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饕餮

饕餮(とうてつ)は、中国神話の怪物です。

饕餮は、渾沌(こんとん)、窮奇(きゅうき)、檮杌(とうこつ)とともに「四凶」ともされます。

『神異経』をひけば「饕餮、獣名、身如牛、人面、目在腋下、食人」といいます。

明代には、竜の子である「竜生九子」の一つで、その五番目に当たるとされました。

饕餮は、体は牛か羊で、曲がった角、虎の牙、人の爪、人の顔などを持ちます。

 このようなキメラを、飛鳥昭雄と三神たけるならメルカバーだというでしょうね。

古代エジプトのスフィンクスに対しても、メルカバーと主張しますからね。

 そういえば、鵺にも、メルカバー説を展開しますからね、あの二人は。

饕餮は饕餮文(とうてつもん)として、殷代から周代にかけて青銅器や玉器の修飾に部分的に用いられます。

根津美術館所蔵の殷や周の青銅器を見にいったら、饕餮文がありました。

これまで博物館で見ていた饕餮は、ほとんど平面だったのです。

鼎などには、饕餮文は好んで使われました。

ちなみに、饕餮が鼎の模様とされるのは、飲食を好むということによります。

ところが根津美術館の収蔵品の中には、饕餮文方盉(とうてつもんほうか)があって、取っ手や脚に饕餮と思しき立体的装飾がありました。

盉(か)とは注酒器のひとつで、酒をほかの酒や香料、水などと混ぜ合わせる撹拌器であり、盃に注ぐ役割もすると考えられています。

取っ手や脚に表現された饕餮を見て、まるで羊や山羊のような角を鹿の様な枝状のものに変えたら竜そっくりでないかと思いましたね。

酒を供える器である双羊尊というのもあるが、方盉の取っ手の獣は羊というより、やはり全体の印象から饕餮でしょう。

特に方盉の取っ手の饕餮は、角を枝状のものに変えれば、まるっきり竜そのものという感じでした。

竜の特徴の一つである長い髭も見えないので、あまりこういうこと言う人いないようですね。

でも、装飾文様は、なんとなく髭を描いてあるように見えなくもないという気はしますけどね。

 饕餮文は、殷や周の前にもあったのですか。

良渚文化の玉琮には、饕餮文のすぐ下に王の顔が彫られたものも出土しています。

そのため、饕餮の起源は良渚文化の栄えた長江流域で崇拝された神だったといわれています。

良渚文化の名は、1936年、浙江省の杭州市良渚で発掘されたことによります。

良渚文化は、長江文明における一文化です。

長江文明は、中国長江流域で起こった古代文明の総称です。

黄河文明と共に中国文明の代表とされます。

文明の時期として紀元前14000年ごろから紀元前1000年頃までが範囲に入ります。

後の楚・呉・越などの祖に、なっていると考えられます。

 長江と言えば、日本古代史との関連でしばしば注目される地域ですね。 

稲作などは長江文明から海を渡って日本・朝鮮に伝わったという説もありますね。

台湾から太平洋全域に拡散していったオーストロネシア語族のルーツを、長江文明に求める説もあります。

良渚文化は、紀元前3500年ころから紀元前2200年ころにみられました。

崧沢文化などを継承しており、黄河文明の山東竜山文化との関連も指摘されています。

柱形・錐形・三叉形など多様な玉器の他、絹なども出土しています。

分業や階層化が進んでいたことが、殉死者を伴う墓などからうかがえます。

近年、長江文明研究の進展により、良渚文化は夏や殷王朝に比定されています。

また、黄帝の三苗征服伝説を、黄河流域の中原に依拠した父系集団の龍山文化による三苗(ミャオ族)征服の痕跡とみなし、黄河文明と長江文明の勢力争いを描いたものとする見方もあります。

