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縄文を世界から見直してみた。

南米の遺跡から2万年以前、おそらく2万3千年前かも知れないアフリカ由来の古代人骨が出土しているのです。

アフリカ的というから、おそらくオルメカと関連が出てくるでしょうね。

 オルメカというのは、巨石人頭像で有名ですよね。

オルメカヘッドと呼ぶ人もいますね。

巨石人頭像にアフリカ的な特徴がみられるとして、オルメカ人アフリカ渡来説があるのです。

 ところが、一方でモンゴロイド的な特徴も見られたのでしたね。

アフリカ的な人々の特徴は、張り出した後頭部です。

そっくりな縄文土器があったり、アイヌのご親戚の遺骨が北米のケネウィックで見つかるなど、古代アメリカと古代日本の縁は深いです。

 アイヌと琉球人は、共通の祖先を持つと見られているのでしたね。

日本とアメリカ大陸をつなぐ南太平洋の島々も、日本とアメリカをつなぐ回廊として注目されているのですよね。

ポリネシア人やミクロネシア人は、ちょっと見は黒人っぽいけど、実はモンゴロイドに分類されます。

ポリネシア人、ミクロネシア人、オルメカ人、いずれもモンゴロイドと黒人の中間とすれば、起源をアフリカに求めても自然ですね。

 マヤ文明は、オルメカ文化に遡れる。

近年の研究で、インカやマヤと日本との間はミトコンドリアDNAでつながっていると言う成果があるのです。

 さらに、そのオルメカが残した巨石人頭像に、日本によく似た顔が見られると感想を寄せる人も多いですね。

アメリカには、先史時代の樹木崇拝の壁画が残っているのです。

いろいろ言われているが、宇宙樹や世界樹であり生命の樹でしょうね。

メキシコのパレンケには、世界遺産に登録されたマヤ文明の古代都市遺跡があるのです。

 1952年6月15日に発見された、紀元7世紀の王であったパカルの石棺の蓋に彫られたレリーフは有名ね。

 「パレンケの宇宙飛行士」などと、と呼ばれているのよね。

実際には、「生命の樹」と呼ばれるトウモロコシを様式化したものです。

このように、古代アメリカにも生命の樹の思想があったのです。

 南米の先史時代研究は、まだまだこれからだそうですね。

これまでにも、地中海からアメリカを経て日本への壮大な古代の旅があったと見て議論を展開してきたのです。

 これからますます、裏が取れる遺跡や遺物が見つかるかもしれませんね。

古代イギリスも、陰陽によく似た文化があったのです。

 英語と日本語の語彙の類似や、文化の相似も、指摘できるのでしたね。

このイギリスに、日本同様な古代イスラエル人渡来説を唱える人がいるのは、興味深いですね。

古代アメリカに、古代イスラエル人渡来説を共有しているイギリスと日本に二股をかける古代人骨が出土しているのです。

そのアメリカに、縄文土器と酷似した土器が出土するのです。

 これが偶然かしらね。

そうは思えないのです。

 イギリスと日本に二股をかける古代人骨は、アイヌ的でしたよね。

アイヌと言えば、縄文人の特徴をよく引き継いでいる人々ですからね。

三内丸山は、北海道を含む交易圏を持っていたばかりか統一規格もあったのですね。

さらに、中国まで交易圏だった可能性もあるのです。

しかも、中国まで交易圏だった証拠とされるのは装飾品ですよ。

 中国から装飾品を取り寄せる、相当な余裕を持った人物がいた証拠物件と言えますね。

 縄文は、高度な文化と文明の世界だったのね。

縄文時代の日本、尺度の統一と日常的交易があったのです。

 つまり、生産力や輸送力は今日より劣るが、紛れもない市場経済。

木を刻み、縄を編んでいたと中国の記録にはあるのです。

縄による記録法は、縄の結び目の形で数を表現するため、「結縄(けつじょう)」とも呼ばれているのです。

「結縄」は、中華民族の始祖とされる伝説の伏羲が行ったとされます。

日本列島では、沖縄や房総半島や北海道で昭和時代まで使われていたのです。

沖縄では、琉球王国時代から徴税事務や日常活動において数量を数える表示・記録の手段として用いたのです。

沖縄では結縄を「ワラザン」「バラザン」などと称し、単位を区別するために紐には太さや材質の異なる複数の藁を用いたのです。

この制度は琉球処分後も継続された人頭税が廃止される1903年まで継続されたというのです。

縄文人は、流通や在庫も管理していたということでしょうね。

 その代わり、文字はなかったとも記しているね。

キープという、インカ帝国で使われた紐に結び目を付けて数を記述する方法があったのです。

インカ帝国には、普通の文字は無くこのキープが文字代わりに使用されてきたのです。

近年になって、インカのキープが言語情報を含んでいることが研究によって明らかにされているそうですよ。

 じゃあ、縄文時代の日本の「結縄」も、言語情報を持っていたのかしら。

どうなのでしょうね。

「ワラザン」「バラザン」と呼ばれた沖縄の結縄には、言語情報があったという話は聞いた覚えはないです。

ちなみに、インカでは王や役人は人民の統治に必要な総人口や兵士の数、納税品の量のような情報をキープに記録していたのです。

キープカマヨックと呼ばれた専門家の身分は公務員で、、このキープの作製およびその解読を行っていたのです。

キープは単なる記号以上の複雑な体系を持つまぎれもない文字の一種で、インカ帝国にはキープを教える専門の学校も存在したのです。

結び目の形だけが情報を持っているわけではなく紐の色、結び目の位置など結び目の形以外にも情報が含まれていたのです。

 これらの情報は、単なる数量の記録というよりも、何の数を示すものかを表しているね。

そうですね。

 木を刻み、これはどうかしら。

何が刻まれたかです。

絵文字の印章だったかもしれないし、楔形文字のような漢字以外の文字だったかもしれないし、手掛かりになる遺物が欲しいです。

 現物がないことには、想像しかできない。

当然ですよね。

縄文日本には、おそらく、東西それぞれに地域特性によって独自の展開を遂げた帝国ともいえる国家が営まれていたのです。

中国は、周辺諸民族を東夷・西戎・南蛮・北狄と呼んだのです。

 東と西以外は、動物を表す部分があるね。

夷は古代の鍬型の工具などの意味があり、少なくとも動物的ではありないのです。

 夷の文字も、弓を構える人の形でしたね。

卑弥呼を、西日本縄文後期から末期の女王と見てきたのです。

卑弥呼時代の日本が十分高度な文化や文明に達していたので、むしろ力を警戒すべき存在と見ていた可能性はあり得るでしょうね。

武夷山は、中国・福建省にある2158mの黄崗山を中心とする山系の総称ですよ。

 山水の名勝として有名で、黄山、桂林と並び中国人が人生一度は訪れたいとされる場所でしょ。

東夷の夷は、名勝にまでついているのです。

東夷とは、むしろ日本への敬意と警戒心の表れだったでしょうね。

 考古学の最新成果は、これを明らかにしつつあるようね。

今後を、注目したいですね。

西戎の戎も、軍事を意味するのです。

戎は、兵器や軍を指す言葉なのです。

つまり、中国は南北は何とかなると見降していたが、東西が侮れない文化や文明を営む土地として警戒していたということでしょうね。

 狄は犬の声、蛮も亦は腋でその下に虫だから、確かに見降したい願望が丸見えね。

中国は朝鮮を属国としたが、日本を牽制と交易が得策な国と見なしていたのかもしれないですね。

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