムで、事故の直後に行った予測のデータについて、外務省を通じて直ちにアメリカ軍に提供していたことを明らかにしました。

SPEEDIのデータは、文部科学省が「実態を正確に反映していない予測データの公表は、無用の混乱を招きかねない」として、一部を除き、事故の発生から2か月近く公表しませんでしたが、アメリカ軍に提供した理由について、渡辺次長は「緊急事態に対応してもらう機関に、情報提供する一環として連絡した」と説明しました。

また、質疑では、事故調査委員会の石橋委員が「平成19年の新潟県中越沖地震の経験がありながら、東京電力は、地震と津波に対して、対応が甘かったのではないか」と指摘したのに対し、東京電力の山崎副社長は「事業者として、忠実に対策を取ってきたと思っているが、考えているような前提をすべて覆すようなことが起きた。もう少し考えなければならないということがあるならば、考えていきたい」と述べました。

質疑を終えて記者会見した事故調査委員会の黒川委員長は、原発事故の対応にあたった菅前総理大臣や枝野経済産業大臣の参考人招致について、「検討事項に入っている」と述べました。事故調査委員会は、30日に次回の質疑を行うことにしています。

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饕餮

饕餮(とうてつ)は、中国神話の怪物です。

饕餮は、渾沌(こんとん)、窮奇(きゅうき)、檮杌(とうこつ)とともに「四凶」ともされます。

『神異経』をひけば「饕餮、獣名、身如牛、人面、目在腋下、食人」といいます。

明代には、竜の子である「竜生九子」の一つで、その五番目に当たるとされました。

饕餮は、体は牛か羊で、曲がった角、虎の牙、人の爪、人の顔などを持ちます。

 このようなキメラを、飛鳥昭雄と三神たけるならメルカバーだというでしょうね。

古代エジプトのスフィンクスに対しても、メルカバーと主張しますからね。

 そういえば、鵺にも、メルカバー説を展開しますからね、あの二人は。

饕餮は饕餮文(とうてつもん)として、殷代から周代にかけて青銅器や玉器の修飾に部分的に用いられます。

根津美術館所蔵の殷や周の青銅器を見にいったら、饕餮文がありました。

これまで博物館で見ていた饕餮は、ほとんど平面だったのです。

鼎などには、饕餮文は好んで使われました。

ちなみに、饕餮が鼎の模様とされるのは、飲食を好むということによります。

ところが根津美術館の収蔵品の中には、饕餮文方盉(とうてつもんほうか)があって、取っ手や脚に饕餮と思しき立体的装飾がありました。

盉(か)とは注酒器のひとつで、酒をほかの酒や香料、水などと混ぜ合わせる撹拌器であり、盃に注ぐ役割もすると考えられています。

取っ手や脚に表現された饕餮を見て、まるで羊や山羊のような角を鹿の様な枝状のものに変えたら竜そっくりでないかと思いましたね。

酒を供える器である双羊尊というのもあるが、方盉の取っ手の獣は羊というより、やはり全体の印象から饕餮でしょう。

特に方盉の取っ手の饕餮は、角を枝状のものに変えれば、まるっきり竜そのものという感じでした。

竜の特徴の一つである長い髭も見えないので、あまりこういうこと言う人いないようですね。

でも、装飾文様は、なんとなく髭を描いてあるように見えなくもないという気はしますけどね。

 饕餮文は、殷や周の前にもあったのですか。

良渚文化の玉琮には、饕餮文のすぐ下に王の顔が彫られたものも出土しています。

そのため、饕餮の起源は良渚文化の栄えた長江流域で崇拝された神だったといわれています。

良渚文化の名は、1936年、浙江省の杭州市良渚で発掘されたことによります。

良渚文化は、長江文明における一文化です。

長江文明は、中国長江流域で起こった古代文明の総称です。

黄河文明と共に中国文明の代表とされます。

文明の時期として紀元前14000年ごろから紀元前1000年頃までが範囲に入ります。

後の楚・呉・越などの祖に、なっていると考えられます。

 長江と言えば、日本古代史との関連でしばしば注目される地域ですね。 

稲作などは長江文明から海を渡って日本・朝鮮に伝わったという説もありますね。

台湾から太平洋全域に拡散していったオーストロネシア語族のルーツを、長江文明に求める説もあります。

良渚文化は、紀元前3500年ころから紀元前2200年ころにみられました。

崧沢文化などを継承しており、黄河文明の山東竜山文化との関連も指摘されています。

柱形・錐形・三叉形など多様な玉器の他、絹なども出土しています。

分業や階層化が進んでいたことが、殉死者を伴う墓などからうかがえます。

近年、長江文明研究の進展により、良渚文化は夏や殷王朝に比定されています。

また、黄帝の三苗征服伝説を、黄河流域の中原に依拠した父系集団の龍山文化による三苗(ミャオ族)征服の痕跡とみなし、黄河文明と長江文明の勢力争いを描いたものとする見方もあります。