徐朝龍によれば、良渚文化は稲作都市文明を形成していました。

1000年ほどの繁栄を経て、洪水でこの文化は崩壊します。

良渚文化集団の一部は北上し、黄河中流域で夏王朝を興しました。

やがて夏王朝は支配下にあった東夷后羿(こうげい)部族に倒されます。

夏王朝の遺族の一部は北西に逃れ、のち四川盆地に移住し、三星堆文化を築いたとされます。

ただし、これらの装飾が当初から饕餮と呼ばれる存在の描写であったという証拠は何もなく、後世に饕餮文と呼ばれているだけです。

そのため、中国考古学の専門家である林巳奈夫はこれを「獣面紋」と呼んでいます

饕餮文と、はっきり認められる文様が登場するのは、やはり殷や周の頃と言って良いでしょう。

殷代から周代のころ、王は神の意思を人間に伝える者として君臨していました。

 なんだか、地上の太陽神を名乗った古代エジプトのファラオや、神に仕えるべき存在とされた古代イスラエルの王を連想できますね。

王の地位を広く知らしめ、神を畏敬させることで民を従わせる為に、祭事の道具であるこのような器具に饕餮文を入れたものとされます。

饕餮の「饕」は財産を貪る、「餮」は食物を貪るの意であります。

何でも食べる猛獣、というイメージから転じて、魔を喰らう、という考えが生まれ、後代には魔除けの意味を持つようになりました。

饕餮は、一説によると、蚩尤(しゅう)の頭だとされます。

蚩蚘とも書く蚩尤は、古代中国神話に登場する神であり、三皇五帝のうちの一人、炎帝神農氏の子孫とされています。

兵器の発明者とされ、霧をあやつる力があったとも言われています。

獣身で銅の頭に鉄の額を持ち、また四目六臂で人の身体に牛の頭と蹄を持つとか、頭に角があるなどとされます。

路史によると、羌(きょう、あるいは、かい)が姓とされます。

その姿を、『述異記』巻上はこのように表現します。

「銅の頭に鉄の額、鉄石を食し、……人の身体、牛の蹄、四つの目、六つの手を持つ。 ……秦漢の時代の説によれば、蚩尤氏の耳鬢(頬の髪、もみあげのあたり)は剣や戟のようで、頭には角を持つ」

『述異記』巻上には「四目、六手」という姿のほかに、別の説も載せています。

「山西の太原地方に現れた蚩尤は、亀足、蛇首であった」

漢の時代に作られた書物『竜魚河図』では、こう記されます。

「獣の体をして人語を解し、銅の頭に鉄の額を持ち、砂や小石を食していた」

また、古い占いの書『帰蔵』には、このようにあります。

「八肱(八つのひじ)、八趾(八つの足)、疏首」

疏首については、疏が水路を分けて通すとか関係が分け離れるという意味であることから、複数に分かれた首と解釈されたりするが、はっきりとしません。

『山海経』西山経に出てくる兵乱を起こす神は、蚩尤が連想できる天神が登場します。

「天神あり、その状態は牛の如くで八つの足、二つの首、馬の尾、その声は勃皇(未詳)のよう。これが現れるとその邑に戦がおこる。」

蚩尤が古くは天神と呼ばれていたことが、うかがえます。

蚩尤は、砂や石や鉄を喰らい、超能力を持ち、性格は勇敢で忍耐強く、同じ姿をした八十一人(一説に七十二人)の兄弟がいて、彼らと共に、武器をつくって天下を横行していました。

まだ天子となる前の公孫軒轅(黄帝)は、他の横暴な諸侯は征伐したものの、蚩尤だけは討伐することができなかったのでした。

やがて黄帝が即位するに及んで、蚩尤との対決が本格化したのです。

決戦は、『史記』五帝本紀は涿鹿の戦いと記し、『山海経』大荒北経では冀州の野と言われています。

兄弟の他に無数の魑魅魍魎を味方にし、風、雨、煙、濃霧を巻き起こし、敵を苦しめ、戦いははじめ蚩尤の側が優勢でありました。

『竜魚河図』は、こう語ります。

「仁義に篤い黄帝でも、蚩尤を押さえることができなかった」

『山海経』大荒北経では、こう描写しました。

「蚩尤は兵器をつくり、黄帝への攻撃を開始した。それに対して黄帝は応竜に命じて蚩尤を冀州の野において迎撃させた。応竜とは、竜の中でも翼のあるものを言い、雨を降らせる力を持つものであります。ところが蚩尤はこれに対抗して、風伯(風の神)と雨師(雨の神)をまねき、暴風雨をほしいままにした。そこで黄帝は、自分の娘である魃(妭とも書く)を天上から呼び寄せた。日照りの神である魃の力によって風伯・雨師の力は封じられ、ついに蚩尤も討ちとられた。」