徐朝龍によれば、良渚文化は稲作都市文明を形成していました。

1000年ほどの繁栄を経て、洪水でこの文化は崩壊します。

良渚文化集団の一部は北上し、黄河中流域で夏王朝を興しました。

やがて夏王朝は支配下にあった東夷后羿(こうげい)部族に倒されます。

夏王朝の遺族の一部は北西に逃れ、のち四川盆地に移住し、三星堆文化を築いたとされます。

ただし、これらの装飾が当初から饕餮と呼ばれる存在の描写であったという証拠は何もなく、後世に饕餮文と呼ばれているだけです。

そのため、中国考古学の専門家である林巳奈夫はこれを「獣面紋」と呼んでいます

饕餮文と、はっきり認められる文様が登場するのは、やはり殷や周の頃と言って良いでしょう。

殷代から周代のころ、王は神の意思を人間に伝える者として君臨していました。

 なんだか、地上の太陽神を名乗った古代エジプトのファラオや、神に仕えるべき存在とされた古代イスラエルの王を連想できますね。

王の地位を広く知らしめ、神を畏敬させることで民を従わせる為に、祭事の道具であるこのような器具に饕餮文を入れたものとされます。

饕餮の「饕」は財産を貪る、「餮」は食物を貪るの意であります。

何でも食べる猛獣、というイメージから転じて、魔を喰らう、という考えが生まれ、後代には魔除けの意味を持つようになりました。

饕餮は、一説によると、蚩尤(しゅう)の頭だとされます。

蚩蚘とも書く蚩尤は、古代中国神話に登場する神であり、三皇五帝のうちの一人、炎帝神農氏の子孫とされています。

兵器の発明者とされ、霧をあやつる力があったとも言われています。

獣身で銅の頭に鉄の額を持ち、また四目六臂で人の身体に牛の頭と蹄を持つとか、頭に角があるなどとされます。

路史によると、羌(きょう、あるいは、かい)が姓とされます。

その姿を、『述異記』巻上はこのように表現します。

「銅の頭に鉄の額、鉄石を食し、……人の身体、牛の蹄、四つの目、六つの手を持つ。 ……秦漢の時代の説によれば、蚩尤氏の耳鬢(頬の髪、もみあげのあたり)は剣や戟のようで、頭には角を持つ」

『述異記』巻上には「四目、六手」という姿のほかに、別の説も載せています。

「山西の太原地方に現れた蚩尤は、亀足、蛇首であった」

漢の時代に作られた書物『竜魚河図』では、こう記されます。

「獣の体をして人語を解し、銅の頭に鉄の額を持ち、砂や小石を食していた」

また、古い占いの書『帰蔵』には、このようにあります。

「八肱(八つのひじ)、八趾(八つの足)、疏首」

疏首については、疏が水路を分けて通すとか関係が分け離れるという意味であることから、複数に分かれた首と解釈されたりするが、はっきりとしません。

『山海経』西山経に出てくる兵乱を起こす神は、蚩尤が連想できる天神が登場します。

「天神あり、その状態は牛の如くで八つの足、二つの首、馬の尾、その声は勃皇(未詳)のよう。これが現れるとその邑に戦がおこる。」

蚩尤が古くは天神と呼ばれていたことが、うかがえます。

蚩尤は、砂や石や鉄を喰らい、超能力を持ち、性格は勇敢で忍耐強く、同じ姿をした八十一人(一説に七十二人)の兄弟がいて、彼らと共に、武器をつくって天下を横行していました。

まだ天子となる前の公孫軒轅(黄帝)は、他の横暴な諸侯は征伐したものの、蚩尤だけは討伐することができなかったのでした。

やがて黄帝が即位するに及んで、蚩尤との対決が本格化したのです。

決戦は、『史記』五帝本紀は涿鹿の戦いと記し、『山海経』大荒北経では冀州の野と言われています。

兄弟の他に無数の魑魅魍魎を味方にし、風、雨、煙、濃霧を巻き起こし、敵を苦しめ、戦いははじめ蚩尤の側が優勢でありました。

『竜魚河図』は、こう語ります。

「仁義に篤い黄帝でも、蚩尤を押さえることができなかった」

『山海経』大荒北経では、こう描写しました。

「蚩尤は兵器をつくり、黄帝への攻撃を開始した。それに対して黄帝は応竜に命じて蚩尤を冀州の野において迎撃させた。応竜とは、竜の中でも翼のあるものを言い、雨を降らせる力を持つものであります。ところが蚩尤はこれに対抗して、風伯(風の神)と雨師(雨の神)をまねき、暴風雨をほしいままにした。そこで黄帝は、自分の娘である魃(妭とも書く)を天上から呼び寄せた。日照りの神である魃の力によって風伯・雨師の力は封じられ、ついに蚩尤も討ちとられた。」

『竜魚河図』の説話では、戦いの顛末をこう締めくくります。

「天帝に遣わされた玄女から「兵信神符」という呪符を渡された」

そしてついに、蚩尤は皇帝に敗れます。

黄帝は指南車を使って方位を示し、遂に蚩尤を捕え殺したといわれています。

処刑された蚩尤を葬った塚は山東の寿張とも同じく山東の東平陸にあるとも言われ、一説には一方に頭と胴体、もう一方に手足を葬ってあるとも言われています。

『述異記』巻上は、こう伝えます。

「冀州(河北)の人が銅鉄でできたような髑髏を掘り出し、これが蚩尤の骨だとされた。その歯の長さは2寸、固くて砕くことができなかった。」

また、山西の解州には塩池という場所があり、特産の河東塩を産出しているが、これは赤みをおびており、蚩尤が死んだ時の血が化したものだと伝えられています。

この時、他に蚩尤に味方したのは、ミャオ族の祖先といわれる勇敢で戦の上手い九黎族、巨体の夸父族でした。

最後に捕らえられた蚩尤は、殺されたが、このとき逃げられるのを恐れて、手枷と足枷を外さず、息絶えてからようやく外されました。

身体から滴り落ちた鮮血で赤く染まった枷は、その後「楓(フウ)」となり、毎年秋になると赤く染まるのは、蚩尤の血に染められた恨みが宿っているからだといいます。

赤旗を「蚩尤旗」と言い、劉邦がこれを軍旗に採用したとされます。

蚩尤の支配下にあった民衆は、蚩尤が討伐された後、その善良なものは鄒屠の地へ、凶悪な者たちは有北(北の寒冷な不毛の地)へと移住させられました。

そのうち、鄒屠の地へ移住した者たちは鄒屠氏と呼ばれ、後に鄒氏と屠氏に別れたと言います。

前秦・王嘉撰『拾遺記』によれば、帝嚳高辛氏の后は、鄒屠氏の出身だったと言います。

戦いは終わり、九黎族は逃れて三苗となりました。

三苗は現在の中国を中心に、その周囲の東南アジア諸国、また一部は米国に亡命・移住した、ミャオ族です。

黄帝は敵討ちを心配して三苗を皆殺しにしようとしたが、南方の民を根絶やしにできず、その後、三苗は歴代の中国原の覇王たちを執拗に悩ます手強い敵となりました。

楚は三苗の貴族階級が建国した国と言われています。

『国語』楚語とその注によると、蚩尤を殺した黄帝の子である少昊金天氏の天下の衰えを見て、反乱を起こしたといいます。

「少昊の衰えた時に反乱を起こした九黎(黎氏の九人)は「蚩尤の徒」であった」と伝わっているそうです。

一方、負けてしまったために化物とされてしまったが、蚩尤が帝王神であったと記す記録も残っています。

『逸周書』嘗麦解に記された伝説は、次の通りです。

「蚩尤は赤帝に命じられて少昊におり、四方に臨み百行を司った」

蚩尤は、戦争で必要となる戦斧、楯、弓矢等、全ての優れた武器である五兵すなわち五種類の兵器を発明したといいます。

秦の時代までには、蚩尤は五兵の創始者とされ、兵主神とも呼ばれて祭祀の対象となっていました。

司馬遷『史記』封禅書には、蚩尤は「兵主神」に相当するとされ、戦の神と考えられています。

「天下を統一した始皇帝は泰山で封禅をおこなった後、東の海岸地方で祭祀をおこなった八神の一つに兵主の神を蚩尤の塚で祭り、また漢の高祖・劉邦は、挙兵した時に蚩尤をまつったという。」

蚩尤が反乱を起こしたことで、これ以降は法を定めて反乱を抑えなければいけなくなったともいわれています。

漢代・作者不詳『竜魚河図』には、伝説として、蚩尤が神として祭られるようになった経緯を、次のように記しています。

「……蚩尤が死んだ後、天下は再びあちこちの国で騒動が起こる不穏な日々が続いた。そこで黄帝は蚩尤の姿を描いて示し、これで天下の不心得なものを威嚇した。この絵を見た世の人々は、みなあの恐ろしい蚩尤がまた生き返って現れたと思い、どの国々も蚩尤の絵にひれ伏した。」