『竜魚河図』の説話では、戦いの顛末をこう締めくくります。

「天帝に遣わされた玄女から「兵信神符」という呪符を渡された」

そしてついに、蚩尤は皇帝に敗れます。

黄帝は指南車を使って方位を示し、遂に蚩尤を捕え殺したといわれています。

処刑された蚩尤を葬った塚は山東の寿張とも同じく山東の東平陸にあるとも言われ、一説には一方に頭と胴体、もう一方に手足を葬ってあるとも言われています。

『述異記』巻上は、こう伝えます。

「冀州(河北)の人が銅鉄でできたような髑髏を掘り出し、これが蚩尤の骨だとされた。その歯の長さは2寸、固くて砕くことができなかった。」

また、山西の解州には塩池という場所があり、特産の河東塩を産出しているが、これは赤みをおびており、蚩尤が死んだ時の血が化したものだと伝えられています。

この時、他に蚩尤に味方したのは、ミャオ族の祖先といわれる勇敢で戦の上手い九黎族、巨体の夸父族でした。

最後に捕らえられた蚩尤は、殺されたが、このとき逃げられるのを恐れて、手枷と足枷を外さず、息絶えてからようやく外されました。

身体から滴り落ちた鮮血で赤く染まった枷は、その後「楓(フウ)」となり、毎年秋になると赤く染まるのは、蚩尤の血に染められた恨みが宿っているからだといいます。

赤旗を「蚩尤旗」と言い、劉邦がこれを軍旗に採用したとされます。

蚩尤の支配下にあった民衆は、蚩尤が討伐された後、その善良なものは鄒屠の地へ、凶悪な者たちは有北(北の寒冷な不毛の地)へと移住させられました。

そのうち、鄒屠の地へ移住した者たちは鄒屠氏と呼ばれ、後に鄒氏と屠氏に別れたと言います。

前秦・王嘉撰『拾遺記』によれば、帝嚳高辛氏の后は、鄒屠氏の出身だったと言います。

戦いは終わり、九黎族は逃れて三苗となりました。

三苗は現在の中国を中心に、その周囲の東南アジア諸国、また一部は米国に亡命・移住した、ミャオ族です。

黄帝は敵討ちを心配して三苗を皆殺しにしようとしたが、南方の民を根絶やしにできず、その後、三苗は歴代の中国原の覇王たちを執拗に悩ます手強い敵となりました。

楚は三苗の貴族階級が建国した国と言われています。

『国語』楚語とその注によると、蚩尤を殺した黄帝の子である少昊金天氏の天下の衰えを見て、反乱を起こしたといいます。

「少昊の衰えた時に反乱を起こした九黎(黎氏の九人)は「蚩尤の徒」であった」と伝わっているそうです。

一方、負けてしまったために化物とされてしまったが、蚩尤が帝王神であったと記す記録も残っています。

『逸周書』嘗麦解に記された伝説は、次の通りです。

「蚩尤は赤帝に命じられて少昊におり、四方に臨み百行を司った」

蚩尤は、戦争で必要となる戦斧、楯、弓矢等、全ての優れた武器である五兵すなわち五種類の兵器を発明したといいます。

秦の時代までには、蚩尤は五兵の創始者とされ、兵主神とも呼ばれて祭祀の対象となっていました。

司馬遷『史記』封禅書には、蚩尤は「兵主神」に相当するとされ、戦の神と考えられています。

「天下を統一した始皇帝は泰山で封禅をおこなった後、東の海岸地方で祭祀をおこなった八神の一つに兵主の神を蚩尤の塚で祭り、また漢の高祖・劉邦は、挙兵した時に蚩尤をまつったという。」