兵主神の祭りは、のちに日本にも伝えられました。

 そういえば、兵主神社は、日本でもいくつかの地方にありますね。

 饕餮や蚩尤を祀っている神社なのですか。

饕餮や蚩尤に、はっきり似たものがあれば、誰にでもわかるのでしょうけどね。

日本に来て、どういう変遷を辿ったか知りたいですね。

 長江と日本の繋がりが、注目されてきたことを思えば、長江文明に遡るかもしれない存在が日本に祀られているのは面白いですね。

一方中国では、蚩尤に対する祭祀は、その後、徐々にすたれて行ったらしいですね。

黄帝と敵対する邪神としての性格を強調された蚩尤は、祭祀よりも征伐の対象となって行ったと指摘する人もいます。

『関帝録古記』には、このような話が伝わるそうです。

宋の大中祥符七年(西暦1014年)、解州の塩池の水が減少して、塩の収入が少なくなりました。

皇帝が視察の使者を派遣したところ、その使者は城隍神(土地神)と名乗る老人と出会って「塩池の害は蚩尤のせいだ」と教えられたのです。

そこで皇帝が近臣の呂夷簡を解州へ派遣して祭らせると、夢に蚩尤が現れてこう告げたといいます。

「上帝(天帝)が自分にこの塩池の主宰をさせているのに、皇帝が自分の仇敵である軒轅(黄帝)の祠を池のほとりに建てたので、水を涸らすのだ」

この報告を聞いた侍臣の王欽若は、上奏していいました。

「蚩尤は邪神であり、信州竜虎山の張天師に命じてこれを平定させるべきだ」

召し出された張天師は、薦めました。

「死後、神となった忠烈の士の中でも、蜀将関羽は忠勇を兼備しています」

まもなく美しい髯をした武人が空から現れ、勅命をうけて消え去きました。

ある日、解州の塩池の上を黒雲が覆い、風雨雷電にわかに起こって、空中に戦いの音がしていました。

やがて雲がおさまり晴天となってから見にゆくと、池の水は元のように満々とたたえられていたといいます。

また、明代の小説『平妖伝』では、蚩尤の血が塩池となったことを、こう評しているそうです。

「蚩尤が兵器を創造した罪業が重いために、万世の人々が彼の血を食らうことになったためだ」

おしらさまのときにも、日本と中国に似た話が伝わりながら人物の性格の設定は大きく異なることを見てきたが、今回もまったく逆な展開なのは興味深いですね。

追記

あまり、饕餮は龍に似ていると指摘する人はいないようだ、などと言ってしまったけど、私の見落としがあったようです。

東京国立博物館恒例の毎年恒例の干支にちなんだ新春特別展示、見てきました。

そうしたら、東京国立博物館140周年特集陳列天翔ける龍という企画展示があり、龍の表現の歴史を振り返るというテーマの中に、饕餮はありました。

また、龍の中には饕餮に似た角のものや、竜門を登ることのできた鯉は竜になる言い伝えにちなんだ鯉の造形の中にも饕餮に似た角のものは、ありました。

饕餮は、龍の系譜とする見解は研究者のなかにもあるのですね。

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天然のアミノ酸はなぜ大半が左旋光性か想像してみた。

旋光性は、右と左のものとがあります。

旋光とは、光が直線偏光がある物質中を通過した際に回転する現象です。

この偏光と言う現象は、偏光する性質をもったフイルムで体験できます。

 科学実験用の材料を打っている店やサイトで、買えますか。

偏光板とか、偏光フィルムで検索すれば、見つかりますよ。

ただ、企業や学校向けが多いので、個人で買うとなると難しいでしょう。

科学館などのショップやDIY(Do It Yourself)の店によっては、あるかも知れないけど。

一回実験したいだけなら、科学館などがいいでしょう。

偏光実験は、手軽に出来て安全性が高い割に、視覚的に面白いので大抵の科学館で体験できると思いますよ。

偏光による色の変化をちょっと体験するだけで良いなら、セロハンやセロハンテープを何か透明な板に貼るだけでも実験出来ます。

偏光は身近なところでは、偏光グラスという、強い光から目を守る用具に使われています。

 サングラスとの違いは。

通常のサングラスは着色されたガラスを用いることで、日光の量を軽減し、眼を守る仕組みです。

もちろん、紫外線や反射光の対策のあるサングラスもあるようですけど。

偏光グラスは、紫外線や反射光の対策に加えて、レンズの中に偏光板を挟み込むことで、ある一定の方向からの光しか通さなくなります。

偏光グラスには、利点が多いです。

見た目は濃い色のグラスなのに、不思議な位明るく見えます。

同じ位明るく見えるサングラスにしようとしたら、薄い色でないといけません。

光っている水面でも、底まで見渡せます。

ゴルフのグリーンの芝目などが、よく見えます。

ガラスが反射しないので、ガラスの向こうが見やすいです。

光は電磁波であると言われるように、波としての性質を持ちます。

この波には、様々な角度があり、偏光というのはそのさまざまな角度の中から特定の角度の光だけを選ぶ性質です。

偏光する性質を持ったフィルムを直角に合わせると、まったく光は通らなくなります。

 このまったく光が通らない実験は、セロハンで出来ますか。

何枚も上手に重ねれば、かなり暗くなるけど100%は相当重ねないと難しいかも。

偏光するフィルムの重ね合わせの中間の角度では、通過する光の明るさや色はさまざまに変化します。

この偏光という現象の組み合わせによって光を回転させる性質が、旋光性なのです。

この性質を示す物質や化合物は旋光性あるいは光学活性を持つ、と言われます。

糖などの不斉な分子の溶液や、水晶のような偏極面を持つ結晶などの固体、偏極したスピンをもつ気体原子や分子で起こります。

この旋光という現象は、様々な分野に用いられます。

糖化学ではシロップの濃度を求めるのに、光学では偏光の操作に、化学では溶液中の基質の性質を検討するのに、医学においては糖尿病患者の血中糖濃度を測定するのに、という具合です。

右旋光性をD型、左旋光性をL型といいます。

生命はたんぱく質の存在様式と言えるほど、たんぱく質は体を作る材料であるとともに、体を動かす仕組みの担い手でもあります。

そして、たんぱく質はアミノ酸でできています。

人工で作るアミノ酸は、D型もあればL型もあります。

ところが、天然のアミノ酸は、基本的にほとんどL型なのです。

それに対してD型は、天然では細菌の細胞壁の構成成分や老化組織、ある種の神経細胞などに存在が見出されているくらいのものです。

 どうしてなのか、説明できる理論とかあるのですか。

これといって、決定打といえる説はないようですね。

ただ面白いことに、新しい進化研究では重力の果たした役割が注目されています。

そして重力波は、電磁波と同じ形式の式で書けるのです。

さらに、光もまた進化に大きな役割を果たしていると見る研究者もいます。

 じゃあ、光と重力は上と下という点を除けば、基本的に同じですか。

そうかも知れないですね。

重力はプラズマの働きで説明可能と見る人まで、いるといいますよ。

電気と磁気の関係には、フレミング右手の法則とフレミング左手の法則があります。

フレミング右手の法則は、電磁誘導の方向を覚えやすくするために考案されたものです。

右手の中指と人差指と親指をたてて互いに直角の関係にして、中指を導体にかかる起電力の方向、人差指を磁界あるいは磁場の方向、親指を導体の動いた方向に、対応させて覚えます。

発電機に関する法則を理解するために、利用されます。

一方、フレミング左手の法則は、ローレンツ力の方向を覚えやすくするために考案されたものです。

左手の中指と人差指と親指をたてて互いに直角の関係にして、中指を電流の流れる方向、人差指を磁界あるいは磁場の方向、親指を導体にかかる力の方向に、対応させて覚えます。

電動機に関する法則を理解するために、利用されます。

一般にフレミングの法則という場合、フレミング左手の法則をいいます。

電流の進行方向を正面から見て左回りに、力が働くわけです。

 つまり、左回りのらせんを描く力が電流を取り巻いている。

そうなるでしょうね。

電流が流れる時働く力を、握った右手の親指だけ立てて親指を電流の向きに合わせると、曲げた方の指の示す左回りになると覚えますから。

生命の体を作る天然のアミノ酸のほとんどが左旋光性のL型なのも、重力や光の影響を受けているからかも知れません。

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宇宙の泡は昔ほど小さかったと見ても本当に良いか。

宇宙は、銀河が分布してできています。

銀河の分布には、法則性があり、それは泡構造なのです。

泡の内部には、ほとんど銀河はなく、泡の表面に見えている部分が銀河の塊なのです。

さらに、宇宙の質量の大半を有するとされるダークマター(暗黒物質)もまた、銀河の泡構造と分布が重なっているように、観測されたそうです。

銀河とダークマターの作る泡は、観測してみると、遠くに行くほど小さくなっていました。

研究者たちは、遠くを見ることは、過去を見ることだと考えています。

光と言えども、有限の速度である以上、到達するまでにある程度の期間がかかるのです。

遠くになればなるほど、地球に届いている光は過去に発生したものなのです。

それで、遠くに見えている=過去が見えているとなるのです。

 これには、異論を唱えないわけですね。

事実ですからね。

宇宙の泡構造が、遠くに行くほど小さいのも、観測が示した事実だから疑いません。

私が疑うのは、解釈です。

私たちは、去っていく姿を見送るとき、次第に小さくなり、点のようになり、見えなくなる体験を何度となくしているはずです。

天文学者たちは、遠くに小さく見える星や銀河は、小さく見えているだけとして、わかっている距離から大きさを計算しています。

 身近な経験と矛盾しないように、宇宙でも判断したのですね。

それなのに、銀河に囲まれた宇宙の泡は、遠くに行くほど小さく見えているのは、遠くを見ることは過去を見ることだから、昔は小さかったと言い出すのです。

これ、明らかにダブルスタンダードであり、ご都合主義ではないでしょうか。

 遠くのものは小さく、近くのものは大きく、見える。

 でも、遠くのものが近くのものより小さい訳ではないし、近くのものが遠くのものより大きい訳ではない。

 絵画はこの事実を、遠近法という手法として取り入れたから、平面でありながら奥行きを感じることができる。

だとしたら、遠くの泡構造は、小さくなっているのではなく、小さく見えているのだと考える方が理にかなっているはずでは、ありませんか。

 宇宙の泡の大きさは一定であり、遠くに行くほど、小さく見えているだけ。

何十億光年も、かなたにある宇宙の泡が、私たちの銀河が属する宇宙の泡と、同じ大きさに見えると思いますか。

 もし、同じ大きさに見えるなら、遠くの宇宙の泡は、私たちの銀河が属する宇宙の泡より、大きくないといけない。

言い換えれば、小さく見えるなら、遠くの宇宙の泡と私たちの銀河が属する宇宙の泡は、ほぼ、同じ大きさであると、解釈した方が、自然でしょ。

この、宇宙の泡構造の大きさは、宇宙のどこでも一定という事実に基づいて、原因を探るべきでは、ないでしょうか。

ダークエネルギー(暗黒エネルギー)は、遠くに行くほど宇宙を加速しているというのも、そう見えているだけと判断しないと、宇宙の泡構造の大きさが一定であることと、矛盾しないでしょうか。