蚩尤が反乱を起こしたことで、これ以降は法を定めて反乱を抑えなければいけなくなったともいわれています。

漢代・作者不詳『竜魚河図』には、伝説として、蚩尤が神として祭られるようになった経緯を、次のように記しています。

「……蚩尤が死んだ後、天下は再びあちこちの国で騒動が起こる不穏な日々が続いた。そこで黄帝は蚩尤の姿を描いて示し、これで天下の不心得なものを威嚇した。この絵を見た世の人々は、みなあの恐ろしい蚩尤がまた生き返って現れたと思い、どの国々も蚩尤の絵にひれ伏した。」

兵主神の祭りは、のちに日本にも伝えられました。

 そういえば、兵主神社は、日本でもいくつかの地方にありますね。

 饕餮や蚩尤を祀っている神社なのですか。

饕餮や蚩尤に、はっきり似たものがあれば、誰にでもわかるのでしょうけどね。

日本に来て、どういう変遷を辿ったか知りたいですね。

 長江と日本の繋がりが、注目されてきたことを思えば、長江文明に遡るかもしれない存在が日本に祀られているのは面白いですね。

一方中国では、蚩尤に対する祭祀は、その後、徐々にすたれて行ったらしいですね。

黄帝と敵対する邪神としての性格を強調された蚩尤は、祭祀よりも征伐の対象となって行ったと指摘する人もいます。

『関帝録古記』には、このような話が伝わるそうです。

宋の大中祥符七年(西暦1014年)、解州の塩池の水が減少して、塩の収入が少なくなりました。

皇帝が視察の使者を派遣したところ、その使者は城隍神(土地神)と名乗る老人と出会って「塩池の害は蚩尤のせいだ」と教えられたのです。

そこで皇帝が近臣の呂夷簡を解州へ派遣して祭らせると、夢に蚩尤が現れてこう告げたといいます。

「上帝(天帝)が自分にこの塩池の主宰をさせているのに、皇帝が自分の仇敵である軒轅(黄帝)の祠を池のほとりに建てたので、水を涸らすのだ」

この報告を聞いた侍臣の王欽若は、上奏していいました。

「蚩尤は邪神であり、信州竜虎山の張天師に命じてこれを平定させるべきだ」

召し出された張天師は、薦めました。

「死後、神となった忠烈の士の中でも、蜀将関羽は忠勇を兼備しています」

まもなく美しい髯をした武人が空から現れ、勅命をうけて消え去きました。

ある日、解州の塩池の上を黒雲が覆い、風雨雷電にわかに起こって、空中に戦いの音がしていました。

やがて雲がおさまり晴天となってから見にゆくと、池の水は元のように満々とたたえられていたといいます。

また、明代の小説『平妖伝』では、蚩尤の血が塩池となったことを、こう評しているそうです。

「蚩尤が兵器を創造した罪業が重いために、万世の人々が彼の血を食らうことになったためだ」

おしらさまのときにも、日本と中国に似た話が伝わりながら人物の性格の設定は大きく異なることを見てきたが、今回もまったく逆な展開なのは興味深いですね。

追記

あまり、饕餮は龍に似ていると指摘する人はいないようだ、などと言ってしまったけど、私の見落としがあったようです。

東京国立博物館恒例の毎年恒例の干支にちなんだ新春特別展示、見てきました。

そうしたら、東京国立博物館140周年特集陳列天翔ける龍という企画展示があり、龍の表現の歴史を振り返るというテーマの中に、饕餮はありました。

また、龍の中には饕餮に似た角のものや、竜門を登ることのできた鯉は竜になる言い伝えにちなんだ鯉の造形の中にも饕餮に似た角のものは、ありました。

饕餮は、龍の系譜とする見解は研究者のなかにもあるのですね。

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