光の速度は一定です。

にもかかわらず、見た目の周波数が変化して見える現象があります。

 ドップラー効果ですね。

遠ざかりつつあれば赤くなり、近づきつつあれば青くなるのです。

だが、これは、加速度の仕業なのです。

 加速度と重力は区別はつかないと、アインシュタインの相対性理論は言いますよね。

重力赤方偏移は、宇宙でも観測されています。

ダークエネルギーについては、アインシュタインの導入した宇宙定数と同じと見る見解もあります。

 宇宙定数は、重力と大きさが同じで方向が反対でしたね。

重力はほとんど引力ですよね。

つまり、宇宙定数とは、引力と大きさが同じで方向が反対な力ですよ。

引力と大きさが同じで方向が反対な力なら、斥力でしょ。

言い換えれば、宇宙定数=斥力ですよ。

そして、万有引力であるなら、万有宇宙定数であり、万有斥力でないと、矛盾するわけです。

宇宙では、青方偏移も見つかっています。

 これを、重力青方偏移とみれば、重力赤方偏移と対を成していることになりますね。

宇宙は、引力と宇宙定数の釣合によって、潰れないで済んでいることになります。

 宇宙の泡構造の大きさは、どこでも一定ということは、空間だけでなく、時間に対しても、言える。

つまり、宇宙は膨張していないのではないかと解釈すれば、引力と宇宙定数の釣合によって潰れないで済んでいることと合わせれば、こうなるでしょうね。

アインシュタインさん、あなたの宇宙定数導入は正しかった。

宇宙論からの撤退は、早まった判断であった。

宇宙は、収縮も膨張もしていないという、あなたの出した答えは、正しかったのだ。

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縄文を世界から見直してみた。

南米の遺跡から2万年以前、おそらく2万3千年前かも知れないアフリカ由来の古代人骨が出土しているのです。

アフリカ的というから、おそらくオルメカと関連が出てくるでしょうね。

 オルメカというのは、巨石人頭像で有名ですよね。

オルメカヘッドと呼ぶ人もいますね。

巨石人頭像にアフリカ的な特徴がみられるとして、オルメカ人アフリカ渡来説があるのです。

 ところが、一方でモンゴロイド的な特徴も見られたのでしたね。

アフリカ的な人々の特徴は、張り出した後頭部です。

そっくりな縄文土器があったり、アイヌのご親戚の遺骨が北米のケネウィックで見つかるなど、古代アメリカと古代日本の縁は深いです。

 アイヌと琉球人は、共通の祖先を持つと見られているのでしたね。

日本とアメリカ大陸をつなぐ南太平洋の島々も、日本とアメリカをつなぐ回廊として注目されているのですよね。

ポリネシア人やミクロネシア人は、ちょっと見は黒人っぽいけど、実はモンゴロイドに分類されます。

ポリネシア人、ミクロネシア人、オルメカ人、いずれもモンゴロイドと黒人の中間とすれば、起源をアフリカに求めても自然ですね。

 マヤ文明は、オルメカ文化に遡れる。

近年の研究で、インカやマヤと日本との間はミトコンドリアDNAでつながっていると言う成果があるのです。

 さらに、そのオルメカが残した巨石人頭像に、日本によく似た顔が見られると感想を寄せる人も多いですね。

アメリカには、先史時代の樹木崇拝の壁画が残っているのです。

いろいろ言われているが、宇宙樹や世界樹であり生命の樹でしょうね。

メキシコのパレンケには、世界遺産に登録されたマヤ文明の古代都市遺跡があるのです。

 1952年6月15日に発見された、紀元7世紀の王であったパカルの石棺の蓋に彫られたレリーフは有名ね。

 「パレンケの宇宙飛行士」などと、と呼ばれているのよね。

実際には、「生命の樹」と呼ばれるトウモロコシを様式化したものです。

このように、古代アメリカにも生命の樹の思想があったのです。

 南米の先史時代研究は、まだまだこれからだそうですね。

これまでにも、地中海からアメリカを経て日本への壮大な古代の旅があったと見て議論を展開してきたのです。

 これからますます、裏が取れる遺跡や遺物が見つかるかもしれませんね。

古代イギリスも、陰陽によく似た文化があったのです。

 英語と日本語の語彙の類似や、文化の相似も、指摘できるのでしたね。

このイギリスに、日本同様な古代イスラエル人渡来説を唱える人がいるのは、興味深いですね。

古代アメリカに、古代イスラエル人渡来説を共有しているイギリスと日本に二股をかける古代人骨が出土しているのです。

そのアメリカに、縄文土器と酷似した土器が出土するのです。

 これが偶然かしらね。

そうは思えないのです。

 イギリスと日本に二股をかける古代人骨は、アイヌ的でしたよね。

アイヌと言えば、縄文人の特徴をよく引き継いでいる人々ですからね。

三内丸山は、北海道を含む交易圏を持っていたばかりか統一規格もあったのですね。

さらに、中国まで交易圏だった可能性もあるのです。

しかも、中国まで交易圏だった証拠とされるのは装飾品ですよ。

 中国から装飾品を取り寄せる、相当な余裕を持った人物がいた証拠物件と言えますね。

 縄文は、高度な文化と文明の世界だったのね。

縄文時代の日本、尺度の統一と日常的交易があったのです。

 つまり、生産力や輸送力は今日より劣るが、紛れもない市場経済。

木を刻み、縄を編んでいたと中国の記録にはあるのです。

縄による記録法は、縄の結び目の形で数を表現するため、「結縄(けつじょう)」とも呼ばれているのです。

「結縄」は、中華民族の始祖とされる伝説の伏羲が行ったとされます。

日本列島では、沖縄や房総半島や北海道で昭和時代まで使われていたのです。

沖縄では、琉球王国時代から徴税事務や日常活動において数量を数える表示・記録の手段として用いたのです。

沖縄では結縄を「ワラザン」「バラザン」などと称し、単位を区別するために紐には太さや材質の異なる複数の藁を用いたのです。

この制度は琉球処分後も継続された人頭税が廃止される1903年まで継続されたというのです。

縄文人は、流通や在庫も管理していたということでしょうね。

 その代わり、文字はなかったとも記しているね。

キープという、インカ帝国で使われた紐に結び目を付けて数を記述する方法があったのです。

インカ帝国には、普通の文字は無くこのキープが文字代わりに使用されてきたのです。

近年になって、インカのキープが言語情報を含んでいることが研究によって明らかにされているそうですよ。

 じゃあ、縄文時代の日本の「結縄」も、言語情報を持っていたのかしら。

どうなのでしょうね。

「ワラザン」「バラザン」と呼ばれた沖縄の結縄には、言語情報があったという話は聞いた覚えはないです。

ちなみに、インカでは王や役人は人民の統治に必要な総人口や兵士の数、納税品の量のような情報をキープに記録していたのです。

キープカマヨックと呼ばれた専門家の身分は公務員で、、このキープの作製およびその解読を行っていたのです。

キープは単なる記号以上の複雑な体系を持つまぎれもない文字の一種で、インカ帝国にはキープを教える専門の学校も存在したのです。

結び目の形だけが情報を持っているわけではなく紐の色、結び目の位置など結び目の形以外にも情報が含まれていたのです。

 これらの情報は、単なる数量の記録というよりも、何の数を示すものかを表しているね。

そうですね。

 木を刻み、これはどうかしら。

何が刻まれたかです。

絵文字の印章だったかもしれないし、楔形文字のような漢字以外の文字だったかもしれないし、手掛かりになる遺物が欲しいです。

 現物がないことには、想像しかできない。

当然ですよね。

縄文日本には、おそらく、東西それぞれに地域特性によって独自の展開を遂げた帝国ともいえる国家が営まれていたのです。

中国は、周辺諸民族を東夷・西戎・南蛮・北狄と呼んだのです。

 東と西以外は、動物を表す部分があるね。

夷は古代の鍬型の工具などの意味があり、少なくとも動物的ではありないのです。

 夷の文字も、弓を構える人の形でしたね。

卑弥呼を、西日本縄文後期から末期の女王と見てきたのです。

卑弥呼時代の日本が十分高度な文化や文明に達していたので、むしろ力を警戒すべき存在と見ていた可能性はあり得るでしょうね。

武夷山は、中国・福建省にある2158mの黄崗山を中心とする山系の総称ですよ。

 山水の名勝として有名で、黄山、桂林と並び中国人が人生一度は訪れたいとされる場所でしょ。

東夷の夷は、名勝にまでついているのです。

東夷とは、むしろ日本への敬意と警戒心の表れだったでしょうね。

 考古学の最新成果は、これを明らかにしつつあるようね。

今後を、注目したいですね。

西戎の戎も、軍事を意味するのです。

戎は、兵器や軍を指す言葉なのです。

つまり、中国は南北は何とかなると見降していたが、東西が侮れない文化や文明を営む土地として警戒していたということでしょうね。

 狄は犬の声、蛮も亦は腋でその下に虫だから、確かに見降したい願望が丸見えね。

中国は朝鮮を属国としたが、日本を牽制と交易が得策な国と見なしていたのかもしれないですね。

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国分寺の陰に秦氏あり?

日本の氏族の一つである中村氏は、郡や荘園の中心や地域の中心村落が中村と呼ばれ、そこを領したりそこに住したりした人々が中村を号した事にその名を由来するのです。

源平藤橘の出自から出自不詳まで幅広く存在し、中村姓は現在日本全国で25万世帯以上、人口にして100万人以上いるのです。

日本史上著名な一族は、以下の通りです。

中村連は、大和国忍海郡中村郷から興った中臣氏族。

出羽国の中村氏のうち仙台藩に勢力を持っていた人々で、清和源氏新田氏のうち新田義宗の裔と称した一族。

下野国の一族のうちの宇都宮氏家臣で、伊達氏の祖とされる藤原北家山蔭流伊佐氏、とくに常陸国の同族であるという伝承を持つ。

相模国の一族で、流れには、相模国の中村氏 、土肥氏、桓武平氏系の土屋氏、小早川氏などを輩出した。

因幡国の国人一族で、山名氏家臣、家宰を務めた一族。

播磨国で中世の波賀城城主となった、村上源氏赤松氏流の一族。

伯耆国の国人一族で、系図では南条氏の庶流と名乗っている羽衣石城の南条氏に仕えた一族。

米子藩主となった、豊臣氏家臣中村一氏の一族。

宇喜多氏の一族、坂崎直盛を祖とする中村氏。

九州千葉氏の流れである長崎氏の一族、大村藩の桓武平氏千葉流長崎氏の中村氏がある。

主な中村氏の出自として、あげられるのは、源氏、平氏、中臣氏または藤原氏、橘氏です。

はかには、上毛野氏、名張氏、楠田氏、伴氏、紀氏、菅原氏、多々良氏、秦氏、惟宗氏、阿蘇氏などがあげられるのです。

中村氏の起源とされる源氏には、清和源氏の流れと宇多源氏佐々木氏族の流れがあるのです。

清和源氏の流れはさらに、頼光流多田氏族、舟木氏族、新田氏族、武田氏族、小笠原氏族、土岐氏族、満快流。

武田氏族からはさらに、栗原氏流が分かれるのです。

中村氏の起源とされる平氏の大半が桓武平氏で、良文流中村氏族、良文流秩父氏族、大掾氏族、伊佐氏族、千葉流長崎氏族などがあげられるのです。

中村氏の起源とされる中臣氏は、中臣氏族中村連、中臣姓和田氏族、荒木田氏族などがあげられるのです。

中村氏の起源とされる藤原氏は、北家と南家があるのです。

藤原北家はさらに、山蔭流伊佐氏族、秀郷流結城氏族、利仁流井口氏族に分かれるのです。

藤原南家はさらに、巨勢麻呂とも呼ばれる藤原巨勢麿流、工藤氏族に分かれるのです。

中村氏の起源とされる橘氏は、橘姓渋江氏族を務めた一族です。

中村氏の起源に源氏と平氏が名を連ねるが、いずれも天皇家の出だし、皇室の血縁に藤原氏が深く関わることから、ここは一つの纏まりと見て良いでしょう。

また、藤原は中臣に遡るので、ここも纏められるのです。

 源氏、平氏、中臣、藤原で、一つの纏まり。

藤原氏についても、秦氏の一族と指摘する声があるので、秦氏も加えて良いでしょうね。

中臣氏や藤原氏が出てくる以前、秦氏は宮廷で一大勢力だったからです。

 源氏、平氏、中臣、藤原、秦氏で、一つの纏まり。

 残るは橘氏ですね。

橘氏は、古代日本に活躍した氏族の一つです。

 いわゆる四姓、源平藤橘の一つでしたね。

和銅元年(708年)、県犬養宿禰三千代が元明天皇から橘宿禰の氏姓を賜ったことを淵源とするのです。

その子、葛城王が橘諸兄へ改名した後、諸兄の子孫は橘氏を称したのです。

諸兄は、初め橘宿禰の姓を受け、その後、橘朝臣の姓を賜与されました。

平安時代に入ると、橘氏の多くは橘朝臣を称し、平安時代中期まで代々公卿を輩出したが、その後は橘氏公卿が絶え、以後振るわなかったようです。

橘三千代ともいう県犬養三千代は、奈良時代前期の女官だったのです。

天智4年(665年)ころから天平5年1月11日(733年2月4日)の人と見られているのです。

出仕時期から天智4年(665年)出生の可能性が考えられているが、出生年月日は不明です。

橘三千代は、『新撰姓氏録』『尊卑分脈』によれば父は県犬養東人とされるが、東人の事跡は不明で母も不詳だそうです。

県犬養氏は屯倉を守護する伴造氏族のひとつで、壬申の乱では県犬養大侶が天武天皇となった大海人皇子に近侍し、天武13年(684年)に宿禰姓を賜った中堅氏族です。

伴造(とものみやつこ)とは、連(むらじ)とも重なり、また連の下でヤマト王権の各部司を分掌した豪族です。

伴造には、秦氏、東漢(やまとのあや)氏、西文(かわちのふみ)氏など代表的な帰化氏族があるのです。

他に、弓削(ゆげ)、矢集(やずめ)、服部(はとり)、犬養(いぬかい)、舂米(つきしね)、倭文(しとり)などの氏があるのです。

彼らは、連、造(みやつこ)、直(あたい)、公(きみ)などの姓(かばね)を称したです。

 帰化氏族には、さまざまな名があげられるが、なんといっても代表格は秦氏でしょ。

 何しろ帰化氏族の中でも、最大勢力であり、ほとんど古代における帰化氏族の代名詞的存在だから。

細かいところを気にする人は多いだろうけど、実質的に伴造すなわち秦氏だったと言えるかも。

 そうなると、橘氏も秦氏の流れである可能性が、大いにある。

 源氏、平氏、中臣、藤原、秦氏、橘氏で、一つの纏まりと見て良いかもしれない。

 ところで、なにが言いたいの。

全国につくられた、国分寺や国分尼寺の中で最大級として真っ先に思い浮かぶのが、東京都国分寺市の武蔵国分寺と、宮城県仙台市の陸奥国分寺だそうです。

 仙台と言えば、伊達氏を思い出すのですけど。

伊達氏は、鎌倉時代から江戸時代まで東北地方南部を本拠とした一族で、藤原氏の藤原北家山蔭流と称するから、今回取り上げた中村氏と同族と言えるでしょう。

その陸奥の地域で、中村氏は大きな勢力を張っていたようなのです。

 陸奥国分寺の担当地域の面積は大きいから、規模が大きいのも当然に見えますよ。

それは、そうでしょうけどね。

 担当した地域の面積の割に大規模な武蔵国分寺の位置付けがいかに大きかったか、わかりますね。

武蔵国分寺がいかに重要視されたか、再建の歴史からも見て取れると指摘する声もありますね。

ちなみに、国分寺は僧寺、国分尼寺は尼寺と略されるのです。

そのうちの武蔵国分寺跡にいったことがあるが、近接する国分尼寺が普通の国分寺や国分尼寺の大きさなのに対し、創建当時の武蔵国分寺は国分尼寺の約4倍の規模だったといえるのです。

具体的に言えば、国分寺の方は短いところで三町半、長いところでは四町あったのです。

国分尼寺も縦横がそれぞれおおよそ一町半だったというから、十分大きいですけどね。

 実際は国分寺も国分尼寺も、敷地は長方形でしょ。

ええ、南北のほうがいくらか長いです。

武蔵の国界隈を含む関東と言えば、古代において秦氏の一大勢力があった地域です。

全国各地につくられた国分寺や国分尼寺は、僧寺に僧20人、尼寺に尼僧10人を、それぞれおき、欠員が出たら補充することとされました。

国の命令で営まれた寺なので、当然国家公認の僧でなければならないです。

公認は、戒律を守った証として戒壇で得度することで得られたのです。

その国家公認の戒壇が、奈良の東大寺、大宰府の観世音寺、下野国の薬師寺の三つで、天下の三戒壇と呼ばれました。

 下野国は今の栃木にあたる…。

北九州も、古代には秦王国があったと指摘されますね。

 稲荷神社について調べると、秦氏の氏神であったこと、伏見稲荷大社が総本社となっているが、宮城県、栃木県、愛知県など全国に広がることが、記される。

 天下の三戒壇はいずれも、秦氏の勢力が強かった地域ですね。

 最大級の国分寺で思い出される陸奥国分寺の宮城と、三大戒壇の一つがあった栃木が、稲荷の目立つ地域に入ってますよ。

そして、東京都国分寺市の武蔵国分寺の地元も秦氏の勢力が強かったので八幡神社が多いですよ。

 陸奥国分寺の界隈にも、秦氏縁の八幡神社が見つかりますね。

他の国分寺についても、確かめる必要はあるけど、近くに八幡神社が見つかる可能性は考えて良いかも。

かりに、八幡神社が見えなくとも地名にある場合もあるから、そこも注意してみたいです。

一見すると秦氏の姿がないように思える場合でも、歴史を遡ると秦氏の影が見えてくる可能性もあるでしょうね。

宮城の辺りも秦氏の一大勢力があった土地であり、ほとんどの国分寺や国分尼寺も、秦氏の勢力が強かった土地を中心に建てられたと見ても良いかもしれないですね。

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